いまうばすて

「きょうも棚経たなぎょうかい?」

 正伝庵しょうでんなんの白壁前を、ひょいと飛び出た少年の墨染め姿に、「ご苦労はんなあ」と大八車のスエだった。

 街道は大路小路にさよならして、なだらかな尾根筋を、のんびり、北に走っていた。さして広くもない、馴染みのオート三輪でさえすれ違うのがやっとの上り下りに、低棟のくすんだ紅殻べんがら町家が軒を連ね、途中いくつか、仕舞屋しもたや格子にばったり床几しょうぎのかかるのも、どこか山合いの宿場町を思わせて、少なくはなったが桶屋や醤油屋の軒先には地を掃かんばかりに、利久鼠の長暖簾が梅雨明けの通り風に揺れていた。

 南に開けていたから陽当ひあたたりがよかった。そしてゆるやかに帯を走らせたようにまっすぐだから、かかりからもどん突きが白く眩しく光るのもほかとちがって、行き着く先の目安になっていた。正伝庵の白壁で、なだらかといっても、そこはやはり尾根筋だから、半ばまではそんなでなくても、あとは知らず知らずにり上がり、やがて丁字路手前で胸突き八丁、手ぶらでも一休みしたくなるというのに婆さんは荷車だった。

 ねえさん、いらんかえー、

 朝も早くに、畑でとれた野菜をあれこれ、大八車に山と積んで大路小路を売り歩く。そんなりの声に街の一日ははじまる。といってもいろいろで、街道下を東に、家並みのきれいな商家筋を得意にする女が多かったのに、婆さんは西の機屋はたやまちに入るのが好きだった。もちろんそこにも同業が三、四人、いるにはいたが、別段、取り決めがあったわけでもなく、野菜も顔かたちがちがったからか張り合うこともなく、互いに通い慣れた竪町たてまち横町、いつものように荷車牽いて歩くだけ。すると帰りは決まって、どん突き手前で十時を回った。そんなことをもう五十年近くも続けている。だから車輪くるまもぎいぎい鳴いて、年季の入った荷台には、大人が膝を抱えて屈めるほどの四つ目籠が前後に六つ、荒縄でくくられ、葱や水菜の残り葉が籠目のほつれに、がた、ごと、がた、ごと、荷車音頭に躍っていた。

「ほんーま、きっつい坂やな、鼻の穴がとおほどほしいわ」

 いつものことだが愚痴もこぼれ、脇の醤油屋の軒先に、よた、よた、寄せると、

「よっこらせっ」

 と、ばったり床几に腰を下ろした。

「ちいーっと、借りまっせえー」

 声をかけたが返事がない。が、それでよかった。床几はいつもあるとは限らない。たまには脚をたたんで紅殻柱の丸かんに引っ張り上げたのもあるにはあって、そんなときには容赦なく、

