香り梅
小僧部屋に一つ開いた腰窓の、明かり障子の向こうだった。本堂に続く渡り廊下を挟んで中庭の、深く苔を被った築山の裾に、腰丈ほどの雪見灯籠があって、脇から梅の古木が傘を差しかけるように乾いた枝を広げていた。
それがなんとも花が遅くて、三月に入ってようやく、ここは桜に越されては顔が立たん、とばかり、薄紅色に蕾をつけた。そして半ばを過ぎると枝一面に大きく咲いて、寒の名残の北山颪に、ひらり、ひらり、花弁を散らすと、薄茶に萎んだ萼の付け根を淡い緑に膨らませた。
丈はそんなでもなかった。いくら背伸びをしても、弓反りの本堂屋根の庇にも届かない。それでも毎年、 七、八十は実ったか、梅雨はじめに庫裡裏のもう一本といっしょに摘んで、庭蔵から担ぎ出した丹波の大壺に塩を塗して重石を置いた。
そして二十日ばかり、壺の口まで果汁でいっぱいになったのを、一つ一つ取り出して、方丈庭に三日三晩、天日に干したあと、また大壺に戻し、塩揉みの紫蘇を着せてゆっくり寝かせた。それを朝に二、三粒、次の夏まで粥座の卓に乗せたのだった。
「わしが来たときから、あんなもんやった」
和尚がいったから、ずいぶんな樹齢だっただろう、ずんぐりむっくりの太い幹は中程から根元にかけて、ぱっくり、縦に大口を開け、がらんどうの腹腔が痛々しかった。それがどうしたわけか、明くる年にはどの枝も隠れんばかりに花がつき、梅雨の長雨前には鈴なりに実を膨らませた。
「こいつ、どないしよったんやろ?」
びっくりしたのは和尚だった。ただ、ぼくら小僧は塩漬けしたあとの日干し作業がたいへんで、ふだんの竹籠だけでは足りなくて、夏の日除けに使っていた葦簀を、これも庭蔵から引っ張り出して方丈庭に広げた。
そして秋口、台風一過の、からりと明けた朝だった。苔庭の落ち葉や枯れ枝の後始末に忙しいぼくらの後ろで、倒れた。
それが、んっ? と周りを見回したくらい、静かだった。
「最期を悟っとったかな?」
すぐ傍の渡り廊下で和尚がいった。東司への帰りだったか、寝間着姿で、いつもならぼくら小僧といっしょの作務衣なのに、その日はめずらしく風邪をこじらせ寝込んでいた。
「寿命やろう、根方はそのままにしといてやれ」
体が辛かったか、それだけいうと奥の隠寮をさして、とぼ、とぼ、行った。その丸めた背中を、ぼくらは庭先から見送った。
「ほんに、これじゃ、倒れるわな」
根方を覗きながら上の兄弟子が、丸い目をさらにぱちくりさせて呟いた。黴なのか苔なのか、倒れた幹はかさかさに粉が吹いて、そのまま風呂の焚き口に突っ込めば、きれいさっぱり灰になったにちがいない。ただ、兄弟子はやさしかった。鳥取の、たしか東郷の人だった。担いで運ぶと小枝を払い、庫裏裏の、納屋の軒下に立てかけた。それを後日、和尚が通りがけに見つけ、なにやら気儘につくって自慢した。
「ほれ、見い、ええ仏さんになりよった」
どこにそんな技能があったのか、といってとくに鑿を揮ったわけでもなく、もちろんそれに堪えられるほどの幹でもなかったから、ちょっと力を込めただけでも、さくっと毀れる。それを腕丈ほどに細長く手折り、あとは小刀で刮ぎ落としただけの素直なもので、勝手に仏の姿に見立てて隠寮の客間の床に置いていた。円空のそれ、といえばわかりよいか、もちろんいい過ぎなのはわかっているが、妙に和尚は気に入って、来る客相手に鼻の穴を膨らませた。
「どや?」
いわれて客もこたえようがない。けれどそこは人扱いには強者ぞろいで、
「なかなかのもんですな」
決まり文句でさらりと躱す。そのように和尚が勝手に納得しているだけで、どんなに目を凝らしても、ただの枯木の木っ端だった。それが偶には、できた客もいて、
「ほおーっ、これ、和尚さんが? なかなかよろしなあ。この辺りの線の流れ具合が、なんというか、味があります」
