契約のからくり
メキシコへの日本人炭鉱移民はラス・エスペランサスへのものが最初だった。コアウィラ州北西部、現在のピエドラス・ネグラスから南東へ約百四十キロ。すでに述べたようにアメリカのメキシカン・コール・エンド・コークス社が開発した鉱山で、ディアス時代の外資導入策によって開かれている。アメリカ資本によって半独占的に採掘された北部鉱山には良鉱が多かったが、なかでもラス・エスペランサスはその代表ともいえるものだった。鉱脈が浅く、三メートル前後に及ぶそれが十数キロにわたってつづいていたという。
同社は資本金一千万ドルで一八九九年にニューヨークで創業。ラス・エスペランサスは、規模は創業当初でも七、八坑を数えていたが、一九〇六年には近隣のコアウィラ、フエンテ両鉱山も傘下に入れ、採炭量は月八万トンにのぼり、直接契約下にあった労働者を含めた人口は一万二千人にふくれあがっていたという。坑道は本部のあったラス・エスペランサスに三本、コヨテに四本、コンキスタに二本、生産量は月平均一万トンに及んでいた。
周辺設備も、公園、劇場、闘牛場のほか、教会、学校、病院、ホテル、郵便局、電報局など、ロシータ、サビナスなど他の鉱山とは比較にならないほど整っていた。当時、町の中心にあった劇場テアトロ・ファレスは、現在も労働組合の集会場として使われているが、これは一九〇五年に日本人移民が中心となって建設している。
日本人移民を最初に導入したのは、アメリカのユタ州ソルトレークにいた橋本大五郎(牟婁郡串本町)で、一九〇〇年にソルトレーク近在の日本人移民二十人を同鉱に送っている。メキシカン・コール・エンド・コークス社が資本投下していたメキシコ・インターナショナル鉄道はアメリカのサウス・パシフィック鉄道の所有で、橋本は以前からそこに大量の日本人移民を仲介していたことから、ほとんどがアメリカでの鉄道建設工事に従事していた者たちだったという。その後、橋本は日本からの直接導入を計画した。おそらく自ら日本で募集をかけようとしたのだろうが、外務省の認可が下りなかったため、権利義務を山口熊野の熊本移民合資に譲渡、その現地代理人となっていた。といっても、現地にほとんど足をとどめていない。
こうして、和歌山、三重の二県で百人を募集、八二人を一九〇一年十一月に送り出している。現地報告「土地情況書」によれば、八十二人は横浜を出たあと、サンフランシスコからサウス・パシフィック鉄道でテキサス州を経て国境の町ピエドラス・ネグラスからエスペランサスに入っている。海路十七日、鉄路二日半の長旅だった。
契約期間は三年、日給は一日平均四・五トンを採掘した場合、二・四七ペソから二・七〇ペソ、これで月二十五日働けば六十一・八七ペソから六十七・五〇ペソになり、食費、家賃、道具代、雑費を合わせても月二十五ペソ前後で、かなり余裕のある生活ができるはずだった。だが、ここでも現実はちがっていた。
手数料は二十円、うち十円は契約時に、残りは三年の契約満了時に徴収されることになっていた。契約時の十円は熊本移民合資に、残りは橋本の手に入るものだったのかもしれない。無理のない徴収の仕方とも受け取れるが、移民が契約中途で逃亡、満了時の十円が未徴収となっても、それに代わる分を毎月の給料の中から積立金として天引きしていたことはいうまでもない。
渡航費は七十ドル。もちろん移民の負担で、もしそれを熊本移民合資から前借りした場合、十四カ月にわたって、毎月、給料から十ペソ(一ドル=二ペソ)が差し引かれる。ほかに積立金二ペソ、住居費〇・五ペソ、病院費六ペソも天引きされる。それに対し一日三トンの割合で一カ月七十五トンを採炭したとしても収入は四十五ペソに満たず、手元に残るのはわずかに二十六・五ペソ。さらに食費はどれだけ節約しても十二、三ペソにはなっただろう。契約にはいっさい触れられていないが、坑内器具代やその修理費用、燃料費などを差し引けば、ほとんど残らなかった。
ところが、たとえば和歌山県での募集広告では次のように謳われていた。
「一、坑夫一ケ月の賃銭は、当分二三ケ月間は、日本銀貨七、八拾円、追々業務の熟するに従ひ、一ケ月百円以上壱百参四拾円の収得ありとす。一、坑夫一人一ケ月の自費は、食料共、総金拾円までなりとす」
熟練者でなくても収入は一カ月七、八十円。それに対し出費の方は十円前後に過ぎないという触れ込みだった。これでは、契約違反だと不満が起きるのも当然だった。広告は熊本移民合資によるものか、橋本自身によるものかは明らかでない。ただ、いずれにしても移民保護法違反だったことは確かで、もちろん、契約書を見ればその虚偽に気づくはずなのだが、ほとんどの場合、移民たちは契約書には目を通していない。仲介にあたったのは、いわゆる村の名士が多かったからだ。
熊本移民合資による第一回移民のうち、まず三重県出身者が橋本の責任放棄と契約違反、そして雇主側の虐待を訴えた。岩城九三郎ほか四人による県知事宛の訴状が遺っている。来てみれば契約条件とは大違い。賃金が少ないうえに物価が高くてやっていけない。そこで、何度も現地代理人に掛け合ったが、橋本は自分らを送り込んだあとは姿を消し、まったく埓があかない。これでは家族に送金できないから少しでも条件のいいところに移るというのだった。かれらは故郷出立のときには月五十ペソ前後を蓄えられるものと算段していた。
