正月の寺

門松かどまついうんはな、あれは、地についとらんと意味がない」

 和尚がいった。

 もうどれくらいか、暮れになると思い出す。

 あの頃、京都はほんとに寒かった。それが、その年はいつになく厳しくて、大燈忌を過ぎたあたりから、雪のぱらつく日が続いたかと思ったら、晦日には根雪ねゆきになって、方丈庭の真竹の結界も、青い肩を隠すほどに積もりに積もった。

 そしてあした、東の空がうっすら燃えて、東山もようやく峰筋を伸ばしはじめた薄明かりに、

 かあーん、かあーん、

 魚鼓ぎょくの乾いた音が廊下に響くのだった。と、いつもなら勤行に、まっすぐ方丈に走るのが、その日は、庫裡の書院にぼくらは急いだ。

 ふーっ、ふーっ、

 息も白く凍るばかり、えんが鉛色に鈍くてかり、感覚以上に素足の裏を刺激する。敷居を入ると廊下を背に並んで座った。と、それを合図のように隣の隠寮の襖がいた。和尚だった。けれど押し黙ったまま、ぼくらを前に背筋を正した。つもりだろうが、いつもの猫背が抜け切れない。脇には黒漆の縁高ふちだか二重ふたかさね、一つには搗栗かちぐりが、もう一つにはし昆布が入っている、はずだった。ほかでもない、昨日、ぼくらが揃って支度したからだが、それをまず、和尚が一つずつ懐紙に取り、あとは畳の上を滑らせたのを、ぼくらもならって取り分けた。

 しん、しん、しん、

 素足の甲から畳の冷えが体をつたい、

 ぽり、ぽり、ぽり、

 搗栗のくだける音が乾いて響く、と、それだけ。

 搗栗といったが、よくある、臼でいて潰したあれではない。ふつうに秋に穫れたままの栗の実を、天日に干して焙烙ほうろくる。焙烙は素焼きの皿で、豆や胡麻を炒ったり、朝粥に入れる粉茶を焙じたり、焼き塩をつくったり、どこの台所にも一、二枚はあっただろう。ゆっくり炒ると、茶色く焦げた殻のなかで、ぱらりと実がはじけ、やがて、から、ころ、土鈴のような音がして、爪で割ると焦げ茶にかった丸い実が、ぽろりと落ちた。ちょっと見には甘栗のようでもあったが、ただ固いばかりで、味も、素朴といえば聞こえはいいが、正直、二個三個とすすむものではなかった。それを和尚は、ぽり、ぽり、やると、あとを続けた。

「あれはな、年の初めに吉凶を占う、いうてみたら、御神籤おみくじみたいなもんやな」

 開かれた障子戸の外、濡れ縁の硝子戸越しに、肩に雪を乗せ、手水鉢ちょうずばちに氷が光る。と、あとはどこも薄墨に、少しのいろを添えているのは真紅しんく万年青おもとの実だけ、織部灯籠の裾に一株、これも頭に雪を被って首をすぼめていた。

 ──山には山神やまのかみがいる。神といってもほかでもない、その荒魂あらたまが年を経るうちけがれが取れて、やがて祖霊となって、里のようすうかがいにやって来る。年に一度とはいわない、春は代掻しろかきどきに、秋はり入れどきに、ほかにも孫子まごこがうまくやっているか、折りを見てはやって来る。そのはじめが年の暮れ、家のあるじが山まで迎えにいった。祖霊は山の木々に宿っている。もちろん人目にはつかなくて、だから木ごといっしょに引き抜いて、といって大きいのはかつげないから、せいぜい二、三年の若木を見繕みつくろった……。

 もちろん細かな言い回しは忘れたが、大凡おおよそ、こんなふうだったと思い出している。ただ、それがどうして松の木だったか、とうとう訊けずに終わった。冬枯れの里山に、緑は松の木くらいしかなかったか、戻ると門口や庭先に立てかけた。若松だった。そうして正月を遣り過ごし、うまく根付けば吉と見て、秋の豊穣をねがい、逆に、しぼんで枯れてしまえば凶として、春の田作りを前に心を正した。

