移民差別の構造

 結果として、大陸殖民合資によるメキシコへの移民送出はオハケーニャとその周辺の砂糖耕地と、コリマ鉄道へのものだけで終わったが、計画としてはほかにもいくつかあった。その一つが北部コアウィラ州ラス・エスペランサス炭坑へのものだった。もちろん、すでに述べたように、北部炭坑への送出は熊本移民合資と東洋移民合資によって続けられていた。だが、逃亡(契約解除)とアメリカ合衆国への密入国(転航)をはかる者が多かったため、労働力需要は途絶えることがなかった。

 契約相手はメキシカン・コール・エンド・コークス社で、公使杉村虎一こいちの一九〇六年三月二十日付外務大臣宛公信によれば、現地支配人エドウィン・ラッドローは熊本移民合資、東洋移民合資の二社と交渉したが十分な結果が得られなかったため日本公使館に二社以外の「信用ある」移民会社の紹介を求めてきたという。そこで、日本公使館は、当時、メキシコ・シティーに駐在していた大陸殖民合資の現地代理人村上泰蔵たいぞうを紹介した。

 話は容易にまとまった。導入移民数は五百人、また、契約期間については逃亡を極力けるために二年に短縮、さらにその後の交渉で一年とすることで契約は成立した。そして、村上は杉村から、ラス・エスペランサス炭坑の調査、とりわけ移民逃亡の情況と要因について調査を命じられる。その報告「メキシカン・コール・エンド・コークス会社属炭山情況取調書」から当時の就労地の様子を見てみよう。

 ラス・エスペランサスはコアウィラ州北東部、国境の町ピエドラス・ネグラスから南西に約百四十キロのところにある。メキシカン・コール・エンド・コークス社の炭坑開発によって開けた町で、銀行、郵便局、電信局のほか、劇場、クラブ、病院、学校などの施設もあり、ホテルは二軒、一つはフランス人の、もう一つは中国人の経営で、上水道も引かれていた。また、労働者住宅は約千五百棟あり、人口は一万人を超えていたという。同社はそのほか近くのサビナス、ムスキス、パラウなどでも炭坑を経営し、バロテランを基点にラス・エスペランサス、パラウ、ムスキスに至る三十数キロの私設鉄道も持っていた。

 採炭量はもっとも多いもので日産三千五百トン、坑内労働者数は二千二百人を超え、うち二百二十二人が日本人、残りはすべてメキシコ人だったという。

 賃金は、一定量をこなさなければ大幅にカットされるというタレア制で、一トンの石炭を掘り出し、それを炭車まで積み込めば〇・六ペソだった。しかし、坑内で使用する発破はっぱ用の火薬、発火機(約二十八ペソ)鶴嘴つるはし(二・三ペソ)、シャベル(三・二五ペソ)、ランプ(〇・五ペソ前後)、ヘルメット(〇・六ペソ)、灯油などはすべて自前で、採炭量は日本人労働者の場合は一日平均三・八六トン。日曜、祭日以外は休まず働いたため、一カ月の採掘高はメキシコ人よりも多かった。

 この「情況書」の中で気になるのは、福島県出身者と沖縄県出身者との採炭高の比較だ。一日平均で、前者は三・八六トンなのに対し、後者は三・八八トンで、わずか〇・〇二トンの差にすぎない。それを、こう説明する。

れが理由は琉球人は常に徳義を重んずるの心少なく、ややもすれば自己の前借金、その病院費を会社に差引かれざるめ、二、三人まで共同して採炭しれを一人の名義として賃金を受くるもの往々あり。一人にして一カ月百五十トン、二百噸など採炭するものあるがごとしといえども、右はしか狡猾こうかつ手段にでたる者多しとふ。元来琉球人は懶惰らんだにして一段福島県人に及ばざるが如し」

 沖縄出身者の採炭量は福島出身者より多いが、それは前借りの渡航費や病院費用を差し引かれないようにするために二、三人のものを一人の名義で登録しているからだというのだ。そうすれば前借金などを差し引かれるのは一人分ですむからだった。

 しかし、なぜ、こうした比較をわざわざ報告する必要があったのか。情況報告としては蛇足といってもいい。応募数が多かったのも沖縄であり、手数料目当ての移民会社にとってはこのうえない顧客でありこそすれ、非難する理由はないからだ。

 もっとも、村上でなく移民自身の問題として、記録にはあまり表われてこないが、たしかに移民以前を引きずる差別の構造はあった。はじめて上陸した太平洋岸の港町マンサニージョから現地に向かう汽車の中で、沖縄出身者は本土出身者によって床の上に仰臥ぎょうがさせられたという話を聞いたことがある。ともに異境での地下人じけにん暮らしなのに、苦境にあっても、いや、苦境にあるからこそ人を追い落とす、それが差別の根なのかも知れない。

 一方、家屋は二部屋構造の一戸建てで、一部屋の大きさは縦約七メートル、横約三・五メートル。その一部屋に四人ずつ収容されていた。家賃は一カ月四ペソで、炊事場が付いている場合は五ペソ五十センタボスだった。しかし、東洋移民合資による移民たちは同社の指示で大部屋造りの家屋に二、三十人いっしょに収容され、一カ月五十センタボスの家賃を支払っていたという。浴場は日本人のためにとくに設けられ、使用料は一人一カ月十センタボス。炊事場も日本人用のものが別棟に設置され、二十五人ごとに一人の炊事係がおかれていたが、その給料は各自で負担していた。一カ月九ペソで炊事を請け負う者もいたという。

