鮑採りの唄

 アメリカ、カリフォルニア州南部での日本人移民による漁業の先駆さきがけは千葉県出身の佐野初次はつじだったという。今世紀初頭、ロサンゼルスでのことで、一時、事業を中断しているが、その後の人口増加によって市場が確立したため事業を再開、それに刺激された者も加わって、日本人移民の漁業活動は南のサン・ディエゴ付近にまで拡大していった。そして一九一〇年前後にはロサンゼルスを中心とした採鮑さいほう採蝦さいか鮪漁まぐろりょうで、ロサンゼルス南郊のサン・ペドロやその対岸のターミナル島(現、サンタ・カタリナ島)缶詰かんづめ工場をもつまでになっていた。その後、あわびの漁獲制限をはじめとする漁業法案が成立するなど排日運動が激しくなるが、対抗して一九一六年には漁業組合を設立、鮪缶詰の需要増大の波に乗ってサン・ペドロとサン・ディエゴを基盤に、メキシコのバハ・カリフォルニアの沖合いにまで漁場を拡大していく。

 そうした日本人移民の漁業活動の中心にあったのが近藤政治まさはるだった。農商務省あるいは内務省の漁業視察だったのか、一九一〇年前後、カリフォルニアからメキシコ北部にかけての沿岸部を巡遊、バハ・カリフォルニアの豊富な水産資源に注目したかれは、まもなくロサンゼルスに居を移し、サン・ディエゴにアメリカ人との合弁でMKフィッシャーズと呼ばれた水産会社を設立した。一九一二年前後のことだった。MKとは近藤政治のイニシャルをとったもの。そうして日本から漁業移民を呼び寄せた。ただ、入国制限が厳しかったため、アメリカ移民ではなくメキシコ移民として呼び寄せている。

 最初は、かれと親しかった東京水産講習所(現、東京水産大学)の所長をしていた伊谷いたに以知二郎いちじろうが仲介にあたり、一三年から一六年までに岩手、宮城、茨城、静岡、三重の五県から二十数人が渡っている。それにロサンゼルス付近の日本人も加わった。

 移民会社である海外興業株式会社を仲介にしたのは一九一八年からだった。MKではなく「メキシコ興業組合」として導入している。『在米日本人史』が「サウザン・コンマシャル会社は、その本拠を低加州バハ・カリフォルニアに置き、元大阪府人十二名が株式組織を以て帆船『十二とに丸』を作って漁業を墨国メキシコ沿岸に試みた」と記し、海外興業の「状況書」が「同組合は本邦第一流の実業家十二名よりり、内外人かんに多大の信用を有する堅実なる実業団体なり」と記しているのがそれである。当時、近藤はその代表をしていた。メキシコに漁業を拡大するために、日本人経営者たちは同業組合を結成していたのだった。

 海外興業は第一回移民として五十人を募集。宮城七、茨城二十一、千葉五、三重三、和歌山三、長崎十の計四十九人が同社扱いの自由移民としてメキシコに入っている。このときも含めて渡航はほとんど東洋汽船の南米航路によっているが、直接、自社船の「十二丸」(帆船、二百トン)で太平洋を渡ることもあった。メキシコまでの渡航費は全額「組合」負担だった。

 就労地はほとんどがカリフォルニア半島中部太平洋岸のバイア・トルトゥガス(亀湾)で、缶詰工場での労働と採鮑、そして鮪漁。労働契約は三年、一日の労働時間は十時間。賃金は漁夫の場合は月二十五ドル、採鮑のダイバーの場合は五十ドルだったが、ほかに漁獲量に応じた歩合制がとられ、その三割は「組合」側が契約保証金と帰国旅費にあてるために留保、契約満了時に払い戻されることになっていた。

 また、一九二三年に再び海外興業によって募集がかけられている。一八年の第一回以降、岩手、宮城、和歌山などから三十人前後が移民会社によらない呼び寄せの形で入っているが、このとき「組合」側は百人を予定、海外興業は、岩手十六、宮城七、茨城三十二、千葉五、静岡二十二、三重十八の計百人の募集をかけたが、実際に渡航したのは宮城二、茨城六の八人だけだった。

 その後、近藤は二六年前後にMKの経営を放棄し日本に引き揚げたが、呼び寄せは、宮城、三重、和歌山、長崎などからの百人前後にのぼり、さらに、三六、七年ごろまでに四百六十人前後が渡っている。これらは「組合」独自のものだったかどうかは明らかでないが累計で、日本から直接メキシコに入った漁業移民は六百八十人を上回っている。ただ、一時帰国したあとの再渡航など二、三回にわたる渡航も少なくなかったことを考えれば、実数としてはこの半数から四百人前後というところだろうか。バイア・トルトゥガスやエンセナダには多いときには四百五十人以上の日本人が滞留していて、うち二百人前後が茨城県出身者だったとする記録があるが、日本から直接入った同県人は多くみても七十人前後、あとは排日に追われたカリフォルニア州南部からの、いわゆる南下組ではなかったか。日本からの直接渡航が多かったのは、トップが和歌山県で、ついで茨城、宮城、三重、岩手、高知、長崎の順になっている。

 近藤が去ったあとのMKの事業はサン・ディエゴに本拠を置いた大洋産業株式会社が引き継ぎ、国際水産株式会社と社名変更しているが、三〇年前後までは日本人移民の間では従来通りMKで通っていた。二九年に富田はじめ(在、茨城県日立市)が再渡航したときもそうだったという。

