■目で見る移民史■

パナマへの移民数の変化

 いま、アメリカをめざす移民がパナマに集中しているらしい。コロンビアとの国境沿いのダリエンギャップと呼ばれる密林地帯で、ペルー人やコロンビア人以上にインド人やアジア人のほか、アフリカ人も多いらしい。そこから北にコスタ・リカ、ニカラグァ、ホンジュラス、エル・サルバドル、グァテマラ、そしてメキシコを経てアメリカに密入する。かつての日本人もそうだった。ペルーに渡ったものの、就労先の砂糖耕地は太平洋沿岸の砂漠地帯で気候条件が厳しく、また、ペルーでは奴隷制度の廃止から日が浅く、砂糖耕地での労働は奴隷労働と変わりなかった。そのため、ほとんどは契約中に耕地を逃亡し、リマの外港カジャオに出た。アメリカに行くためだったが、メキシコからアメリカへの密入を警戒した東洋汽船はメキシコ行きの切符は売らなかった。そのため、しかたなく高額の横浜行きの切符を買って乗船するのだが、ほとんどは、途中、船員に袖の下を使ってパナマやメキシコのサリナ・クルスで脱船する。パナマで降りたのはキューバの砂糖景気を耳にしたからだろう。しばらく滞留したあとキューバに渡るのだが、そのまま居つく者もけっこういて、キューバでもそうだったが理髪師をしていた者が多かった。きちんとした店舗も要らず、軒先に丸椅子一つを出せばそれでよかったし、とくに技術も要らず見様見真似でできたからだろう。また、キューバに渡ったものの、パナマの方が住みよかったのか、パナマに戻ったり、日本からのキューバ移民にもパナマに転航する者もいた。パナマ移民というのはそうした人たちがほとんどで、日本からパナマへの移民会社による契約移民は一人もいない。一九〇九年から四一年までの間に統計上は四百三十九人が入っているがすべてが自由移民で、たしかなことはいえないが、たぶん多くは商用移民ではなかったか。

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