とくすぐってみせるのだが、そこまでだった。だから客が表に消えると、
「も一つ、わからんやっちゃ」
舌打ちして、一月ばかりでどこかにやってしまった。
そんなむかしも懐かしく、二人、彼岸過ぎの一日だった。
「大宇陀に行きたいんですが……」
近鉄名古屋線を桜井に下る少し手前、榛原駅の改札だった。駅員に訊くと、なんのことはない、すぐ前にバス乗り場があった。
県道に出ると、乗合バスは宇陀川に沿って、がた、ごと、走った。そして谷奥さして半時間ばかり、揺られ揺られて小学校らしき校舎を過ぎたあたりでたしかめてみた。
「かぎろひの丘って、ここら辺ですか?」
すると一瞬、首を傾げたが、すぐに笑顔が返ってきた。
「ああ、万葉公園な。それやったら次の停留所を右に入ったとこですわ」
同年輩の運転手だった。
脇道を入ったが、春の空はわからない、東京でからりと晴れていたのが、名古屋に入ると薄墨雲が流れはじめ、名張を過ぎると、ぽつり、ぽつり、窓を濡らしていた。それが急に荒れ出して、広げた傘をしならせた。
「大丈夫?」
気遣いながら野道を行くと、くねくね坂の上りの終てに大きな茅葺き屋根が頭を見せた。
「松源院を知っとるか?」
前の年の暮れだった。無沙汰続きにぶらりと大徳寺に上の兄弟子を訪ねていた。
「大宇陀のな、かぎろひの丘いうて、ほれ、人麻呂の、あれ……」
兄弟子もそうだったか、ぼくもここに来てちょっと惚け気味で、すぐに言葉にできなかったのを、ええ、とわかったふうにこたえると、
「あのちょっと先や、序でがあったら、いっぺん行ってみい」
といわれていた。
人麻呂の……、と兄弟子が額に手をやったのは、ひんがしの野に陽炎の……、とはじまるあの歌だろう、あたりが整備され、名前もきれいに万葉公園となっているらしかった。
松源院といったのは、大徳寺二十六世住持で、一休さんの兄弟子にあたる養叟宗頤の塔所のことで法嗣の春浦宗凞が開いている。大徳寺ではごく初期の塔所だが、失火で焼けて廃絶のままになっていた。それを和尚が大宇陀に古民家を借りて再興していた。
養叟といえば、河内から紀ノ川に抜ける紀見峠にしばらく庵を結んでいたこともあるらしいが、どうして山内でなく、縁も所縁もない遠く離れた大宇陀だったのか、ぼくなりにいろいろ想像してみるのだがわからない。焼けた松源院の跡地には方丈を移したから、山内には影も形もなかったが、代替地は境内南の外れの一画に残されていた。それを隣接する塔頭が、たぶん戦後のことだろう、いつの間にやら自院の墓地に転用してしまった。だから再興するにも行き場がなく、外に伝手をさがして大宇陀を選んだのだった。養叟には勝手のちがう馴れない土地で気の毒な気もするが、やっぱり、和尚は大徳寺最高顧問、すべてが我が意のままだった。
養叟宗頤という人は、法嗣の春浦宗凞同様、いろいろ話題の多い人だったらしい。あちこちで女性との関係も取り沙汰され、一休さんの『狂雲集』や『自戒集』でも、二人とも、ここでいうのも憚るような口汚い言葉で扱き下ろされている。もちろん一休さんはたいていの人にそうなのだが……。ただ、女性といっても、二人が関係したのは、社会でいうその筋の人ではなく、尼僧だった。だから同業の一休さんも具体的なことまでは伝えていない。
ここで知っておきたいのは尼僧というもののほんとうの姿だ。この国での尼僧は、記録に残るところでは、蘇我馬子のもとで技術集団の長だった司馬達等の娘が、渡来した高句麗僧から受戒して善信と名乗ったのが最初とされている。それが翌年、物部の廃仏騒動で法衣を剥がれ、海石榴市といって、いまなら駅前広場かコミュニティーセンターにあたるだろうか、公衆の面前で鞭打ちにされたという週刊誌的な話も記紀にはあって、女性の出家は容易でなく、天平期には国分寺と並んで国分尼寺もつくられるが、以後、平安期を通じて女性に戒を授けることは許されなかった。
