■目で見る移民史■

ハワイへの移民数の変化

 一八六八年四月二十五日(旧暦)にイギリス船サイオト号で女性九人と子ども一人を含む百五十三人が横浜を出発、四月は閏月で五月二日にホノルルに入っている。元年者がんねんものと呼ばれたハワイへの最初の日本人移民だった。就労地は砂糖耕地で三年契約、アメリカ人ヴアン・リードの仲介で、横浜の商人木村庄平が募集をかけていた。ところが、出発後、奴隷売買だという世論が起こり、急遽、ハワイに使節が送られ、帰国を希望した三十八人が帰還している。のちのペルーやメキシコに見るような劣悪な就労状況でもなかったようで、世論はまだ「移民」に慣れていなかった。残留者には契約満了後、帰郷した者もいるが、そのまま留まり商業をはじめたりしてその後の日本人社会の礎になっている。これがきっかけで七一年には修好条約が結ばれ、八一年にはカラカウア王がやって来て移民導入を打診、両政府間で契約がまとまり、八五年一月二十七日に第一回移民九百四十四人がシティ・オブ・トウキョウ号で横浜を出発、二月八日にホノルルに入っている。政府間の契約による移民だったので官約移民と呼ばれ、その後、九四年に渡航条約が廃止されるまで二十六回にわたって二万九千六十九人が送られている。渡航条約が廃止されたのはハワイにアメリカの勢力が強くなったからだった。条約が結ばれたのは八六年だったが、早くも翌年にはアメリカは真珠湾を租借して軍事化を進め、ハワイ政府に圧力をかけ、新憲法を発布させ日本人在住者の選挙権・被選挙権を奪っている。そして九三年にはリリウオカラニ女王を退位させ王制を廃止する。そうしたアメリカの進出に対しハワイ政府は以前から日本政府に支援を求めていて、王制廃止の翌月にはホノルルに戦艦浪速を派遣している。さらに星亨ほしとおるなどはハワイを日本の海外県にすべきだと叫んだほどで、アメリカも強硬姿勢を崩さず翌九四年には外国人上陸規制条例を公布させている。ねらいは日本人の制限で、これによって契約移民は廃止され、自由渡航者も上陸には五十ドル以上の所持金が必要になった。こうしてハワイへの移民は実質的に終わっている。もちろんそれ以後も送出は続いているが、政府のあずかり知らない民間移民会社によるものなので私約移民と呼ばれて、九四年六月二十九日出発の小倉幸扱いの百五十人を最初に日米開戦まで続く。この私約移民の取り扱いがのちのち問題を起こすことになる。当時、アメリカの西海岸やハワイのホノルルには、自由民権運動に参加し、保安条例によって日本を追われた、いわゆる民権青年がたくさん滞留して、新聞や雑誌を発行して日本に送り政府批判を続けていた。ところが資金が続かなくなる。窮した果てに目を付けたのが移民送出だった。こうして続々、移民会社がつくられ、移民はかれらの餌食になっていく。移民は金のなる木で、それを選挙資金にかれらは政友会を軸に政界に進出していく。菅原伝、山口熊野ゆや日向ひなた輝武、井上平三郎、数え上げたら切りがない。目的は一人でも多くの移民を送り出して仲介手数料を稼ぐことだから杜撰になるのも当然で、それを、日露戦争後の農村疲弊の対応に迫られていた日本政府は黙視する。こうした姿勢で、ペルー、メキシコ、ブラジルと移民を政治経済の食い物にする時代が続いていく。

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