■目で見る移民史■

ブラジルへの移民数の変化

 一九〇〇年頃からアメリカ西海岸への日本人移民の入国は厳しくなっていたため、移民会社は代替地をさがしていた。そして見つけたのがペルーであり、メキシコであり、ブラジルだった。ブラジルでは一八九〇年以来アジア人の入国が禁止されていたが、九二年には日本人移民の入国が解禁されたため、すぐに移民送出が計画されたが実現しなかった。最初の集団移民となったのは水野龍の皇国植民会社が取り扱った七百九十一人で、一九〇八年に笠戸丸でサントスに上陸、サンパウロ郊外のコーヒー農園に入っている。その後、一九一〇年には竹村植民商会取り扱いの二百五十一家族九百四十五人が入り、以後、東洋移民合資会社も加わって一四年までに十回にわたって一万三千百八十九人が送られている。一方、移民会社は、皇国植民が竹村商会を買収して南米植民会社を設立、一六年には東洋移民合資、森岡商会と業務提携してブラジル移民組合を起ち上げ、翌一七年に第一回移民千三百五十一人を送っている。いずれもサンパウロ郊外のコーヒー農園で、その後、独立したり、農業組合や産業組合を結成してサンパウロ州を中心にパラナ州やマットグロッソ州に、いわゆる植民地を広げて、移民数も一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけては年間一万人を超える大量移民の時代が続く。しかし、日米戦争で中断、四二年にはブラジルが日本と国交断絶し敵性国人となったため、たとえばサンパウロの日本人移民は強制立ち退きにも遭っている。さらに、戦後もしばらくは、日本の敗戦をめぐって移民の間で勝ち組負け組の抗争も起きている。戦後はじめて日本船の入港が許されたのは一九五〇年のことだった。そして五二年にはアマゾン移民がはじまり、五四年には外務省の主導で日本海外協会連合会が設立され、戦後の本格的な送出がはじまっている。連合会は、戦前の移民会社に代わる移民送出機関としてつくられた国策機関だった。なぜそうだったのか。ボリビアの項でも記したように、戦後のエネルギー政策の転換によって炭坑の閉山が続き、三井三池闘争をはじめ各地で労働争議が激しくなっていた。さらに、それが安保闘争につながって与野党対立の政治問題になっていた。政治問題回避のための移民送出だった。戦前にも海外興業という移民会社が国策でつくられているが、連合会は外郭団体とはいうもののまったくの政府機関だった。以後、海外移住事業団、国際協力事業団と名を変え、現在はODAなどを行なう国際協力機構となっている。そうした国策移民も、にっぽん丸による二百八十五人の送出で終わっている。一九七三年のことで、オイルショックの年だった。振り返っていえることだが、戦前と戦後の移民の性格は大きくちがっている。戦前移民は移民会社がその利益を上げるためにつくられた移民だった。利益は回り回って政治の舞台に使われ消えている。それに対し、戦後移民は戻ってもらっては困る移民だった。だから送出には国の費用まで使っている。海の向こうに移り住んでもらわなければいけなかったわけで、その意味で「移住」は、まとたというか、正直すぎる言葉だった。

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