もちろん貴族の妻たちは、床避りといって、一定年齢を過ぎると若い後妻にあとを譲って出家、尼になることがふつうにあった。ただ、それもあくまで私的なもので、正式な尼僧はどこにもいなかった。平安仏教の双璧、空海の高野でも最澄の比叡でも尼僧への授戒の例はない。
それに道を開いたのが鎌倉仏教だった。多くは室町期に入ってからのことだが、ことに臨済禅で盛んだった。ちょうど養叟の頃にあたる。スポンサーである檀越の室町貴族や足利将軍家一族の女たちの要望にこたえたもので、本音をいえばかれらからの寄進を期待したものだが、養叟も春浦も盛んに授戒した。だから女性の出入りも当然だった。
同じことは武士社会にもいえて、平安仏教から疎外された新興の鎌倉仏教は、中央貴族社会から弾かれた地方武士団に門戸を開くことで宗門維持を図り、地方武士はそれを受け容れることで中央に勢力を結ぼうとした。地方武士団に、禅、ことに臨済禅の帰依者が多かったのはその結果で、春浦の場合は、たとえば関東武士団の雄、北条早雲が若い頃から師事していた。
「あれかしら?」
前を行っていたのが思案顔に振り返った。二人だけの野道は、春の嵐の小高い丘を上っている。それをさして、途中、民家を二、三軒、やり過ごして辿ると黒塗りの長屋門の前に出た。ずっしりと重そうな、四角張った門柱に青い真竹の結界が二本、ぴしゃりと、向こうとこちらを隔てている。どこか俗世を蔑むようで、むかしを思い出して足が竦んだ。
「入れないのかしら?」
不安そうにした。
すると、後ろで声がした。
「お詣りですか?」
後ろ手に、白髪頭の老爺だった。
「以前は、こんなんやなかったんですがな」
苦々しそうに青竹を顎でさした。
「いくら流儀いうても、わしら村の者にしたら、なんや除け者にされてるようで、いただけまへん」
と、呆れ顔。
「前任の和尚さんは、そら、まあ、気のええ人でな、門もどこも開けっ広げで、わしらも用もないのに、茶飲み話に入ったり……。それが、今度の人はこれですわ」
門柱の厚い木札を睨みつけるようにした。拝観謝絶、と筆跡も黒々と真新しかった。それを二人、遠く、何気に眺めていると、気の毒に思ったか、
「なんやったら、頼んでみまひょか」
気遣ってくれたが、むかしは結界の内の一人だったから、拝観など、そんなつもりは更々なくて、
「結構ですよ」
とお礼をいったが、隣を見ると、気になってしかたがないらしく、ちょこ、ちょこ、行くと青竹の結界越しに奥を窺うように身を乗り出した。何にでもすぐに興味を示して、おまけに諦めの悪い人だから、旅の先々でそんなふうにいつも二人はちぐはぐになる。ただ、その日はぼくもつい釣られ、あとを追って後ろを肩口から首を伸ばした。
まず、まっすぐ、枝垂れ桜の老木が目に飛び込んできた。庭先のどん突きに存在感を示していたが、花はまだない。そして後ろの白壁塀の上には、吉野の峰々だろう、烟って見える。その脇に長棟の母屋が手前から長く続いていた。桁行十間はあるだろう、大棟だが、ふつうの民家で、濡れ縁も入り口の大戸もぴしゃりと閉ざされたまま。入母屋の大屋根は、茅葺きだったのを葺き替えたか、鼠瓦が真新しかった。
「へえー」
何かを見つけたようだった。
「どうかした?」
「ほら、あそこ」
大棟の妻のあたりを指さした。
「なんか、変よね、あの窓」
いわれてみれば、破風の真下に、明かり採りなのか、小窓が見えて、青やら赤やら緑色に光っている。ステンドグラスだった。
「お寺なのに、なんか、意味があるの?」
と、ぼくを見上げた。そして、息つく間もなく、
「ほら、このあいだの、あそこ、あれといっしょよ。何ていったっけ、あのお寺」
んっ……?
