ちょっとおかしな百年祭

 キューバへの最初の日本人移民はだれだったか、たしかでない。ここでいう移民とは明治以来の、いわゆる戦前移民にかぎったもので、なおかつ、何をもって移民とするのか、とらえ方もさまざまだが、それでも、いまのところ、アルゼンチンから入ったらしい宮下みやした幸太郎こうたろう(石川県出身)嚆矢こうしと考えていい。一九〇〇年前後のことだろう。

Osuna Y.ってだれなの?

 ただ、これより二年遡るという話もある。一九九二年のことだったと思う。ディアリオ・デ・マリナ紙の一八九八年(明治三十一年)の記事に、日本人らしき「Osuna Y.」という人が同年九月九日にハバナに上陸している、とあるのをキューバの日本研究家二人が見つけた。そして翌九九年にも「Numa Y.」「Tatsuma J.」「Hame N.」「Minzu A.」「Sanki H.」「Ohinaga J.」の六人が上陸しているというのだが、そのつづりを見て、思わず、あれっ? と首を傾げたくなった。誤記なのか、それとも姓と名が逆さなのか、不思議な表記になっている。

 いずれも一八九八年から翌年にかけての、メキシコとアメリカからの入国で、一番早いという「Osuna Y.」についても、その出航地がメキシコのベラクルスだったこと、船名が「オリサバ号」だったこと、それ以外、出身地、性別はもとより、姓名の日本語表記さえわからない。一八九八年九月九日のハバナ上陸らしいが、一九九八年(平成十年)にキューバ政府の主導で行なわれた「キューバ日本人移民百年祭」はこれを根拠にしている。

 先の宮下については、あとで述べるが、かなり詳しいことがわかっていて、ハバナで死亡していて、ハバナのキューバ日系人慰霊堂の二番セルに位牌も納められている。だが、この「Osuna Y.」のその後はまったくわからない。想像をたくましくすれば、この七人は、旅芸人の一行ではなかったか。当時、アメリカ東海岸から、商用、観光のほかに、こうした芸人たちのキューバ渡航のあしあとがいくつか見られる。よく知られたところでは、一八九一年にキューバに入った南方みなかた熊楠くまくすもハバナで日本人曲芸師に出会い、一座に同行して、ハイチ、ジャマイカを巡遊している。もし「Osuna Y.」が日本人移民第一号というのなら、それよりも七年も早い南方熊楠が最初になってもいいし、もっと遡って、これは冗談に過ぎるが、慶長遣欧使の支倉はせくら常長つねなが一行を嚆矢とした方がすっきりする。移民史に嚆矢議論はきもので、キューバにかぎらず、メキシコの場合でも、移民史を、この支倉一行から説き起こす記述がけっこうある。しかし、それは交流史の史実であって移民史にはあたらない。

 そこで、移民とは何か、ということになるが、これがけっこうややこしい。「移民」という言葉自体が曖昧で、日本の場合、出移民(emigrante)と入移民(inmigrante)もごったになっているし、出稼ぎなのか、商用なのか、それとも亡命なのか、いわゆる飛び出しなのか、さらに、単独なのか、集団なのか、自由意志だったのか、やむなく追われてのことだったのか、事情もさまざまだ。ただ、ふつうに移民史という場合は、明治以来の出移民、つまり出稼ぎ移民の歴史をさすと考えるのが無理がない。移民史というのはそんな一人一人の積み重ねであって、大切なのは、一人一人がどういう理由わけで移民に出たのか、その先でどう生きたのかを明らかにすることであって、嚆矢議論ははっきりいってどうでもいい。

移民記念祭の理由わけ

 そしてもう一つ、移民史をややこしく、見えにくくしているのが「移住」という言葉だ。移民は民を移すこととか、移住は自ら移り住むこととか、言葉の議論は意味がない。移民と移住の区別をはっきりしないといけないのは、明治以来の、政府や移民会社の手によって送り出された、いわゆる出移民、出稼ぎ移民をいうときで、これを移住(者)といってしまうのはまちがいだ。ところが、この国では、たしか一九七〇年代に入ってからだったと覚えているが、移民という言葉をけるようになっている。もちろん政府主導によるものだが、この言い換えが問題なのだ。きっかけになったのは九州からのブラジル移民だった。戦後復興のあとのエネルギー政策を石炭から石油へと切り替えた結果、北九州各地の中小炭坑を中心に炭坑の閉山が相次ぎ、失業者があふれた。そのけ口をブラジルやボリビア、パラグァイに求めた。国策だった。なぜか。労働運動の広がりを怖れたからで、以来、移民が「移住」に変身、公官庁が率先して、マスコミもそれにならっている。

 移民の嚆矢が叫ばれるのは、どこの国でも同じけしきで、移民や移民史とはまったく別のところで動いている。不思議な別の目的があって、下世話ないい方だが、移民や移民史がしにされている。それはキューバの場合も同じだが、ほかとはちょっと様子がちがっていた。ふつうブラジルやペルーでも移民の記念祭が開かれるのは、日本人会など日本人や日系人の側からの要求や働きかけがあって、当事国政府も動くものなのに、キューバの場合、キューバ政府が音頭をとっていた。理由は「移民名簿」の項にも書いたが、このへんが不思議というか、ひじょうに奇妙だった。

