キューバの場合

*1558... エル・カスティジョ・デ・ラ・フエルサの建設がはじまる(~1577)。
*1590... エル・カスティジョ・デル・モロの建設がはじまる(~1630)。
*1756... イギリスとの間に7年戦争がはじまる(~63.02.10)。フランスと組んだスペインは敗北、ハバナ以西は占領され政庁はサンチアゴに移る。63年コンデ・デ・リクラ(Conde de Ricla)が総督になりプリンシペ、アタレスの建設がはじまる。
*1850... この頃からキューバの砂糖産業へのアメリカ資本投下がはじまる。
*1859... キューバの製糖工場(インヘニオ)数、約2000。
*1868.10.10. 第1次キューバ独立戦争がはじまる(~1878年)。
*1878.2.10. キューバとスペインとの間にサンホン協約成立。第1次独立戦争(10年戦争)終結。
*1880... キューバで奴隷制廃止。
*1886... キューバでようやく奴隷制が完全廃止に。名目上は1880年。
*1889... アメリカとスペインの間でキューバ領有秘密交渉が行なわれるが、フランス、イギリスの横槍で不成立。
*1892.1.. ハバナでキューバ労働者大会が開催される。
*1892.4.10. ニューヨークで開かれたキューバ人集会でキューバ革命党創設。代表委員にホセ・マルティ。
*1894... キューバの製糖工場数、約400に減少。
*1895.2.24. 第2次キューバ独立戦争がはじまる。
*1895.4.21. アントニオ・マセオがキューバに上陸。
*1895.5.19. ホセ・マルティがドス・リオスで戦死。
*1896... キューバへのアメリカ資本の投下額が、この年だけで約5000万ドルにのぼる。
*1898.2.15. ハバナ港に碇泊中のアメリカ巡洋艦メイン号が、深夜、爆発、沈没。メイン号爆破事件。乗員に日本人もいた。
*1898.4.19. アメリカ議会がキューバの独立を承認。同時に、キューバへの武力介入権を大統領に与える決議を採択。
*1898.6.11. アメリカ軍がキューバに侵攻。20日、グァムを占領。
*1899... アメリカ軍政下のキューバで最初の明確な「移民法」が成立。本法8条、施行細則15条。3年後には修正が加えられアメリカ移民法も同時に有効になっている。
*1900... この頃、キューバへの最初の日本人移民、宮下幸太郎がハバナで脱船。これ以前、1898年から翌年にかけ7人の入国記録が見つかっているが、いずれもその後の足跡がなく、いわゆる「移民」とは考え難い。旅芸人あるいは短期旅行者ではなかったか。同時期、大阪出身の芸人一座や南方熊楠もキューバに入っている。
*1901.2.21. キューバ制憲議会が憲法採択。
*1901.3.2. アメリカ議会がプラット修正案を可決。
*1901.6.12. プラット修正がキューバ憲法に加えられる。
*1902... キューバで「外国人労働者入国規制法」が成立、契約移民の入国が全面禁止に。「移民法」修正。
*1903.5.22. キューバ政府、「プラット修正」が盛り込まれた「恒久条約」をアメリカとの間に締結。
*1906.9.25. パルマ大統領が辞任したあとのキューバをアメリカが占領、臨時政府を樹立。
*1908... 日本人移民、宮城勝(勝次郎)がイスラ・デ・ピノスに渡る。イスラへの最初の日本人。
*1909.2.1. アメリカがキューバでの軍政を解除し駐留軍を撤退させる。
*1910... この頃、イスラ・デ・ピノスに向かう日本人が増加。1915年頃までに約20人に。
*1912... この頃、ハイチ、ジャマイカからキューバへの「ツバメ」と呼ばれた季節移民が急増。
*1915... キューバで 第1次世界大戦後の砂糖景気による労働力不足から「外国人労働者入国規制法」が一時緩和される。
*1916... キューバ経済好況。最初の日本人集団移民「小川移民」75人がハバナに到着。
*1917... メキシコ、ペルー、パナマなどからのキューバへの転航日本人移民が67人を超える。
