うつむき椿
方丈庭は比叡山を借景に、東から南にくの字に広がり、築地際には白壁を背に、大人の腰丈ばかりに山茶花の植え込みが続いていた。花弁は白、暮れからちらほら開くと、旧正月を迎える前には盛りになって、それがどれも、こちらに背中を向けて隠れるように咲くからおかしかった。
「むかしの椿いうんは、あれは山茶花のことやな」
和尚の話はいつも突飛に、結びからはじまる。粥座といって、毎朝、文字通り茶粥と沢庵の簡単な朝飯のあと欠かさず茶礼があって、ぼくらを前に一人一人に茶を点てながら、あれこれ話すのが和尚の日課になっていた。ねたはもちろん和尚の思いつきで、季節に因んだこともあったが、だから中身は和尚好みで、ぼくには聞いたこともない、ときにはわけのわからない話ばかりだった。それがいまになって耳奥に、気の抜けたサイダーの泡ぶくのように、ぷっくり湧き出てくるから不思議だ。
とにかく時間があれば机に向かっている人で、物知りにちがいなかったが、といって毎日のことだから、ときには和尚流の作り話もあったかも知れない。そんな和尚に一番上の兄弟子は心得ていて、話がはじまると、ときにはにんまりしながら小指を口にやるとそのまま眉に運んだりしてぼくらに合図を送ったが、あの日にかぎってそれはなかった。
「おまえらもよう知ってるやろが、いまの椿の盛りは春やわな。どんなに早ようても三月にしか咲きよらん」
どんな話がどこまで続くのか、気が気でないが、しかたがない、ぼくらはそれぞれにうなずいた。そのように方丈庭の西の隅、唐門に続く玄関脇に、あれは春日さんといっていたが、たぶん神仏混淆の名残だろう、どうして神明社や諏訪社でなかったか、小さな祠があって、脇からそれを抱きかかえるように大きな椿の老木があった。幹は大人の一抱えもあっただろう、成長の遅い椿だから齢も百歳、いや、もっとだったかも知れない。薄鼠の木肌に亜麻色の斑を散らした太い幹はあちこち瘤だらけで、ずんぐり、むっくり、まるで仁王さまだった。
和尚は続けた。
「椿は木偏に春と書くやろが」
いいながら軽く湯を注いだ井戸茶碗に茶筌をさして、二、三回、くる、くる、濯ぐと膝脇の建水の上に運んで、すっと反した。
「けど、あの春いうんは、いまのようなうららかな春やのうて、新たかな春、つまり正月のことなんやな」
茶碗のお湯は、建水の上で行き場を失い、一瞬、きらりと光った。そして、次には滝のように細い帯を描くと、ほの白い煙を残して建水のなかに、ぴしゃっと消えた。
「せやから、椿は正月には咲いておらんといかんことになる。ちょうどいま時分やな」
と廊下の向こう、坪庭に目をやった。
「見てみい、まだどこにも咲いとらん。それで思うんやが、あの椿いうんは山茶花のことなんや」
ぼくらを見回しながら自慢顔にいうのだった。そんな和尚は、あの頃、とっくに七十を過ぎていただろう。いまのぼくからすれば超人のように思えるが、毎朝、茶事を終えると小雨のなかでも木枯らしの日でも、欠かさず作務に走って出た。
──禅の真髄は作務にあり、
和尚の口癖で、
──勤しみに上下なく師弟普く邁進する、これを普請という、
何かにつけ、ぼくらに説いた。ほかでもない、道路や橋梁の工事をいうあの普請も、もとは師弟そろって作務に励むという禅の言葉だったらしいが、この作務というのがぼくにはほんとにきつかった。
「きょうはどこやろか、あれがなければええがなあ……」
愚痴る兄弟子と並んで、判決を待つ思いで和尚の丸い背中を追った。あれというのは溝浚えのこと。山内伽藍を囲むようにあった堀割の掃除で、むかしはぐるりと伽藍南の電車通りの方まであったらしいが、昭和初めの市電敷設の道路拡張で埋められて、ぼくらの頃には東の惣門前を南北に残っているきりだった。
