■移民名簿■

lista de los emigrantes

 戦前の日本人移民のリストです。詳細に公開できるといいのですが、関係者も含めたプライバシーを考え、氏名、着年など最小限のデータにとどめています。質問にはお答えしますので、関係者の方、関心をお持ちの方は「読者の窓」から、ご一報ください。現在はキューバとグァドループだけですが、メキシコをはじめほかの地域も掲載していくつもりです。表示はタイトルをクリック。

Voy a anunciar la lista de emigrantes antes de la guerra. Para proteger la privacidad, no publicaré detalles. Pero, responderé la pregunta, por favor contáctame en 読者の窓. Haga clic en el título para verlo.

キューバ移民名簿

lista de los emigrantes japoneses a Cuba

 外務省外交史料館所蔵の「海外旅券下付返納表」をはじめ各移民会社の移民名簿などから渡航先がキューバとなっている人物をすべて抽出、さらに、アメリカ、カナダ、メキシコ、ペルーなどを経由しての渡航者(転航者)については「旅券下付出願ニ要スル在外公館発給各種証明書交付人名表」など各在外公館の旅券発行関係文書にあたり、両者をキューバ側で内藤五郎氏が入管入国者リストと照合、再検討してまとめた同氏との共同作です。実際との誤差については、盲点となる個人渡航も、前述のように旅券下付表や在外公館発給証明などにあたっていることから、散逸分と届け出なしの渡航(密航)を除いてはかなりの精度をもっていると考えています。1985年頃にまとまっていたもので、90年代はじめにデータベース化して、以来、随時、訂正を加え、管理してきました。良心に従って無断転載はひかえてください。管理名簿には、公表項目のほかに、個人にもよりますが、戸籍、転航元、キューバでの在住地、生活データなども記録しています。