「せやから門松も、根がのうては具合が悪い」

 和尚はいった。

 それにも、ぼくらは黙ったまま、ぽり、ぽり、と口のなかは舌と搗栗の修羅場だったが、そこは涼し顔に喉奥にごくりとやって、休む間もなく熨し昆布をねじ込んだ。そしてまた、ぱり、ぱり、くちゃ、くちゃ、苦闘しながら、こっそり腰をひねってはかじかむ足の指をり合わせ、早く終われと祈るのだった。

 いうまでもない、搗栗は勝ちに、熨し昆布はよろこぶに通じるというくだんの倣いだが、そのへんが禅門宗旨とどういう関わりがあったのか、和尚一人の気まぐれだったか、これも訊けずに終わっている。ともかく搗栗は、いくらぐちょぐちょやっても舌の上に残ったし、熨し昆布に至っては、ぬめぬめと虫歯に詰まって難儀した。けれど師弟向かい合っての年初め、気分は妙にきりりとしたものだった。終わると和尚は、まずは自分に、あとは兄弟子から順繰りにぼくらに茶をてた。もちろんその間も変わらず話は続くのだが、一巡すると、ぼくらを見回し、「まあ、そういうこっちゃ」と猫背を伸ばし、「今年も気張きばってやってくれ」と叱咤しったした。

 それに一番上の兄弟子が、「よろしく、ご教示ねがいます」とお辞儀して座を締めた。

 寂しいもののたとえに正月の寺。いつもなら朝も早くから境内散歩にせわしい町家の爺婆も、正月ばかりは背を向ける。そんな年明けの宗門に、門松の話というのも妙なものだったが、和尚の話とは裏腹に、山内どこの塔頭にも門松など影もなく、赤松並木の参道は泥沼のように、しんと静まり返っていた。

 というのは外見そとみだけで、塀のなかで正月の寺はけっこう忙しかった。まずは大晦日から、ぼくらはほとんど眠っていない。山内挙げての暮れの仏事が本山伽藍で続いていたからだが、夜、十一時、まず鐘楼に鐘が鳴る。いているのは禅道場の月番雲水だ。町家では年越しの蕎麦でもすすりながら、歌合戦のとりを待っている頃だろう。禅門の年初行事、祝聖しゅくしんのはじまりだった。

 除夜の鐘は、いまはどこにもあるが、もとは禅門にはじまっている。唐宋の頃だと和尚は教えたが、欠かさず朝夕の二回いて修錬の刻を知らせていた。夕焼け小焼けで陽が暮れて……、あの鐘は、きっとそんな名残だろう。数は百八、いろいろわれはあるけれど、この国にやって来たのは鎌倉の頃らしく、室町に入ると百八撞くのは暮れの晦日の一夜だけになっている。百八は煩悩の数だとか、いろいろいっても、もともとインドで百八は、数え切れない、というくらいの意味だった。実際、雲水も数を忘れないよう、とお撞くごとに一つずつ、割り箸のような短い棒切れを足元に並べて記憶の足しにしている。

 そんな鐘の響くなかを山内住持が勢揃い、大燈以来の歴代住持の塔所、つまり塔頭を声明して回る。巡塔諷経ふぎんといったが、終わって和尚が戻る頃にはすっかり年も越していた。

「お帰りなさい」

 頭から蒲団を被って、うつら、うつら、待ちに待ったぼくらは、それっ、とばかりに玄関に走って迎え、返すその足でまた蒲団にもぐる。と、うと、うと、する間もなく、かあーん、かあーん、方丈に魚鼓が鳴るのだった。打っていたのは一番上の兄弟子で、いつ、どんなふうに仮寝かりねをしたか、鍛練の人だった。

