■目で見る移民史■

フィリピンへの移民数の変化

 フィリピンといえばベンゲットとダバオだろう。古くから交流があり過ぎて、だれが最初か嚆矢議論をしても意味がない。移民会社による送出がはじまったのは一九〇三年のことだった。スペインによる植民地時代にはスペインが移民を制限していたため入国はむずかしかった。それが、一八九八年の米西戦争によってアメリカの植民地になると開発が激しくなり移民を受け入れるようになったからだった。日本政府も移民保護法に触れないよう、自由移民に限るとして送出を認可している。契約期間を設けない自由移民としたのはアメリカの移民法をすり抜けるためで、実質、契約移民と何ら変わりはなかった。一番多かったのはマニラからバギオ高原に至る通称ベンゲット道路の建設工夫だった。〇三年からの二年間に海外渡航、帝国植民、防長移民などの移民会社によって四千人前後が送られている。実際の募集は千人だったが、労働情況がきびしく、逃亡、死亡が多かったからで、百メートルに一人という割合で、三百を超える屍の上に〇五年に完成している。アメリカ人の避暑地への専用道路で、一九〇〇年からフィリピン人や中国人を使って工事がはじまっていたが、疫病や逃亡で難航、忍耐強いと噂の高かった日本人に白羽の矢が立ったのだった。ミンダナオ島のダバオへの送出も同じ〇三年だが、半年早かった。麻の栽培耕地への移民で、最初に鹿児島県の須田良輔が三十人を送り込んだあと、翌年から兵庫県の太田恭三郎によって三百人が送られているが、半数は沖縄からだった。その後、太田はベンゲット道路完成後の職をなくした日本人を呼び込み、麻栽培を企業化して太田興業を創立、三井物産も加わり、ダバオは世界の麻の生産地として戦争前には二万人近い日本人が暮らすまでになっている。バナナは麻の仲間で、戦後、ダバオがフィリピン・バナナの主産地になるのは、日本人が拓いた麻の栽培耕地に麻に代わってバナナを植えたからだった。移民と植民はどうちがうのか、どこまでが移民でどこからが植民なのか、さまざま議論もあるだろうが、ダバオは移民を越えた植民だったと思う。

↑戻る