入水

言葉が人を殺す

 一八九六年(明治二十九年)四月十二日の夜明け前、東シナ海を航行中の客船から一人の男が身を投げた。大久保米太郎おおくぼよねたろう、二十六歳。前々年、カリブの小島グァドループに出稼ぎした広島からの移民の一人だった。

 日本からグァドループへの集団移民はこのときが最初で最後である。移民会社の日本吉佐とパリのコロニアル銀行との契約で、広島百八十七人、和歌山百五十三人、山口百三十人、新潟十五人、岐阜五人の計四百九十人が砂糖耕地に入った。しかし、厳しい労働とマラリア、赤痢せきりなどによって一年半の間に日本吉佐の報告だけでも四十三人が死亡している。日中四十五度を超えるという暑さの中で、日本の竹ほどもある砂糖黍を伐採するのである。

 また、コロニアル銀行との契約以外の耕地にも送られたことから、賃金や生活用品などが契約通りに支給されなかった。そのため、彼らはまず日本吉佐が派遣していた監督に改善を要求。ところが、監督は耕地主との交渉には動かず、逆に、耕地側の支配人が「牛馬に対するが如く鞭撻べんたつ」で応えたという。カリブでの奴隷制廃止後わずか十年という時代である。たまりかねた彼らは代表を立て監督に帰還を要求する一方、約半数が耕地を離れた。

 それがストライキと受け取られ、県知事(グァドループはフランスの海外県だった)が派遣した軍との衝突で二人が死亡、十数人が負傷、百五十余人が逮捕、収監された。その後、十数人を除いて釈放され、なかには一時、耕地に戻る者もいたが、大半は、「日々門戸もんこ袖乞そでごいをなし」、露命をつないだという。

 そんな彼らを救ったのは島の住民だった。窮状は現地新聞で報道されるまでになっていた。

「日本人、虐待セラレ七十名死去ス。銀行ハ解約ヲだくセリ。ただちニ汽船ヲ送レ」

 パリ駐在の日本公使を通じ島の住民からの電報を受けた日本外務省はその重い腰を上げた。

 外務省官房に移民課が設置されたのは榎本武揚えのもとたけあき(一八三六~一九〇八年)が外務大臣になった一八九一年のことで、それも二年後に廃止され、その後、担当名称もたびたび変わっている。そして一八九四年六月のハワイ移民を最後に、日本政府が直接契約して送り出す、いわゆる官約移民の時代は終わり、以後、移民会社による私約移民の時代に入る。政府にそれを働きかけたのは星亨ほしとおるだった。配下に移民会社をかかえていたからである。外務大臣は陸奥宗光むつむねみつ。二人は陸奥が兵庫県知事をしていた明治初年以来の親密な仲だった。

 官約と私約との決定的な違いはなにか。移民にとってみれば、送金用の預金通帳が、官約の場合は領事館だったのが、私約の場合は移民会社に預けることが義務づけられただけのことである。結果として、移民の預金は移民会社の意のままで、官約のときには貴重な外貨稼ぎになっていたそれが、今度は移民会社周縁の人物への、いわゆる政治資金に流れることにもなった。移民会社を取り巻く政治家には自由民権運動くずれが多かった。そしてときには山県有朋やまがたありともといった大物も影を見せる。

 そうした移民会社の不当行為を取り締まるものとして一八九四年四月に移民保護規則が公布されたが、移民保護というよりも、移民会社乱立によるトラブルが外交問題に発展するのを防ぐためという意味合いの方が強かった。移民会社に対する規制はさまざまあったが、大きなところでは、たとえば移民の募集数に応じた保証金を外務省に納めなければならないことぐらいで、トラブルが起きたときの移民帰還費用にあてるためだった。移民会社はそれを移民から仲介手数料の一部として徴収、移民はそれを伝来の田畑を担保に地主から借り入れるという流れになっていた。

 渡航費は現地雇主が負担する場合が多かった。このときのグァドループ移民も、渡航費はコロニアル銀行持ちで、帰還費は、契約には五年未満に耕地を離れた場合はコロニアル銀行に負担義務はなかったが、パリの日本公使館の交渉で、実際にはコロニアル銀行が出費している。

 ともあれ運をつないだ者は帰還できた。最初の百八十二人は一八九五年十二月十八日に現地を出発、翌九六年二月二十四日に神戸港に着いている。続く第二回の三十九人は、九六年一月二十日にグァドループを出発。米太郎はその一人だった。

 グァドループへは移民保護規則によって日本吉佐から三人の監督が派遣されていた。移民たちは、いざとなれば数に頼んで行動もできる。しかし、監督という特権を行使できる立場にありながらも圧倒的少数者という閉塞状態にあった彼らは、逆に「恐怖」の日々を送っていたのかもしれない。そうした憤懣ふんまんもあったのだろう、帰還を前にした移民たちに、監督の一人はこういい放った。

汝等なんじら該船がいせん(この船)に乗じ帰国すと思ふべからず、またさら遠島えんとうへ船送し一層いっそうの苦役をらしむるものなり」

 その後、米太郎たちは、マルチニーク、マルセイユ、コロンボ、シンガポールを経て神戸に向かう。しかし、シンガポールを前に彼はピストル自殺を図っている。そのため、彼だけがシンガポールに上陸、治療後、別便であとを追った。身を投げたのはそれから数日後のことだった。日本移民史上、移民先から移民が大量帰還あるいは転航したのはこれに限らず、ハワイ移民をはじめとしてペルー、グァテマラなど数例あるが、途中、自殺者を出したという例は記録にない。

 なぜ、米太郎は身投げしなければならなかったのか。神戸まであとわずか、年齢からいって郷里に妻子はいなかったかもしれない。しかし、ようやくかなった帰還である。その前に誰が死を選ぼうか。

「同人が右の挙動に出たる原因は、出稼地において種々不親切なる取扱を受け諸事契約のごとくならざりしより、今回帰朝と称する航海もまた真実のものならずして、かえって再び他の離島に移さるるものならんなどの憶測を下し、むしろ船中に於て死するのまされるにかずと決心したるにある」

 当時、シンガポールで領事をしていた藤田敏郎ふじたとしろうは報告している。

「更に遠島」

 疲れと不安に張りつめた米太郎の神経には、一監督のごとをそれと聞き流す余裕などなかった。

 言葉が人を殺す。さ晴らしにき捨てた冗語じょうごであれなんであれ、情況次第でまさに息の根を止める凶器にもなる。同じ日本人が、苦境にある同じ日本人を愚弄ぐろうし、さらに苦境に陥れる、それはなにもシベリア抑留に限ったことではない。

 監督の一人は士族の出自。大学南校から東京帝大に学んだあと、印刷局、文部省に出仕、会計担当の職員として第四高等中学、第三高等中学などに奉職、数学教員免許も持っていたという。移民監督に教育者が多かったのも移民史の一つの興味深い事実である。

 グァドループ移民四百九十人、うち帰還者四百十四人、死亡者六十七人。そして、行方不明者九人をそのままに、一九〇八年、日本吉佐は解散している。(1993年8月記)

↑戻る