醍醐味
「酥というのを知っとるか」
その日は薬石のときだった。お気に入りの信楽の角皿の縁を箸で突きながら和尚がいった。皿の上には鮒鮨が気持ちよさそうに糀の蒲団を被って眠っている。
「チーズやとか、なんやかやいうとるが、そうやない」
和尚の話はいつも唐突で、その日も、目を丸くするぼくらを余所にまた長くなりそうだった。
「あれは五味いうて、牛の乳を炊いたんやな。火のかけ具合で、乳味、酪味、生酥味、熟酥味と味もようなって、最後は醍醐味いうて、極上のものになるんやが、なかなかそこまではいかんかったようで、一歩手前の酥というんが一番うまいもんということになっとった」
講釈すると、似五郎鮒が蒲団にしていた糀、つまり、てれてれの白い粒々を箸の先で器用に掬い、熟れ具合をたしかめるのか、軽く鼻先をかすめるようにして口に運んだ。
「いうても、それは印度の話でな、処変われば品も変わる。この国でいうてきた酥というんは、やっぱり島国らしい、鮒鮨やったとわしは思うとる。それも身の方やのうて、この外側の、とろっとろの糀のことやな」
そして、くちゃ、くちゃ、やると、
「なかなかのもんや」
とご機嫌だった。
和尚は酒好きだった。といっても、不許葷酒入山門、呑助では更々なくて、雰囲気が好きなのだろう、嗜むといえば聞こえはいいが、偶に一合ばかり、ぼくらを前にちびちびやった。
「酒は百薬の長いうてな」
蘊蓄も忘れなかったが、銚子は、これもお気に入りの丹波で、軽く二合は入っただろう広口の、もともとは一輪挿しだったのを好んで使った。それに衒いのない二級酒を半分ばかり、膳の脇に置いた薬罐に浸け、
「燗は頃合いいうてな」
尤もなことをいいながら、ここでも忙しげに何度も湯から上げては銚子の尻に掌をあて、やがてうんうんとしたり顔にうなずいた。自分のことは自分でする、師といえども弟子に厄介はかけないのが宗門暮らしの鉄則だったが、酒の燗だけはさらにこだわり、ぼくらには触れさせなかった。そうして鮒鮨のとろとろを肴に、これも丹波の猪口でしばらくやって、最後は忘れず銚子を振ってたしかめる。ちょぴんっ、とでも跳ねる音がすれば極楽顔で、それも悦しみの一つになっていた。そうして最後の一滴に舌打ちすると、信楽皿を箸先で追いやるように、ぼくらの方に卓の上を滑らせた。
あとは、みんなで分けろ、そういっているのだった。皿の上には、すっかり身ぐるみ剥がされた鮒の木乃伊が寒そうに少しの糀粒を枕に変わらず眠っている。ぼくらへの気遣いだったかどうか、鮒鮨といっても肝腎の身の方はいっさい口にしなかった。
そんな和尚の寺には檀家がなかった。本来、禅寺とは開山墓所をまもる塔所だから当然のことで、その点、江戸期以来、とりわけ明治以後の禅寺のけしきはかなりおかしい。さらに和尚の寺は山内同じ塔頭のなかでも、ほかとちがって、代々大徳寺住持の住む寺で、自治体でいえば知事公邸のようなものだったからだが、その名残に、いまも大徳寺住持に選ばれると、晋山といって、仏殿で行なわれる就任の儀式には和尚のいた寺から出向くことになっている。
一方、ほかの塔頭は、みんな細川や畠山、六角、三好、大友、黒田といった戦国武将の菩提寺にはじまっている。だからその孫子、縁戚が檀越、つまりスポンサーとなって寺の暮らしを支えていた。それが和尚の寺にはなかった。代わりに、代々入れ替わる大徳寺住持の公的住居として大徳寺が、一種、別院としてその存続を保障していたのだった。
当時、といっても江戸の話だが、どの宗門も、幕府からの補助金、つまり寺領という荘園を安堵されることで成り立っていた。たとえば江戸初期の貞享の頃の数字になるが、五山の建仁寺が八百二十石、相国寺が千六百五十石、東福寺が千八百石の寺領だったのに対し、大徳寺は二千二百石で禅門では五山を抜いてトップクラスだった。京師でも地図でいえば、いまの北大路から北、西賀茂の手前までのほとんどは大徳寺領だった。また他宗では、ちなみに清水寺はわずかに百三十石、徳川家菩提の浄土宗の知恩院でさえ千七百石。そこまで禅門が優遇されていたのは、本来の禅門宗旨をかなぐり捨て、死人取り扱い、つまり人の弔いに手を染め、幕府の寺請制度に加担するようになっていたからだ。
