もう一つの日本人殖民計画

 榎本武揚えのもとたけあきがどうしてチアパスという厳しい荒野に殖民地を開こうとしたのか理由わけがわからない。同じころ、もっと条件のいい北西部シナロア州でも、原野を開拓し約千人の日本人移民を導入するという計画があったからだ。進めたのは長沢鼎ながさわかなえ、のちにアメリカ西海岸で葡萄王と呼ばれるようになる人で、一九一七年の排日土地法によってその資産は接収されてしまうがワイナリーはアメリカ人の手に渡っていまも続いている。

 長沢が日本を離れたのは一八六五年四月十七日、薩摩藩が派遣したイギリス留学生十六人の一人としてだった。派遣を藩主島津忠義ただよしに建議したのは五代才助ごだいさいすけで、監督として同行した五代らも含めた十九人は、現在の串木野くしきのの少し北にある羽島はしま岬沖でイギリス船に乗り込んだ。密航だった。十六人の中には沢井鉄馬、野田仲平、出水泉蔵などがいた。それぞれ本名は森金之助、鮫島誠蔵せいぞう、寺島藤助とうすけ、のちの森有礼ありのり、鮫島尚信ひさのぶ、寺島宗則むねのりで、海外渡航が解禁されていなかったため、すべて変名を使い、脱藩者として処理されていた。

 五代才助は関研蔵けんぞうと名乗っていた。本名河内香蔵、のちに大久保利通としみちのバックアップで関西一の実業家にのし上がり、「孔子と釈迦が並んで説法してもその自信をくじくことができない」といわれた五代友厚ともあつだが、かれがその財力を築き上げるきっかけとなったのがメキシコ銀と日本の金との交換だった。日米修好通商条約によってメキシコ銀一ドルと日本の二朱金六枚が等価となったことから、これに眼をつけた外国商人の手を経て日本から金が大量に流出するが、そのとき五代は二朱金の買い占めに走ったのだった。

 長沢は最年少だった。本名は磯永彦輔いそながひこすけ。だが、のちのちまでもこのときの変名・長沢鼎を名乗り続けることになる。父は薩摩藩の儒学者で、その四男だった。

 鹿児島を発った一行は香港、シンガポール、ボンベイを経て、スエズ地峡を鉄路でアレキサンドリアに出たあと地中海を通り、五月にロンドンに入っている。そして一年後、十二人はヨーロッパを巡回して日本に戻ったが、森や鮫島ら六人はロンドンに残り、長沢は一人スコットランドに移ってハウスボーイになった。家庭に入り、学校に通わせてもらうことを条件に雑用に走り回る小僧だった。

 長沢をアメリカに向かわせることになったのは一八六七年にパリで開かれた万国博覧会だった。アメリカから見物にやってきたトマス・ハリスに、鮫島と森がアメリカへの渡航援助をう。そして長沢にも同行をすすめたのだった。こうして三人は二年あまりでイギリス滞在を切り上げ、ニューヨーク州のハリスの経営する葡萄園に入ることになった。

 その後、翌一八六八年に幕府の崩壊が近いことを知った森と鮫島は日本に戻るが、長沢はそのままハリスのもとにとどまり、七五年にはカリフォルニアに移るハリスに同行、サンフランシスコ郊外のソノマ郡サンタ・ローザのファウンテン・グローブに入った。大陸横断鉄道がユタ州プロモントリーで開通し、東部と西海岸が鉄道で結ばれるようになったのはわずか六年前のこと、西海岸は東部からの移民が群れをなしていた。

 ハリスの農場は四百エーカーに及ぶ広大なもので、大半を葡萄園として開拓したが、その後一八九一年にハリスが老齢による健康悪化でニューヨークに戻ったため、経営は長沢の手にゆだねられることになった。九五年前後までに中国人やイタリア人も導入、二千エーカーを超えるまでに農園を拡大しているが、このころからかれはメキシコに眼を向けるようになっている。

 当時のメキシコはディアス大統領の外資導入政策のもとで、北部ではアメリカ人の投資を見込んだ土地売却が盛んに行なわれていた。そうしたアメリカ人投資家を通じて、長沢はシナロア州ロス・モチス郊外に約五十万エーカーの土地の購入契約を州政府との間に結び、その資金をつのるために「墨西哥メキシコ西北せいほく会社」を設立、一八九七年七月、資金調達のために日本に戻った。

 帝国ホテルで事業説明会が開かれたのは七月から十月にかけてのころだっただろう。岩崎弥之助、岩崎久弥ひさや、渋沢栄一えいいち中上川なかがみがわ彦次郎ひこじろうら財界きっての大物たちとともに、大江たくと榎本武揚も顔を見せていた。この年の三月、チアパスへの榎本移民三十四人が出発しているが、七月には四人が現地を離れ、殖民地経営の失敗が明らかになりはじめていた。しかし、榎本はまだそのことを知らなかったのだろう。監督として同行した草鹿砥くさかど寅二とらじまでが業務を放棄して横浜に戻るのは十一月のことだった。

 長沢の計画とはどのようなものだったのか。このとき長沢が「覚書」として配布した「墨西哥西北会社ならびニ墨西哥西北部ノ発達」が残されているが、それによれば、おおむね次のようなものだった。