溝浚えといっても、縁に立って杷や鍬で掻き上げるなんて、そんな生やさしいものではもちろんない。薄氷の泥濘にぬるりと下りて、長靴もない、素足に藁草履のままだった。冬は薄く氷が張っている。夏はそれがなかった代わりに、ねっとり、皮膚に纏わりつく泥の饐えた臭いに鼻が曲がった。
これが作務のワーストワン。次いで境内南の参道沿いの枳殻の垣根周りの掃除だった。観光客や近隣町家の悪たれたちが遊びにやって来ては投げていく塵や紙屑が風に飛ばされ垣根のなかに絡まっている。それを取ったり落ち葉を払ったり、軍手もない素手でやるのだから、指に棘が刺さるのもあたりまえで、下手をすると手の甲の皮膚が裂けて血が滲んだ。
救いは一つ、和尚の仏心だけ。偶に参道をひょっこり止まると、思い出したかのように振り向いた。
「そや、きょうは、おまえは方丈に行け」
このおまえがだれなのか、ただの気まぐれでは決してなくて、過去数日の、いわゆる行ないの査定の結果で、選ばれし者は地獄の亡者が蜘蛛の糸でも掴んだかのように小躍りして参道を戻った。
だから、ぼくらにとって冬の溝浚えはシベリア送りのようなものだった。比べて方丈作務は極楽で、苔庭の落ち葉や塀際に、気儘に散り落ちた山茶花の花弁を拾い回ってそれでお終い。もちろん寒いことに変わりなかったが、苔の蒲団は縮かんだ足の裏にふわりふわりと温かかったし、高い築地は身を切る北山颪から救ってくれて、半ば庭を愉しむ余裕すらあった。だからどこにどんな植え込みや立木があったか、いまもぼくは思いのままに浮かべることができる。
「それで思うんが、お水取りのことやな」
晒し木綿の短冊布巾を四つ折りに、片方を人差し指に絡めると、もう一方を茶碗の肩にかけ、時計廻りに、ぐい、ぐいっ、拭った。
「あれは修二会いうてな、印度で年初めに仏さんに華を供える行事やった」
いいながら、きれいになった茶碗を膝先にそっと置いて前の棗に手を伸ばす。そして上の茶杓を右手でとると薬指と小指で軽く握り、左手で胴を掴んで膝の上に乗せ、右手の残った三つ指で蓋をつまんでひらりと開ける。と、蓋に引かれてふんわりと、鶯色に抹茶の煙が舞い上がった。
「あの華というんがどんな花やったんか、わからんのやが、おまえらも知っとるやろ? 東大寺のあの二月堂のは椿の花を供えよる」
これには一番上の兄弟子がうなずいた。
「けど、あれは、なんちゅうか、造花やな。紙を赤う染めとるらしいが、あれがわしには不思議でならん」
そして茶杓で二匙、茶碗に運ぶと鉄瓶から湯を注ぎ、茶筅を握ると、ぐぁしゃ、ぐぁしゃ、混ぜた。和尚のお茶は忙しくて、点てるというより捏ねくり回すといった方がいい。茶碗の底を掻き毟るように力任せにやるから、茶筌の先の欠けたのが泡ぶくに隠れていることもときどきあって怖かった。けれど、その分、味は極上。きらきらと泡ぶくも若葉色にふんわり膨らみ、それをぼくらは見様見真似で覚えている。
──茶はかたちから、
和尚の流儀で、
──作法は見てとれ、
ぼくらに教えた。
「それであれこれ考えるんやが、仏さんの供華に造花いうんは感心できん話で、むかしは造花なんぞなかったやろし、あの時節に椿も咲いとらんしな」
供華は供花とも書いて、仏に供える四季折々の花のことだが、だから修二会の椿というのは、じつは初春に咲く椿、つまり山茶花だろうというのだった。
東大寺は平城京の一条大路の東の終て、若草山の麓に開け、広大な寺域に、なかでも二月堂は法華堂と並ぶ一番高みにあって、なにより舞台からの眺めがすばらしい。足元に大仏殿の大屋根を見下ろして、緑の杜の向こうに興福寺の五重塔を見越して鼠一色に町家の甍が広がる。遥か先に碧く屏風のように烟るのが信貴生駒の峰々だ。