「そう、そう、新薬師寺よ、あそこの窓も同じだった」
自答して、一人、すっきりしていた。
このあいだ、といったがもうずいぶんになる。三輪山の裾から山辺の上ツ道を北に春日まで歩いたときのことで、日の暮れ前にそばを通ったので訪ねていた。日本最古だという十二神将をおさめた堂宇の一画の東側だったか連子窓に、不思議な緑や赤の賑やかなステンドグラスが嵌まっていて、二人、目を丸くしたのだった。おまけにモーツァルトだったか、リフレインのしつこい音楽も流れていた。
「ほんま、けったいでっしゃろ?」
後ろで老爺だった。
「ようわからんのやが、あすこで、なんや、坐禅でもしよるみたいで、むかしの屋根裏をやり替えたんやろな、仏さんも祀ってあるらしいてな。ときどき外人さんも来てなさって、妙な音楽もかかっとりますわ」
「禅堂かしら?」
脇からいった。最近、けっこう仏教伽藍に詳しくなっている。
「そうでっしゃろな、もう三年になりますやろか、大けな台風が来よりましてな、屋根が飛ばされたんですわ。それでわしらも手伝うて葺き替えたんやが、そのときに改造なさったんやろな」
老爺も入ったことがないようだった。
ぼくは思い出していた。
「新聞、見たかい?」
晩飯のあと、ごろりと横になってテレビを見ていたら電話が鳴って、受話器を取ると親友だった。
「和尚さん、亡くなったね。訃報に出てるよ」
そして明くる始発の新幹線に乗ったのだった。
逃亡のあと一度も訪ねていない。盆前の暑い一日だった。記帳の列に並び、仏殿の柩の前に手を合わせ、ふと見上げると、うおーん、うおーん、と声明の重く響くなかを、けしきのちがいに、あれっ? と思った。仏殿古来の瓦敷きの床はそれでいいのだが、脇の連子窓に光が鮮やか過ぎた。びっくりした。なんと、七色のステンドグラスが填まっている。
逃亡のあとしばらくして和尚は中の兄弟子にあとを譲り、本坊裏に、開山大燈の孫弟子にあたる言外宗忠の塔所を復興して移っていた。だからぼくにははじめてだった。禅門にどうしてステンドグラスなのか、不思議だったが、和尚のことだ、きっと深い理由があるんだろう、とそれぐらいに思って心の隅にかたづけていた。
和尚は、百歳を過ぎても変わらずにいた。
──お茶と作務は、長生きの秘訣じゃ、
口癖だった。抹茶を飲むと癌にならないらしかった。毎日欠かさず作務を続けると惚けないらしかった。人一倍、健康を気にかける人だった。
といってもさすがに足腰も弱り、冬の一日、朝課の仏殿で転んで瓦床に腰をむさんこに打ちつけ、車椅子暮らしになっていた。けれど元気でいた。
それが急に逝った。百と五歳だった。この国の僧尼に長生きが多いが、なかでも最上位に入るだろう。野送りには山内住持がそろって顔を並べた。法衣袈裟懸け姿で、それぞれ腹を抱えるようにでんとはしているが、よく見ると、あれ、あいつか? あれもだ、と、かすかに覚えのある顔もいくつかあって、といってもやはり落第小僧の身、憚るようにして遠く柩を見送った。