 そして、さっきの搗栗と熨し昆布の、ぱり、ぽり、くちゃ、くちゃ、がはじまるのだが、終わると和尚は、そのまま隠寮に戻って静かになった。けれどいくらもしないで、また続きの祝聖に出かける。これには一番上の兄弟子も脇侍わきじについて、ぼくらは二人を玄関に見送った。

「いってらっしゃいませ」

 凍てつくゆかに額ずくと、「んっ」と一言、和尚は背中でいって、雪のなか、ふんわり浮かんだ飛び石に、ニの字ニの字に歯跡を残し、すた、すた、行った。それを兄弟子が、風呂敷包みを小脇に追いかける。なかにはきっと木靴や法具が入っていただろう。まだ薄暗い足元を、綿雪が法衣の裾にあおられて、ふわり、ふわり、舞い上がる。それをたしかめ、ぼくらは、また蒲団に走った。

 仏殿では、愚中ぐちゅう大般若経といったと思うが、大般若経全六百巻の転読があっただろう。得度もなしに寺を逃げた小僧はそんなふうにしかいえない。だから人伝ひとづてをもっともらしく続けてみるのだが、愚中というのは午前十時のことらしく、そのように朝の十時から大般若経の声明がはじまっている。といっても六百巻もの大部だから、まともにやっていては日が暮れる。だから飛ばし飛ばしでずるをする。これは愚中声明にかぎらず、和尚不在の勤行で、兄弟子の隠し技の一つでもあった。

 ともかく愚中の経机には、経巻が山と積まれている。その一つ一つを、まず最初の七行を声高に唱えると、頭の上に高くかざし、アコーデオンを広げるように、ばらばらと手繰たぐってみせる。と、今度は真ん中あたりの五行を唱えて、また、ばら、ばら。そして最後は終わりの三行を同じようにやっては次の巻へと移っていく。思い浮かべるだけで、くすっとくるが、それを形振なりふりかまわず続けるのだから、奇妙なけしきだったにちがいない。

和尚の寺

 大般若経はあの玄奘三蔵がインドから持ち帰って漢訳した。玄奘の最後の仕事で、この国には平安初期に伝わったらしい。字数にして五百万字というから、単行本なら優に三十冊は超えるだろう。自然、すべてを唱えるには三日三晩かけても足りるかどうか、それをさらりと七五三に、数もきれいにすませてしまう。小僧暮らしもそうだったが、仏教教理には、そんな不思議な理屈がいくつもあって、ぼくらを悩ませた。

 和尚はいった。

「人間界のどろどろを、いらんもんはぎ落とし、得心のいくもんをことわりに編み出した、それが釈迦の教え、つまり仏教なんや」

 けれど、ぼくらはいつも腹をかし、ただ眠りたかっただけ。だから正月もくそもなく、粛々しゅくしゅくと続いただろう祝聖の間も泥のように眠りこけた。

 あとは知らない。はたと気づいて跳び起きると、中庭に雪は止んでいた。どういうわけか、宵の雪もあしたには上がる、不思議な京都の空だった。

 そして北山颪にも、あれほど碧く楚々としていた青木も一夜でてつき、葉は撓垂しなだれ、幽霊の陰手いんでのようにだらしない。それをなだめるように綿雪が、白梅しらうめのかたい蕾をふんわり包み、花が開いたようで温かかった。と、かた、かた、かた、下駄の歯音に、ぼくらは蒲団をねた。

「戻ったぞ」

 大戸がいて、和尚だった。後ろで兄弟子が鼻の頭を真っ赤にしている。

「雪は、みかけが、いっちょう冷える」

 玄関の上がり端に両手をついて沓脱に下駄を脱ぐと、ぼくらを見回し、

「用意しておけ」

 短くいって奥の書院に猫背に消えた。

 そしていくらもしない。戻った和尚は作務衣姿だった。もちろん、ぼくらも同じに待っている。恒例の年明け作務、といっても例年いつもなら、参道の枯葉や落ち枝をさらりとやってそれで終わる。ところが大雪のその年は、南門を下りた歩道の雪掻きまで加わった。