それが明治の廃仏毀釈で寺領が接収され、大徳寺も三分の一近くの塔頭が喰っていけなくなり廃絶に追い込まれている。いまの紫野高校や周辺の町家はそのあとに建っている。和尚の寺も同じだった。それを半世紀を過ぎて和尚が入って再興した。廃絶した多くの塔頭は敷地まできれいさっぱりなくしたが、和尚の寺は、一時は方丈庭も掘り返されて芋畑になったり、方丈は結核患者の避病舎になるなど荒んでいたが、そこは腐っても鯛、大徳寺別院として寺域も堂宇もそのままになっていた。檀家がなかったから、喰えない寺、とだれも寄りつかなかったのだろう。でなければ、大徳寺一世住持の徹翁義亨の塔所だった由緒寺が無住のままに捨て置かれたわけがない。
「よくもまあ、あないな襤褸寺に……、奴さんも物好きな男やなあ」
三十もようやく半ばを過ぎたばかりの向意気だけの雲水上がりを周囲は笑ったが、和尚の英断だった。というより、さすがは堺商人の後取り息子、すべては計算尽くのことだった。いまもそうだが、どんな寺でもいいというならいくらでもあてはあった。けれど、俗世にも家柄があるように宗門も同じで、それなりの寺格のあるところへの晋山は難しかった。
そうして和尚も格は掴んだものの、檀家がないから、自力で喰っていかねばならない。するとむかしなら純禅のむかしに帰って、大燈の教え通り瘋癲漢に京師市中を托鉢して生きるしかない。檀家のない寺は、本来、禅僧として生きるにはぴったりの身の置き処だった。といって、それができる時代でもない。うぉー、うぉー、と大路小路を巡るのも、すでに形骸化した僧堂の雲水にしか許されないけしきで、それを外れて一人、鉄鉢を手に町家の門口に立っても、乞食坊主と白い目で追われるだけ。だから和尚は頭で稼いだ。
きっかけは野村證券の奥村綱雄だった。和尚とは従兄弟だったか縁戚筋にあたる。この奥村を通して政財界に人脈を広げていく。別に奇異なことでもない、この国の禅、鎌倉仏教の祖師たちもそうして生きる道を切り開いている。
だから和尚は忙しかった。講演会といっては、奥村やその伝でいろんな企業の社員教育の研修会や重役連の集まりに出かけていったし、政財要人相手の茶会をいくつも手がけていた。出先は大阪や名古屋や福岡もあったが、ほとんどが東京で、できたばかりの新幹線で走ったり、ときには空も飛んだ。
東京では虎ノ門のホテル大倉に、もちろん奥村の支援だったが、常時、専用の部屋があって、法話会と称しては紀尾井町の福田家で宴席に出たり泊まったり、月の半分近くを出かけていた。そして寺の方にも政財交々、いろんな時の人が、それぞれほとんど決まったスケジュールで毎月違わず顔を見せた。
奥村は広尾の有栖川公園の西向かいに、いまは大きなマンションに変わっているが豪邸を構えていた。あたりはいまとちがって仕舞屋続きで、そんな町家は目障りだとでもいうかのような高塀に、おまけにその上には尖頭鏃の付いた鉄柵が張り巡らされ、鉄鋲の厳めしい表の門扉は日中も固く鎖されたまま。和尚に連れられ一度入ったが、前に車が停まると、だれがそうするのか、ぎ、ぎ、ぎっ、と開いて、そのまま深い植え込みのアーチを抜けると、車寄せの飛び出た石造りの洋館が聳えていた。
奥村本人は、寺には偶に人の紹介に顔を見せるくらいだったが、奥さんの方はしょっちゅうやって来た。といってべつに用があったわけでもなく、奥村のいくつになっても抜け切らない浮気の愚痴をこぼしたり、二、三時間、あれこれ世間話をして帰るだけ。腰の据わった捌けた人で、庫裡奥の書院の廊下に、から、から、と高笑いがよく響いたが、そんな内輪話ができるのも和尚だからこそのこと、点茶を運んで下がろうとすると、着物の袂を探りながら、
「ちょっと、小僧さん」