ゆるり、ゆるり、時を惜しむかのように黒塗り車が参道を行く。と、引かれるようにして、位牌そして骨箱を胸前に、上の兄弟子と中の兄弟子が先導して、そろり、そろり、列が続いた。和尚には、知ってる限り六人の弟子がいた。けれど、結局は二人だけになっている。その葬列のどん尻に参道を外してぼくはついたが、三門を過ぎて惣門にかかる手前だった。列はいったん足を止め、上の兄弟子と中の兄弟子がやはり位牌と骨箱を胸前のまま参道を逸れ、三門の東脇を奥に向かった。あたりは、一見、変わらないように見えたが、生け垣に隠れるように鉄柵ができて、立ち入り禁止の高札もかかっている。思案のしどころだったが、かまわず人垣を抜け、少しの距離を置いてぼくは二人を追いかけた。
左に三門、仏殿、法堂が一直線に、右手に浴室と経蔵が変わらずあるが、ふと、むかしのけしきが記憶の底から溢れ出て胸が熱くなった。
せかせか先を行く和尚、
屈み込む和尚、
振り向く和尚……、
その背中を追って作務に走ったのだった。そしてどん突き、方丈を囲む白塀前で二人は足を止め、徐ろに経を上げはじめた。塀の向こうには開山大燈の廟があるはずだ。ほんとうなら亡骸といっしょのところを、和尚に代わって開山に別れを告げるためだろう、そうして黒車は惣門を抜け、和尚の七十年の大徳寺も終わっている。
「どうです? こっちに来て一服しはったら」
老爺に誘われて入ったのは松源院とは野道を挟んで斜向かい、真っ黒な煤壁に真っ白な海鼠漆喰壁の対比も鮮やかな土蔵だった。棟の瓦も新しい。その入り口の三和土の隅に、老爺は丸椅子を二つすすめてくれた。
「ご存知やろか、京都の大徳寺はん? そこの和尚さんの記念館なんですわ。有名な方でしてな」
いいながら脇の小部屋に入り、しばらく、こと、こと、やっていたが、やがて湯呑みを載せた丸盆片手に戻ってきた。
「遺品やらなんやら、いろいろ置いとりましてな。無料で公開してますんやが、いうてもこんな田舎でっしゃろ、滅多に客ものうて、大概は閉めとるんですが、休みの日だけ、こないして交替で留守番がてらに来てますんや。村の老人会ですわ」
変わらず笑顔がいい。もちろん兄弟子から聞いて知っている。それが目的で来たのだが、老爺に悪い気がして、行きずり、ということにしておいた。
「一階の方は、村の民俗資料室ちゅうことになっとりましてな」
奥の扉を指さした。染みだらけの節榑立った指だった。
「いうても、ぶっちゃけた話、唐箕や蓑傘や、ご存知やろか? それに古い指物もおますがな、百姓家のごたごたを並べとるんですわ。和尚さんのは二階で、ほれ、そこの階段を上がった先にスイッチがおますさかい、好きなように見たってください。人がおらんのに、点けっぱなしいうんももったいないんで消しとるんですわ」
そのように、階段を上がった先は踊り場から真っ暗だった。が、やがて馴れた目に壁のスイッチも見つかって、ぱちん、と入れると陳列室だった。季節のせいもあったが、寒々として黴臭い。
「へえー」
脇で、齢に似合わず黄色い声を上げた。驚きなのか期待外れなのか、けれどぼくには宝物の隠れた秘密の蔵のようだった。
まず見つけたのが頂相だった。禅門流の肖像画といえばいいだろうか、射貫くような険しい目つきだが、ぼくにはわかる笑みがあった。
「これ、和尚さん?」
顎をしゃくり上げた。
「何歳ぐらいかしら、ずいぶん若く見えるわね」
「いた頃じゃないかな」
適当だったが、そんなに外れてもいないだろう。あの頃、和尚はもう七十近かった。ただ、だれの目にも十は若く見えただろう、せかせかと忙しい人だった。そんなことも懐かしく、次の陳列棚に丸い硯を見つけた。おーい! 奥の隠寮から呼ばれては、墨を磨らされた。野面石をそのまま彫り上げた和尚好みの逸品だった。
