日米角遂

在墨邦人自衛計画

 ウエルタ反乱後のメキシコは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツに日本も加わり、少なくともメキシコ・シティーに関しては分割支配される危機にあった。ただ、そうされずにすんだのは、皮肉にもメキシコがあまりにもアメリカに近すぎたからだった。

 ウエルタ反乱の背後には、不安定なマデロ政権に代わる強力な軍事政権の出現を望んでいたアメリカ資本とそれと通じたアメリカ大使ヘンリー・レーン・ウィルソンの暗躍があった。ウィルソンの関係していたアメリカ資本の鉄鋼会社はマデロ一族の所有していた鉄鋼会社と競合関係にあったといわれる。だが、その後、大統領がタフトからウィルソンに代わったこともあってアメリカ政府はウエルタ政権を承認しなかった。そのためウエルタはイギリス、フランス、日本に働きかけ、承認と経済援助の獲得に奔走した。安達あだち峯一郎みねいちろうが特命全権公使としてメキシコに赴任したのはそうした一九一三年七月のことだった。

 一方、北部ではビジャ、カランサ、オブレゴンが、また、南部ではサパタがウエルタ打倒に立ち上がり、ビジャは十月には北部の要衝トレオンを陥落させ、十一月にはシウダー・ファレスを奪回してチワワ州を勢力下においていた。一方、カランサは八月にオブレゴンと手を組みオブレゴンの本拠ソノラ州に臨時政府をおいていた。そして南部ではサパタがモレロス州を中心に勢力を広げ、メキシコ・シティーに迫ろうとしていた。ウエルタ政権の実質支配区域は、早くも一九一三年末にはトレオン以南の北部地域と首都周辺に限られるまでに追い込まれていた。

 日本から巡洋艦「出雲」が派遣されたのはそうしたときだった。アメリカはすでに四月にメキシコ湾岸のベラクルスに艦隊を派遣、市内を占領していた。タンピコ周辺の石油権益の保護という名目である。一方、イギリスは、アメリカ同様、テワンテペック地峡に石油利権と鉄道利権を握っていたが、ヨーロッパ戦線が緊迫していたため軍隊を派遣できる情況にはなかった。

 出雲は十二月二十二日、太平洋岸のマンサニージョに入港。派遣は安達が強く要請したもので、日本政府は消極的だったといわれるが、はたしてどうだったか、在留民保護が名目だったが、その背後に悪化しはじめていた日米関係が色濃く反映していたことはいなめない。

 少しのちのことだが、翌一九一四年四月十八日付で杉村ドイツ大使は「テークリッヘルンドシャウ」紙に報道された「メキシコ、アメリカ、日本」と題した記事を、「対墨国日米利害関係を詳論したるものにして注目に値するもの」として抄訳を外務大臣加藤高明たかあきに書き送っているが、その中に「日米戦争の場合にける両国に対する墨国の価値」とした次のような一節が見られる。

「日米両国の墨西哥メキシコ両交戦団体に与へ居る同情の表示は言論新聞によりなされたるとまた金銭武器の供給によりてなされたるとを問はず、ある意味において日米将来の葛藤の前提と見るをべし。し日本にして墨国歴史中に決定的の感化を行ふことをば、未来の対米戦争に際し墨国に於ける確実なる軍事根拠地を有するを以て絶大なる利益を受くるものとふべし。日本にして米国と事を構ふる前、軍事上の教育完全なる数万、数十万の労働者を墨国に送り置く時は少くとも開戦の当初に於て非常に堅固なる地位を護持することを得べし。ゆえ此際このさい、米国のめにはかるに墨国現時の動乱を自己の利益に帰するがごとく導くか、しくば巴奈馬パナマ運河開通するまで日本に攻勢を取るの機会を与へざるにあり。米国艦隊はその数に於て日本艦隊に勝るもこれもってしては開戦の暁に於ける勝敗はいまだ俄に逆賭し得べからず」