 門前の電車道は、さすがに雪の元旦、走る車もぴたりとなくて、真ん中に軌道が四筋、黒く走ってなければ、ただの雪野原と見えただろう、大路がさらに広く見えた。すると余計に背筋が寒く、たまらずみぞれみる藁草履で何度も足踏みしてみるのだが、冷たさも通り越してただ痛いだけ。と、そこは我慢。さらいで雪を掻き、竹箒たけぼうきで掃きながら進むと、やがて手も足も不思議に、ほこ、ほこ、作務衣の背中も汗ばんだ。そうして半時、石畳の目地も露わに歩道が蘇った。

「かなんなあ」

 背中に聞こえた。二人連れだった。道行みちゆきの肩を羽毛の襟巻に包んで首をすぼめ、建勲もうでか今宮詣でか、ぼくらを見留めると、

「おめでとうさん」

 母親らしい年配女が白く息を残して通り過ぎた。

 ぼくらは、のそっと会釈する。と、

「やあ、おめでとうさん、足元、気いつけておまいりやす」

 和尚がにっこりこたえた。

 それにぼくらはあんぐりまなこ。京都も、ことに禅寺は町家といらかは並べても、どこか一線を画するけしきがあって、よほどの見知りでないかぎり、行きずりに声をかけることなど更々さらさらなくて、後にも先にもそれきりだった。

 

 そんなことも懐かしく、電車道から、まっすぐ伸びる参道をぼくは辿っていた。あの頃は嫌な道だった。それが、なんとなく温かい気がするから不思議で、

「ご無沙汰してます」

 声をかけると振り向いた。南門のとば口だった。参道脇に背中を見せてかがんでいた。てっぺんの大きく平たいつるつる頭だからすぐわかる、一番上の兄弟子だった。

「ちょっと近くまで来たもんですから……」

 そうではなかったが、そうしておいた。すると、しばらくあって、

「おう、おまえか」

 ようやく記憶を繋げてくれた。

 家人は里に帰り、一人正月の、空虚うつろ暮らしのふらり旅だった。明けて二日でもよかったが、あの感触をどうしてもたしかめておきたかった。

「久しぶりやなあ、元気にやっとるか?」

 団扇顔をさらに広げて目を細めた。

「やっぱり作務でしたね」

 傍のさらいを指さすと、あとはわかってくれたようだった。

 ぼくには三人の兄弟子がいた。いっしょにいたのはばらばらで、いずれも僧堂勤めが終わったあと、すぐ上の一人は奈良の大宇陀の末寺に入り、中の兄弟子は和尚の寺を嗣ぎ、一番上の兄弟子は、訳あって偶々たまたまいた隣の塔頭に入っていた。

「よう覚えとるなあ」

 宗門には休日も旗日もなくて、元日といえども欠かさず作務に出る、あの頃の慣習きまりをいっていた。

「いまはむかしとちごうて、祝聖のあとくらい、炬燵にもぐっとってもええんやが、なんちゅうか、体が覚えとるんやな。ごろごろしてると気持ちが悪い」

 いってはみたが、ちょっとつらそうに両手を膝に立ち上がると、くの字に曲がった腰をさすった。

としには勝てんでな、へたったら、じきにこないになりよる」

「あの年は大雪でしたね」

 すると、またわかってくれた。

「せやったな、もう何年になるかなあ」

 ぱた、ぱた、と、作務衣のちりを払いながら背を伸ばし遠くを眺める。そんな眉にも長く白いものが目立つようになっている。

「五十年ですよ」

「そないになるかなあ。あちこち、体にがたが来るはずや」

 首を捻って笑ったが、ややあって、ぼくを見据えた。

「で、ほんまは、ついでやないんやろ」

 とっくに見透かされていた。

「まあ、ええ、ひさしぶりや、ゆっくりしていけ。老夫婦としよりだけで、だれもいひんわ」

 と、くるりと背を向け、先を行った。

 思い立ったら、電話も入れずにふらりと訪ねる。ぼくの悪い癖で、胸の内で詫びながらあとについた。といっても目と鼻の先、南門とは築地続きの棟門を入ると、茶枯れた下りの苔庭を飛び石伝いに、とん、とん、行って玄関脇の木戸をくぐった。きーっ、蝶番ちょうつがいが情けなそうに小さく鳴いた。