それでまた思い出した。
和尚はときにとんでもないことをする人で、庫裡玄関の上がり端の床が緩んで新しく張り替えたときも、削り立ての無垢板が周りにそぐわない、と、ぼくらに墨を磨らせて床に流し、擦らせた上に菜種油をぶっちゃけ、雑巾で磨かせた。いくら擦っても足の裏にべとついて始末に困った。けれど一月もすれば不思議にさらりと溶け込んで、煤けたむかしに姿を戻した。
かと思ったら、今度は庫裡の書院の壁裾が汚くなったのを、上から和紙を貼り、同じようにぼくらに墨を磨らせると、いきなりそれに向かって筆を走らせた。ぼくらはあんぐり眼で眺めている。「どや、ようできとるやろ」と和尚はいって、はっ? と、ぼくらは首を捻ったが、それでも遠目に見ると、なんとなく絵に見えたから不思議で、寒山拾得のそれらしかった。以来、来る客来る客、捉まえては鼻の穴を膨らませたが、それも一月しないで終わっている。
「これ、和尚さんがつくったの?」
隣の陳列に茶杓を見つけている。胡麻竹のいわゆる逆樋というやつで、櫂先にうっすら叢雲が渦巻いている。脇の詰筒には、日蓮さながら、筆足の激しく撥ねた銘があった。まちがいない、和尚のだ。
飽き性なくせに、やり出すと変に根を詰める。茶杓造りもそんな一つで、隠寮の書院で小刀片手に奮闘していた。なんでも、やっかいなのは櫂先を撓めるときだそうで、一日、水に浸けたのを、蝋燭の火にそおっとかざして、曲げてはかざしを繰り返すのだが、廊下の陰からそっと覗くと、熱っ! と耳朶に指をやったり、磨くためだろう、中庭の軒先下に木賊採りに走ったり、忙しくやっていたが、やがて艶やかな、それでいて渋い逸品に仕上がっている。まちがいない、仕上げは法衣の袖先に唾をつけて擦ったのだろう。ほかにも机の上や飾り棚や、和尚の身の回りの道具の照かりは、みんな唾をつけてのそれだった。
四つ目の陳列は蒐集の骨董だった。といっても並んでいたのはほとんどが我楽多で、それもそのはず、これはと思ったものは手に入れた尻から、客に土産に持たせていた。あれこれ集めはしても執着のない人だった。もちろんブランド嫌いだから、野良ものばかりを漁っては、「これにわしの花押が付いたら値が変わる」と嘯いていた。
そんな声も懐かしく、記念館をあとに野道を戻ると、来がけには気づかなかった丘の外れに杜が見えた。ちょうど雨も上がって雲間に青い空が覗いている。
「行ってみる?」
やっぱり振り返ったのを、また牽かれて野道に入ると、棚田の裾を大きく巻いてその先だった。
阿紀神社、鳥居をくぐると高札にそうあった。いまにも倒れそうに傾いて、おまけに腐りかけてもいたが縁起が記してあった。垂仁記らしい。垂仁の遣いで娘の倭媛が、天照大神の御霊を大宇陀に移した。ところが天照大神は、ここは嫌だといって伊賀から近江に出たり美濃に行ったり、やがて伊勢に落ち着いた。伊勢といってもいまの志摩ではなく、あの頃の伊勢はせいぜい四日市あたりまでだった。だから伊勢神宮というのもちょっと怪しい。地名は人口の増加や文化の発展によって周縁に移動する。神武が辿った熊野というのも、じつは紀ノ川沿いのことで、大和の周縁、つまり、隈野だったのが、文化が広がって半島の南の終てまで移動した。