メキシコ移民前夜

 日本からメキシコへの移民送出、その外務省を通じての最初の交渉が行なわれたのは一八八九年のことだった。メキシコの太平洋運輸会社の代理人をしていたヴォーゲルが、通商航路の開設と日本人移民の導入を外務省にもちかけている。その前年、ワシントンで日墨修好通商条約が結ばれたことがきっかけになっていた。ただ、このときの申請は、通商条約の締結からまだ日が浅かったことや、両国間に特別な移民条約が結ばれていないことを理由に日本政府は許可しなかった。

 メキシコ側が必要としていたのは大西洋と太平洋をつなぐテワンテペック鉄道建設のための労働力だった。もちろん実際の建設にあたったのはアメリカ資本で、すでにレセップスによるパナマ運河計画が難航しながらも進んでいたが、それ以前からアメリカは大西洋と太平洋を結ぶ運河建設を構想していて、テワンテペック・ルートは、コロンビアのダリエン・ルート、ニカラグァのサンファン・ルートとともにパナマ・ルートの対抗候補にあがったこともあった。パナマ・ルートに比べれば距離は長いが、平坦な上に目立ったジャングルもない。ゴールド・ラッシュのときには、厳しいロッキー越えを避けた一発野郎の多くは、このテワンテペック地峡を越えてカリフォルニアに向かっている。

 テワンテペック鉄道の建設には、すでに同じ太平洋運輸会社の代理人サルバドール・マロが設立した移民会社の仲介で千二百人前後の中国人が導入されていた。ただ、かれらのほとんどは、一八九一年に当のマロの会社が倒産したため、五年の契約満了以前に解雇されている。その結果、かれらは、一八八〇年代の北部を中心とした鉄道建設ラッシュのときに、アメリカ資本によって導入された仲間同様、メキシコの中国人社会の礎を築くことになる。

 次に交渉してきたのはゼームスという男で、北部ソノラ州のニッケル鉱山への移民導入計画だった。これはなぜか立ち消えになったが、同時にかれは、同じボレオ銅山会社が経営するバハ・カリフォルニア州中部のサンタ・ロサリア銅山への移民導入を日本吉佐きっさ移民合名会社にもちかけた。

 ボレオ銅山会社との間に仮契約が結ばれたのは一八九二年二月のことだった。その仮契約「日本吉佐移民会社とボレヲー会社との契約証」によれば、導入予定数は五百人、契約期間は三年、一日十時間労働で、賃金は一カ月十五ドルから二十ドル、食費やメキシコのグァイマス港到着後、対岸のサンタ・ロサリアまでの交通費などはボレオ側の負担だった。

 北部の炭坑ラス・エスペランサスや南部のコリマ鉄道、オハケニャ耕地など、その後のメキシコ移民の契約パターンと比較して、注意を引くのは、契約満了者のうち、帰国を希望する者には、その帰国渡航費の半額として五十ドルを支給し、一方、引き続いて残留を希望する者には、対岸のソノラ州あるいはその南のシナロア州の未開拓地十ヘクタールとその営農資金として百ドルを支給するという条項が見られることで、一見、ひじょうに好条件のように受け取れるが、ほんとうのところはどうだったのか。

 前年に開設したばかりの日本領事館に領事代理として赴任していた藤田敏郎の報告によれば、まず、契約満期者に対して百ドルを支給するというのは、実際には、雇主側が移民の賃金から毎月二・六ドルを差し引いたものを契約満了時に払い戻すだけのものだった。また、十ヘクタールの土地支給については、メキシコでは、移民を導入し、のちにその移民が定住を希望する場合、移民会社は移民一家族に対し五ヘクタール以上の土地を支給しなければならないことが法律的に義務づけられていて、さらに、ソノラ州の場合、未開拓地の土地価格は一ヘクタール当たりわずか一ドルに過ぎず、十ヘクタールの支給といっても雇主にとってはそれほどの負担とはならないものだった。

 それよりも問題なのは賃金だった。一カ月十五ドルから二十ドルというのは、日給に換算すれば〇・六五ドル前後で、メキシコではペオンのそれに当たる。炭坑労働者の場合、子どもでも〇・五ドル、熟練労働者となると一・二五ドルというのが相場であることからすればかなり条件の悪いものだった。また、メキシコの鉱山会社は、たとえ大資本であっても倒産することが多く、ボレオ銅山会社もロスチャイルドの資本参加があるとはいえ、倒産の危険性は十分にあり、このような条件の悪いボレオ移民を許可すれば、ほかの鉱山会社や砂糖耕地会社からも日本人移民の導入申し込みが殺到する恐れがあるとして、次のように結論している。

「最初において綿密周到の注意を加ふること大切と存候ぞんじそうろうもし日本人怠惰不紀律なる土人同様の給料を受け、単に他人の使用にあまんずるの前例をしめし候へば行末不可言不利益をこうむる事と存候。(略)支那人の近年当国に於て軽侮けいぶを受け候は単にマロにあざむかれたるゆえのみに無之これなく所謂いわゆる給料のみの目的を以て渡航いた次第しだいききおよび候へば、日本人は当初よりその体面を不損ようこれ其永遠の利益を享有するの契約にあらざれば渡航御許可無之様せつに希望」

 メキシコ人はいうまでもなく中国人移民とも一線を画し、日本人移民が低賃金で雇用される前例をつくることを避けようというもので、また、先の契約書第十六条第九項には次のように規定されている。

