■目で見る移民史■

ペルーへの移民数の変化

 一八八九年に高橋是清がペルーで銀山を購入、日本からも移民を導入して鉱山経営をはじめようとしたが、廃鉱をつかまされて失敗している。これを別とすればペルーに日本人が契約移民として入ったのは一八九九年(明治三十二年)がはじめてだった。話が起こったのは六年前で、手がけたのは青柳郁太郎だったが、ペルーを選んだことにもきちんとした計画があったわけではなく、ハワイ、アメリカ、カナダに代わる移民地としてブラジルをさぐっていく途上の中継ぎぐらいにしか考えていなかった。それを受けて森岡商会の田中貞吉が九八年に交渉をはじめるが、結局は、のちに大統領になるレギアに丸め込まれている。一にも二にもアメリカに代わる送出地が必要だったからで、明治初年のマリア・ルス号事件で明らかになったように、奴隷制度が残存するペルーの労働情況を日本外務省は十分承知していたはずなのに、送り出しを認可。十分な現地調査もないまま送出がはじまっている。だから結果は明らかだった。第一回移民七百九十人は、九九年二月二十八日に日本郵船の佐倉丸で横浜を出発、四月三日にカジャオに入り、さらに北と南に航行を続けて各砂糖耕地に分散している。新潟県からがもっとも多く三百七十二人、そして山口県百八十七人、鹿児島県百七十六人と続いているが、二カ月もしないうちに気候の厳しさや給料の遅配などが続いて、雇主との間に対立が起き、追放されたり逃亡したりして大半がカジャオに引き揚げている。田中はその対応に窮し、うち二十人をアンデスを東に越えたアマゾン上流のコーヒー園に送った。最初のアマゾン移民で、さらに九十一人をボリビアに転航させる。これがボリビア移民のはじまりになっている。それでも四年後の一九〇三年には第二回九百八十三人、さらに三年後に第三回七百七十四人が送られ、一八年までに森岡商会は五十一回にわたって一万千八百二十人を送っている。また、一九〇七年からは明治植民合資も加わっている。アマゾン上流のゴム栽培農園への移民で、一〇年には東洋移民合資も参入している。だが、二三年にはペルー政府は契約移民の入国を禁止。一万人を超える日本人が在留していたが、三〇年代に入ると排日運動が激しくなる。いまもよくある政治家のやり口で、ペルー政府は労働問題の解消と人気取りから、三七年には外国人の入国と営業を制限する大統領令を発令、日本人商店襲撃事件も頻発するようになった。そして日米戦争で日本人の収容と資産接収がはじまる。メキシコやキューバ、パナマではアメリカ政府への同調だったが、ペルーでは、商業面で力を持ちはじめていた日本人に対する独自の排斥政策だった。

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