キューバ移民残照

「やっぱりクーバ(キューバ)に帰りたい」

 そう言って、かれは死んだ。我喜屋がきや得寿とくじゅ具志川ぐしかわ市塩屋の人である。かれが日本をったのは一九二五年六月十日。ハバナから南東に三百七十キロ、中部トリニダーの砂糖耕地への移民だった。渡航費四百三十円、その工面くめんのため、妻は父祖伝来の田畑を内緒で売り払い、かれを見送った。契約通りにことが運べば、二、三年後にはいまの五、六百万円を手に帰郷できるはずだった。だが、炎熱下での重労働に加え、契約とは遙かにちがった就労条件に堪えきれず耕地を逃亡。仲間の多くがキューバを見限っていくなかで、かれはキューバに残っている。

 ようやく帰郷がかなったのは、一九八二年、五十七年ぶりのことだった。戦後しばらくして行方ゆくえがわからなくなっていたのを、ある日、ハバナの交差点に立っているかれを、偶々たまたまむかしの仲間が見つけた。それを知った郷里の長男が呼び戻したのだった。おかしなことだが、キューバを訪ねた私が、逆に、日本に帰るかれをハバナのホセ・マルティ空港に見送ることになった。ぱりっとしたスーツ姿で記念写真に収まった笑顔が輝いていた。

キューバの我喜屋一家

帰郷をキューバの家族が見送った:右から長男、長男の夫人、我喜屋得寿、内藤五郎、長男の長女、一人おいて得寿夫人

 ところが、その秋の暮れ、具志川を訪ねた私にかれはなげいた。

「息子はほんとうによくしてくれる。孫も大事にしてくれる。けどなあ……、おれにはやっぱりクーバがいい」

 海に向かって開け放たれた濡れ縁に、ぽつんと座ってそういった横顔がいまも脳裏に焼き付いている。そして二年足らずのうちにかれはった。八十五歳だった。

「一一四六マイナス一〇七九。キューバにおける日本人移民一世の数である」

 と書いたのは十年前のことだった。それをいまはこう訂正しなければならない。

「一一四三マイナス一一一六」

 十六年前には八十九人が元気でいた。それからずっと思っていた。きっと、もう一度は会えるだろう……。だが、それも、ほとんどこの世では叶わなくなっている。

 キューバへの最初の日本人移民が誰だったか、明らかでない。ここでいう移民とは戦前に限ったものだが、なおかつ、何をもって移民とするか、その定義はさまざまである。だが、ともあれ現在のところ確証できるのはアルゼンチンから入ったという宮下みやした幸太郎こうたろう(石川県出身)が最初である。おそらく一九〇〇年のことだろう。が、これも断定できるものではない。

 ただ、記録としては、それより二年さかのぼる。六年前のことだった。一八九八年九月九日に日本人らしき人物がハバナに上陸しているとあるのを、キューバの日本研究家二人が一八九八年版のディアリオ・デ・マリナ紙に見つけた。「Osuna Y.」と記された人物で、「キューバ日本人移民百年」はこれを根拠にしている。ただ、その出港地がメキシコのベラクルスであったこと、その船名がオリサバ号であったこと、それ以外、出身地、性別はもとより、姓名もアルファベットでしかわからない。また、先の宮下はハバナで死亡しているが、このOsuna Y.のその後は明らかでない。想像の域を出ないが、七人は一九〇〇年を限りとしてキューバを去っている、旅芸人一座ではなかったか。当時、アメリカ東海岸から、商用、保養のほかに、こうした芸人たちのキューバ渡航のあしあとがいくつか見られる。一八九一年にキューバに入った南方みなかた熊楠くまくすもハバナで日本人曲芸師に出会い、一座に同行して、ハイチ、ジャマイカを巡遊している。キューバに日本人が、いわゆる移民として入っていくのは、今世紀初頭、それも一九一〇年前後のことなのである。

 キューバの日本人移民史は特異である。それが他と異なるのは、その先駆けたちに、直接、日本から渡った者が少なかったこと。ほとんどがメキシコあるいはペルー、パナマからの、いわゆる転航者だった。なぜなのか。

 メキシコには、榎本移民を別とすれば、一九〇三年を嚆矢こうしとして、南部タバスコ、オアハカ州境の砂糖耕地と中部コリマ州の鉄道建設、そして北部コアウィラ州の炭坑に、それぞれ大陸殖民合資会社と東洋移民合資会社、熊本移民合資会社によって八千人前後の日本人移民が送られていた。だが、ここでも移民会社のうたい文句と現実は大きくちがっていた。多くはアメリカ合衆国に流れ、また、帰郷、そして定着に向かおうとした者も、その後のメキシコ革命の動乱の中でメキシコを見限っていく。

 そのうちキューバに渡ったのは、一九二〇年までに五十九人。そのかれらによってキューバへの日本人移民の歴史がはじまっている。同じ時期、ペルーからも二十人が入っているが、主流はメキシコからのそれだった。また、パナマからの転航も少なくないが、それはパナマをペルーからの中継地としたからである。キューバへの日本人の移動の起因はメキシコ革命だったといってもいいだろう。

 その後は、かれらの呼び寄せと、移民会社海外興業による一時期の送出ですべてである。かれらをき付けたのは、当時のキューバが砂糖景気にいていたこと、そしてキューバのペソがアメリカ・ドルと等価で流通していたことだった。だが、バカ・ゴルダと呼ばれたその好況も一九二〇年代前半を限りに終わり、さしたる成功者を出すこともなく、その後の不況、さらに、日米開戦とその収容による資産没収によってかれらの錦衣帰郷の夢も消える。

 そして、五十余年。いま、キューバの日本人移民一世は、百歳を最高齢に二十七人。うち十三人が九十歳を過ぎ、平均年齢も八十九歳を超えている。

 みんなそうだが、とりわけ忘れられないのがカルデナスの立川金治たちかわきんじである。十六年前に訪ねたとき、すでに八十歳を過ぎていた。だが、キューバ移民の誰もがそうであるようにかれもまた十歳は若く見えた。『老人と海』の隠れたモデルとして知られる北崎政次郎きたさきせいじろうと同郷糸島いとしま郡)で、長身のいかにも海の男らしいがっしりとした体躯たいくに、しゃがれた割れるような声で大きく笑う。その快活さに圧倒された。

 さらに、家に入って驚いたのは、居間をはじめ部屋のあちこちに掲げられた油絵だった。床の上にも無造作に立てかけられていた。といっても別に絵を専門にしてきたわけではない。現役の頃から数十年、漁の合間を見ては描き続けた一枚一枚である。亡くなったが愛妻をモデルにしたのもいくつかあった。だが、海に生きてきた男だけに、海をテーマにしたものがほとんどで、そのうちの、メキシコ湾に沈むのだろう「夕陽」の一枚がすばらしかった。

 キューバに限らない、日本人移民には芸術家が少ないとはよく言われることである。たしかに、キューバでも、いわゆる画家はとうとう現われなかった。だが、私はそうは思わない。立川はもちろん、千百四十三人そのすべてが、未完成ではあるにせよ、それぞれ独自の筆遣いで、私の心のキャンバスに自画像を描いてくれたと思うからである。(1998年6月記)

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