「おーいっ」

 勝手口で奥を呼んだ。

「めずらしいもんを拾うてきた」

 人を塵か糸屑のようで、小耳にさわったが、それもすぐに心地よい響きになって消えている。どういう理由わけか、結界のうち、特有の物言いで、ああ、そうだったね、と思い出していた。

「あら、ほんまや、めずらしい」

 前垂れで手を拭きながらおくさんが暖簾から、と思ったら、

「はて? どなたはんどしたかな」

 この街らしいけといっしょに笑顔を返してくれた。軽く無沙汰をたしなめているのだった。

「久しぶりやね、おめでとうさん」

 大阪も根っからの船場育ちなのに、すっかり京言葉が板についている。ただ、抑揚の匙加減がいま一つだった。ぼくもそうだが、大阪人に京言葉は難しい。どこか根っこのところで張り合うものがあるのか、つづりでは変わらなくても言葉の節々の上げ下げに、いうにいわれぬちがいがあって、たとえば〝おおきに〟も、大阪では平たく流すが、京都人は〝おーに〟と一山つくって念を押す。だから大阪人がそれを真似ると、人を小馬鹿にするようで禁忌だが、檀越相手の鍛錬の成果か、おくさんの大阪訛りの京言葉にはあのべたつきがなく、さらりと柔らかく気持ちよかった。

「お正月やからね」

 あとについて通されたのは方丈の書院だった。それをすぐに兄弟子が追ってきて、

「ちょっと早いが、ちゃあいうんもなんやから」

 一升瓶を見せて、にやりとした。

「いけるやつとは、これにかぎる」

 そうして、二人、昔語りに、やがて酔いも回り回って、何を思ったか、兄弟子が、ぐいっとあおった杯をぼくの鼻先に突き出した。

「それでやが、おまえはどない思う」

 にらむように赤ら顔でいう。

 んっ?

 なんのことか、わからないでいると、

「わしも、そろそろ、けりをつけようと思うとる」

 真顔にいった。

「息子らもひとり立ちして外でなんとかやっとおる。それはええんやが、気になるんはこのひとなんやな」

 脇には少し下がっておくさんが、にっこり笑顔でちょこんといる。

「和尚がいうとったんを覚えとらんのか?」

 わからずにいると、呆れたようで、

「寡婦、女犯のつけを喰う」

 いて、への字に口を結んだ。

「………」

 返す言葉がなかった。

 と、ぴしゃり、

 障子戸の外、広縁先の泉水に、うおが跳ねた。

 

 ぼくには意外だったが、和尚にもおくさんがいた。庫裡奥に人目をはばかり、大黒という言葉もまだ少しは生きていた時代だった。それを不浄に思ったのがぼたんの掛け違いで、やがて寺を逃げることにもなるのだが、何も知らない少年だった。

 たしか東京の、ごふくばし、といったと思う、音の響きで浮かべるだけだが、帯の老舗問屋の出戻り娘で、としの割りに丈のある、細面にきりっと柳葉目の、たぶんむかしはきれいなひとだった。

「茶会でうたんを、人に頼まれて知り合いにすすめたんやが、ひょんなことでわしんとこに来ることになった」

 和尚はうそぶいたが、さてどうだったか。ともに五十手前でいっしょになって、七十を過ぎておくさんの方が卒中で寝込んだのを、五年たあと冥土に送っている。その野辺送りをすませての夜だった。