 ごめんやっしゃー、

 と勝手に下ろす。そうしてとがめる者もない、ばったり床几はどこも同じに、道行く者の気儘にあった。

「ふうーっ」

 息を吐くと、頸の手拭いで日焼けた額の汗を拭いた。足元を街道下から涼風すずかぜが、さわ、さわ、抜ける。

「極楽のあまり風、極楽の余り風……」

 満足そうに婆さんは一人呟いて、右に左に上り下りを眺めていたが、一人のかすめる影もない。やがて、ぽんっと一つ、しら手甲てっこうで膝を打つと、

「ほな、行こか」

 励ますように一声かけて、くの字に曲がった腰を上げた。

 正伝庵の西隣、スエは一人息子の真之介といっしょだった。家数も知れている、街道ての小さな村だが、それでも長屋門を構える旧家も見えて、スエのうちも母屋のほかに離れや土蔵もこぼれかけてはいたがあるにはあった。無論、田畑でんぱたもそれなりに続いていた。けれどそちらは人任せに、一人、屋敷裏の二反田に季節の野菜をつくるだけ。夫の種治郞はとおの昔にいなかった。戦争も終わりに赤紙が来て大陸に渡ったきり行方が知れず、十年ほどしてリュック一つでひょっこり戻った。大陸各地を戦い、半島近くで終戦を聞いたがシベリアに送られ、それが、帰って明くる年の秋口だった。厳しい収容を耐えたというのに、妻子の顔を見ての気の緩みだったか、風邪をこじらせ、ことりと死んだ。夢かうつつか、スエには哀しむ時間ひまもなかった。そして十余年、遅くに生まれた息子も立派になって、街道下、電車通りの地銀に勤めていた。父親似の端正な細面に六尺近い上背うわぜいの、親目にも申し分ない男だった。それが手をかけ過ぎたのがいけなかったか三十を過ぎても嫁もとらず、もちろん上の学校にも行かなかったから給料もさしてなかったが、母子ははこ二人暮らしには十分過ぎて、少しの田畑のりもあって、だからスエには百姓を続ける理由もないのに、雨風にも鍬をかたげて出るのだった。

「草、やしといたら、となり近所に恥ずかしやろが……」

 世間体をいったが、本音はちがって、そうするのが家守やもりの務めと夫の留守にも我と我が身を律してきた慣れが抜けきれないだけ。だからよほどのことでもない限り、朝も五時には蒲団を抜けて野菜をとり、飯もへっついの肩を卓袱台ちゃぶだい代わりに立ったまま掻き込むと大八車を牽いて出る。はたから見ればきつい日々だが、逆にそれがスエを達者にしていたともいえる。だから格好もかまわない、年中同じ半纏はんてんもんぺに地下足袋脚絆きゃはん。病気で寝込むことなど一度もなかったが、先年、納屋の三和土たたきに転んで腰をむさんこに打ちつけたのが尾を引いて、それをかばうからか、蟹股がにまたがさらにひどく、歩くと肩が大きく揺れた。

「気いつけて行くんやでー」

 脂黒やにぐろの歯茎をき出しに笑顔で送る。それに少年は少しの会釈で応え、駆けるように街道を下った。三月みつき前、正伝庵の紹明じょうみょうが門前に拾った童行ずんなん小僧で、生来の内気からか人を見ると逃げるように先を行く。頭は丸めてもまだ子どもだった。

 行き先はスエにもわかっていた。蘆山ろざん回りといって、学校の休みの日には棚経回りに走っている。年端もいかない喝食かっしき小僧に少し酷な気もしたが、田舎育ちをまずは人目に馴らせてから、と紹明の計らいだった。

 街道を下った先の機屋町、それも西の外れの蘆山地区は、新しいようでけっこう古かった。昔、平安貴族の野駆けのまきひらかれたのが、江戸の初めに真言寺しんごんでらの寺領になって、それを明治に入って商家筋の大店おおだなが譲り受け、三十棟ばかりの紅殻長屋を目刺しのように並べて建てた。だから地名もないまま、蘆山といったのは傍を走る通り名にっている。間口もようやく二間半、奥行きも五、六間あるかなしかの町家が六軒そして八軒とハーモニカの吹き口のように軒を連ねる。表からはふつうの平屋のように見えた。それが中に入ると二階家で、上がり端から隅の仕込み階段を上がると、天井は低いが通りに面して虫籠むしこ窓の開いた続き部屋もあって、だから中二階建てといって、多少の見劣りはあったにせよ、ぱっと見には東の商家筋とそんなに変わらない、昔は流行はやりの町家だった。

 ちがっていたのは、蘆山の場合、職住織り交ぜの機屋だったこと。だから織屋建てともいって、玄関を入った先、通り庭のどん突きが、八畳足らずの真ん中に、二尺ほど四角にへこんだ土間になっていた。ばたを据えるためだが、どの棟も同じ造りの賃貸し長屋、隣とも背中合わせの薄壁一枚、階段の上り下りはもちろん、ときには秘したい物音までも筒抜けで、姿はなくても様子が知れた。そして向かいとも、夏は夕涼みに縁台を、出したはいいが、鼻先を道行く袖がかすめて通り、軒下にすだれはよかったが、夜には丸見えの、文字通り裸長屋だった。

