■目で見る移民史■

ニューカレドニアへの移民数の変化

 ニューカレドニアは南太平洋の四国ほどの島で、海から見た姿がスコットランド(ラテン語でカレドニア)に似ていたことからクックが名付けたらしく、十九世紀半ばにフランス領になっている。現在はフランスの海外県で、世界のニッケルの主要産地の一つとして島の輸出のほとんどを占めている。ニッケル鉱山が発見されたのは十九世紀半ばのことだった。採掘には囚人が送り込まれていた。それに代わる労働力となったのが日本人移民だった。一八九二年のことで、吉佐きっさ移民合資会社の仲介で六百人が入っている。ほとんどが天草を中心とした熊本県出身者だった。契約期間は五年。しかし、労働環境が厳しく、翌年には五十七人が逃亡、帰還、それが続いて、契約満了者は六分の一に過ぎなかった。その後、一九〇〇年に東洋移民合資会社によって第二回移民八十四人が送られ、以後、一一年の第十二回移民まで三千五百七十八人が入っている。熊本、沖縄、広島県出身者が半数以上を占めていた。一二年以降は一四年が多かったが、あとはごく少数のまま日米戦争で終わっている。

↑戻る