*1917... キューバで契約移民の入国禁止が解除される。その後、中国人の入国禁止も「保証金」を納入することで緩和される。
*1920... この頃、イスラ・デ・ピノスの日本人が50人前後になる。20年代後半には120人を超える。
*1920... キューバ経済が空前の砂糖景気(バカ・ゴルダ)に沸く。砂糖価格、前年度約2倍の11.25セント(ポンド当たり)。
*1922... キューバで「外国人労働者規制法」が復活。
*1924.4.1. 海外興業取扱の第1回キューバ移民20人がハバナに到着。すぐさまラス・ビジャス州トゥリニダーの砂糖耕地に向かう。
*1925.3.13. 1903年3月にまとめられた「ヘイ・ケサダ条約」調印成立。イスラは明確にキューバの支配領域となる。
*1926.7.5. キューバへの最後の海興第18回移民24人がハバナに到着。以後、送出中止に。
*1926.10.19. 大型シクロン(台風)がイスラ中央を通過。アメリカ人経営の農園に大きな被害をもたらしたため、引き揚げがはじまる。
*1928.1.. ハバナで第6回パン・アメリカン会議開催。内政不干渉決議にアメリカが反対する。
*1928.3.31. 第2回国際移民会議がハバナで開催される(開会式、ハバナ大学講堂)。4月2日の総会後5分科会で協議、16、17日の総会後閉会。参加37カ国、傍聴5カ国、国際連盟、国際労働局、国際農業協会、移民保護団体国際連合、汎米優生及人種改良協会が傍聴。
*1929.6.22. キューバで理髪師に資格試験を課す「理髪試験法」が制定される。
*1929.10.. 世界恐慌がキューバにも押し寄せる。砂糖価格2セント台を割る。
*1929.12.. 日本政府、ワシントンでキューバ政府との間に「日玖通商暫定取極」を締結。居住と通商、航海、関税に関し最恵国待遇を相互に認める。
*1929.12.. キューバで「理髪試験法・施行細則」公布。翌30年3月、全国いっせいに資格試験が実施される。
*1930... キューバ国務省が移民入国数を制限する「歩合移民法」を起案。6カ条からなり、11月下院を通過、さらに修正を加えた法案が翌年1月に上院通過。
*1930.3.. 「理髪試験法」の資格試験実施。日本人58人中、約80パーセントにあたる47人が不合格となり、即時、営業を停止される。
*1930.3.20. ハバナで24時間ゼネスト。各地のセントラルでも操業停止とストが続出。
*1930.4.26. ハバナに日本公使館開設。公使青木新、メキシコ兼任。
*1933... アレホ・カルペンティエル著『エクエ・ヤンバ・オ』Ecue-Yamba-O。
*1933.8.11. ヘラルド・マチャド政府(1925年5月20日~)がゼネストで倒壊。マイアミに亡命。
*1933.9.4. フルヘンシオ・バチスタがクーデターで実権を握る。40年に大統領。
*1933.11.8. キューバ政府が「労働国営化法」Ley de Nationalización del Trabajo、いわゆる外国人50パーセント法を公布。
*1934... イスラ・デ・ピノスの日本人の間に「松島日本人農業組合」が発足。会員70余人。
*1934.5.29. キューバとアメリカの間に、アメリカ製品への関税引き下げと対日関税引き上げの関税協定が締結され、同時にグァンタナモ基地に関する条項を除いた「プラット修正」が撤廃される。
*1940.7.30. ハバナでパン・アメリカン外相会議開催。域内共同防衛の強化を表明した「ハバナ宣言」を採択。
*1941.12.10. キューバ政府が対日宣戦布告。
*1941.12.12. 最初の日本人14人が敵国人活動連邦調査局によって逮捕され、ハバナ市内カスティジョ・デル・プリンシペに留置される。さらに翌年4月16日イスラのカンポ・デ・コンセントラシオンに収容される。
*1942.4.21. キューバで第2回収容者7人がイスラのカンポに送られる。
*1942.5.26. キューバで第3回収容者12人カンポに送られる。
*1942.9.7. バチスタ政府がアメリカとの間に「軍事援助に関する秘密条約」を締結。
*1942.11.24. キューバの第4回収容者19人がカンポに送られる。