と、ぼくを呼び止め、半紙にくるんだお捻りを、そっと後ろ手に握らせた。だから、いい人だった。和尚と同じ大阪の堺の生まれで、けっこうな家筋だった。それがどうしたわけか、奥村と結婚したての頃は路地奥の長屋住まいだった。
「表の七輪で、毎日、目刺しや秋刀魚を焼く暮らしでねえ。それでも奥村は、毎晩、きちんきちんと帰ってきて、それは、ええ時代でしたわな」
吐き捨て気味にいっては、けら、けら、笑う。気取りの欠片もない、庶民臭ぷんぷんの大阪人だった。
一方、亭主の奥村は南近江の信楽の生まれ。古くから畿内一円に名の知れた窯元だったが、何があったか、物心つく頃には一家挙げて堺に移って和菓子屋をはじめている。がたいのいい、割れるような濁声の、どちらかといえば土建屋の親爺といった方がわかりやすいか、小太り男で、大阪の金貸しにはじまった地方銀行の先の見えない証券部に過ぎなかった野村を業界トップの「調査の野村」に伸し上げた、見るからに体臭むんむんのエネルギッシュ男で、あの頃はもう会長から相談役に退いていたが、変わらず政財界に隠然たる力をもっていた。
それが数年後に斃れると、奥さんは広尾の豪邸を追われることになった。ワンマン経営からか、税対策からか、私財と社財の区分けが曖昧のまま、家屋敷は社有になっていた。後継の瀬川美能留も和尚人脈の一人で、同じようによく寺にも顔を見せたが、これが奥村とは反りが合わず、すったもんだの挙げ句、泣く泣く奥さんは近くの小さなマンションに移った。それでも高輪の高台の、窓のカーテンもすべてお揃いのワンフロア占有の豪邸だった。
ほかにも財界では、高千穂交易の鍵谷武雄や銭高組の銭高輝之に、ナショナルの松下幸之助や三洋電機の井植歳男も常連だったし、大御所ではあの電力王で知られた松永安左ヱ門も、ときどきぶらりとやって来た。
一風変わっていたのが鍵谷だった。若手で役者にしたいほどの目鼻立ちの整った上背のある、がっしり男で、一日、ひょっこりやって来て、ぺこりと下げた頭は五分刈りだった。
「今度、映画に出ることになりまして」
てっぺんのつんと尖った釈迦仏頭をばつ悪そうに何度も撫で回した。映画『トラ・トラ・トラ!』に山本五十六役で出演するというのだった。黒澤明を監督に準備が進んでいた日米合作の戦争もので、そのまま行くのかと思っていたら、急転直下、黒澤に代わって舛田利雄が監督になり、深作欣二がアクション監督に抜擢され、山本五十六役も山村聡に入れ替わって、鍵谷の銀幕デビューも幻に消えている。
クランクイン最中のどたばた劇で、何があったのか、財界のずぶの素人を主役格にキャスティングした黒沢の常識外れなやり方にアメリカ側からクレームがついたようにいわれたが、あとで鍵谷がやって来て話したのには、裏に日米間の経済トラブルがあったらしく、
「あれは、鍵谷の方が似合うとった」
と和尚も残念がった。
いまはどうなったか、高千穂交易もあの頃は大卒の就職にも人気が高くて、アメリカのバロース社と提携してOCRシステムやラベリングマシンといった先端機器の販売を手がける一方、独自にミニコンや、いまでは在庫管理やマーケティングに常識となったPOSシステムを開発するなど電子機器業界での成長株だった。たぶんそんな勢いが先行のIBMとも絡んで鍵谷降板に繋がったのだろう。
井植は淡路島の廻船問屋の生まれで、姉が松下幸之助に嫁いでいた。その伝手で大阪に出て松下といっしょに電気器具をつくりはじめるのだが、どちらかといえば奥村と同じ、土建屋親爺の風貌だったが、名を上げても叩き上げの気質を失わない豪快肌の人だった。
「松下は井植が大きくした」
和尚はいったが、幸之助の線の細さとは対照に、これもエネルギーの塊のような人だった。それが、体の具合が悪いらしいと聞こえたら、あっという間に逝ってしまった。なんと、肺結核だった。そしてあとには後取り息子の敏が代わってやって来たが、影が薄くてさっぱりぼくにも記憶がない。夫人は博多の大手百貨店、玉屋の田中丸の次女だったか三女だったか、和尚が世話をして、自民党の池田勇人が仲人になっている。
