■目で見る移民史■

コロンビアへの移民数の変化

 一九〇八年に来日したコロンビアの外相アントニオ・イスキエルドの帰国時に川口友広ほか二人が同行したのが最初の日本人移民とされている。イスキエルドの来日はパナマとの国境地帯への日本人移民の導入を日本政府に打診するためだった。のちの満州移民やドミニカ移民でも繰り返されるが、移民を国境防備のための屯田兵か、また、ペルー移民もじつはそうだったが、人を奴隷か苦力の延長ぐらいにしか見ていなかった政策だった。日本からの海外移民はこうした国策と切り離せない性格を持っている。パナマからベネズエラ、コロンビアにかけての一帯はスペイン植民地時代にはヌエバ・グラナダと呼ばれた副王領で、その後、植民地独立闘争を経てボリバルもコロンビアを中心にグラン・コロンビアとしてまとめようとしたが、まずベネズエラが離れ、パナマもアメリカの介入で独立しようとしてコロンビアと対立していた。アメリカが介入したのは西部開拓カリフォルニアへの移動が大陸横断よりパナマ地峡を越える海路の方が便利だったからだが、結局、アメリカの圧力に屈したコロンビアは、翌年、パナマの独立を認めて移民導入の話はれになる。再び計画が起こったのは二六年のことだった。竹島雄三の働きかけで海外興業が南西部カウカ平原への農業移民の送出を決定。二九年にはカウカ州ブカに事務所を開設し、六月にハグアルに約百三十ヘクタールの移民地を購入、十家族の導入を計画し募集した。ただ、応じたのは五家族だけで、十一月に第一回移民として五家族二十五人が入っている。続いて翌年四月には第二回移民五家族三十三人が入り、さらに三五年十月には第三回移民十家族百五人が入り、拓務省も本格的に肩入れし、移民の多くが福岡県出身者だったため福岡県海外移住組合も加わって新しい移民地を購入しているが続かずに終わっている。戦争中はキューバ同様、アメリカの戦略地パナマに近かったため、移動が禁止され、めぼしい人物は収容されていた。

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