 かれの父・伊勢松いせまつがメキシコでの鮑漁を知ったのは同郷の先行移民小川と関からだった。まず長男である一氏を二三年に渡航させた。伊勢松は多賀郡高鈴村(現、日立市)の網元で、小規模だったが最盛期には五、六トンの漁船を二隻所有、近在の漁師十五、六人を配下においていたという。しかし、一九一五年前後からは海水の汚染がひどく、海藻が減少したため鮑がれなくなり、漁民たちの出稼ぎがはじまった。一氏は二年で帰郷、代わって伊勢松が渡航、二年前後バイア・トルトゥガスで採鮑を続けたあと、その帰りを待って再び一氏が渡航。こうして一氏は前後三回にわたってメキシコに入っている。

 メキシコ太平洋岸での日本人移民による漁業活動は鮪漁と採鮑の二つに大きく分けられる。 鮪漁業の基地となっていたのはサン・ディエゴだった。カリフォルニア半島沖での漁は五月から九月にかけてで、それ以降はパナマ沖合いから赤道付近にまで鮪の群れを追っていく。すでに冷凍船が登場していて、遠洋での漁期は二、三カ月にわたった。一方、カリフォルニア半島沖合いでは、百トン前後の小型船で漁期は十日から十五日前後。この場合、三回も漁場を往復すれば豊漁のきわみだったという。移民たちは、初期のころはMKなど漁業会社の所有船に乗り組んでいたが、二五、六年を境に自ら漁船を所有する者が現われる。一氏も二度目の渡航で「エンタープライズ」(八十トン)を約六百ドルで購入している。

 鮪漁業に従事していた者に限れば、メキシコ移民とはいうものの、メキシコにいたことはほとんどなかった。一氏自身もメキシコ領のエンセナダには二、三カ月に一度、漁業ライセンスの更新に出かけただけだった。現在のエンセナダはバハ・カリフォルニア州の一大漁業基地になっているが、一九三〇年当時は人口も三千人を超えない小さな町で、農業方面ではかなりの日本人がいたが、漁業関係では、漁獲の合間に立ち寄る程度で長期にわたって滞留する者はほとんどいなかった。一九三〇年には百十九人が在留していたというが、それは旅券の都合上、エンセナダ在留として漁業ライセンスを登録していたからで、同じ三〇年にメキシコ資本の水産会社が設立され、北西に約十キロ離れたエル・サウサルに缶詰工場が建設されているが、二、三年で事業を中止している。日本人漁業者にとってエンセナダはほとんど活動の場にはなっていなかった。

 一方、採鮑の中心はバイア・トルトゥガスだった。MKをはじめ日本人漁業家の缶詰工場と採鮑者たちのキャンプがあった。三〇年には百三十九人の日本人移民がいたというが、缶詰工場で働いていたのはごく少数で、ほとんどが採鮑に従事していた。湾内では海藻が多かったため、採鮑には平底船を使い、岸からは脈曳みゃくびきと呼ばれた曳船ひきぶねに二、三隻が一組みになって曳かれていったという。採鮑船の乗り組みは、ダイバー一人、空気ポンプ担当三人(ポンプ二、ホース固定一)舵取かじとり一人、ぎ手一、二人、炊事担当一人と、七、八人単位が多かったが、ダイバー一人に漁夫四人という組み合せもあった。この場合は船上での煮炊きはできないからキャンプに戻らなければならない。鮑は干鮑ほしあわびや缶詰にして、週に一、二度の割合でサン・ディエゴからやってくる運搬船で、いったんサン・ディエゴに運ばれたあと、中国、マレー、ハワイなどに輸出された。

 ところが、採鮑の日本人は手痛い打撃を受ける。三二年八月、メキシコ政府はバハ・カリフォルニアでの缶詰用以外の鮑漁と輸出を向こう五年間にわたって禁止、また、缶詰用の鮑の漁獲量にも制限枠が設けられた。バハ・カリフォルニアでの日本人経営の漁業会社による採鮑は寡占状態にあったため、メキシコ漁業資本から圧力がかかったのだった。ともあれ、これによって、採鮑従事の日本人のほとんどが天草てんぐさ採りやランゴスタ漁、鮪漁に転じている。といっても、影響をまともに受けたのは直接採鮑に従事していたダイバーなどの漁業者だけで、日本人経営の漁業会社にはほとんど影響はなかった。採鮑には請負制がとられていたからだ。

 初期のころは会社からの月給制がほとんどだったが、一九二五、六年頃になると、自ら漁船を所有し請け負いをはじめる者が出てきた。採鮑と小規模の近海漁と缶詰加工がほとんどで、日本人のほかにメキシコ人も就労していた。賃金は一カ月三十ドルから五十ドル前後。ただ、採鮑のダイバーだけは経験を必要とする高度な専門職だったから、股請けという形で一種独立して漁を行ない、鮑は一トン七十ドル前後でダイバーから請負者に売られていたという。

 一方、数においても多数を占めていた鮪漁の日本人のほとんどはサン・ディエゴに拠点を置く国際水産や大洋産業などの漁業会社に所属して漁をしていた。しかし、自船を持っていた者は請負制をとっていたから、一九三〇年前後には一漁期が終わると、ふつうでも数百ドル、景気のいいときには数千ドルを手にすることもできたという。日本では日当四十五銭という時代、うまくすれば一万ドルという大金を懐に錦を飾ることも夢ではなかった。

 移民会社による過剰輸送、そして現地での過酷な環境と厳しい労働と、けっして平穏にはいかなかった南部砂糖耕地や北部炭坑、そしてコリマの鉄道移民と比較すれば、同じ日本人の間での雇用ということもあったが、バハ・カリフォルニアへの漁業移民は条件がよかった。それゆえにかれらにとってメキシコは一過性の地となり、ほとんどはその後のメキシコ日本人移民史に足跡を残すことなく日米戦争以前に転航あるいは帰郷している。(1988年6月/1994年11月記)

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