だから夜景もまた格別。街中の社寺とちがって二月堂は夜も開放されたまま、いつ訪ねてもそのままにある。凍てつくような冬の夜、燈明だけの薄闇に、一つ、二つ、と舞台の欄干に沈む無言の背中があったり、ふと摺り足の気配に振り向くと、小さく唱えるお百度踏みの女の影があったりもする。好きなけしきの一つだが、修二会はお水取りといった方がわかりやすいか、二月堂の春の恒例で、供える椿の花は舞台から南の石段を降りた広場の白壁塀のなか、良弁を祀った開山堂があって、そこの椿を模したものと縁起は伝える。なんでも綾部の黒谷和紙を使ったらしく、毎年、練行衆と呼ばれる役僧たちが手造りしている。それを裏の春日山から伐り出した薮椿の生木の枝に飾り付けたのを供華として、二月堂の内陣の浄めに使ったり、本尊の十一面観音に供えたり、大きいのは堂の四隅に立てかけるらしくて、一度、勤行最中の内陣を堂宇の背中から覗いたが、凍りつくような深夜、一種、不気味な闇中の秘儀だった。
東大寺にかぎらない。法隆寺でも薬師寺でも同じように修二会はあって、いまは三月の頭からに決まっているが、もとは旧暦二月の一日から二週にわたって行なわれたから、年によって日にちも動いた。インドの正月行事だったのが、中国に入って二月になったのは、インドの一月が中国の二月だったかららしい。修は、おさめる、ものをあらため調えるという意味で、二月にそうしたから修二会で、そのための堂宇だから二月堂だった。
「あの供華が椿になったには理由がある」
ぼくらにぐるりと一回り、茶も点て終わっていた。と、ふつうならそこで話もお終いになるのだが、その日はちがった。
「どういうたらええか、日本人特有の死生観というもんがあるんやな」
拭き終えた茶碗を左手に、右手を袖に突っ込んで肩を窄めると、法衣の袖口を指先に摘まんで口に運び、唾をつけると茶碗の尻を擦りはじめた。
和尚は雑巾を知らない人だった。机の上でも棚でも柱でも、果ては革靴でも、なんでもかんでもそうやって袖に唾をつけて擦りたおす。だから和尚の周りはどこもぴかぴかだった。
革靴? きっと不思議に思われるだろう。だから断わっておかないといけないが、山内行事のときの木靴や作務のときの草履は別として、出かける和尚はいつも革靴だった。スリッポンというやつで、爪先のつるりと丸く靴紐のない、英国製の焦げ茶の革靴だった。むかしヨーロッパを行脚したときロンドンで新調したらしかった。と、一番上の兄弟子が、咳払いをしながら横目にぼくらに目配せした。これは長くなるぞ、そういっているのだった。
禅寺の朝は早い。毎朝五時、ことに冬場は真っ暗ななかを、律儀に唸る目覚まし時計の頭を叩くと跳ね起きて本堂に走る。といっても、そうするのは兄弟子だけで、下っ端のぼくは蒲団にもぐり込んだまま。あと五分、もう三分とずるをして、ときには二十分近くも寝坊する。だから、いつもあとからゆるりとやって来る和尚にも先を越されて、気まずい思いをすることも度々だった。勤行はやり方にもよるが、五十分ばかり。終わると、本堂周りや庫裏の掃除が待っていて、仕上げに濡れ雑巾で広縁や廊下を拭いて走る。そのあと粥座があって茶事だった。草臥れたうえに腹も膨れ、そこに長話が続けばたまらない。見る見る上瞼が落ちてきて、ときに舟も漕ぎながら、濁のかかった和尚の声にもぼくは空ろになっていた。
そうして半世紀、以前はそんなでもなかったが、最近、とみに和尚が現われる。夢だけではない、電車を待つ駅のベンチや、風呂掃除をしていたり、いつものなんでもない、無心のときに、ふらり、現われては話しかける。