 墨西哥両交戦団体とはビジャやカランサなどの北部憲政軍とウエルタ軍とのことで、アメリカは憲政軍に、日本はウエルタ軍に武器を供与しているとされていた。そうした両国のメキシコ動乱への関与は、将来起こり得る日米戦争の前兆であり、その場合、戦況を有利に運ぶことができるかどうかは、メキシコにおける日本とアメリカの勢力の伸張にかかっているというのだった。出雲の派遣は少なくともドイツではこうした印象でとらえられていた。

 出雲は、マンサニージョで海軍少佐森電三でんぞうを指揮官とした数十人を上陸させたあと、メキシコ太平洋沿岸を北行、各地で乗組員を上陸させている。日本人移民の現状調査だったというが、それだけではなかっただろう。

 一方、森電三の分隊は日本公使館護衛の名目でそのままメキシコ・シティーに入り、一カ月後には艦長森山慶三郎けいざぶろうの一隊もそれに続き、ウエルタの大歓迎を受け、武器・資金援助の密約が交わされたという。背後にあったのは、加藤高明たかあきの三菱に対抗していた三井だった。日露戦争時には軍部から軍需品調達に独占的地位を保障されているが、メキシコには石油開発にからんだ経済進出をねらっていた。「在墨邦人自衛計画案」なるものが作成されたのはそうした一九一三年十二月のことだった。まとめたのは森電三で、極秘資料として五十部が謄写版印刷されているが、冒頭、「要旨」としてこう述べている。

「一、本計画は一九一三年十二月八日、在墨市メキシコシティ列国居留民代表者(日、英、独、仏、白、墺)の決議にもとずき当地の情勢危急にして自衛を必須とする場合に当り邦人受持区域の警戒ならびに防衛に関する綱領を定む。二、警衛に従事すべき人員は墨市在留邦人より成る義勇隊をもって之につ。隊員警急の報に接せばすみやかに帝国公使館に集合し指揮官の令に従て警戒しくば防衛配備にくものとす。ただし指揮官の特令あるにあらざれば武器の使用を禁ず。この場合にける避難邦人はず公使館前の避難家屋付近に集合して後命を待つものとす。三、若し他部隊の応援を受けたる場合には指揮官は応援隊指揮官と協議の上本計画の要旨に従ひ機宜きぎの処置をとるものとす」

 在留者の保護、避難というが、実際には在留者を動員して公館を革命の混乱から防衛するためのもので、また、「他部隊」とは何なのか、もし日本からの派遣部隊を指すものとすれば、一種、租界そかいを想定したものといえる。

在墨邦人自衛計画

在墨邦人自衛計画案:
「在墨邦人自衛計画案」にあるメキシコ・シティのローマ地区の概略図。日本人移民から構成される義勇隊の配備位置が示されている。

 当時、日本公使館は現在のローマ地区オリサバ街にあった。チャプルテペック通りとインスルヘンテス通りとの交差点を少し東に進み南に下った広場、いまはプラサ・リオ・デ・ジャネイロと呼ばれている広場の南西の角で、日本の防衛受持区域はこの広場を中心として、北はチャプルテペック通り、西はインスルヘンテス通り、南はアルバロ・オブレゴン通り、東はメリダ通りと一部クアウテモク通りに至る一帯だった。北に隣接した区域はイギリス、南はドイツの防衛区域になっていた。

 義勇隊の編成は指揮官クラスの十四人を含めた九十三人という小規模なものだったが、司令部の下に銃隊と付属隊(衛生隊、給養隊)を置くなどかなり整然とまとめられ、司令部員には小野寺寿雄としお、林温吉やすきち、須沢豊一郎、清水哉吉やきち、小林直太郎なおたろうなど、日本企業や公使館と関係の深かった人物があげられている。小野寺はのちにカランサ政府に接近し日本からの武器輸出の仲介役となった人物で、三井の代理人をしていた。林は横浜の絹織物商社加藤合名会社のメキシコ支店の支配人。また、清水はその卸部の主任だった。榎本殖民の監督としてメキシコに入った小林は、古くから東洋移民合資や日本公使館と密接なつながりがあり、当時はメキシコ・シティーにいて、東洋汽船の代理人をしていた。

