途絶えた移民

 歴史に、もし……、は許されないが、それでも日本による半島の植民統治、併合がなかったなら、ハワイをはじめアメリカ西海岸には、日本人社会をはるかに越える韓国人社会が築き上げられていたかもしれない。

 メキシコは、一八二一年のコルドバ条約によってスペインから正式に独立した。と同時にユカタンも独立を宣言、二三年、メキシコと連邦を形成することになる。だが、四一年に分離、独立を宣言したため、メキシコ中央政府との間に紛争が起こり、さらに四七年から七年間にわたって各地でマヤ諸族の反乱が続く。そうした混乱のなかで数十万のマヤ族が南東部のジャングル地帯に移動、また政府軍との戦闘もあってユカタン北部の人口は激減、人口密度はわずか九人になったという。打撃をこうむったのはメリダを中心としたユカタン北部のエネケン(麻)耕地だった。

 まず、一八九七年にイタリアから六十人が最初の外国人労働者として導入されている。だが、すべて数週間で耕地を離脱。続いてカナリア諸島から五十家族が導入されたが、もともと漁民であったために失敗。ついで入ったスペインからの移民は厳しい労働によくえたが、蓄えができるとすぐにメリダに出て商業にいた。そこで目を向けられたのが中国人だった。耕地主たちは中国に代理人を派遣、移民募集にあたらせた。ジョン・G・マイヤースもその一人で、かれ自身ドイツからの移民だった。

 かれは香港と広東で募集をかけた。だが、思わしくなかったため、帰途、日本に立ち寄って日本人移民の送出を外務省に打診した。一九〇二年六月のことだった。

 条件は、家族同行で渡航費は耕地主負担、家屋無償貸与、薪炭しんたん無償、週六日就労、一日八時間労働で、賃金はエネケン二千五百葉刈り取りに対して七八センタボスというものだった。四年後のオハケーニャ耕地での条件と比べれば日給はほぼ半分だった。加えて、マイヤースは日本の移民状況を理解していなかった。移民会社を通さない外務省との直接契約を希望したという。当時は、外務省の認可を受けた移民会社が移民を取り扱う「私約移民」の時代だった。もちろん外務省は拒否。そこでかれは韓国に注目、その仲介を東洋移民合資会社に依頼したのだった。だが、同社は渋ったため大陸殖民合資会社に話を持ち込んでいる。いや、逆に、韓国に目を向けさせたのは大陸殖民の方だったかもしれない。

 といっても、移民保護法上、日本の移民会社は日本人移民しか取り扱うことはできない。そこで大陸殖民はソウルに代理店を設け、大庭貫一おおばかんいちを代理人として募集にあたらせた。のちに海外興業株式会社を設立、ブラジルに大量の移民を送り込むことになる井上雅二まさじ(当時、韓国政府顧問付財務官)もこの募集に深く関与している。ただ、かれらが直接募集にあたったのではなく、たとえば木浦モッポでは商業会議所の理事をしていた日本人谷垣嘉市かいちを代理人に、そして問屋をしていた韓国人数人を仲介にあたらせている。仲介料は移民一組に対し三円前後。そうしてソウル、仁川インチョン、木浦、釜山プサンなどを中心に募集要項を配布、移民をつのった。一九〇四年暮れのことだった。

「北米墨西哥メキシコ国は合衆国と毘連ひれんする著名の文明なる富国にして風土極めて佳良かりょうにして悪疫なく、世界の楽土として世人の良く知るところなり。其国富者多く貧者少なく工人はなはだ貴きを以て日本及清国人が単身あるいは家族をともなひ渡墨し利益を収むる者多く、韓国人も同地に居住すれば安全に利益を得べく、韓国墨国間に条約の締結なきも最恵国にてことごとく利益を均霑きんてんすることを(略)勤労すれば必らず厚利をべきなり」

 要項は冒頭にうたいあげるが、契約の内容は出鱈目ばかり。たとえば賃金について、一日一・三ペソから一・五ペソとしているが、マイヤースが正式に提示したのはエネケン二千葉の刈り取りに対して〇・七二ペソで、また、五年契約満了時に支給されるという百ペソの賞与もマイヤースとの契約には見られない。

 だが、ともあれ、ソウル、開城ケソン、仁川、平壌、元山ウォンサン、木浦、釜山、大邱テグ慶州キョンジュ馬山マサンなど各地から二百五十七家族のほか単独移民百九十六人、計千三十三人が集まった。大半はソウル(四百五十四人)、仁川(二百二十三人)と釜山(七十三人)、木浦(五十五人)からの応募者で、仁川領事加藤東四郎の報告によれば、「小農、無頼ぶらい乞食こじき等にして、従来一度開港場もしくは海外の空気を吸ひたることある者あるいはクリスト教の感化を受けたる者」が多かったという。そして、一九〇五年四月四日、大陸殖民が仕立てたイギリス船イルフォド号でメキシコに向かっている。