*1943.2.. キューバで第7回収容者2人がカンポに送られる。
*1943.2.11. キューバで第5回収容者74人がカンポに送られる。
*1943.2.23. キューバで第6回収容者200人がカンポに送られる。
*1943.3.26. キューバで第8回収容者16人がカンポに送られる。
*1943.5.. キューバで第9回収容者8人がカンポに送られる。
*1944.10.8. キューバで収容による収容所内での最初の葬送。井上敏雄(パンチョ)、心臓マヒ。
*1945.6.18. ドイツの敗戦と同時にハバナ西郊のカンブレヘラに収容されていた日本人女性3人が釈放される。
*1945.12.24. キューバで日本人4人がはじめて釈放される。のち翌年3月末までに全員がカンポをあとにする。日付未確定。
*1949... アレホ・カルペンティエル著『この世の王国』El reino de este mundo。
*1952... ハバナのシンクレアビル7階に日本公使館再開。
*1952.3.7. キューバがアメリカとの相互軍事協定に調印。10日、バチスタがクーデターで実権を握る。
*1952.3.10. プリオ・ソカラスがバチスタのクーデターで政権を追われる。
*1953... アレホ・カルペンティエル著『失われた足跡』Los pasos perdidos。
*1953.7.26. フィデル・グループによるモンカダ兵営の襲撃。
*1955.5.15. フィデル・グループ27人がイスラのプレシディオ(刑務所)から釈放され、すぐさまメキシコに向かう。
*1956.12.2. フィデル・グループ82人がヨット「グランマ号」でオリエンテ州ベリク付近に上陸。
*1957... ハバナに日本大使館新設。同時に開戦以来解散していた日本人会に代わって「キューバ日系人連絡会」が発足。
*1957... アレホ・カルペンティエル著『追跡』El acoso。
*1957.3.13. ホセ・アントニオ・エチェベリアのグループによるバチスタ官邸襲撃が未遂に終わる(日付未確認)。
*1958... アレホ・カルペンティエル著『時との戦い』Guerra del tiempo。
*1958.12.31. チェ・ゲバラ、カミロ・シエンフエゴスの2部隊がサンタ・クララ市を制圧。バチスタがドミニカに逃亡。
*1959.1.2. カミロ・シエンフエゴスがハバナに入り、政府軍を制圧。
*1959.1.3. マヌエル・ウルティアがキューバ臨時大統領に就任。7日、アメリカはウルティア政府を承認。
*1959.2.16. フィデル・カストロが首相に就任。
*1959.6.3. キューバ政府が農業改革法(INRA)を公布。土地配分と協同組合化の第1次農地改革がはじまる。
*1959.10.29. キューバ政府が、アメリカ系企業の利権廃棄と所有地接収を盛り込んだ新鉱業法を公布。
*1961.4.17. プラヤ・ヒロンにアメリカ支援の部隊(反革命軍)が侵攻。19日、撃破される。
*1961.5.1. カストロが社会主義革命を宣言。ハバナ宣言。
*1962... アレホ・カルペンティエル著『光の世紀』El siglo de las luces。
*1962.10.22. ケネディが、キューバでソ連のミサイル基地が建設されているとし、キューバに対する海上封鎖を発表。キューバ危機。11月7日、中国の陳毅外交部長がキューバ支持を表明。20日、アメリカが海上封鎖を解除。
*1963... セベロ・サルドゥイ著『身振り』Gestos。
*1966... ホセ・レサマ・リマ著『パラディソ』Paradiso。
*1967... ギジェルモ・カブレラ・インファンテ著『三頭の淋しい虎』Tres tristes tigres。セベロ・サルドゥイ著『歌い手たちはどこから』De donde son los cantantes。
*1967.7.31. ハバナでラテンアメリカ人民連帯会議が開かれる。武装闘争を強調。~8月10日。
*1969... レイナルド・アレナス著『めくるめく世界』El mundo alucinante。