 

 スエが消えたのは、それから一月ひとつきあまりのことだった。いつものように裏の畑に出たのをあとに、夕方、真之介が帰ったときには家にもなく、あわてて薄暗がりの畑はもちろん、隣近所を尋ね歩いたが影もなかった。焦ってはみたものの術もない、その夜はまんじりともせず、明くる朝、駐在に届けたその足で正伝庵に回っている。

和尚おっさん、いはりますか」

 庫裡の大戸を開けると、奥で雑巾掛けでもしていたか、作務衣の裾で手をきながら小走りに現われた。

「なんや、真之介か、こないな早ようからどないした? きょうは休みかい」

「いえ、そうやないんで」

 いいにくそうにした。

「その……、母親が、昨夜よんべからよりまへんね」

 んっ? 紹明は首を傾げた。

「居よらんて、どういうこっちゃ?」

「それが……」

 真之介は口籠もった。

 色白で長躯の真之介はなかなかの男前だった。だれが見てもそう思っただろう、別段、内気なわけでもなく、母子育ちだったが、といってべったりというわけでもなかったから不思議だったが、三十も半ばを過ぎたというのにもう一つ頼りなかった。

「昨夜、んだら家の中が真っ暗で……、今朝も、あっちこち訊きに回っとるんですが、らちがあきません。それで、どないしたもんか、まずは和尚さんにご相談を、と」

 紹明は慌てた。

「相談も何も、そら、えらいこっちゃぞ。駐在には届けたんか」

「はあ、いま、下之町に行ってきたんですが、それが……」

「それが、どないした? おいっ、はっきりいわんか」

 いつもののんびり調子にいらついた。

「なんちゅうか、事件性があるかどうかわからんもんを、じきにどうこうできん、と」

「そら、そやろが……」

 紹明は迷った。が、すぐに断を下している。

「おいっ、こんなことしとれんぞ。わしゃあ、こっちの町会長に頼んでみるよって、おまえは、土居町の方にもあたってみい」

 尻を叩くようにして送り出した。

 隠寮に走ると、マチ子は蒲団の上に起きていた。

「スエさん、居なくなったんですか」

 玄関とは一間ひとま置くだけの隠寮だから話も筒抜けで、もうずいぶんになる、マチ子はリューマチで寝込んでいた。ただ、その日は調子もいいのか、丹前を肩掛けに顔色もよかった。

「ああ、難儀なことになった」

 いいながら作務衣を脱ぐと、隅の衣桁に手を伸ばし、法衣をとった。

「あいつもええやつやが、もう一つ要領を得んでな、これからちょっと町会長に会うてくる。人を出してもらわんならんからな」

 隣近所とはいえ、まずは頼み事だから格好だけでも礼は尽くさねばならない。それでも敷居を出るとマチ子の方を振り返り、

「大丈夫か?」

 と、気遣いを忘れなかった。

 参道を出て二筋目の路地を入ると、胸丈ほどの姥目樫うばめがしの垣根越しに中の様子が窺えた。村中むらなかはどこもそんなふうで、村瀬は縁側に背中を丸めて新聞を広げている。何代も続く庄屋筋で、いまは息子に代を譲っての隠居暮らし。事を話すとすぐに動いてくれ、狭い村にも合わせて七人、男衆が集まった。いずれも村瀬と同じ隠居連だが、根っからの百姓とあって足腰の方はまだまだしっかりしている。

「やあっ」

 ぺこりとお辞儀して、

「えらいことになりましたな」

 地下足袋やゴム長に、腰には荒縄をぶら下げ、鎌を手にしている者もいれば、作業ズボンの後ろポケットに懐中電灯をねじ込んでいる用心者までいた。山狩りを思ってのことだろう、百姓に林業も兼ねる者ばかりだから山は手慣れたものだった。