「ご苦労やった」

 奥の書院にぼくらを並べて、ぼそりといった。

「可愛そうやったが、寿命やったと思う」

 そして、あれこれ、ぼくらにもねぎらいを忘れなかったが、最後に一言、

「やっと、肩の荷が下りた」

 だれにいうともなく呟いて、それでなくてもで肩をさらに落として背中を丸めるのを、ぼくらは想い想いに見とめていた。

 それを、同じように兄弟子が、

「あのときはわからんかったが、ここに来て骨身にみる」

 眉根を寄せていうのだった。

 住持遷化せんげで住寺をける、禅門には譲れない鉄則があった。理屈はどうあれ、住持がけば寺を明け渡すのがあたりまえ。晋山しんざんといって次の住持がやって来る。だから女は居られない。いまはどこもだれ合って、娘に婿をとってまで誤魔化しているが、ほんとうはいけないことで、行雲流水、ところ定めず遊行ゆぎょうに生きるのが禅僧だから、本来、禅僧に住寺はもちろん戸籍もない。出家とは家を出ること、つまり姓を棄てること、父との縁を切ることなのだから。

 それが明治に入って、肉食、妻帯、蓄髪も勝手次第となり、それどころか苗字も持たねばならなくなって、さらに生きる糧の托鉢まで禁じられてしまう。太政官布告、問答無用のおたっしだった。ねらいはもちろん明治政府による寺領奪いだったが、苗字を持つというのは、素直にいって還俗することで、そうしてこの国に、ほんとうの出家は一人もいなくなっている。居処を定めたから、道にこうべあつむことなく、衣食えじきのために生きねばならなくなった。宗門、とりわけ禅門の、じつは苦難のはじまりだった。

 兄弟子は続けた。

「息子たちの世話になるんもええが、そうもいかんでな」

 衣紋えもん掛けのようにいかつかった肩もすっかり落ちている。それをおくさんが脇から助けた。

「知ってはるやろか? 男山おとこやまのちょっとこっち。むかしは、竹藪がずうっと続いてたんが電車から見えましたやろ。あれがきれいさっぱり分譲地になってね、そこに上の子夫婦がおるんですわ、孫もできて」

 目を細めたが、

「けど、いろいろあってねえ……」

 兄弟子の横顔を窺うようにあとを濁した。

「どこにお勤めですか?」

 ぼくは話を振った。

「はあ、大阪の天満の製薬会社に行ってるんやわ」

「早いもんですね」

 いいながら、空で指折りかぞえていた。あれはいつだったか、まだよちよち歩きだった。

「あっという間やった。男の子やったんでうれしゅうてな、学校に上がる前から剃髪さして、経も教えてはみたんやが……、反対の方に行ってしもうた」

 肩を落としてうつむいた。

 だから、むかしをいってみた。

「可愛かったですよね、くりくり頭で。ほら、そこの広縁で胡座あぐらの膝に乗って遊んでおられた。あれは何歳いくつぐらいでしたかね」

 寺をしくじって、十年ぶりだったか、訪ねた一日のことだった。兄弟子も家庭を持ち、子どもも二人に増えていた。それが墨染一色の禅寺に、淡く桃の花でも咲いたかのようで、禅寺にもこんなけしきがあったのか、とぼくらのむかしを思って、不思議な温もりを、割り切れないまま、ぼくにはうれしかった。

「けど、よかったと思うとる。いまは山内どこも息子や娘にあとをとらせよるが、あれは、やっぱりいかんこっちゃ」

 ぼくは黙ってうなずいた。

「ほんまをいうたら、息子が二人とも、寺はやりとうない、て、いうてくれたんで胸を撫で下ろしたんやった。あとのことは、わしら二人の問題やからな」

 すると、おくさんがにっこりいった。

「お嫁に来たときにね、わたし、この人にいうたんですわ。うちは好きでここに来ましたけど、子どもには押しつけんときましょね、って」

 さっきまでの〝和尚さん〟が〝この人〟になっている。そして、よっこらしょ、と掛け声一つ、いた銚子を盆の上に敷居を出た。その後ろ姿を、兄弟子が、そっと肩口から見送っている。