*1971... ギジェルモ・カブレラ・インファンテ著『平和のときも戦いのときも』Así en la paz como en la guerra。
*1972... セベロ・サルドゥイ著『コブラ』Cobra。
*1972.7.11. 第26回コメコン総会がキューバの加盟を承認。
*1973... ホセ・ドノソ著『ブルジョア小説三篇』Tres novelitas burguesas。
*1974... アレホ・カルペンティエル著『方法再説』Recurso del método、『バロック協奏曲』concierto Barroco。
*1978... ホセ・ドノソ著『別荘』casa de campo。アレホ・カルペンティエル著『春の祭典』La consagración de la primavera。セベロ・サルドゥイ著『マイトレヤ』Maitreya。
*1979... アレホ・カルペンティエル著『ハープと影』El arpa y la sombra。
*1979.9.3. ハバナで第6回非同盟諸国首脳会議開催。9日、最終宣言を採択して閉幕。
*1980.12.17. キューバ共産党第2回大会開催。75年以来5年ぶり。
*1981.2.13. ハバナで亡命希望の29人がエクアドル大使館に乱入。
*1981.7.5. キューバ初代大統領、マヌエル・ウルチアが死亡、81歳。
*1983.1.11. ゲバラ以来、関係を断っていたキューバとボリビアが20年ぶりに国交回復。非同盟特別外相会議が開催されているマナグァで外交関係再開文書に調印。
*1984.2.16. カストロがアンドロポフ前書記長の葬儀出席のあとスペインに立ち寄り、父の郷里ガリシアを訪問。
*1984.7.26. カストロが革命記念演説で、シエンフエゴスに原発建設中と表明。41.7万キロワット4基、86年稼動予定。
*1989.9.3. ハバナのボヘロス地区でホセ・マルティ空港を離陸直後のキューバ航空イリューシン62旅客機(チャーター機)が墜落。乗客の多くはイタリア、ドイツからの観光客。
*1989.10.18. 国連総会本会議、安全保障理事会の非常任理事国(5カ国)後任国にキューバ、コートジボアール、ザイール、ルーマニア、イエメン人民民主共和国(南イエメン)を選出。キューバはカストロ革命以来はじめて。
*1990.1.23. キューバ政府、ハバナ以外でのパンの配給量を2月1日から1日100グラムから80グラムに削減することを発表。配給制度のないハバナではパンが3割前後の値上げに。
*1990.6.19. 11月12日の天皇即位の礼に参加予定のカストロが、同じく参加のブッシュ大統領との会見を日本政府に要請していることが明らかになる。
*1990.9.30. ディアス・バラルト原子力庁長官一行がイランを訪問、核エネルギーに関する2年間の科学協力協定を締結したと発表。ディアス・バラルトは本名フィデル・カストロ・ディアス・バラルトでカストロの長男、2018年死亡。
*1991.2.18. カストロ首相が、ソ連、東欧からの援助削減による経済危機打開のため、10年計画による資源開発と経済再建を呼びかける。原油供給の削減が深刻、外貨不足。潅漑施設の整備による米、野菜の増産、石油開発のための合弁事業、観光産業投資を図る。
*1991.9.5. ソ連のパンキン外相が記者会見で、キューバとの関係再検討を述べる。経済援助の引き締め。
*1991.10.11. キューバ共産党第4回党大会(10~14日)で、宗教信者に対する党員資格取得制限の撤廃を決定。同時に党中央委員会書記局の廃止など党組織の再編成に着手。カストロがゴルバチョフのソ連共産党解体を非難。直接選挙導入は後継者選びか。
*1991.10.11. ソ連からの輸入激減をカストロの発表としてプレンサ・ラティナが報じる。原油は年間1000万トンの95パーセントだが、豆類は50、穀類45、石鹸5、新聞紙2、洗剤は0パーセントに。
*1991.10.22. キューバ政府がウクライナ共和国と向こう3年間にわたる経済協力と貿易協定に調印。

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