それに対し、炭坑会社は昼夜の別なく銃を構えた「番人」をつけてかれらを監視、そのため「実に家屋より一寸も出ること不能」という情況だった。そこで、「今数日経過するときは最早死するより外なし」と心を決めたかれらはメキシコ・シティの日本公使館に救助を求めるために「振義団」を結成する。少しオーバーにも思うが、十二項からなる同団の総則をまとめ、次のような「門出の唱歌」まで作っている。
「頃は明治三十五年/春の弥生の青空に/旭輝く日本の/大和男子の移民等は/国土更りし外国の/墨西哥国炭鉱の/鉱主は移民/惨憺至極の扱や/条約違反数々や/果ては死子よの蛮遇は/悲憤慷慨血の涙/耐袋も今は裂け/正義の二字を本となし/救命且つ正当の/裁判仰がん其為に/八十余名の移民等は/死する覚悟の意を決し/公使館に門出する/鳴呼勇しや勇しや/正義団は成立てり/見よや正義の旗風を/見よや男子の魂を」
一方、あてもないままアメリカに逃亡する者も少なくなかった。その身の上にはさまざまあったろうが、その一人和歌山県東牟婁郡新宮町出身の東徳之助の逃避行をサンフランシスコの邦字紙『日米』(一九〇二年八月二十八日付)が伝えている。
「米国加州へ行けば面白きことありと聞き国境まで逃げ来ると、相憎米国移民官に見付けられ一度メキシコへ送り還されたれど、屈せず再度の逃走に首尾能く成功し、昼は寝、夜は歩むと云ふ風にて汽車へも飛び乗りするなどあらゆる辛苦艱難を嘗めて或時は三昼夜も食背座りしことありたる程なり。斯くて行けども行けども一人の日本人には会はず、アリゾナ州ウィンスローまで来りたるに同所にて柳沢秋三郎と云ふ人の方へ辿り付き丁寧に七重の腰を八重に折り(略)ドウぞ助け給はるべしと神か仏に願ふ様なれば、柳沢は東の困難したるを察し髪を剪るやら湯に這入らせるやら見すぼらしい着物を取替へさして一両日休息したれば東も大分元気付き、若し恰好の働き口あらば世話して呉れまじきかとのことなりしも格別面白きことなく加州に行けば今が金儲けの真盛りなりと教へ、尚数日滞留せしめたる上汽車賃を与へたけれど、前月取纏めて日本へ送金したれば詮方なしとて着物とブレッド、砂糖と金二弗を貸してくれと云はねど与へたることとて東の喜び譬ふる物なく」
その後、さらに熊本移民合資は一九〇七年十月まで十二回にわたって移民を送り続けたが紛糾は絶えなかった。まず移民たちが問題にしたのは、前宣伝とは異なり、あまりにも稼ぎの少ないことだった。そして、もう一つ、坑内環境の劣悪さがあった。他の鉱山と比べれば天と地ほどに近代化されていたといわれるラス・エスペランサスだったが、すべての鉱区がそうだったわけではない。比較的条件のいい鉱区はすでに先行移民たちでいっぱいだったため、後続の新来移民たちは取り残された劣悪な鉱区に入るしかなく、当然ながら、そうした鉱区では採炭率も低く、また事故も多かった。契約には毎月、病院費が差し引かれることが明記されている。それは逆にいえば、坑内事故の多発を会社側が認めていたことになる。
福島県出身者三十四人が連署して日本公使宛に「嘆願書」(一九〇三年十二月三十日付)を出している。かれらはその八日に到着、十二日から仕事に就いたが、早くも二十四日からストを打っていた。問題としたのは、やはり前宣伝と現実との違いであり、その憤りは、雇主よりもむしろ欺かれた郷里の募集代理人に向けられている。甘い勧誘にのせられた愚かさへの歯痒さでもあった。
もう一つ問題としたのは現地代理人たちの不正行為だった。かれらの「嘆願書」を受けた日本公使館は書記官国府寺新作を派遣、現地での折衝にあたらせているが、その報告によれば、代理人たちは会社の食品販売所で手数料を取っていたという。また、坑内での採炭道具は会社側から分割払いで受け取ることになっていたが、それを配分していた代理人たちは、一括払いでなければ応じなかった。そしてもう一つ、賃金計算も代理人によって行なわれていたため不正が入る隙があった。
また、他の移民会社による移民の場合もそうだが、雇主であるメキシカン・コール・エンド・コークス社と熊本移民合資との間の契約には、移民たちの知らないところで取引条項がいくつもあった。その最たるものが次の二項だった。
「第十六条 甲は乙に対し手数料として労働者が採掘し且炭車に積込みたる石炭一噸に付き墨貨五仙を支払ふことを承諾す。
第二十条 甲は乙に対し乙の供給せる労働者が三年の契約を誠実に履行したる上は満期の際往航費に該当する金額を給す可きことを特約す」
これは一九一〇年に結ばれたメキシカン・コール・エンド・コークス社(甲)と東洋移民合資(乙)とのものだが、熊本移民合資との場合は、手数料はトン当り一ペソ、渡航費給与は三年後ではなく、就労四カ月後とかなり条件がよかった。
第十六条はまだいい。だが、第二十条は見過ごしにできない。会社側は移民呼び寄せのための費用をその移民が契約を満了した場合に負担することになっていた。だが、移民と熊本移民合資との契約では渡航費は移民負担だった。送金操作と合わせて移民会社を肥らせていたのはこうした特約だった。その後、かれらのうち十八人は他の鉱山に逃亡、すぐさま会社側によって連れ戻されたが、うち七人はふたたび逃亡、国境の町イーグル・パスに向かったという。(1988年6月/1995年1月記)