 朝夕は米飯だったが、坑内に持って入る昼食にはパンを焼いた。高温の坑内では米飯は半日ともたなかったからだった。副食には羊肉と野菜を煮込んだものが多かった。食糧は会社経営の売店で購入、米一キロ約〇・三ペソ、牛肉一キロ約〇・三ペソ、羊肉、豚肉一キロ約〇・二五ペソ、精白砂糖一キロ約〇・二八ペソ、玉子一個約〇・〇七ペソ、玉蜀黍とうもろこし一キロ〇・〇七ペソ、コーヒー一キロ約〇・七ペソだった。

 そうした結果、村上は日本人移民の一カ月の平均収支を次のように報告している。収入は一日四トンを採炭したとして六十五ペソ。それに対し、支出は、食費十ペソ、渡航費前借金返却十ペソ、会社への手数料・病院費六・五ペソ、発火機・ランプなどの道具修理費や火薬・灯油代合わせて十二・五ペソ、入浴料他〇・四五ペソ、積立金二ペソの計四十一・四五ペソで、差引残高は二十三・五五ペソ。

 ただ、これは一日四トンの採炭を二十五日間つづけたと前提してのもので、採炭量が一カ月百トンを超えた場合は、一トンに付き〇・〇五ペソを上乗せした〇・六五ペソが支払われるという奨励法を適用したものだった。しかし、現実には日本人移民の平均採炭量は四トンに及ばなかったというから、この奨励法が適用されなかった場合には、一カ月二十五日間びっしり働いたところで収入は六十ペソにはとうてい及ばず、手元に残るのも二十ペソをはるかに下回ることになる。

 また、いくら体力があり、毎日休まず働いたとしても、坑内システムがそれに追いつかなかったから奨励法の一カ月百トンはおろか、一日三トンも難しかった。採炭された石炭はラバが引く炭車に乗せて地上に運び出されるが、その炭車が少ないうえに、坑内には採炭したものを置いておく十分なスペースがなかったから、採炭量が限度を超えると積み出しが終わるまで採炭の方を中止せざるを得なかった。もちろん、炭車の絶対数が少ないというわけではなかった。坑内労働は採炭と運搬に分かれ、ラバを使っての運搬にはメキシコ人労働者が多かったが、かれらはかれらで独立していて、採炭する者は積み出しにかれらを雇うというシステムだった。そのためかれらは「請負師」たちに専有され、日本人移民のような単独の採炭者には十分に炭車が行き渡らなかった。

 もう一つ、村上が進めたのはソノラ州のナコサリ銅山への日本人移民の導入だった。ナコサリはアメリカとの国境の町アグァ・プリエタから約百キロ南、アグァ・プリエタからまっすぐ延びる私設鉄道の終着駅で、銅山はさらに約五キロ郊外にあった。一九〇一年、ニューヨークに本社をおくモクテスマ・カパー・カンパニーによって開かれたもので、一九〇六年当時は七百人前後のメキシコ人が就労していた。

 移民供給契約は一九〇六年七月六日に大枠がまとまっている。

まず、移民供給契約数は坑夫七十五人。十八歳から四十歳までの者で、そのうち二十五人は妻を同伴することが義務づけられていた。食事まかないのためで、供給期限は契約成立後五カ月以内だった。

 契約期間は二年。労働時間は一日十時間で、労働日は週六日。タレア制で、一フィート採鉱すれば〇・三ペソ。順調にいけば一日二・五ペソの収入があるように賃金基準が定められていたという。

 ただ、賃金の中から毎日〇・二ペソが逃亡の場合の保証金として差し引かれ、契約満了のときにはそれが帰国費用にあてられることになっていた。また、就業中の事故による入院治療費として毎月一・五ペソが差し引かれることにもなっていた。

 労働は二十五人を一グループとして、さらに、その中から組長一人を選びその監督のもとに就労する。組長の日給は三・五ペソ。住宅は会社から供給されるが、これも毎月家賃をとられることになっていて、五人用一室だけの住宅で五ペソ、十二人用二室付きのは八ペソだった。

 その他、大陸殖民合資と移民との間の契約書によれば、出発前の体格検査費は大陸殖民合資の負担、渡航費は移民負担、グァイマスから就労地までの費用は雇主負担で、そして、大陸殖民合資への手数料は二十五円だった。

 その後、大陸殖民合資によって移民の募集地が愛媛一県と決められ、男性七十五人、女性二十五人を募集するという「移民募集通知」が一九〇六年十月二日に警視総監安楽あんらく兼道かねみち宛に提出されている。しかし、実際に募集が行なわれたのかどうかは明らかでない。ただ、大陸殖民合資の取り扱いとしては、先のラス・エスペランサス炭鉱同様、ナコサリ銅山へも日本人移民は一人も入っていない。のちに述べるように、すでにこの時期、タバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニー(オハケーニャ)との移民供給契約が同年五月十九日に、また、ハンプソン・エンド・スミス・カンパニー(コリマ鉄道)とのそれが七月十一日(あるいは六月十一日)にそれぞれ成立していたからで、契約数はそれぞれ千六百五十人と三千人と、ラス・エスペランサス炭鉱やナコサリ銅山へのそれとは桁違けたちがいだった。大陸殖民合資は熊本移民合資と東洋移民合資との競合を避け、コリマ鉄道と南部砂糖耕地への送出を独占しようとしていた。移民送出のうまみは大量送出で倍増する。手数料のほかに、船会社から運賃の割戻わりもどし金が入るからだった。

 それだけではない。もともと大陸殖民合資は星亨ほしとおる配下の民権青年たちが自らの選挙資金、政治資金を得るために設立したといってもいい。このあと、一九〇八年五月に総選挙が行なわれているが、さらに移民の送金まで操作しようとしていた。(1988年6月/1994年9月記)

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