 ただ、山狩りといっても道を頼りに行くしかなくて、村外れを北の氷室ひむろに抜ける杣道と、これも行き着く先は同じだが、少し手前を峠越えに向かう新道しんみちしかなかったから、まずはスエの屋敷に一番近い新道からあたってみることにした。一方、真之介は紹明と別れたその足でまっすぐ土居町に走ったが、町会長が留守をしていて副会長の家に回っている。ただ、そこでも色好い返事がもらえなくて、街道筋を軒並みにあたってみた。すると桶屋の若主人と醤油屋の見習いが加勢してくれた。

「よろしおす、で、どっから行きまひょ?」

 気のいい若主人は、すぐにオート三輪を表に出した。村のどこかだとすれば、もう人目についていてもいい頃だろう、それがないのだから山狩りしかない。

「まずは、尺八池ですやろか」

 真之介にもそんなことしか思いつかない。

「ほな、悪いけど、醤油屋はんは後ろに乗っとくなはるか」

 若主人は後ろの荷台を指さした。

 尺八池へは北に小山を越える。名の通り、谷奥に細長く水をたたえた、灌漑用に堰き止めた溜池で、水面に背中の釈迦谷山を映して静んでいた。その際に、いまは人手に任せていたが、種治郞が遺した悪田あくだがあった。出来の悪い田圃だった。けれど田植え、草取り、稲刈りと、いっしょに汗を流した、スエには大事な場所だった。オート三輪は街道を脇道に入ったが、やがて池の手前で三人はそれも捨てている。あとはこもちがやの中を行くしかなかった。

「こんなとこまではるやろか」

 醤油屋の見習いが不安そうにいうと、

「ほんま、人の歩いたけしきもおまへんしなあ……」

 若主人も、先に立ってはいたものの、出がけの張りがまるでなかった。それでもあちこち探りながら行くと水辺をかすめて、めざす悪田の畦に出た。それがさっぱり人気もなく、さら、さら、早苗のそよぐ上を、ひゅーい、ひゅい、とあわて者の塩辛蜻蛉が行ったり来たり、涼し顔に遊ぶだけ。

「ここやないとすると、あとは、氷室しかないやろか」

 半ば諦め顔に真之介がこぼすと、

「ひっ、氷室っ?」

 醤油屋の見習いが、黄色い声を上げた。

 そのようにさらに二時間はかかるだろう、けものみちといってもいい、杣道が釈迦谷山の裾を巻いて北に続いていた。むかし、冬の深むろに固めた雪氷こおりを夏の条坊に運んだ歴史の道で、真之介には、スエに手を引かれて歩いた記憶がかすかにあった。反対に峠越えの新道は、戦後すぐに車両用に開かれた迂回路で、それを村瀬ら町会組が急いでいた。紹明も加わっての総勢九人、車で走れば分水嶺の里見峠まで三十分とかからないのに、脇道も探りながらの山狩りだから容易でない。

「朝も早よから、ほんま、申し訳ないこってす。見つかるかどうか、とりあえず氷室までおねがいしますわ」

 紹明は頭を下げた。氷室はスエの実家さとだった。

 やがて勾配も加わり、七曲がりから九十九折りにかかったが、路端の茂みや崖下がけしたもたしかめながら、おまけに新道といっても舗装もないただの砂利道だから余所見よそみをすれば足も取られる。そうして峠の手前に一軒茶屋を見つけたときにはとっくに昼も過ぎていた。

「この分やと、氷室は日の暮れでんな」

 遅めの昼飯に饂飩を掻き込みながら一人がいったのに村瀬が詫びた。

「すんまへんなあ。向こうでもあっちこち訊いて回らなんやろうし、遅うなるようやったら、どこぞで電話を借って息子の車を呼びまっさかい」

 そうしてまた捜しに立った。茶屋先は馬ノ背といって、横長に小高い尾根が続いて、越えるとぱっと視界が広がり、盆底のように開けた青田の中に点々と指折り算えるほどの藁葺き屋根が屋敷森に抱かれて頭を見せた。と、あとは一気に下るだけ。駆けるように先を行くと、かかりの辻堂前に三人がへたり込んでいた。

