■目で見る移民史■

メキシコへの移民数の変化

 日本からメキシコへの、移民会社をめぐる移民史は一八八九年にはじまっている。通商条約が結ばれた翌年のことで、太平洋運輸会社の代理人ヴォーゲルが南部テワンテペック鉄道建設への工夫の送出を求めてきたのだった。しかし、日本外務省は時期尚早として許可していない。次に話があったのは九二年だった。日本吉佐移民合名に対し、バハ・カリフォルニアのエル・ボレオ銅山への五百人の送出を求めてきたが、外務書記生藤田敏郎の調査の結果、賃金が安すぎるなど契約条件の不備や鉱山会社の経営状態が悪いとして日本外務省は認可せず立ち消えになっている。だが、それで終わったわけではなく、すでにアメリカでは契約移民の入国が禁止されていたことから、新しい移民送出地としてのメキシコの可能性をさぐっていく。そうした背景があって生まれたのが榎本武揚の殖民計画だった。九三年に殖民協会を設立して、南部チアパス州のエスキントラに官有地を購入、九七年に三十三人が入っている。いわゆる榎本移民で、言葉は悪いが、これは殖民を焦りすぎた榎本と殖民協会の失敗、勇み足だった。その後、一九〇〇年にアメリカのソルト・レイクにいた橋本大五郎が近在の日本人二十人を北部コアウィラ州のラス・エスペランサス鉱山に導入したのがきっかけで、熊本移民合資や東洋移民合資によってラス・エスペランサスやフエンテなどへの送出がはじまり、一方、先の南部テワンテペック鉄道への送出計画がきっかけになって、大陸殖民合資によるテワンテペック地峡のリオ・ビスタやオアハケニャなど砂糖耕地への農業移民のほか、中部コリマ州のコリマ鉄道の建設工事への工夫の送出がはじまっている。いずれも最初は百人前後だったが、〇六年に入ると千人単位で送られるようになり、その後の二年間だけでも七千人を超えている。移民会社乱立の最中で、生き残りのために各社は過剰送出を繰り返す。なかでも大陸殖民による送出は無計画で杜撰過ぎた。オアハケニャへは受け入れ人員を大幅に超えた送出を、コリマ鉄道へは工事が完工したあとも送出を続けている。そのために流浪者が絶えず、さらにメキシコ革命の動乱の中でそれを避けて、キューバへの転航もそうだが、アメリカをめざしての北行がはじまる。もちろんアメリカへは密入国で、それに成功した者はほんのわずかだった。結果としてコアウィラ、チワワ、ソノラの北部三州をはじめとしてメキシコ各地に日本人が住みつくことになる。ただ、日米戦争による戦時収容で、メキシコ・シティへの集住が強制されたため、戦後はシティに集中する。メキシコ移民がなければキューバ移民もなかっただろうし、メキシコ革命の動乱がなければメキシコ移民のけしきもずいぶんちがったものになっていたかもしれない。話は逸れるが、移民史に外務書記生の果たした役割は大きい。各地の日本公使館や領事館に派遣されていた、外務官僚といってもキャリアでなく、学生上がりや現地雇いも多かったが、事、日本人の間に何かが起きれば、即、現地に飛んで情況を調べて本省に報告する。そのレポートが残っているからぼくらにも移民のむかしがわかるわけで、かれらの判断をきちんと受け取って精査していた頃の移民計画はほとんど失敗していない。

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