暗殺

パンチョをねらった男

 メキシコ革命の最中さなか、一九一六年(大正五年)九月中旬、三人の日本人がチワワ日本人会の石川荘一いしかわしょういちのもとに逃げ込んできた。パンチョ・ビジャが「日本人皆殺し」を部下に命じたという。三人はチワワ北方の寒村クシビリアッチで雑貨商をしていた。

 いわゆるメキシコ革命は、一九一〇年十月のマデロによるディアス政権打倒のサン・ルイス・ポトシ宣言にはじまるとされる。だが、それは二十年を超える内乱の宣言でもあった。一一年一月、マデロは一時亡命していたアメリカからメキシコに戻り十一月に大統領となるが、翌年三月、チワワでオロスコが反乱。八月、マデロ配下のウエルタがそれを鎮圧するが、一三年二月、今度はウエルタが反乱、マデロは暗殺されウエルタが中央政府の実権を握る。日本の代理公使堀口九萬一ほりぐちくまいちがマデロの家族を公使館にかくまったのはこのときだった。

 それに対し、北東部コアウィラ州にはカランサ、北西部ソノラ州にはオブレゴン、北部中央チワワ州にはビジャがち、すでに一一年にアヤラ綱領を発表しマデロ政府に宣戦布告していた南部モレロス州のサパタと合わせて、メキシコは四勢力の乱立状態になった。日本から巡洋艦「出雲」が在留民保護のためとして派遣されたのは一三年十二月のことで、日本政府はウエルタに武器供与していたといわれている。

 その後、一四年六月、ビジャはサカテカスの戦闘でウエルタ軍を敗走させ、七月にはウエルタをスペイン亡命に追い込むが、八月には続いてメキシコ・シティーに入ったオブレゴンとカランサの協定でカランサが臨時大統領になり、ビジャとサパタは牽制けんせいされる。十月、オブレゴンはビジャに宣戦布告、翌一五年四月のセラヤの戦闘でビジャ軍は惨敗し、北部チワワに敗走した。そして十月、アメリカのウイルソンはカランサ政府を正統政府として承認、反カランサ勢力への武器輸出を禁止した。

 以後、窮地に立たされたビジャ軍はチワワ州北部と国境地帯でゲリラ化する。アメリカとの緊張関係を高め、カランサ勢力に圧力をかけようとしたのだった。そして一六年一月、国境の町シウダー・ファレス駅にアメリカ人の死体十六体を乗せた列車が送られてきた。ビジャ軍に殺されたUSスチールの技師たちだった。また、二月にはアメリカ西海岸の新聞王ハーストの農場がビジャ軍に襲撃されている。当時、北部を中心にメキシコのほぼ七分の一の土地がアメリカ人に所有されていた。三月にはエル・パソ郊外のコロンバスが襲撃・放火されるという事件も起きている。これに対し、ウイルソン政府はジョン・パーシングを指揮官とした一万人の軍隊を越境、南下させ、一カ月後には、チワワ州を制圧しドゥランゴ州境のパラルにまで進めた。そうした一進一退のなかで、ビジャは九月十六日にチワワ市を占領する。「皆殺し」を命じたクシビリアッチ攻略は、その数日前のことだった。

 

 事件は十数日前にさかのぼる。アメリカ軍からヒメネスを奪回したビジャは、さらに南西のパラルに向かっていた。石川荘一はメキシコ日本公使館への「陳情書」のなかでこうしるしている。

「ヴィヤ、ヒメネスを攻略しパラールにおもむく途中、る農園に休憩せしさい、ヴィヤの求めに応じ、じょうの好機をいっせずコーヒーに毒薬を混合してヴィヤに与え逃亡したり」