「住持の務めは、ほかでもない、預かった寺を護るだけのこと、そしてもともとあったままにお返しする、これに尽きるわな」

 静かにいって、

「たいしたことはできんかったが、ここを護るだけは、わしにもできたと思うとる」

 満足そうにした。

「ここは、ほんとにひどかったですからね」

「そやったなあ、本堂も、大棟が蛇のようにのた打って、あちこち、ぺんぺん草まで生えとった」

 本山塔頭にあって嘘のような話だが、ほんとうで、ぼくらの寺とは隣り合っていたから、すさみようも築地越しに窺えて、あれやこれや、京童さながら悪たれ口を叩いたものだった。あろうことか、先住は博打に入れ上げ、ては金貸しにまで手を出し、夜逃げ同然に雲隠れしていた。

 子どもも、たしか女の子が二人いた。上の子は小学校に上がっていたか、表の参道で二人鞠つきをしたりゴム跳びをしたり、無心に遊ぶのを、遣い走りの行き帰りにそっと尻目に温かかった。その襤褸寺の再建に和尚は兄弟子を入れたのだった。あの頃、和尚は宗門筆頭の最高顧問、すべてが意のままだった。

「びっくりしたなあ、上がり端に立ったら、ゆかが抜けたんやから」

 団栗眼が団扇うちわ顔をさらに大きく見せた。

「それを大工を頼んで、いっしょにり替えたんやった」

「そうでしたか」

 逃げたぼくはそれも知らない。

「屋根だけやのうて、建具も何も滅茶苦茶でな、障子のてもぎしぎしいうて、さんもあっちこち、こぼれとった。けど、もったいのうて、部材を買うてきてげ替えたんやった。ほれ、そこも色がまんだらになっとるやろ」

 広縁との仕切りだった。建て付けのあやしそうな障子戸を指さした。焦げ茶に煤けた桟の節々に色の浅く抜けたところがいくつも見える。すると、明るくいった。

「知ってるかな? 修学院に抜ける、ほれ、雲母坂きららざかのかかりに古い百姓家がいてるらしいてな、植木屋の親爺が見つけてくれた」

 比叡山の登り口に物置同然にあるらしかった。

「そうですねん、茅葺きでね、だいぶ草臥くたびれてるみたいやけど、造りはしっかりしててね、二間ふたま続きに納戸とお勝手があって、年寄り夫婦にはもったいないくらいで」

 敷居の外、廊下を戻ったおくさんもうれしそうだった。それを兄弟子が振り向いて銚子をとると、

「熱いのんをいこう」

 と促した。

「宗務総長も春には満願でな、大燈さんも、もうわしに用はないやろう、ええ頃合いやと思うとる」

 黙ったまま、返事代わりに杯を、ぼくはぐいっと空けて差し出した。酒にはざるの兄弟子だったが、呑むとすぐに赤くなる。そこへ気の緩みも手伝ったか、火照ほてり顔をさらに赤らめ、ぼくも久しぶりに心地よく、時間を忘れ、夜は宿に戻れないままになっている。

 それから一年、暮れの挨拶に送った新酒に、明けて春、短い便りがあった。

『御身健勝問候。歳晩、美酒恵贈、唯々感謝』

 あの日蓮さんも顔負けに、ぺんぺんと裾の跳ねた勢いのいい筆だったのが、蚯蚓みみずったようにくねくねと、あちこちかすれたり、少しの震えも見えて、先をこう結んでいた。

『拙僧、故あり余生断酒を誓い候。只今、鍛錬中』

 断酒?

 嫌な気がした。

 どこか体でも悪くされたかな?

 心配したが、所番地の以前まえとちがうのに事情が読めた。

「やっと、自由になった……」

 そんな声が聞こえる気がした。

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