〈第一年度、一八九七年〉

 一、三万エーカーの土地を潅漑かんがい、うち約六千エーカーに砂糖黍さとうきびを栽培。

 二、トポロバンポ港に埠頭ふとうを建設、耕地との間を結ぶ鉄道を敷設ふせつ

 三、年間十二万ポンド生産可能な製糖所を建設。

 四、独自の銀行網を設立。

〈第二年度、一八九八年〉

 一、一日千五百トン生産可能な製糖所を建設。

 二、三万エーカーの土地の開墾、うち二万エーカーに砂糖黍を栽培。

 三、第一陣として五百人から七百五十人の日本人移民を導入。

〈第三年度、一八九九年〉

 一、潅漑設備の完工。

 二、日本人移民を含めた二万人を導入。

 トポロバンポというのはロス・モチス郊外の港町だが、当時はもちろん港湾施設も何もない小さな漁村に過ぎなかった。建設が予定されたのは、そこからロス・モチスにかけての原野、フエルテ川とシナロア川に挟まれたデルタ地帯だった。肥沃ひよくな土壌で、最終的には百万エーカーを開拓、そこに都市機能を持ち合わせた一大殖民地を建設するという遠大な計画だった。長沢はこう記している。

ひとりフエルテ、シナロア両河に介する土地をもってするもゆうに一百万の人口を支ふるにるべし。しこうしてその本国にけるよりもほ富裕の生計を営むをべきやひっせり。其茲そこに銀行を設け店舗を開き、商業、工業を興しついにトポロバンポ港に一市都を建設するの事業は、(略)同じ大陸の西岸に於て新美国アメリカの建設せられたるがごと此処ここは実に新日本を構成するの好機会を与ふるものとふべし。新日本一たびここに起らばただに其本国に対し強堅なる一根拠たるべきのみならず、また文明世界に其勢力を皇張するに於て一大要素たるべきものなり」

 美国というのはアメリカ合衆国のことで、ロッキーを越えた西海岸にカリフォルニアという新世界を築きつつあるアメリカに範をとり、海を隔てたメキシコに「新日本」を建設しようというのだった。もちろん、それは資金集めのための口上に過ぎない。実際に狙っていたのは、砂糖、棉花、玉蜀黍とうもろこしなどの日本と西海岸への輸出だった。

 このとき、長沢が手にしていたのは十二万エーカーに過ぎず、一大殖民地をつくるにはトポロバンポの後背地に最低三十万エーカー、そして殖民地そのものとしてさらに五十万エーカーを確保しなければならなかった。その費用を合わせて千万円としているが、これがいかに高額なものだったかは、その年(一八九七年)の日本の政府予算が歳入で約二億四千万円だったことと比較すれば明らかで、もちろんかれ自身、こうした大計画がすんなりいくとは考えていなかったにちがいない。おそらく、資金集めに一時帰国した長沢に会っていたのだろう、翌一八九八年、当時正金銀行の副頭取にあった高橋是清これきよは、ヨーロッパからアメリカを回遊しサンタ・ローザに長沢を訪ねているが、その高橋に長沢はこう語っているからだ(高橋是清著、上塚司編『高橋是清自伝』)

「私がこちらで作る葡萄酒やシャンペンは、すべてヨオロッパへ出す方針を取っている。そうして他の醸造家の仲間には入らずに経営している。アメリカ人の事業の経営ぶりを見ると、自分の一代ではとても完成しないような大仕事に着手し、その成功は自分の息子か孫などの時代に期待するというような遠大な考えをもって事業を起こすものが多い、これに反して日本人はどうも遠大の抱負経綸けいりんなく、己一代の内に出来上る事業でなければ仕事をしようとしない。これが日米両国人の気風のことなうところで、また事業の上に差等の起って来る所以ゆえんである」

 殖民計画に乗ってこなかった日本の財界への面当つらあてだろう。長沢にとって、ともかく必要だったのは、最終的な構想資金一千万円のうちの六分の一にも満たない百五十万円だった。殖民地建設のために最低限確保しておかなければならなかった三十万エーカーの土地購入資金の一部だった。

 しかし、日本の財界は冷たかった。榎本の計画は最初の墨国移住組合の場合で五万円、その後の日墨拓殖株式会社の場合でも二十万円前後のものだったことを考えれば、長沢のそれはあまりにも巨額に過ぎた。そして榎本の場合でも、実際にはその三分の一も集まらなかったことを考えれば財界が動かなかったのも当然のことだった。

 日清戦争直後のことで、農村では田畑の細分化とそれによる自作、小自作の転落が急激に進み、米価高騰のなかで農民騒動が頻発していた。しかし一方で、綿糸の輸出額が輸入額を上回るようになり、それが第二次産業の拡充に向けられ、日清戦争の軍事賠償金をもとにした八幡製鉄所の建設、鉄道網の拡張と国営化、造船業の本格的な始動など、半島植民と外征に向かって走りはじめていた。人口増加を支えていくには農業の拡大しかないが、限りがある日本は外に向かうしかないと考えていた長沢だったが、その計画が、あるいは半島での植民につながるものであったなら、いくらか耳を傾ける財界人もいたかも知れない。

 だが、長沢の方も、その後は何もなかったかのように計画を放棄してしまう。日本の財界に見放されたかれは、代わりに桑の苗を大量に購入、カリフォルニアに戻って養蚕をはじめた。これがのちに日本の絹織物の輸出をはばむことになるアメリカでの養蚕のはしりになるとは、もちろん長沢も知らず、皮肉なことだった。

 榎本はメキシコ西海岸各地に三度にわたって調査団を派遣しながら適地を見つけることができなかったというが、実際には長沢の計画に見られるように、メキシコ北西部には開拓地はいくらでもあった。長沢の計画はあまりに遠大過ぎたが、経済的な利便さや土地の豊饒性に加えて年平均気温が二十四度など、榎本の選んだチアパスよりはずっと条件がよかった。

 その後の長沢はファウンテン・グローブの農場と醸造所の経営に専念、一九〇六年のハリスの死後は独立し葡萄王と呼ばれるまでになったが、三四年のその死までメキシコをかえりみることはなかった。(1988年6月/1994年7月記)

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