■目で見る移民史■

カナダへの移民数の変化

 ブリティッシュ・コロンビアのフレーザー河畔で金鉱が発見されたのが一八五七年。カリフォルニアからと同時に中国からの流入が多くなり、七一年には東洋人の排斥がはじまっていた。七七年にモントリオールで、日本人船員二人、長野万蔵と高井重遠が脱船したのが日本人移民の最初とされている。その後、八七年に、和歌山県三尾村の工藤儀兵衛がバンクーバーの南のスティヴストンに入って鮭漁をはじめたのが漁業移民の先駆けになり、その後、九四年前後には漁獲期に四千人もの日本人漁者が集まるようになっていた。これには成功したものが多く、三尾村に戻ってアメリカ風の白いペンキ塗りの洋風家屋を建てたことから、三尾村はアメリカ村と呼ばれていた。この三尾村の半島の先端は日ノ御碕で高い灯台があって周囲は公園になっていた。そこに小学校の三年だったか四年だったかに遠足で連れられたことがあって、途中、アメリカ村でバスを降りてみんなで村中を散歩した。白い家並みが続いて、その一軒からなんともいえないかぐわしい匂いがしてきて、「何の匂い?」と先生に訊いたら「コーヒーよ」って教えてくれた。もう半世紀以上も前のことだが、昨日のことのように思い出す。そのようにカナダ移民には成功者が多く、知り合いの一人の祖父は、フレーザー川の沖合に小さな島をもっていた。八八年からカナダ太平洋鉄道が大陸横断鉄道の建設に着手、工夫として中国人移民が多数従事しているが、日本人移民は入っていない。九七年には、スティブストンに日本人最初の組合フレーザー河漁師団体が結成され、日本人漁業者のための病院ができるまでに発展している。しかし、そうした日本人移民の増加に対して、一九〇七年にはバンクーバーでアジア人排斥の大暴動が起きるなど、排斥運動が激しくなり、翌〇八年にはアメリカ同様に、日本人移民の入国制限がはじまり、呼び寄せ以外の入国者数は年間四百人に限られ、ハワイからの転航も禁止されることになった。その結果、移民は一度帰国すると再入国が難しくなったため、結婚も、日本から送られてきた写真だけで相手を決めて呼び寄せる、写真婚が多くなり、一三年前後にピークを迎えている。さらに、二三年には、入国数は百五十人に制限され、二八年には、呼び寄せも含めて百五十人に制限されている。そして日米開戦で四二年には、日本人・日系人の道路キャンプへの移動など戦時収容がはじまっている。戦後も変わらず排斥は続いて、四六年にはバンクーバーから日本人・日系人の強制送還があり、十二月の最終陣まで三千九百六十四人が日本に送られている。うち六割以上がカナダの市民権をもっていた。移民の受け入れが再開したのは二十年を経た六六年のことだった。

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