椿の話もそうだった。和尚なら、ああいっただろうな、こういっただろう、と、ぼくなりに尾鰭をつけて、勝手に思ってみるのである。
「一口に、霊魂いうてもいろいろでな、人は死ぬと魂になるのは同じやが、魂は魂でも、死んで間なしのは荒魂いうて、まだまだこの世に未練が残っとるからやろう、悪さをしよる。いうたら、迷いの魂やな」
そういって、
「それが、なんぼか年季が入って浄められたら御魂になる。同じ魂というても迷いがのうて、いうたら、孫子を見守る性根のええ魂になっておる。これをこの国の人は神というてきた」
ともいって、
「前にもいうたが、その神いうんは、ふつうは山におる。そうやって孫子がどないに暮らしとるか見てるわけやが、気が気でならん。それで年になんべんか、山を降りては里にやって来よる。というても代わりの遣いをやるだけやが、それを山人いうて、つまり神の眷属、わかりやすういうたら付き人やな」
と続けて、
「で、この山人は、年初めの春、つまり正月には椿の木の枝を杖代わりに持ってきて、田圃に入ると、それであちこち撞いて回りよった。田の精霊を目覚めさせる、気付けやな。これ、早よ起きんといかんぞ、田作りに後れるぞ、というわけで、正月だけやない、田植えどきや、稲の花の開く夏の盛りや、刈り入れの秋にもやって来よったわけやが、持ってくる杖もいろいろでな、夏は榎で、秋は楸、それから冬は柊やった」
と、そんなふうにもいっただろう。
楸とはどんな木だったか、植物図鑑を広げても、柏の木の仲間らしいが詳しくわからない。榎は森の大木で、春半ば、目立たないが枝のあちこちから小さく房状に白い花を咲かせるからよく目立つ。柊は、むかしはあちこちの垣根になっていて、葉のとげとげが嫌だったが、わりに可憐な花を咲かせて意外だった。垣根の向こうに木犀の花が終わったあと、小枝の葉の付け根に豆粒のような白い花をいっぱいつけて、わずかに木斛のような仄かな香りがして、きびしい冬がやって来るのを、悪餓鬼だったぼくらにもそっと教えた。どれも木偏に春夏秋冬と書いているが、うまく考えたもので、輸入品の漢語ではない、移ろう四季のこの国でこそ生まれた国字だった。
ぼくは思った。それじゃ、神はどうして山から来るのだろう……。
和尚ならいっただろう。
「それは、わしらの原風景いうんかな。大むかしにやって来たわしらの先祖がそこに暮らしはじめた名残やないやろか、いうたら、故地というやつじゃ」
もう二十年もむかしになる。葛城道を御所から南に下って、高天をさして麓から歩いた。金剛山の中腹のちょっとした台地に開けた小さな部落で、ふと立った田圃の畦から眺めた大和平野がまるで海のようで、霞のなかに畝傍山がぽっかり浮かんで見えて、
真狭き国といえども
蜻蛤の臀呫の如くにあるかな
倭は国のまほらま
畳づく青垣
山籠れる
記紀の条に納得して考古学の定説を思ってみた。縄文後期から弥生にかけてのかれらが住んでいたのは、平地に突き出した尾根の外れか、あるいは平場に浮かぶようにあった小高い丘か、とにかく見晴らしのきく台地で、そこから日々、麓の田圃、といってもたいていは沼地だったが、行き来して稲をつくっていた。闖入者から暮らしを守るためで、高天はそっくりそれを思わせた。
記紀の高天原もそうだろう。この国のどこにもあって、たどり着いたかれらが最初に住みついた小高い丘や、尾根外れのことをそう呼んだのだろうが、そこから田作りに降りる行為が天降るで、見下ろす稲田の沼沢が葦原中国だったのだろう。ほかでもない、神はかれら自身だった。そうして、やがて高みでの暮らしから平場に移ると、かつての暮らしの場は故地となり、祖霊の住処、つまり神の居所になる。高天原から葦原中国に天降る、そんなけしきは、じつはこの国にはいっぱいあって、記紀はそれを瓊瓊杵一人に集めて役者に仕立てた。