そして、なにより一番強烈に印象を残して逝ったのは松永安左ヱ門だろう。九十を過ぎていたというのに大男で、まず顔が異様に長いのにびっくりした。獄門面と渾名されたのを知ったのはずっとあとのことで、戦後、電力再編、民営化を断行、資金源に電気料金の値上げを強行したから、鬼の松永と異名をとったことなど、あの頃のぼくはもちろん知るわけもない。いまの電力業界のありさまを知ったら、爺さんは何というか、見かけたのはたった一度、小僧に入った春だった。
「お邪魔しますぞ」
庫裡玄関の三和土に立った爺さんは、羽織姿で腰丈ほどの杖を手にしていた。それがなんともいえない、どこか山裾の杣道ででも拾ってきたとしか思えない、曲がりくねった木の枝だった。たぶん小田原の屋敷森の立ち木でも伐って使っていたのだろう、今時の人でない渺々たる風体に似合って妙だった。
客間に茶を運ぶと、和尚がぼくを顎でさした。
「新入りですわ」
すると、一言、
「しっかり、おやんなさい」
とそれだけで、じろっと睨んだ瞳は山鳩の羽のような鼠色に光っていた。
「蒙古襲来のときに、向こうの兵隊が悪さして、島の娘を孕ませよった。それがわしの先祖やな」
と、から、から、笑ったというのが和尚の後日譚だったが、そういえば、和尚もじつはよく見ると、黄色がかった灰色のシベリアンハスキーのような目をしていた。堺に江戸の頃から続いた紙問屋の後取り息子で、五つのときに父親を失い、何を思ったか、二十歳で身代を棄てて南宗寺に得度している。もともとの家業は鉄砲鍛冶だったというから、あるいはどこかでバテレンの血でも受けていたのかも知れない。南宗寺はいまは末寺になってしまっているが、むかしは一派をなした禅門十刹で三好の菩提寺だった。
松永は壱岐の船持ちの旧家の生まれ。東京に出て慶応大を出たあと、諭吉の娘婿だった桃介に見留められて名を挙げた。
「爺さんの家は、大徳寺の大昔からの檀越やった」
和尚はいったが、そんな松永とは池田を介して知り合っている。池田は和尚と同い年で、松永が電力再編を断行したときの吉田内閣で蔵相をしていた。それが縁で、齢は二回りも下だったが、政界では松永にもっとも近かった。その池田と和尚は、池田が、貧乏人は麦飯を喰え、といって総好かんを喰ったとき、ちょっと相手をしてやってくれんか、と奥村から頼まれて茶飲み付き合いがはじまっている。肝胆相照らす、奥村と和尚はそんな仲だった。
ほかにも女性では有吉佐和子がよく来ていたか。異色なところでは、この人もいまは鬼籍に入っているが、大本教の出口聖子も常連だった。三代教主出口直日の三女で、のちに四代目となるのだが、あの頃はまだ三十を出たばかり。面長の、当時にしてはすらっと上背のある、けっして美人とはいえなかったが、それでいて仕草が小僧のぼくらの目にも艶っぽく、教祖というより、どこか料亭の女将といった方がぴったりだった。
もちろん和尚のお気に入りの一人で、ずっと独身でいた。点茶はもちろん能狂言にも心得があって、人懐こさも手伝ったのだろう、大本教を一般に広めた功労の人といっていい。そんな繋がりで月に一度、法話会といっては、亀岡や綾部の本部から黒塗りの車が迎えに来て、和尚は出かけていた。
逆に、有吉はがらがらの開けっぴろげな人だった。黒縁の丸眼鏡に、ぺら、ぺら、よくしゃべった。まだ三十代半ばだったか、女性としては大柄で男勝りだったが、瞳がきれいで、和尚と話している横顔は、けっこう愛らしかった。
和尚とは、有吉が舞踊家の吾妻徳穂の秘書をしていたときからの顔見知りで、何度も足を運んでいたのは和尚を小説のモデルにするためだった。ただ、それがどんな作品にまとまったかは詳しく聞かなかったし、あの人の小説は読まないから、いまも知らない。
そんな客人たちは、ほとんどだれもが、やって来ては帰りがけに和尚を外に連れ出した。昼過ぎの二時か三時を回ると顔を見せ、一、二時間しゃべっては、待たせておいた黒塗りで出かけていく。もちろん置き土産も忘れない。禅寺の枯淡な食卓を見越してか、それぞれに気の利いた品々を選んでいた。鮒鮨もそんな一つだったのだ。