「どやった?」

 わかってはいたが、紹明は訊いてみた。

 三人は首を一つに振った。

「着いたんが昼過ぎで、隣近所もたんねて回りましたんやが、あきまへん」

 昼も済んでいない様子で、

「さて、どこを捜してええもんやら……」

 と若主人も匙を投げてしまった。ただ、紹明はそれも見越していたようで、

「やっぱりな」

 一言いうと先に立った。

 村中を少しはずれたあたりだった。脇道を入ると小さな鳥居が見えて、草だらけの野道が山裾の杉林にまっすぐ伸びていた。

「スエさーんっ」

 紹明は、奥に向かって呼んでみた。すると、

 スエさーんっ、

 律儀に木霊が返事した。

 草臥くたびれてはいたが、本殿らしい祠が懸崖けがいのような岩蔭にちょこんと座り、手前の少しの平場に、それとは不釣り合いに檜皮らしい小棟が見える。長い夕陽の帯を被って茜色に、もう一つはっきりしないが、目を凝らせば拝殿のようでもあり、どうしてこんなところに、と不思議なくらい優美な姿で凛とあった。ほんとうかどうか、あの遠州が手がけたらしいと紹明も聞いていた。ただ、それも目当てではなかったようで、さらに奥に向かって呼んでいる。

「スエさーんっ」

 けれど、今度は木霊もない。紹明は走った。

 それではじめてわかるのだが裏手が野墓地になって続いていた。杉山のわずかに開けた斜面に、隈笹に埋もれて点々と墓石らしい頭や塔婆も見える。そんな一つの陰だった。何かが動いて、みんなは一つにしんとした。

「狐やろか?」

 醤油屋が身構えた。白い影は石塔を抱くようにうずくまったまま、じっと足元をにらんで固まっている。まちがいない、スエだった。どれくらいそうしていたか、薄く地肌の透けた白髪頭がじっとり濡れて、乱れた髪が頬にべっとり纏わりついている。狐にかれたようで気味悪かった。紹明は走った。そしてしゃがむと、小さく丸まったスエを胸の奥に抱き寄せた。

 

 明けてもスエは早起きだった。縁側の障子戸の白みはじめるのも待ち切れないまま蒲団を出ると台所に立ち、いつもと同じに、こと、こと、支度をしていたが、どこか動作が鈍かった。真之介は隣の部屋に寝床をとってはみたものの、寝ては醒めてを繰り返し、疲れが出たのか明け方になって眠り込み、気づいたときには蒲団もなくて、慌てて台所に走り込むと、

「おはようさん」

 見上げてスエは卓袱台の前にちょこんといた。

「なんや、もう起きてたんか」

 真之介は拍子抜けしてしまった。

「きょうぐらい、ゆっくりしとったらええのに」

 いつになく気遣ったが、

「早よう行ってやらんと、茄子なすび胡瓜きゅうりも死んでしまいよる」

 と耳を傾けるけしきもない。昨日の騒ぎはどこへやら、スエはもう牽き売りの人だった。といってあんな騒ぎがあったばかり、元気そうに見えるスエが、真之介にはかえって怖かった。

「そんなもん、一日、二日、っといても、どうなるもんでもないやろが」

 するといつもなら、二言、三言、返ってくるのに、それがない。昨日の今日やからな、なんとのう体裁も悪いんやろう、いうて聞く人でもなし……、気にはなったが勤めもあったから顔を洗いに三和土たたきに降りて、下駄を突っかけ井戸端に出た。だから、てっきり畑仕事だと思っていた。いつものように街道を正伝庵下からバスに乗り、その日は弁当を持たなかったから、昼は職場近くの蕎麦屋ですませ、午後の仕事にかかろうと席に戻ったときだった。