では、神はさらにどこからやって来たのか。いうまでもない、この国の場合は海の向こうからで、だから水際に立てば、彼方を祖霊の故地として懐旧の思いを深くした。禊というのも、この思いから来ているわけで、西方浄土というのも、とりわけ仏教にはじまったことでもなくて、この国では、じつは故地懐旧の思いにはじまっている。だから、記紀の高天原や天降る神も、ほんとうは国の創世譚ではなく、たとえば住吉の神が、病んだ妻を戸板に乗せて茅渟の海に流すという淡島伝説も、無慈悲な仕業ではさらになく、魂の故地返しとしてあるわけで、降臨譚よりずっと古いむかしのことになる。
さて、山人というのはだれだったか。たぶんもとは村仲間の一人だったにちがいない。何かの理由で選ばれた、祖霊の故地を守ることを専業とした者、集団だろう。神の付き人、守り人として、特別だったから生業は持たない。だから農事からは超越して、時節の折々に山を降りて神の言葉を伝えた。神の言葉とは、ほかでもない農事の知恵で、それに人は感謝し、できあがった農作物を捧げ供えた。といえばうつくしいが、これも生業を持たない山人だからの食糧調達の手段であって、その交換に、いろんな仕草でその年の豊穣を占って見せたというのがほんとうだろう。
里に下りると村のかかりの辻に、杖にしてきた時節の木の枝、たとえば春は椿の枝を地に立てる。それを人は季節の産物を供えて迎え、その辻が、やがては村の交流と憩いの場になった。それが市だろう。根付いた椿の木が目印になったから椿市と呼ばれて、三輪山西麓の海石榴市もそんな一つだろう、賑わう交流の場だったにちがいない。
ようすはやはり日本紀に見える。細かくなるが、武烈記の仁賢十一年八月の項。武烈が物部麁鹿火の娘の影媛と逢瀬を交わす場面があるが、それが海石榴市の辻で、文物交換の群れのほかにも、歌垣の姿があったことを伝えている。歌垣というのは、歌を詠むのは手段であって、男女が互いに相手を見つけることがねらいの、もともとは豊饒を祈る農耕儀礼の一つだった。いずれにしても、村外れに交易や遊興の場として人の集まる場があって、それが海石榴市だった。
興味深いのは、続く敏達記の十四年三月三十日の項。いわゆる廃仏の条で、物部守屋と中臣勝海が敏達に廃仏をすすめ、蘇我馬子の建てた飛鳥寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に棄てる。この難波の堀江というのはいまの大阪のそれではなく、飛鳥寺の近く、甘樫丘の北麓にあった飛鳥川の舟留のことで、さらに、物部は僧や尼を捕らえ公開の鞭打ち刑にする。その場所も海石榴市だった。つまり、海石榴市は、人の行き交う、西欧でいう広場、セントロ、センターにあたるもので、西欧ではそれを中心に街をつくったが、この国では、それを境に下手、つまり多くは川下に向かって村ができた。反対に、上手は異世界、つまり神の領域だった。村の墓地や戦死者の忠霊塔が村外れにあったのはその結果で、洋の東西は、姓の生成のちがいと同じに、人の交流のあり方が大きく異なる。
そして、お水取り。いわゆる若水汲みだが、これももとは海をやって来たかれらの祓、つまりは望郷の儀式だったと見ていい。祖霊の故地を望み拝する浄めの儀礼であって、場所は内陸の大和であっても、心は山の向こうに海を見ている。そんな故地はどこなのか、その一つをお水取りが伝えている。