 かかわったのは藤田小太郎、鈴木徳太郎、條つとむ、佐藤温信あつのぶの四人だった。いずれも宮城県(それぞれ仙台市船町、刈田郡白石町、遠田郡沼部村、志田郡下伊場野村)生まれ、藤田、條、佐藤の三人は、一九〇六年、大陸殖民合資会社の第八回メキシコ移民としてオハケニャ耕地に、鈴木は同第九回移民としてコリマ鉄道に入っている。オハケニャはテワンテペック地峡ベラクルス州にあったアメリカ資本の砂糖耕地、コリマ鉄道は太平洋岸マンサニージョと中部高原第二の都市グァダラハラを結ぶ支線で、アメリカのハンプソン・エンド・スミス・カンパニーが建設を請け負い、日本人が工夫として入ったのはそのコリマ・ツスパン間六十八キロの工区だった。オアハケニャでは、二年の契約を終えたあと、共同で農地を手に入れ農園を開いた者もいたが、いずれも動乱のなかでゲリラの襲撃が重なって閉鎖。コリマ鉄道の方は重労働に耐えきれず数カ月で現地を離れる者もいたが、半年後には工事が完了して契約未満のまま全員解雇されている。

 條は数カ月でオハケニャを離れている。そしてチワワに流れ、一時、ラス・プロモサス鉱山にいたが一年あまりで切り上げ、チワワ市内に食料品店を経営。一方で一一年には北西鉄道のマタチ駅郊外のサン・ヘロニモに農場を開いていた。メキシコ人の大農園主アルベルト・チャベスから年間借地料六千ペソで借り受けた四千三百平方キロという広大な土地に棉花を栽培、サン・ヘロニモの住民のほとんどはかれの農場の労働者だったという。ところが翌一二年、マデロに反旗をひるがえしたオロスコ軍に襲撃され、農場経営を中断せざるを得なくなっている。オロスコは一時チワワ全州を勢力下におさめ、南のドゥランゴ州まで軍を進めたが、数カ月後にはマデロが派遣したウエルタの反撃にあって北に敗走を続ける。そのとき、退路として選んだのが比較的物資の豊富だった北西鉄道沿いのルートだった。

 サン・ヘロニモにオロスコ配下のカスタニェダがひきいる五百人の一隊が現われたのは七月十三日のことだった。のちに同地を視察した外務書記生荒井金太あらいきんたはこう報告している。

「叛軍は七月十三日同地に到着し、滞在すること三日にわたりしが、最初の一日は左程さほど乱暴をあえてすることなく、ただ家宅を捜索し金銭を挑発し、また糧食を要求したるに過ぎざりしが、二日目に至りては家畜を乱殺し、食糧店を荒し店員(日本人)を強迫してことごとその商品を強奪せり。ほ其夜に至りては村内の小作人及耕地労働者を家外にしばり付け、其妻女の老若を問はず悉くこれ強姦ごうかんせりとふ」

 チャベスはディアス政権の共有地分離政策のなかで所有地を拡大してきた新興地主勢力の一人だった。他の地主たちもそうだったが、革命勢力の攻撃の標的まとになり土地を荒らされることを恐れたかれらは、革命軍の攻撃からは比較的安全と見られていた日本人に土地を貸与することで難を避けようとしていたのだった。荒井はこう続けている。

「数年間は此の地方に暴徒の出没するを見越し、早くも其土地を七年契約にて日本人に貸し付け、日本人をして土地の管理人同様たらしむると同時に外国人たるの権利を利用して、おのが土地の安全とまた損害を受けたる場合に日本人の名を以て賠償の要求をさんとはかりたるもののごとし」

 このとき條は、略奪された物品の代償としてカスタニェダから一万七七一三ペソの領収書を受け取っている。のちにカランサ政府は賠償委員会をもうけ各国の請求に応じているが、それには確たる証人が必要だった。

 他の三人の足どりについては明らかでない。おそらく、北部を転々としたあと、北西鉄道沿線に生業なりわいを見つけていたのだろう。沿線にはかれらと同じ宮城県出身者が多かった。ほとんどが大陸殖民によって送り込まれた移民者だった。

 

 事件のあと、藤田と條はエル・パソに、佐藤はシカゴに逃げた。一人残った鈴木は、のちにチワワに現われ、日本人会の問いに答えてこう語ったという。

「藤田は、米軍、墨国メキシコに入りてより食料品等を売却し居りしが、佐藤、條の両人がヴィヤに接近し得るを利用して米軍の間諜かんちょうとなし、共に事をはかりし」「條、佐藤の両人はヴィヤとの旧交と信用をもって常に彼れの身辺を去らず。ひそかにヴィヤの挙動を詳細に藤田等に報知し、さらに米軍に通知せり」