「ボレヲ会社は日本移住民を就役するうちは無論、其他如何いかなる場合といえども、墨国にける懲役囚徒と混同せしめざるべし」

 労働に囚人が使われていたことを自ら暴露しているもので、のちの東洋移民合資会社による同じボレオ移民に見るようにかなり厳しい労働情況だったことがわかる。先の契約満了者に対する土地と百ドル支給というのも、穿うがった見方をすれば、一方でそれを満了する者がいないことを想定してのものだった。結局、外務省は藤田の数度にわたる報告をもとに、先のテワンテペック鉄道移民同様、このときのボレオ移民も許可しなかった。

 しかし、移民地としての対象からメキシコを排除してしまったわけではなかった。メキシコとの貿易の可能性をさぐるという名目で、領事館レベルで何度か移民地調査を行なっている。そうした背景があってこそ榎本武揚たけあきの殖民計画も生まれたわけで、東洋移民合資会社、大陸殖民合資会社、熊本移民会社による一九〇〇年代の大量移民の時代もはじまるのである。

 日本吉佐きっさ移民合名会社というのは、一八九二年、日本郵船社長の吉川泰次郎たいじろう秀英舎しゅうえいしゃの代表佐久間貞一ていいちによって設立されたもので、両者の仲介役となった榎本武揚は、九五年頃まではその経営にも深く関与していた。また、『日本の下層社会』で知られる横山源之助げんのすけは佐久間貞一と親しく、かなり援助も受けていたようで、晩年は社会労働問題の解決の一端を殖民に求め、実際、ブラジルにも渡っている。

 移民仲介については、この日本吉佐以前にも、横浜や神戸の、いわゆる移民宿やどが、主としてハワイ移民を対象に、渡航手続きや旅券取得の一部代行業務を行なうなど個人レベルでの移民業務を行なっていたが、組織的な移民会社としては、この日本吉佐が日本で最初のもので、前年の一八九一年には海外同志会の、また、同じ九二年には日本明治移民会社の設立が進められたが、いずれも未完に終わっている。

 ハワイへの元年組がんねんぐみ以降、この時期までに日本からの移民は、一八八三年のサースデー(木曜)島へのダイバーのあと、八五年からの、いわゆるハワイへの官約移民、そして、八七年のカナダへの漁業移民、八八年のオーストラリアのクインズランドへの砂糖耕地移民と、ハワイ移民のほかはいずれも小規模なものだったが、わずかずつであれ拡大していた。しかし、アメリカでは、すでに一八八二年に中国人移民に対する排斥法が成立し、八五年には契約移民の入国も禁止され、やがてそれが日本人移民にも及ぼうとしていた。

 日本吉佐は、吉川との共同事業とはいうものの、実際の移民業務のほとんどは佐久間が行なっていた。かつて国内的には、北海道への移民事業にも手を染めたことのあるかれである、日本郵船とタイアップしたのは、移民地拡大には船会社の協力が欠かせないと見たからだろう。一方、日本郵船側には、南米航路と太平洋航路の開拓という目論見もくろみがあった。

 日本吉佐は、新しい移民地として、まずブラジルをねらった。これには横山源之助の影響があったかもしれない。あるいは逆に、横山の方が佐久間に影響を受けたのかもしれない。ただ、日本吉佐によるブラジルへの最初の移民送出計画は契約問題がこじれたため失敗に終わっている。

 前後して、日本吉佐は、一八九二年にニューカレドニアのニッケル鉱山とクインズランドの砂糖耕地にそれぞれ最初の移民を送り出したあと、九四年にはフィジーと、すでに述べたがカリブの小島グァドループに砂糖耕地移民を送り出している。しかし、クィンズランド以外は現地での労働条件が悪かったため、ほとんどが数カ月で帰還。また、その後、九七年にはクィンズランドへの移民が禁止されたことから太平洋各地への送り出しはニューカレドニアに絞られることになるが、こうした日本吉佐によるニュー・カレドニア、クィンズランドでの移民の惨状が問題になり、移民保護法が制定されることにもなったのだった。

 その後、一八九八年までに設立された移民会社は、計画だけに終わったもの、あるいは短期間に廃業となったものも含めて、九三年に海外渡航株式会社、横浜移民合資会社、九四年に移民取扱人小倉さち、神戸渡航合資会社、横浜海外殖民合資会社、移民取扱人森岡しん(森岡商会)、九五年に大日本移民株式会社(廃止)、九六年に広島海外渡航株式会社、東京移民合資会社、移民取扱人椿本俊吉しゅんきち、鎮西移民株式会社、日本移民合資会社、東洋移民合資会社、移民取扱人小山雄太郎ゆうたろう、厚生移民株式会社、神戸郵船移民株式会社(廃止)、九七年に中国移民合資会社、九州移民株式会社、日本殖民株式会社、帝国移民合資会社、そして、九八年に熊本移民合資会社、帝国植民合資会社と、じつに二十二社の多きにのぼっている。

 このうち九六年に設立された東洋移民合資会社は日本吉佐が名称変更したもので、一九〇三年、中央移民会社を中心に中外殖民合資会社、東北移民合資会社、厚生移民株式会社など七社が合併して設立された大陸殖民合資会社や、森岡商会と並んで三大移民会社と呼ばれるようになる。東洋移民合資は、最初はニューカレドニアへの送り出しを一手にしていたが、その後、大陸殖民合資会社とともにメキシコ移民を取り扱うようになる。そして、この両者の参入によってメキシコへの大量移民の時代がはじまることになる。そのピークが一九〇六年だった。(1988年6月/1994年6月記)

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