 防衛体制の実際として、市内各地区には代表者として「通信がかり」を置き、一般在留者はこの「通信掛」に異変を通報し、それを「通信掛」が公使館に連絡、その判断と指令を待って、非常時には義勇隊員が公使館に参集して防衛にあたることになっていた。中枢はあくまでも公使館で、おそらく駐在武官が最高指揮官となるはずのものだった。十人で一隊を編成、三隊が「当直」として警戒にあたり、他は公使館とその東向いの避難場所の一つピジョン・ハウスで待機することになっていた。警戒区域は昼間は「受持区域」全域、夜間は公使館の周囲四ブロックである。

 こうした動きのなか、フランシスコ・レオン・デ・ラ・バラは特命大使として日本に派遣されている。表向きは三年前に開催された独立百周年記念式典への日本代表団派遣に対する答礼だった。すでに半年前、ディアス大統領の弟であるフェリックス・ディアスの派遣が決まっていたが、日本政府の反対で中止されていた。日墨の親密化が日米関係を悪化させることを警戒したからで、デ・ラ・バラは三井と接触、武器輸出と引き換えに石油利権の譲渡などを取り決めたという。実際、メキシコへの武器輸出は、明くる一九一四年はじめに行なわれている。だが、ロサンゼルスでアメリカ政府に差し押さえられたためウエルタ軍には届かず、その後、アメリカ政府がカランサ政府を承認したあと一九一六年にカランサ軍の手にわたっている。

 出雲はメキシコ太平洋岸からアメリカのサンディエゴまでの一帯を数度にわたって巡回、ビジャやカランサ勢力とも接触し、八月、サンディエゴに入港、また、翌一九一五年一月にはバハ・カリフォルニア半島中部のバイア・トルトゥガス(タートル湾)で座礁した「浅間」の救出にもあたっている。しかし、それ以外はほとんどマンサニージョ港に投錨し、混乱のメキシコを遠望していた。

 安達も何度か往復している。一度は一九一四年六月のこと。当時、メキシコ・シティーからはグァダラハラを経てコリマ鉄道を使うが、メキシコ・シティーからグァダラハラまでは十六時間、それから先マンサニージョまでは十時間の行程で、たいていはグァダラハラに一泊して二日はかかる。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの場合は、大西洋岸のベラクルスから十二、三時間もあればメキシコ・シティーに入ることができることを考えれば、日本の場合はまったく不利だった。また、当時、グァダラハラとマンサニージョとの間は憲政軍の支配下にあり、複雑に分派したゲリラが出没していたからなおのこと。このときの安達一行も、帰途、コリマの北のサユラ付近で憲政派のゲリラに列車が襲撃され、サユラのホテルで数日にわたって足止めを食らっている。それを救出しメキシコ・シティーまで護衛したのが森を隊長とした十三人の特別派遣隊だった。森はこのときの詳細な行動録を「特別派遣隊報告」として遺しているが、「救出」というのは名目にすぎず、実際は、首都非常時を想定した実地調査だった。

「在墨邦人自衛計画」とははたして何をねらったものだったのか。直接、租界を意図したものではなかったとはいえ、対米関係の中で日本軍部はメキシコをかなり注視していたことが読みとれる。対米戦争時の橋頭堡きょうとうほと見ていたのかどうか。だが、皮肉にも、このとき日本公使館に運び込まれた武器の一部が、のちに日米開戦時に発見され、在留日本人の逮捕、収容の口実になっている。

 ともあれ、その後、ビジャ軍の攻撃によって北部の要衝サカテカスが陥落、浮足立ったウエルタは、七月、スペインに亡命。八月、オブレゴンに続いてメキシコ・シティーに入ったカランサが臨時大統領に就任。そして翌一九一五年十月、アメリカはカランサ政府を承認する。それは、メキシコ分割の動きに終止符を打つものだったが、一方で、メキシコでのアメリカ資本の伸張と支配強化の宣言でもあった。(1988年6月/1994年5月記)

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