二月堂の麓の閼伽屋と呼ばれる祠のなかに若狭井という井戸があるらしくて、その湧き水を汲んで二月堂に供える。部外者立ち入り禁止の秘儀なのだからこう書くしかないのだが、若狭井はふだんは涸れていて、そのときだけ湧き上がる。その名の通り、若狭の小浜、遠敷川上流の鵜之瀬につながっていて、そこから水送りしたのを大和で水を取るという仕組みになっている。JR小浜線の東小浜駅から自転車を借りて走ったが、どこにでも見かける川原だった。
若狭なのはいろいろあって、遠敷は大丹生とも書いて、丹は、朱あるいは辰砂といえばわかりよいか、硫化水銀からなる赤色顔料で、むかしは建物の防腐塗料として貴重だった。また、この辰砂を蒸留製錬したのが水銀で、大仏をはじめ仏像の金メッキに欠かせなかった。若狭はその有力な産地だった。
もう一つは建築資材だろう。若狭の背後の比良山系から伐り出した杉や檜を、琵琶湖から宇治川を流して運んでいる。その大和への荷揚げ口が京都との境の木津であり、木材の集まる港だから木の津といっていた。
こうして大和は若狭とつながっていた。ほかにもこの国の先人が海の向こうを故地と仰ぎ望む、そんなところはいくつもあって、遠く瀬戸内海につながる大阪の難波や和泉や、淡島伝説で知られる和歌山の加太や紀ノ川流域もそうなら、また、能登や三国もそうだったろうし、若狭から但馬、伯耆にかけて点々と続く浦島伝説も、じつは水底ではなく海の向こうの話ということになる。だから若狭から大和へのお水送りも、水ではなく、人の流れ、交流の歴史を教えていると考えてみるといい。気になるのはそのルート。記紀の神々が歩いた道筋の一つでもあるからだ。
答はもちろんいくつかあって、たとえば、小浜を東に向かって琵琶湖の今津に出る、その少し手前を南に谷筋を途中越えで京都の八瀬に下る、いわゆる鯖街道も一つだが、こちらはずっとのちに開かれたもので、本筋はやはり今津に出たあと湖西を南にたどるルートだろう。今津からは南に高島から大津に下るほか、今津から湖上を対岸の彦根から草津あたりに渡ることもあっただろう。ただ、当時の琵琶湖はいまの二倍以上もあっただろうから、現在の湖東のほとんどは水のなかで、俵藤太の百足退治の三上山も、竹生島のように水にぽっかり浮かんだ小島だったにちがいない。
ともかく、近江は日本海をやって来たこの国の先人たちでいっぱいだった。それが大和に流れていく。たとえば、大津の少し北の和邇という同じ地名が奈良の天理の少し北にもあって、つながりを窺わせる。
そして近江から大和への道は大きく二つあった。一つは先の宇治川ルートで、もう一つは草津から、むかしの東海道、いまのJR草津線に沿った川筋を水口から小高い峠越えで伊賀に出るルート。そこから先は、西に笠置を通って木津から平城山を越えるものと、笠置から柳生を経由するルートがあったが、もう一つ、伊賀からさらに南に名張回りで、いまの近鉄名古屋線沿いに三輪山の南麓に出るルートが、たぶん本筋だったと思う。
泊瀬といって、雄略が都を置いた狭い谷間を下り切ったところが海石榴市だったが、その先の磯城から広がる奈良盆地のようすもいまとは大きくちがっていた。近江といっしょで、一面、きら、きら、光る水いっぱいの沼地だったと想像している。当時の稲作は、いまのような陸地の田圃に水を張って苗を植えるというやり方ではなく、沼地に直に籾を蒔く。それは、たとえば唐古遺跡の田下駄が教えてくれている。だから奈良盆地を行くには、一つは南側の山裾を明日香にたどって、さらに西に葛城に進むか、もう一つは三輪山麓を北に上がるしかなかった。この北行の山裾道が上つ道と呼ばれた山辺の道で、その道筋に先人の開発村ができていく。南から、三輪山西麓、天理東の石上、そして奈良の春日で、それぞれ、出雲、物部、中臣の根拠地になった。