 そして二〇一八年には百二十年祭も開かれているが、今度は日本政府の方が熱心だった。そのためか、一九九八年には「キューバ日本人移民百年祭」としていたのが、「日本人キューバ移住百二十周年」になっていて、その二年前の九月には日本の首相が財界の代表を引き連れキューバを訪問、キューバ政府が日本に対してずっとかかえたままになっていた「借金」をチャラにしている。一九七〇年代から八〇年代にかけていくつかの日本企業が覆面でキューバに進出、公共事業にずいぶん投資したが、その借款が解消されないまま日本政府が肩代わりしていた、その帳消しを発表したわけで、これには同行記者もびっくり。おまけに二〇一八年には在キューバ日本大使が日本の大学をあちこち講演して回ってキューバ移民の歴史を熱く語っていて、その中で、どういう理由か、先の「Osuna Y.」は「大砂」と漢字で姓までもらっている。困ったことだが、日本政府は名前に漢字かな表記がないと日本人とは認めていない。アルファベット表記で日本国籍を取ろうとすると拒否される。それで多くの人が苦しんでいる。それをこの大使は、どういう権限があるのか、いとも簡単に「Osuna Y.」に日本国籍を与えている。いまも日本国籍が取れなくて困っている人はたくさんいる、そんなあなたはこの大使におねがいすればいいと思う。きっと二つ返事で引き受けてくれるだろう。

 もちろんキューバでの記念祭には日本の首相も駆けつけて、キューバ日系人慰霊堂にはなを捧げている。キューバ移民でなく、「キューバ移住」という不思議な言葉を使っていたことはいうまでもない。なぜ記念祭なのか、移民を出しに、キューバへの経済進出が政府と財界によって進められている。

 こうした構図は戦前にはもっと露骨だった。たとえば「移民史考」の項にも紹介したが、メキシコでは日本人会が日本海軍の対米軍事作戦の先駆さきがけとなって利用された例もある。メキシコ革命最中さなかの一九一三年から一四年にかけてのことで、将来の日米戦争を想定した軍部が、日本人会の組織を使ってメキシコに日本の軍事基盤を築こうとした計画があった。もちろんこれはかなり幼稚なもので実施されずに終わっているが、移民の周囲にはそんなことがけっこうある。

志賀のキューバ紀行

 宮下幸太郎については、「キューバ日本人物語」にも詳しく書いたが、最近(二〇一八年)、新しい事実がわかった。明治の地理学者の志賀重昂しがしげたかが、一九一四年のキューバ紀行の随想を「玖馬キューバと日本」と題して、一九一五年(大正四年)一月十二日から十七日にかけて東京朝日新聞に連載している。それによれば、志賀はハバナ上陸の際、ハバナ港で宮下のランチはしけに乗り合わせたらしく、そのとき本人から聞いた話として、宮下はその二十三年前にウルグァイからキューバに入ったと記している。これがほんとうだとすれば、宮下のキューバ入り、つまり、キューバへの日本人移民の最初は一八九一年前後までさかのぼることになる。

志賀重昂のキューバ紀行記事

志賀重昂のキューバ紀行記事:
宮下幸太郎本人から聞いた話としてその出自を東京朝日新聞に掲載している(神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫から)

 そして先の日本人曲芸師のことで浮かんでくるのが清水しみず幸吉さちきち(大阪府出身)である。一九〇九年にアメリカからキューバに入った二十九人のサーカス団の一員で、かれだけが残留している。ただ、清水のキューバ入国はそのときがはじめてではなくて、それ以前にも、サーカス、曲芸の興行で何度かキューバに入っている。一八六〇年代、明治維新前後にアメリカ西海岸に上陸、大陸を横断、ニューヨーク、フィラデルフィアなど東海岸を中心に興行を続け、さらにメキシコ、カリブまでも巡業していた大阪(大坂)出身の軽業師かるわざしの一団があった。その座長というのが皿回さらまわしの名人で、「難波なにわのサチキチ」と呼ばれていた。清水はこの「サチキチ」ではなかったかと思っている。一九二五年、サグァ・ラ・グランデ(ビジャ・クララ)で死亡。キューバでの詳しい暮らしぶりはわからないが、死亡診断書が残っていて、慰霊堂の三百三番セルに位牌もある。

 ともあれ、キューバに日本人が、いわゆる移民として入っていくのは、二十世紀初頭、それも一九一〇年前後のことであり、もっといえば、ペルーやブラジルでもそうだが、移民記念祭で根拠にしているのは集団移民としての最初であって、キューバの場合、ごくふつうに考えれば、あとで詳しく述べるが、小川富一郎とみいちろうの呼び寄せで一九一六年に新潟から入った、いわゆる小川移民を最初とするのが一番素直なような気がする。(2019年6月28日記)

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