 ぢりんっ、ぢりーんっ、

 電話に出ると、下之町の駐在だった。

「川崎はん?」

「ええ」

 と応えはしたが、胸が騒いだ。

「お宅の親御おやごさんらしい人を預かってますんやが、仕事中すんまへんけど、ちょっと来てもらえまへんやろか」

 駐在の困り果てた様子が受話器の向こうに浮かんで見えた。

 駐在に走ると、机の脇、丸椅子に縮こまっている。

「どないしたんや?」

 声をかけても、お縄にかかったぬすのようで、背中を丸めて見向きもしない。

「この先に古い水車小屋がおまっしゃろ、あの中にじいっとしてたらしいんですわ。近所の奥さんが見つけなはってな」

 白髪頭の小柄な駐在だった。嘘のようだがあたりにはまだいくつか水車小屋が残っていた。東の大川から水を引いて、だから流れもかさもけっこうあって近隣農家の精米や粉挽きに現役だった。駐在は一通り経緯いきさつを話すと、日誌だろう、書きかけの分厚い綴りをばたんっと閉じた。が、どこかすっきりしない顔付きで、机を支えに腰を上げると、足が悪いのか、肩を大きく揺すりながら、真之介の傍にやって来た。そしてスエを横目に、

「ちょっと、様子がおかしいんですわ」

 耳元で囁いた。

 

「スエさん、どうでした?」

 廊下を戻った紹明を、蒲団の上でマチ子は迎えた。日曜の午後だった。境内の裏山に下草刈りに出ようとしていたら真之介から電話があって、行ってみると、やはりスエのことだった。

「それがなあ……」

 話すのもつらそうで、

七山しちやま送りやな」

 ぼそりといった。七山と在所の名前で呼ばれていたが、以前は結核患者の避病舎だった。通うにバスもなく村から東に峠を二つ越える。それが建物も新しくまぶしいほどの白亜になって、精神病棟に生まれ変わっていた。

「かわいそうにねえ……」

 寝たきりのマチ子にもそんなふうにしかいえない。

「ああ、どうにもならんらしい」

 いつもの習慣くせでマチ子の蒲団のへりにへたり込んだが、撫で肩をさらに丸く落として元気がなかった。

 ちょっと見にスエもふつうと変わらない、それと耳打ちされてはじめてわかる、目にいくらか落ち着きがなかったくらい。それが夜になると人が変わった。といって騒ぎ立てるわけでもない、ただ、いなくなってしまうのだった。

 一度そんなことがあってから、真之介も奥の座敷の仏壇前に蒲団を並べた。そうしてスエが寝入るのをじっと待ち、気づかれないよう細紐をそっとスエの足首に括りつけ、もう一方を自分の手首に結わえて眠った。毎晩だった。そうして、うつら、うつら、何度も紐を手繰ってはたしかめるのだが、明け方近く、ふと気がつくと手応えがなく、慌てて走ると、庭先をふらついているのはまだしも、ときには正伝庵前を街道下に彷徨うろついていることも度々だった。

「しゃあないやろう」

 投げるようにいったのに、マチ子も言葉がなかった。

「あれに嫁でもいよったら、ちっとは気も楽なんやろうが、なんせ、独り身やからな。毎晩、捜し回ってたんでは身が持たんやろう。今姥捨いまうばすてみたいで、こくな気もするが、いうて、ほかに打つ手もなし……」

 理由はどうあれ、女手一つ、手塩にかけた息子に棄てられる。我が子のためと身を粉に、励んだがための心の破綻。不条理というほかなかった。

「どんなところでしょうね」

 新しい七山をマチ子は知らない。もうずいぶんになる、寝込む前、近くを訪ねて傍を通ったきり。板壁の白いペンキの長棟が四つばかり、川の字に並んで柊の垣根が高く里を隔てていたのが胸を衝いて残っている。

「いくらあたらしゅうなったいうてもなあ」

 思うと紹明も苦しくて、

「もうちょっと考えてからにしたらどうや、とはいうて来たんやが……」

 とそこまでだった。それからいくらもしない、スエは七山送りになっている。

 聞いてさっそく紹明も様子看ようすみに出かけた。どないしよるかなあ、スエさん……。久しぶりだった。だから面会ぐらいはできるものと思っていた。それがさらりと追われている。身内以外は会わせられないというのだった。手にはマチ子にいわれて金鍔きんつばを、街道下の饅頭屋で買っていた。スエの大の好物だったが、風呂敷包みもそのままに、てく、てく、野道を戻っている。