 ところが、その出航を待っていたとばかり、翌四月五日、韓国政府は韓国人の移民としての海外渡航を全面的に禁止する。それ以前、韓国からの海外移民は、たとえばハワイにはアメリカ人デシュラーが経営する東西開発会社によって移民が送られていた。その数、一九〇三年に千百十八人、一九〇四年に三千九百六十五人。それに対し、日本人はそれぞれ六千六百二十五人、五千五百四十八人。二、三年のうちに追い越される勢いだった。そうしたなか、大陸殖民の日向ひなた輝武てるたけは熊本移民合資の山口熊野ゆやや森岡商会の森岡しんとともに、韓国移民の禁止を日本の外務省に要求していた。その「稟請書りんせいしょ」はこう述べる。

「本邦移民の生活を破壊し我帝国の公益に多大なる障碍しょうがいきたすべきものは韓国移民の渡航者にこれれありそうろう。韓国移民は数年前より之を試み、昨年に至り其の歩を進め、本邦の制限渡航に対し彼れは無制限に之を輸送し、我移民の員数を凌駕りょうがし、布哇はわいける需用供給の権衡けんこうを失ひ、其結果労金競争の漸次ぜんじ低落を来し雇主の待遇に変化を来せり。けだし韓国人はごうも衛生教育の資を要せず。わずかに衣食をもって足れりとなすにり、労金の高低にては到底本邦人の競争し得べきものにあらず」

 ところが、九月にポーツマスでロシアとの講和条約が成立し、十一月に韓国との間に第二次日韓協約が結ばれると情況がちがってきた。日本政府の代表としてソウルに統監が置かれ、日本が韓国の外交権も握るようになったため、移民の取り扱いも日本政府の管轄下に入ることになった。すると、日向、森岡らは、「稟請書」での要求とは逆に、ソウルにそれぞれ大韓殖民合資会社、韓国移民合資会社を設立、韓国移民のメキシコ送出をはかる。後者には、あろう事か、かつてマリア・ルス号事件(一八七二年)で中国人労働者の売買を摘発、弾劾だんがいした大江おおえたく(当時、神奈川県参事)も役員の一人として名を連ねていた。そして日本政府は韓国政府に対し移民保護法の制定を迫り、翌一九〇六年七月、同法は発布されている。移民保護とはいうものの、それは日本政府による完全な渡航統制でもあった。

 一方、ユカタンへの韓国移民一行は、太平洋を横断、一九〇五年五月九日サリナ・クルスに入港、テワンテペック鉄道で大西洋側のコアツァコアルコスに出て、再び船で同月十五日、ユカタン半島先端の港町プログレッソに上陸、、チョチョブ、ステッペン、ウンカナブ、ヤスチェなど二十二の耕地に配分されている。

 だが、かれらの導入に対し、雇主側は一人につき渡航費と手数料合わせて約二百ペソの費用を負担していたため、その逃亡に対する警戒は厳重を極めた。ヤスチェ、ウンカナブなどの耕地では就労以来一度も耕地外への外出は許されず、外部との面会も禁じられていたという。

 住居として、家族移民に対しては家屋一戸が与えられたが、それも五×九メートル四方を土塀で仕切り、屋根は椰子やし葉葺き、土間はセメントのままという粗末な木造小屋で、二×四メートルの寝室に家族四、五人が寝起きしていた。そして、周囲に与えられた五百平方メートルばかりの土地に野菜を栽培、耕地主から配給された豚、鶏、七面鳥などの家畜を飼っていた。自家用にしたり、他の労働者に売って小銭を稼いだのだった。

 主食の玉蜀黍とうもろこしは耕地主から配給されたが、十分でなかったため、不足分は耕地内の店舗から自費で購入しなければならなかった。また、そうした食事に慣れない者はメリダにあった中国人商店から魚介類を買って食べた。といってもごく一部の者だけで、多くは粗食にえていた。

 耕地での労働にはマイヤースの契約条件にも見られるように、エネケンの栽培と伐採のほか、耕地内外の道路の補修や薪炭しんたん用の木材の伐採などもあったが、かれらのほとんどはエネケン伐採だけだった。賃金は契約では千本当たり〇・三六ペソ、それ以上については千本につき〇・四ペソというものだったが、実際には一人一日二千本以上を伐採することは困難だったから、日給も〇・七ペソから〇・八ペソ止まりだったという。

 そんな情況だから、到着後まもなくかれらは耕地主に対し契約条件や環境の改善を要求している。だが、通訳はただ一人だったうえ、耕地が二十カ所以上にも分散していたため、一年ばかりは紛争が絶えなかった。おまけに通訳は耕地主に買収されていたから、交渉は不利になるばかりだった。

 それでもかれらはよく堪えた。一九一〇年の契約満了直前の在留者数が七百八十七人。これは、のちの日本人移民の場合と比較すればかなりの残留率だった。とはいえ、かれらも契約満了後は、ほとんどが耕地を去っている。多くはメリダに出て商業についたというが、さらに南のカンペチェ、ベラクルス、そして、メキシコ・シティーに流れた者、また、海の向こうのキューバをめざした者もいた。ハバナの西方マタンサスに韓国人社会を築いたのはかれらだった。

 その後、一九一六年の日本公使館の調査によれば、当時、メキシコの韓国人在留者総数は男性七百六十六人、女性二百十九人の計九百八十五人、その戸数二百五十。そして、韓国で移民保護法が制定されたあと、日向の大韓殖民合資会社、森岡の韓国移民合資会社も含め、一九〇五年のユカタン移民以後、韓国人を移民として韓国から送り出したとする記録はない。(1988年6月/1994年4月記)

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