だからいまの伊勢神宮の歴史もそんなに古くはなくて、たとえば熱田神宮の方がきっと古いだろう。天照大神も一代前の崇神のときは、娘の豊鍬入媛に祀られて三輪山の西麓の磯城にいた。これは勝手な想像だが、崇神期に同盟関係にあった天照大神に象徴される部族、つまり海女族との関係が次の垂仁期には崩れてしまい、海女族は転々と移動する、その最初が大宇陀で阿紀神社のあたりだったということになる。そして万葉の頃には牧になっていたらしく、そこに狩りに出かけて歌ったのが、人麻呂のあの歌だった。
そんなことを二人話しながら境内をあちこちそぞろ歩いて、さて、帰ろうかと戻った社務所の前だった。
「どちらから?」
硝子戸が開いて、胡麻塩頭の爺さんだった。社務所といっても待合のような小屋掛けで、奥を覗くと同年輩の四、五人が板の間に火鉢を囲んで一杯やっていた。普段着のまま、月番仲間か、湯呑み片手にご機嫌だった。
「東京です」
こたえると、
「ご苦労さんです」
と、ぺこりとお辞儀をしたが、それからが意外だった。
「せっかくのお詣りですよって」
揉み手をしながら、硝子戸の外に置いた縁台に、ちら、ちら、目を遣る。
「どうです? 一つ、御守でも……」
縁台に広げた白布の上には、絵馬やら御札にまざって、あたりで穫れるのか、干し椎茸もビニール袋に入って並んでいた。
えっ? 二人、顔を見合わせた。
そして素直に手が出たのが御璽の御札だった。
「じゃあ、これを」
と、とって差し出すと、
「おおきに、五百円ですわ」
喜色満面、今度は深くお辞儀した。
困ったのは、その御札のおさめどころだった。家に帰って部屋を見渡し、戸棚やら鴨居の上やら、垂仁の天照大神さながら、あちこち祀ってみたが、どこも落ち着かなくて、とどのつまり、トイレに座った目の前に、ちょうどいい飾り棚が見つかって、その板壁にもたれておさまった。思案の末の苦肉の策だった。
それが明くる日、いつものように、その人がやってきて、
「ちょっと、借りるよ」
とトイレに立ったのが、そのまま流れる音もなく戻って来た。
「どうされました?」
心配したら、
「ここのトイレ、畏れ多くてできないね」
笑って、いつものように話を続けたが、やはり我慢しきれなくなったか、
「きょうは、これで」
と椅子を立った。
ぼくを弟のように親しくしてくれる人で、毎日の散歩の途中、いつも時間を計ったかのように、ぴん、ぽんっ、と現われるのがカントのようで、あれこれ茶飲み話をしては帰っていく。話といっても、いつも筋のモジュールは整っていて、最後の組み立てとバグ取りのつもりなのだろう、話したのがそっくりそのまま、しばらくすると、早いときは一月後には雑誌に載って、半年後には本にもなった。
農民詩人とだけ明かしておこう、その人もいまは和尚と同じに鬼籍に入り、だから毎朝、御札には、二つの影を重ねながら、しゃがんでは、深くお辞儀してすっきりしている。
そして、あの梅の木はどうなったか。そっと倒れた明くる春だった。
「おーい」
和尚の声に走ると、中庭に背中を丸めて踞り、枯れ株を、じいっと食い入るように覗いている。
「ほれ、若芽が出よるわな」
うれしそうに指さした、その先に、小さく捩れた萌黄の若芽が風に吹かれて揺れていた。
「ようがんばっとるわい」
にっこりいったのを、ぼくはいまも忘れないでいる。