希望に見放された男たち

 ラス・エスペランサスでのその後の様子だが、就労以前に北の国境をめざして去った者、また、数日あるいは数カ月で逃亡、転航した者など、半数以上は一年未満で同地をあとにしている。なぜ、逃亡、移転という行動をとらざるを得なかったのか、その一つに爆発事故があった。

 どれほどあったのか、小規模のものを含めれば数知れなかっただろう。日本側に残された記録として見つかるのは、次の三件のみである。

 一つは一九〇七年二月十八日のガス爆発。起きたのはメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニー所属のコンキスタ炭坑第三坑。午前八時十分のことだった。当時、坑内にいた東洋移民合資取り扱いの日本人移民は十九人、うち十三人が坑内で即死、残り六人のうち一人は重傷、他の五人も有毒ガスにやられている。

 一方、熊本移民合資取り扱いの日本人移民は、東洋移民合資の調べで十一人、うち坑内での死亡者は九人だった。他の事故でもそうだが、熊本移民合資は現地に代理人をおいていなかったのか、事故の報告は残されていない。そのため、被災の情況はもちろん、被災者名も明らかでない。このときの東洋移民合資取り扱いの犠牲者は、中田政次郎(富山)、出戸米次郎(同)、上坂定之助(同)、山下物蔵(山梨)、佐野浅次郎(同)、山口重幸(同)、山口頼一(同)、望月政吉(同)、笠井栄一(同)、岸本良仁(沖縄)、新里親仁(同)、大城蔵一(同)、呉屋仁和(同)で、半数近い六人が二十歳以下だった。他にかろうじて生き残った者として、亀谷幸助(沖縄)は自ら歩いて出坑、荒木栄作(富山)、佐野潔(山梨)、絃間権次郎(同)、小波津徳(沖縄)、豊里友益(同)は救出され病院に収容されている。

 同坑は、坑口から約四百四十メートル下るとまっすぐ奥に伸びる本道があり、その両側に横道おうどうが手前から、東第一号、西第一号、東第二号、西第二号……、というふうに東西に十数本が分岐、この横道からそれぞれ十カ所前後の坑室がさらに分岐していた。坑夫たちはそこで採炭し、木製の軌道の上を炭車にせて横道までき出す。あとは馬が代わって曳いて坑外に運び出されていた。各坑室は入り口から奥行き二・五メートル弱までは幅も七メートル前後あったが、それ以上はわずかに人一人がやっと通れるほどのものだったという。

 爆発があったのは奥の横道西八号で、坑口からは約一・三キロのところ。そのため、爆発後すぐ会社関係者とともに日本人医師原芝太郎と第四坑の副坑長をしていた日本人移民内野巳之吉も坑内に駆けつけたが、照明が不十分なうえ有毒ガスが充満していたため、内野は現場に至らないまま卒倒そっとう。また、命を取り留めたものの豊里などは有毒ガスにやられ、その日の夕刻まで、収容先の病院で錯乱状態にあったという。一方、メキシコ人労働者の犠牲者は三十五人、うち一人は遺体未収容のままだった。

 次は一九一〇年二月一日あるいは二日深夜に、同じくメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニー所属のパラウ第三坑で起こっている。

 当時、同社所属の鉱山にはラス・エスペランサスとコヨテあわせて七十五人、コンキスタ八十九人、パラウ三百七十九人、フエンテ十二人の日本人移民がいた。うち、東洋移民合資代理人中嶋束の報告によれば、パラウ第三坑では日本人移民は十五、六人が就労していたというが、爆発当時、入坑していたのは二人、犠牲となったのは熊本移民合資取り扱いの安斉与太郎(福島)一人だけだった。遺体収容に立ち会って、情況をつぶさにした中嶋はこう記している。

その火傷脱皮せるさま何人なんびとなりしやも不明に有之これありそうろう此者このもの夜業として昇降綱かた(メカテーロ)致居いたしおり候が、丁度ちょうど爆発場所の近所に引上げ請求にいたりし瞬間爆死候」

 メカテーロというのは、エネケン(竜舌蘭)の繊維でつくった綱のことで、坑内への炭車の昇降作業に使われていた。ユカタン地方の特産で、かれは炭車の昇降番をしていたのだった。すると爆発地点は比較的坑口に近いところだったか。もう一人は爆発一時間ほど前に道具が足りないことに気づいて坑外に出ていて助かっている。

 その後、安斉の父金次のもとに、仲間から頭髪と爪が送られてきたが、熊本移民合資からは何の音沙汰もなく、一九一一年に至っても、見舞金はおろか死亡通知さえ届かなかったという。

 もう一件は同年九月三十日に起きている。同じくパラウの第二坑だが、このときの爆発はそれまでにない大きなものだった。

 爆発が起こったのは深夜十一時。天にもとどろかん大音響とともに坑口一面が陥没、坑内にいた日本人移民二十人とメキシコ人労働者九十人がそのまま閉じ込められた。

 救助作業はすぐ開始された。だが、まったく手もつけられないありさまで、最初の遺体が収容されたのは三日後の十月三日のことだった。その日、収容された日本人犠牲者は、久保作次郎(佐賀)、古賀泉次郎(同)、宮原藤助(福岡)、将口新太郎(同)、柊木末吉(鹿児島)、山本林太郎(同)、槙野庄造(広島)、上本順一(同)、屋部嘉真(沖縄)、嘉手苅有一(同)、久世竹五郎(岐阜)、吉沢熊雄(熊本)の十二人で、他の者も絶望と見られていた。

