■目で見る移民史■

オーストラリアへの移民数の変化

 オーストラリアは連邦制で、北東部のクインズランド州は一九〇一年の独立まではクインズランドと呼ばれていた。一八八八年に、横浜のイギリス人W・J・シャンドの仲介で百人がクインズランドのムリアン製糖会社の砂糖耕地に入ったのが、オーストラリアへの日本人移民の最初とされている。しかし、同じ年に中国人移民の入国が禁止され、移民規制がはじまるなか、九二年に、吉佐移民合資会社による移民送出がはじまる。ウッド・ブラザーズ製糖会社の砂糖耕地への三年契約の移民だった。続いて、翌九三年に約二百五十人、九四年に七百三十五人が送られている。しかし、九七年には日本政府は移民送出を禁止し、一九〇二年には連邦政府によって移民制限法が実施されたため、移民会社による移民送出は途絶えている。ただ、一八八三年からはじまっていたクインズランド北端沖のサースデー島への真珠貝採取移民は例外とされ、日米戦争まで続いている。それがこのグラフに表われている。サースデー島での真珠貝採取は日本人潜水夫なしには成り立たなかったからで、ほとんどが和歌山県西牟婁郡からの移民で、制限法に触れないように、香港経由で移民するというかたちがとられていた。和歌山県の田辺市が貝ぼたん工業でにぎわったのにはそんな背景がある。

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