と、ここまで想像してみて、気になるのがつばきの表記だ。この国の言葉は音である大和言葉に外国語である漢字を借りているからややこしい。海石榴市の「海石榴」もそうだが、古いところでは、古事記の仁徳記には「都婆岐」と出てくる。若い妃の八田媛に気移りする仁徳と后の磐之媛とのやりとりの歌があって、磐之媛はこう歌う。
「都藝泥布夜。夜麻志呂賀波袁。迦波能煩理。和賀能煩禮婆。賀波能倍迩。淤斐陀弖流。佐斯夫袁。佐斯夫能紀。斯賀斯多迩。淤斐陀弖流。波毘呂。由都麻都婆岐。斯賀波那能。弖理伊麻斯。芝賀波能。比呂理伊麻須波。淤富岐美呂迦母」
古事記は記述に漢字の音と訓を借りているが、たとえば一書は「都婆岐」を「椿」とあて、こう書き下している。
「つぎねふや山代河を河上り 我が上れば河の辺に 生い立てる 烏草樹を 烏草樹の木 其が下に 生い立てる 葉広 ゆつ真椿 其が花の 照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも」
それが日本紀になるとかなりちがって、同じ歌も、なぜかずいぶん簡略化されてしまう。
「菟藝泥赴。揶莽之呂餓波烏。箇破能朋利。涴餓能朋例麼。箇波区莽珥。多知瑳箇踰屡。毛毛多羅儒。揶素麼能紀破。於朋耆瀰呂箇茂」
これを一書はこう書き下す。
「つぎねふ、山背河を、河泝り、我が泝れば、河隈に、立ち栄ゆる、百足らず、八十葉の木は、大君ろかも」
古事記では「由都麻都婆岐」と、たくさんのつばきとしていたのが、日本紀では「揶素麼能紀」と、つばきではなく、葉の生い茂った、ただの木になってしまっている。
では、この「椿」という字はいつ頃登場するのか。日本紀より十数年あとの『出雲国風土記』には、つばきは「海榴」あるいは「海石(柘)榴」として二カ所、「椿」として六カ所に登場し、「海石榴作字椿或」、つまり、つばきという音から椿という字をつくったとあって、松、栢、楠、桐、椙(杉)、樫、楡、楮、櫟、竹などと並んで現われる。
風土記は、和銅六年(七一三年)に、従来の国造に代わって諸国に派遣された国司が、官命に応じてその地勢や郷、駅、社、物産、地名の由来などを調べてまとめたレポートだが、ほとんどは散逸していて、現存しているのはわずかに五カ国、運よく『出雲国風土記』は完本に近い形で伝えられている。
表記は漢文体。天平五年(七三三年)の成立というから、その頃には「椿」という字が生まれていたことになる。ただ、風土記も物産についてはほとんどが簡単な箇条書き程度で、どんな木だったかは教えてくれないが、杉や桐、松、楠などと列記されているところを見ると、いまの椿や山茶花とはちがって、けっこう丈のある高木樹だったかもしれない。また、これは数十年、時代は下るが、万葉集にも、つばきは、「都婆伎」「都婆吉」「海石榴」「椿」といろんな表記で記されていて、全部で十首、うち、椿が四、海石榴が四、あとは一首ずつになっている。
一方、「山茶花」の登場はいつのことか。もちろん記紀にはなくて、ずっと下って貝原益軒を覗いてみると、元禄七年(一六九四年)の『花譜』には、正月の項に「山茶花」とあって、こう記している。
「つばきは、さかり久しくしていとめでたし。花は歳寒をおかしてひらき、春にいたりて、いとさかんなり。葉は四時をおひてしぼます。これ又君子の操ありと云べし。日本にむかしより、椿の字をあやまりて、つばきとよむ。椿は漆の木に似て、其葉かうばし。近年唐よりわたる。又日本紀及順和名抄には、つばきを、海石榴とかけり。むかしは、つばきの数、すくなかりしが、近代人のこのむによりて、其品類はなはだおほくいできて、あげてかぞへがたし。からの書にも、其類おほき事をしるせり。山つばきいとよし」