 ところが、翌日になって奇跡的に六人が生存しているのが発見された。爆発は分岐した横道で起こったが、そのときかれらのいた別の横道が落盤によって密閉、遮断されたため、その後の有毒ガス、火災の発生という二次災害からのがれることができたのだった。とはいえ、四日間にわたって閉じこめられていたため、佐野留三郎(福島)は収容四日後に死亡。また、小林清太郎(三重)と岸本礼三(沖縄)の二人は行方不明のまま遺体の回収はできなかった。

 その後、東洋移民合資現地代理人とメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーとの間で犠牲者に対する「賑恤しんじゅつ金」の支払い交渉が行なわれた。契約に、ガス爆発など不慮の災害によって死亡あるいは労働不能となった場合、船賃相当の賑恤金を支払うという一項があったからだった。

 これによって犠牲者たちに百二十ペソの賑恤金が支払われることになり、各県知事を通じて犠牲者の家族のもとに死亡証明書とともに送られることが東洋移民合資代理人によって通知されている。だが、犠牲者十五人のうち上本順一、槙野庄造、吉沢熊雄、柊木末吉の四人の家族には一年以上もたった一九一一年十一月になっても送金はなかった。四人は東洋移民合資取り扱いではなかったため、メキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーの移民名簿にその記載がなく「賑恤金」の支払いを受ける権利がないと判断されたからだった。

「右等二人は大陸扱にして就労地を逃亡したるのゆえもって当地には独立独行し得るつもりにてか、かく、本代理人に在住を届出不申もうさず。時折巡回そうろうても隠匿いんとく致居いたしおり候にや、瓦斯ガス爆発のさい初めてかかる人間の労働致居候ことを承知つかまつり候くらい有之これあり候」

 そのように、四人のうち上本順一と槙野庄造の二人は東洋移民合資ではなく大陸殖民合資取り扱いによってメキシコに入っている。上本はその第八回移民の一人として日本出航時の契約ではコリマ移民になっていた。槙野は第九回移民の一人、同じく契約ではオハケーニャ移民となっている。ただ、大陸殖民合資の場合、第八回移民のときからコリマ鉄道建設への移民供給は過剰となっていたから、おそらく上本は上陸前に契約を変更、オハケーニャに入ったのではなかったか。槙野は契約通りオハケーニャに入り、それぞれ同耕地で就労。知り合った二人はラス・エスペランサス行をともにしたのだろう。また、ラス・エスペランサスでは先行日本人移民の請負制のもとで労働していたのかもしれない。そうすれば、多少、歩合が悪くとも保証金や病院費などを差し引かれることがなかったからだ。爆発事故はかれらの到着、わずか数日後のことだった。

 ほかの二人、吉沢熊雄と柊木末吉の場合は、家族からの請求の記録も代理人による記録もない。ただ、東洋移民合資扱いでなかったため賑恤金の支払いリストから削除されていただけで、出港時の「移民名簿」を見ると、柊木は熊本移民合資の取り扱いで、一九〇七年六月四日の渡航、吉沢は他の記録では「吉沢熊十」あるいは「吉津熊男」となっているが、吉沢熊雄の誤りである。かれは大陸殖民合資第八回移民の一人で、契約先はオハケーニャになっている。柊木が賑恤金の支払いリストから除外されたのは、すでにそれ以前、一九〇七年に熊本移民合資は外務省から営業停止処分を受けていたからだった。

 その後も日本公使館を通じて賑恤金支払い交渉がつづけられたが、事故当時、代理人にあった阿比留はすでに死亡していたため、代わってメキシコシティにいた同社代理人田中兵助へいすけが交渉にあたり、その結果、明らかになったのは、阿比留とメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーとの間には、契約外の犠牲者に対しては「賑恤金」に代わるものとして「弔慰ちょうい金」四十ペソを各自に支払うことで示談じだんが成立していて、すでにそれを阿比留に支払っているということだった。田中はそのむねを本社に通知、上本と槙野の家族に対する「弔慰金」送付を依頼したというが、その後のことは明らかでない。もちろん、柊木と吉沢のそれについての記録もない。

 一方、メキシコ人労働者の場合、ほとんどが請負制のもとで就労していたため、賑恤金の支払いなどはもちろんない。ただ、見舞金として一人当たり二十五ペソが支払われたに過ぎなかった。

 その後、ラス・エスペランサスはメキシコ革命の動乱によって荒廃。また、各地で鉄道が破壊されるなど石炭需要の減少によって生産制限が行なわれる中で労働者解雇がはじまっている。ただ、それは首切りという方法ではなく、坑内労働に欠かせない「安全灯」の数を制限するというものだった。人員整理を行なえば補償金支払いという問題が生じるからで、そのため、毎日、安全灯の奪い合いが絶えず、仕事にあぶれる者がつづいたという。そして一九一三年七月、ラス・エスペランサスはその鉱区のほとんどを閉鎖する。

 当時、日本人移民は二百人前後いた。うち百人前後は現地代理人の仲介によって同じくコアウィラ州の棉花農場に移ったというが、残された者がその後をどうたどったのか、たとえばアメリカにリオ・グランデを越えた者がたどり着いた先は、当時としてはかなり支払いがよかったというコロラド州デンバーの炭鉱だった。

 一方、それに失敗した者が頼ったのがメキシコ湾岸のタンピコだった。世界経済が石炭から石油に転換しはじめたころで石油の町タンピコは活況にあふれ、一時、タンピコには二百人前後の日本人が滞留、酒や博打に明け暮れる者も少なくなかったが、やがて日本人会館を建設するまでになっていく。(1988年6月/1994年10月記)

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