■目で見る移民史■

ボリビアへの移民数の変化

 一八九八年のペルー移民のうちの九十一人が、森岡商会の現地代理人だった田中貞吉の仲介で転航したのがボリビアへの最初の集団移民だろう。アンデスを越えて、アマゾン上流サン・アントニオのゴム林に入っている。同様にその後もペルーからの転航が続いてゴム林や鉄道工事に就労し、一九一七年には在留者五百七十四人、うち四百二十人がサン・アントニオ北方のアマゾン支流沿いのリベラルタにいた。二二年にはラ・パスに日本人会ができている。その後、日本が戦争の時代に入り日米戦争が近づくと、三九年から日本商社の伊藤忠や三菱がアンチモニやタングステンを軍事物資として買い入れはじめた。仲介をしたのがラ・パスの日本人会で、ブラジルやメキシコでもそうだったが、日本の政府や企業に利用されることが多かった。また、日本人会の方でもそれを由とした、そういう時代だった。翌四〇年には、東京で拓務省主催の第一回在外同胞代表者会議が開催されるが、中南米や東南アジアから日本人会代表者が招請され、ボリビアからは落合柳一と吉田義憲が参加している。外務省筋や商社から資金提供があったのかどうか、四一年には新たに日本人会館を購入している。しかし、日米戦争がはじまると、ボリビアは日本と国交を断絶、四四年には、アメリカ政府の号令でボリビア政府は、ラ・パスで二十六人、コチャバンバで人、オルロで一人の計二十九人の日本人移民を逮捕、収容しアメリカに送っている。戦後は四八年に、ラ・パスの沖縄出身者が沖縄戦災救援会を起ち上げ、沖縄からの移民の受け入れを計画し、五〇年には移住組合に発展させ、うるま農産業組合(うるま移住地)が発足した。五四年には、沖縄から六十二家族二百十五人、単身者五十七人の計二百七十二人が最初の移民として入っている。以後、六四年まで十九回にわたって五百六十五家族三千九十七人、単身者百二十四人の計三千二百二十一人が移民した。一方、五四年には、日本の外務省が「移住地」調査団を派遣し、サンタ・クルス北西部百三十キロのサン・ファンに民有地五百ヘクタール、官有地一万三千ヘクタールの用地を購入。移民送出のために、東京に日本ボリビア協会(会長、岸信介)を設立し、ボリビアでは、西川利道がサンタ・クルス日本人農業協同組合を設立して理事長に就いている。そうして、翌五五年には、第一回移民がサン・ファンに入った。これは西川個人の主導で進められたため西川移民と呼ばれている。本格的な外務省主導でのサン・ファン移民は五七年からで、以後十三回にわたって続いた。長崎県出身者が多かったのは炭坑離職者がほとんどを占めていたから。戦後、日本のエネルギー政策が石炭から石油に変わったことで九州各地の炭坑が閉山、激しくなる労働運動への対策、労働者問題の解消として外務省が主導したのがサン・ファン移民だった。明治以来の「移民」という言葉を「移住」に置き換えたのも外務省で、この頃からだった。

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