 少し長くなりますが、この移民名簿をつくることになったきっかけをお話ししておきましょう。もうずいぶんむかしのことです。新潟からメキシコに渡った移民のことを調べていて、内藤さんを知ったのは1980年だったか。何が何でも会いたくなり、出かけたのは82年の夏でした。ロサンゼルスからバスでメキシコに入り、一週間ほどメキシコを調べて回ったあと、飛行機でハバナに入りました。のはよかったのですが、タラップを下りた途端、あした帰ろう、と思いました。いやになるほど暑くて、おまけに入管で引っかかり、身振り手振りでようやく抜けたら内藤さんの笑顔があって仏に見えたのを忘れません。そしてそのまま一月居候することになったのです。毎日、どこに行っても暑く、通りを歩くと熱気に溶けたアスファルトが靴の裏にねちょねちょへばりつきました。内藤さんのお宅はアバナ・ビエハの外れ、旧港に下る緩やかな坂道を下った先にありました。父がスペイン移民の商人だった奥さんの実家で、古いものの、一般のハバナ市民からすれば格段に大きく立派な家でした。けれど、家族三人に加え、奥さんの妹一家6人も同居していたので、他人が転がり込む余裕などなく、ベッドも、ぼくより二つ上でしたか、一人息子のマリオさんが空けてくれ、かれは母といっしょのベッドに互いに足と頭を逆さにして眠ることになったのです。内藤さんは話し好きでした。おかげで日本人移民のいろんなことを知ることができたのですが、最初の夜から眠らせてくれません。「生まれはどこですか」にはじまると、すぐに内藤さんの生まれ育った広島の話に移り、子どもの頃のこと、家のこと、学校でのこと、両親のこと、勤めていた宝飾店でのこと、その店があの原爆投下のほぼ真下であったこと、そしてこれはもう時効でしょう、郷里に許嫁を残してきた、そんな秘密話も含めて四方山話に三、四日もかかっています。そして、日本人仲間の話に入っていったのでした。ベッドに横になったからといって、素直に眠れるわけではありません。じっとしているだけでも、じっとり、背中や額や頸筋に汗が滲んでくる。だから「寝物語」はキューバの流儀らしくて、隣の奥さんとマリオさんの部屋からも毎夜遅くまでひそひそ声が聞こえていました。そんな寝物語にどれだけ教えられたか、やがて「もう寝ましたか……」と残念そうな内藤さんの呟きを耳奥に、うつら、うつら、ぼくも眠りに落ちました。そうして日本人移民を訪ねる旅がはじまったのです。朝食を終わり、といっても、パンが二切れとカップ一杯の牛乳だけ。奥さんが始末しているわけではもちろんなくて、毎日、行列をつくって並ぶ配給の結果がそれだけのこと。おまけに居候までがいるのですから、たいへんな遣り繰りだったでしょう。正直、腹八分でしたが、感謝いっぱい、乾いたパンをひとかけひとかけ噛みしめました。表に出るとニッサンが待っていました。「やあ、おはよう」、骨張った大きな手で握手してくれたのはフストさん、手とは反対に小柄な細身の人でした。キューバはどこに行くにも、それも地方に出かけるには車がなくてはどうにもなりません。出してくれたのは加藤(宏次)領事。もちろん内藤さんの人脈で、日本人関係で車のあるところなど大使館以外にありません。官僚らしからぬ、加藤領事は道理のわかる人でした。フスト、といってもキューバ人でも二世でもなく、先行移民の両親に呼び寄せられた歴とした一世で、内藤さんと同じ広島の香川武茂さんです。キューバ人に親しまれるよう、父親がスペイン名をつけたらしくて、革命後は日本大使館で運転手をしていたのです。そうしてキューバを西のピナルから東のオリエンテまで走り回ってくれました。もちろんイスラにも。ただこのときは船でしたからフストさんとはバタバノまで。そうして44人の日本人に会うことができたのです。当時、元気でいたのは94人でしたからほぼ半数にあたります。そして、ハバナに戻った夜のことでした。「一つ、おねがいがあるんです」と一冊のノートを手に内藤さんから話がありました。青い表紙の、キューバでは子どもたちがふつうに使っているB5判のそれでした。開いてみると名前がずらりと並んで、出身県と生年月日と住所も記されていました。500ぐらいはあったでしょう。「日本人の名簿をつくろうと思ってるんです。手伝ってくれませんか」、重ねていわれました。もちろん、一つ返事で受けました。けれど一方で、これは大変なことになったぞ、と戸惑いもありました。実際、事はその通りになり、二人で「キューバ日本人移民名簿」をまとめるのに4年もかかっています。方法は簡単でした。日本から出たものとキューバに入ったものをつき合わせてまとめればいいわけですから。ただ、メキシコやペルーなどからの転航もあるためちょっと複雑になります。日本からのものは、密航でもない限り、外務省の外交史料館に査証の控えがあり、キューバ側には入管記録があります。それを徹底して漁るのは、大変だろうが、やりがいはあると思いました。いまならそんな無謀はしなかったでしょう。結婚したばかりで家もなければお金もないかわり、若さだけがありました。まず、外交史料から移民会社の送出名簿と移民船名簿をあたりました。これはキューバの場合、海興移民しかないから簡単でした。ただ、全体のごく一部に過ぎません。あとの自由移民をどうするか。これには旅券下付の記録を片っ端から漁るしかありません。下付の写しから「キューバ行」となっているのを拾い上げるのです、それも明治の頭から。あの頃の外交記録はいまとはちがってファイルに綴じられたまま。それが明治12年から大正10年までのものでも238巻もあって、それ以前のものは「勘合簿」といって25巻、ほかにこれはわずかでしたが大正11年から昭和16年までのものもあり、転航者についてはメキシコ、パナマ、ペルーなど在外公館の記録もあたっています。そうして1300人ばかりを抽出、それを内藤さんがキューバ側で入管記録とつき合わせて差し引きしたのが1030人余りのリストでした。その後の調べで、現在は1144人になっていますが、そのリストを、当時はいまと比べようもない低級の家庭用ワープロで清書して内藤さんに送りました。といっても郵便ではありません。当時、日本からキューバへは大手の三菱なども進出していましたが、子会社に名前を変えて駐在員を派遣していました。その一時帰国や赴任に合わせて託していたのです。郵便も簡単なものなら別ですが大部のものになると、検閲が入るらしく、料金のこともありましたが、内藤さんは手紙も厚くなると必ずかれらに託して送ってきていました。その後、リストは、1990年代に入ってPCも簡易化し、rBaseやdBaseなどソフトも安く出回るようになったことから、データベース化し、現在はAccessで管理しています。掲載しているのはそれをPDFに出力したものです。

