■目で見る移民史■

パラグァイへの移民数の変化

 いまでは内陸の国になっているが、ボリビアと同じ、もとは海に開けた国だった。それがブラジルとアルゼンチンを相手に戦って多くの若者といっしょに海もなくしている。一八六九年のことで、その後しばらくは、男が森の中を歩くと木の上から女がばらばら降ってきたという笑い話が生まれるほど、若い女性に結婚相手がいなくなってしまった。そんなパラグァイへの最初の日本人移民は佐賀県の福岡庄太郎とされている。一九一六年のことでアルゼンチンから入っているが、日本からの移民送出が計画されたのは十四年後の一九三〇年のことだった。国策会社だった海外興業が手がけたが、パラグァイが石油利権にからんでボリビアと戦争をはじめたために中断して、実際にはじまったのは三六年だった。拓務省とブラジル拓殖組合の合同事業で、首都アスンシオン南東のラ・コルメナに移民地を確保し、第一回移民十一家族八十一人が六月十八日に神戸を出発し八月十七日に到着。以後、四一年九月の第二十八回九家族五十四人まで計百十八家族七百十八人が海を渡っている。ほかに、ブラジルで募集に応じた転航家族もずいぶんいた。しかし、日米戦争で中断し、戦後の五四年に再開するが、これは戦前移民とは性格がまるっきり違っていた。明治以来、たとえば日中戦争を拡大したのは軍部だが、原因をつくったのは日本の石炭産業と八幡製鉄にはじまる日本の鉄鋼産業だった。資源確保と現地事業保全のために軍の進出を促し利権を守ろうとした。戦争理解の盲点で、いまもその構造は変わらないからだろう、そんな歴史を学校教育は教えようとはしていない。そんな日本の産業構造も、戦後はアメリカ・メジャーの圧力でエネルギー政策が石炭から石油に一転する。それによって溢れた炭坑離職者の棄て場が南米だった。ブラジルのアマゾン、ボリビア、そしてパラグァイもその一つになり、五四年十二月に第一回移民九家族五十九人が神戸港を出発、以後、六回にわたって百八家族七百八人がアスンシオン郊外のチャベス移民地に入っている。いわゆる棄民だが、不思議なことに彼らも海を渡ると性格が変わってしまう。移民地ではパラグァイ農民が日本人移民に低賃金で酷使され、反発が重なって殺傷事件も起きている。

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