 二度目に行ったのは年の暮れ、明け方からの小雪の中を、嫌な役回りだったが真之介の運転に付き添って、戻るスエは荷台の人だった。門口にオート三輪をつけると、二人、頭と足に分かれて担ぎ、奥の座敷の仏壇前の、白い蒲団にそっと寝かせた。病院の方でも体を拭いてくれるくらいはあったらしく、目立って汚れはなかったが、石炭酸のきつい臭いが鼻をいた。

「これ、何ですやろ?」

 体をあちこち、探るようにしていた真之介がスエの手首をさしていった。澄まし顔に胸に印を結んでいる、その袖口だった。赤いというより、何かにこすれでもしたか、焦げたように皮膚が黒くまだられ、かすかに縄目のようなあとも見える。

 まさか! 蒲団の裾をねると足首にも、同じようにくるぶしあたりに筋目があって、こちらはかなりへこんで、どす黒く皮膚の色が変わっていた。それでも、簡単だったが湯灌もすませ、手甲脚絆の白装束に包んでやると、スエもきれいになった。

和尚おっさん、おねがいします」

 突然、真之介が背筋を正したのに、紹明が目を丸くした。

きゅうなんやいな?」

葬斂そうれんですよ」

 両手を畳に、めずらしく、きりりといった。

「おねがいします、引導を渡してやってください」

 スエも胸に手を合わせていた。

 眷属といっても何もない。だから知らせるところもなく、すると通夜はほんとうに寂しくなった。隣近所七、八軒が、それも代替わりしていたから、真之介と同年輩か少し上の後取りが、最期の送りだからと夫婦連れで香典片手にやって来ただけ。決まり文句を口籠くちごもっては帰っていった。それに町会筋から算えるほどが五月雨に続いて、気がつけばスエを前に、また二人になった。

 それからどれくらいか、

「和尚さん、これ? 付き合っていただけますか」

 小用だと思っていたからびっくりしたが、戻った真之介は、一升瓶を小脇に立っていた。思わず紹明も口元が緩んだ。

「ちょっと早い気もするが、まあ、ええか」

 いってはみたが、最初からそのつもりでいた。「今夜は帰らんかも知れん」、マチ子との早めの薬石をすませると、そういってせわしく袈裟を引っかける紹明に、「わかってますよ」とマチ子は送り出していた。だから真之介に、気が利かなければ催促するつもりでいた。

「考えてみたら、和尚さんとこないしてやるんもはじめてですね」

 うれしそうにした。

 不寝番ねずのばんに酒は付きものだった。亡骸を守って長い夜、少しの畏怖もあっただろう、退屈凌ぎに、ちびり、ちびり、やるのだが、あれやこれや、死人ほとけの昔話にあっという間に夜が明けた。ただ不思議とそこに女はいなかった。どこを見ても無骨者ばかり、気馴れた同士が酒瓶囲んで車座に……、と、いつもなら、ぐだ、ぐだ、管を巻いて、なかには大虎も出るというのに、その夜に限って音無しく、誰もが素面しらふのまま、しんみり、東の空が白んでいく。

「だいぶ明るなってきましたね」

 障子戸に、ゆらり、ゆらり、小枝の影がさしていた。

「ああ」

 不思議な気怠けだるさだった。スエも、じっと静かにいる。夢でも見ているようだった。

「よう寝てる」

 にっこりいって紹明は、そっと頬に触れてみた。瞬間、ぞくっと冷たいものが背筋を走った。思いとは裏腹に体は正直だった。けれどすぐにそれも消え、弛んだ肌が、しっとり、指に纏わりついた。わずかだが瞼回りや口元が鉛色に透きはじめている。

「真之介や、すまんが、もういっぺん、化粧を直してやってくれんか」

 スエを思っただけではない。

 母子二人、これが最後になるやろう……、

 そんな気がして、

「わしゃあ、ちょっと戻るよって」

 と部屋を出たのだった。

 断わり、表紙のイラストは小林春規さんの版画『野菜売─鷹ヶ峯』をデフォルメして使わせていただきました。

↑戻る