おもしろいのは、益軒がつばきの花の姿を「これ又君子の操ありと云べし」としていることだ。なんとなく記紀の磐之媛の歌を思わせる。この操というのは、節操や貞操のそれではなく、常緑樹の葉のように四季を通じて変わらない緑の美しさをいったもので、つばきの、花のことよりも葉の方を讃えている。
また、同じ益軒の『大和本草』にも「山茶」として、こうある。
「延喜式にもつばきを海石榴とかけり、順和名抄も同其葉厚しあつばのきと云意なり。花は単葉あり重葉あり千葉あり。紅あり白あり。山つばきは紅の単葉なり。(略)本草綱目に山茶に海榴茶、石榴茶あり。是つばきの品種なり。日本の古書につばきを海石榴とかけるも由ある事なり。酉陽雑俎続集に曰く、山茶は海石榴に似る。然らば山茶と海石榴は別なり。凡、山茶は花の盛り久し、葉も花も美し。(略)つばきは山茶と云を日本にいつの時よりかあやまりて椿の字をばつばきとよめり。順和名抄にもあやまって椿をつばきと訓す。つばきは椿にあらず。椿は近年寛文年中からよりふたる香椿なり」
益軒だけでない。元禄十年(一六九七年)の宮崎安貞の『農業全書』も「山茶」として、簡単だが、「俗に椿の字を用ゆるハ非なり」としている。
話を括ればこういうことか。
つばきは、奈良のむかしには「海石榴」と書いていた。葉が厚いので、あつばのきと呼んだのが訛ってつばきになったともいわれ、花は一重と八重、そして紅と白とあるが、やはり紅一重の山つばきが一番いい。ほんとうは「山茶花」あるいは「山茶」と書くのだが、まちがって「椿」をつばきと読むようになった。一方、「椿」は、ちんといって、最近、中国から入ってきた漆の一種の香木である……。
ややこしい話だが、端折っていえば、まず、つばきという言葉があって、その音に漢字を借りて「海石榴」や「都婆岐」とあてたが、同時に意味をとって「椿」の字をつくった。それに、いつのころか、漢語の「山茶」「山茶花」の字をあてるようになり、逆に「椿」の字は、たぶん同様の時期に中国から入ってきた漆の一種の灌木にあてられるようになったということらしい。
では、「山茶花」のさざんかという読みはどこから来たか。たぶん「山茶」の漢語音の「しゃんちゃ」だろう。それがつばきの一種に定着して「さざんか」と訛ったと思ってみる。いまの山茶花である。気になるのは「山茶と海石榴は別なり」とあって、記紀の「海石榴」は「山茶」、つまり、いまの椿とはちがうといっていること。とすれば、修二会本来のつばきも、いまの椿ではないことになる。
さて、和尚は何を思っていったのかわからないまま、ぼくは、いま、一つのけしきを浮かべている。骨清庵といったが、方丈裏の庫裡との間に和尚好みの茶室があって、一畳台目向板、つまり畳一枚と四分の三に、隅の残りは板張りの粗末な造りで、床も壁床といって、床の間に見立てた土壁に、掛字を一軸吊らくっただけ。その躙り口の脇に胸丈ほどの侘助が、そっと半身を忍ぶように立っていた。
侘助は、同じ椿のなかでも茶の木に近く、だから葉にもあのてかてかがなく、名の通り、どことなくもの寂びた風情があった。花は五弁の白。それが蕾のときは薄桃色に膨らむのが、開くと淡雪のように透き通り、太い黄色の花心が鮮やかだった。花付きも山茶花のようにしつこくなく、あちらに一つ、こちらに一つ、楚々として、何を考えるのか、どれもがうつむき加減に小首を垂れて、風に揺れると打ち水の、わずかに残る飛び石にひらりと落ちた。それがいまも、ぼくの心の額縁に、きれいにおさまっている。