■目で見る移民史■

アメリカへの移民数の変化

 嚆矢論にいてもはじまらないが、アメリカへの最初の日本人移民はワカマツ・コロニーの人たちだった。会津戦争に敗れて生きる場をなくした会津藩士族や焼け出された町民三家族で、プロイセンの人だったらしい商人ヘンリー・スネルに率いられてサンフランシスコの北東、サクラメントの先のゴールド・ヒルに入っている。そして、以後数次にわたって百二十家族が入る予定だった。ただ、このスネルという人はよくわからない人で、武器商人として会津藩に親しく出入りして、会津藩士の子女を娶っていたが、エドワードという弟もいて、戊辰戦争の長岡藩や会津藩に武器を売却していたのは弟の方だった。ワカマツ・コロニーも先導したのはこのエドワードだという記述もあるが、斡旋をしただけではなかったかと思う。兄のヘンリーはたしかに入植していて、妻もいっしょで、その子守をしていたのがよく知られた「おけい」だった。ただ、妻とは会津で別れているという記述もあってよくわからない。ゴールド・ヒルはその名の通り、ゴールドラッシュに沸いたコロマの近くで、すでにラッシュは終わっていたが、カリフォルニアン・ドリームはまだ残っていたのだろう、農場を購入し、日本から持っていった茶の木と桑の木を植えた。絹織物がアメリカでも人気になりはじめていた頃で、茶の販売と養蚕、製糸をねらったのだろう。だが、乾燥気候な上に、潅漑に使った水が金鉱山の鉱毒にやられていて、茶も桑もまったく根付かず立ち枯れてしまう。もともとコロニーの話は会津藩からの資金援助を前提にはじまっていた。だが、新政府に藩領が没収され本州最北の斗南に移封されてしまう。それは出発の最初からわかっていたことで、少し強引な計画だったと思うが、資金が続かず、スネルは資金繰りとして日本に戻るがそれっきり。残された者は暮らしていけなくなりしかたなく近隣の農場に離散してコロニーは崩壊している。わずか一年半足らずのことだった。おけいも同様にしているが、チフスだろうか、その年に死亡している。十九歳だった。このワカマツ・コロニーについては早乙女貢が『おけい』という良書を残している。その後、ハワイがアメリカ領となり日本人移民も少しずつ西海岸に転航していくようになるのだが、七八年には中国人の入国が禁止され、九〇年代に入ると日本人にもそれが及んで、一九〇七年にはハワイ、カナダ、メキシコからの転航が禁止されてしまう。自由の国アメリカは表にあたる東からの移民にはまだ穏やかだったが、背後の西からの流入には徹底して厳しかった。

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