 鈴木はチワワ市南西のボルハで雑貨商をしていたこともあってあたりの地理に詳しく、逃亡の案内人になっただけだった。

 條は農場を荒らされたオロスコ軍にこそ恨みはあったが、ビジャに対するそれはない。むしろ條は、ビジャのコシネロ(コック)をしていたともいわれるほど親しい仲だった。だからこそ藤田は條を共謀者に選んだのだった。藤田は間接的にアメリカ軍から指示を受けていたと見ていいだろう。動乱にあってはそれもまた生きるための手段だった。

 ともかく事件は未遂に終わった。「毒入り」コーヒーは條が出したというが、ビジャは飲まず、代わりに農場主が死んだ。そして噂された「日本人皆殺し」もなかった。

 だが、それで終わっていない。翌一七年四月六日のことだった。條のサン・ヘロニモの農場にビジャ軍の一隊が現われ、関根竹三郎たけさぶろう(栃木県下都賀郡皆川村)三神篠三郎みかみしのさぶろう(宮城県遠田郡大貫村)、渋谷伝太郎でんたろう(福島県伊達郡伊達崎村)の三人が射殺されるという事件が起きている。当時、アメリカ西海岸で発行されていた日本語新聞『新世界』は、三人は捕縛されたあと、ビジャのいる本営に引き立てられ、即時射殺されたと伝えている。また、農場にいた條の家族も危害を受けたという。

 渋谷は、一九〇七年、山口熊野ゆやが経営していた熊本移民合資会社の移民として北部炭坑のラス・エスペランサスに、関根も同年の東洋移民合資会社の移民としてラス・エスペランサスに、一方、三神は、一九〇六年、鈴木と同じ大陸殖民の第九回移民としてコリマ鉄道に入っている。その後、渋谷はシウダー・ファレスに移って医師になり、市立病院の院長をしていた。また、憲政軍大佐という肩書きを持っていてビジャとも親しかったという。当時、日本人移民のなかには、革命軍、政府軍を問わず、兵士になった者が少なくなかった。もちろん日露戦争に従軍した者もいたが、ただロシアを負かした日本人というだけで、いきなり尉官クラスにく者もいた。関根は條の農場でコシネロをしていたが、よく訪ねてきたビジャはかれの料理しか口にしなかったという。

 それほどまで親しかった三人を、なぜ、ビジャは射殺したのか。それをただした渋谷に向かってこう言い放ったという。

汝等なんじらに罪はなけれど、汝等の同胞が悪事をなすがゆえなり」

 報復であり、見せしめだった。だが、どうして事件から半年以上を経てのことだったのか。すでに二月、アメリカ軍はメキシコから撤退していた。ヨーロッパ戦線に兵力を投入しなければならなかったからで、そしてメキシコではカランサが一カ月後に迫った大統領選にそなえて着々と地盤を固めつつあった。大勢たいせいはカランサとオブレゴンに移り、ビジャの活動の場はなくなっていた。

 その後の藤田、鈴木、佐藤の足どりはわからない。ただ、一人、條は仲間数人と北墨ほくぼく鉱業株式会社を設立、さらにサント・ドミンゴ鉱業会社も設立し、一九二〇年代後半のメキシコ日本人社会で十指に入る「成功者」になっている。

 北部に限らない、南部でのマデロ派とサパタ派の対立抗争も含めて、動乱のなかで命を落とした日本人は、数少ない記録をたどるだけでも百人は超えている。だが、同じ日本人の身代わりになって殺害されたという話はほかに知らない。

 一方、ビジャはオブレゴン政府から農場を与えられ、今度は自ら農園主となって革命の舞台から退しりぞく。そして二三年七月に暗殺されている。背後にはオブレゴンの後継となるカイエスがいたと日本人移民は噂した。(1988年6月/1993年9月記)

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