キューバ収容名簿

lista de reclusos japoneses durante la Segunda Guerra Mundial en Cuba

 日米戦争時にキューバで戦時収容された日本人移民のリストです。上記「キューバ移民名簿」の中から抽出したものですが、この収容名簿についてはおもしろい話があります。2016年10月の中頃でした、日本の通信社のアメリカ支局の記者の方から、突然、メールがありました。「キューバ取材で、戦時中の収容者リストらしい文書を見つけたが、どういうものか確認してほしい」という内容で、だから、収容中の誰かの手記でも見つかったのかな、とちょっと驚き、わくわくもして、まずはメール添付で送ってくれるようおねがいしました。いまはむかしと大違い、内藤さんと名簿をつくっていた頃は、手紙のやりとりにも一月以上はかかったのに、10分もしないうちに返事があって、PDFファイルが添付されていました。それを開いて、びっくり。なんと、ぼくがワープロ打ちしたリストのコピーでした。もう40年近くも前のものですから、たしかに古い。全体にスキャン汚れが目立つのはコピーを重ねたからでしょう、いまのようなPCソフトのない時代の、安物のワープロ機でしたからフォントもお粗末で、数字の半角もなくて年月も全角のままになっている、紛れもない、ぼくの打ったリストでした。じつは、日本人の戦時収容については、内藤さんが1980年頃に昔の仲間を訪ね歩いて手書きのリストをつくっていました。それを「きちんと活字にしておきたいから」とぼくに送ってこられ、何度か検証をやりとりしたのをワープロ打ちして、といってもあの頃の印字は熱転写で、数年ももたずに消えてしまうため、職場でコピーしたのを、キューバと交易していた日本商社の駐在員に託して送ったのでした。当時、内藤さんは日系人連絡会の会長をしていましたが、その後、後任の宮坂寛司さん(長野県出身)にリストは受け継がれたのでしょう。記者がキューバに行ったのは、キューバとの経済交流の復活をさぐる財界の要請を受けた首相の訪問同行取材で、その受け入れ行事で日系人連絡会長のフランシスコ・ミヤサカさん(寛司さんの長男)に会い、「父の遺品を整理していたら、こんなものが見つかった」とリストを見せられたらしいのです。記者の方はびっくりしたでしょう。ただ、これまでお話ししたように、リストはぼくがつくったもので、だから、これにはなんの価値もなく、ニュースにするのは無理でしょう、ただ、その中味、データは、ほかのどこにもない貴重な史料で、それを調べ上げたのは内藤さんです、そのことをどうか顕彰してください、大凡そんなふうにだったか、記者の電話に答えておねがいしました。さらに地方紙からも連絡があって同じように答えました。そして月末、全国各紙に「発見」記事が躍りました。通信社配信の記事がベースですから似通っていますが、独自取材のもいくつかあって、なによりキューバ移民の歴史が一人でも多くの人に知られる機会になったことに感謝しました。ただ、正直、これはちがうかな、というところもあって、これまでの移民史調査でむかしの新聞記事を鵜呑みにしていなかったかどうか、ぼくも少し反省しています。
 もっといえば、キューバでの収容については、もう三十年以上もむかしのこと、ある大きな新聞社から問い合わせがあって、こちらから出向いていろいろお話ししたことがありました。アメリカでの戦時収容のリドレス(戦後補償)が話題になったときです。けれど、キューバには関心がなかったのか、記事にもならず今日まで来ていました。
 キューバでの日本人の戦時収容については『峠の文化史─キューバの日本人』に詳しく書きましたが、現在、絶版となっているため、こちらに抜粋して掲載します。参考にしてください。

プレシディオ・モデロの略図

プレシディオ・モデロの略図:
日本人移民が戦時収容されたプレシディオ・モデロ(イスラ・デ・ピノス)の当時の構造を内藤五郎(1908~2005)さんが記憶を頼りに描いてくれました。キューバ日本人移民史料の貴重な一枚です。

グァドループ移民名簿

lista de los emigrantes japoneses a Guadalupe

移民の経緯は「移民史考」の「入水」をご覧ください。

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