にほの海

竹生島ちくぶじまを見てみたい」

 日曜の朝だった。食事のあとのまどろみに、ぽつりといった。その一言に誘われて、さっそく翌週、二人で出かけた。まだ春も見えない雪混じりの一日だった。米原で北に乗り換えた鈍行どんこうを長浜で降り、まずは大通寺だいつうじにお詣りをすませた。ちょうど昼下がりで、出てきた門前通りに小料理屋があった。見た目にも粋な白木の門口に檜皮ひわだひさしを低く差して、伊吹颪に利休鼠の暖簾が揺れている。

「鮒鮨か、食べてみたいな」

 すると目を丸くした。

「どうしたの?」

 いうはずだった。外では呑み仲間に秘密にしているが、いわゆる酒盗の類、珍味佳肴かこうというのがさっぱりだめなのだった。だから、ちょっと背伸びしてみた。

「琵琶湖に来て、これをのがす手はないだろ」

 いいながら暖簾をくぐった。

 時間も時間だったから当然のことで、客影がない。瞬間、ちょっと引き気味になったが、奥のカウンターに一人、背を向けた姿を見つけたのを救いに、窓際のテーブル席に向かい合わせに座った。

 から、ころ、から、ころ、すぐに下駄の歯音がして、前掛け姿の女将だった。

「おまいりですか」

「ええ、久しぶりに早起きして」

 向かいから笑顔がこぼれた。たしかにそうだ。仕事のときもぎりぎりで、休みの日には十時を回っても蒲団のなかの人だった。

「けど、お天気がもう一つでねえ……」

 女将は眉根を寄せたが、すぐに、愛嬌たっぷり、

「どうぞ、ごゆっくり」

 と品書きをテーブルの肩に残して、から、ころ、消えた。

 んっ?

「これ、ほんとかな?」

 かぐわしい杉経木の品書きだったが、数字が想定外だった。それを、えいっと清水の舞台に立ったつもりで注文した。

 出てきた美濃の丸皿には、親指大の半身が二切れ、頼りなそうに、甘酒の残り滓のような糀のとろり蒲団から、かすかに顔を覗かせ眠っていた。その身の方は向かいから箸が伸び、ぼくはとろとろを箸先ですくいながら地酒をやった。

「いけるね」

 銚子を半分ぐらいにした頃だった。

 ほんとうに、旨い、と思った。そして、ひょっこり、記憶の底から湧いてきた。

「このことか」

 和尚の醍醐味を思い出したのだった。

「どうかした?」

 向かいの箸がぴたりと止まり、首を傾げて下からぼくを覗き込んだがそれだけで、すぐにまた美濃皿の切り身に戻っていった。

 

 港に下りる坂道だった。

「遠州って、ここの人だったのね?」

 背中にいった。

「えんしゅう?」

「そう」

 どこに行っても、改札を出るとすぐにどこかに消えてしまい、きょろ、きょろ、見回すぼくを余所よそに、悠々、漁りまくった観光ちらしを両手一杯に戻ってくる。その日も同じで、駅で見つけた案内パンフを広げて、とろ、とろ、歩く。だから遠出しても二人肩を並べることは滅多になくて、いつもぼくばかりが先を行く。

「孤篷庵か、見てみたいけど、逆方向ね」

 諦めきれないようだった。

 こほうあん?

 懐かしい響きだった。

 通っていた学校のすぐ裏手だった。それが長浜にもあったとは迂闊うかつだった。もう少し性根を入れておけばよかったのに、やっぱり、ぼくは落第小僧だった。

「なになに、遠州の菩提を弔うために、京都の大徳寺から、こううん和尚を招き……」

 後ろでパンフを読み出した。だから、行ってみたい気分になったが、竹生島への船の時間が迫っていた。

「また、今度にしよう」

 いつもそういって、ぼくは機会を逃している。

 

竹生島

 うみに出た。

 北西のみぞれ混じりの浜風が、休みなく冷たかった。

「比良の暮雪ぼせつって、こういう感じかな」

 沖を眺めて、ふといった。小難しいことを、突然、ふつうにいう。四十年近く悩まされてきたが、いまも解消法が見つからない。

 近江八景か……、

 と、蜀山人を浮かべたが、

 乗せた勢多からあわづ粟津か、ただ堅田の駕籠……、

 ときて、あとが続かなかった。

 湖北の空はせわしかった。遠く若狭からの高い空が銀白に輝いて見せても、すぐあとに比良越えの鼠色の棚雲が追い重なってふさいでしまう。のだが、また、いくらもしないで吹き散らされ、うっすらと茜の空に戻っていく。

 不思議なのは、稜線を連ねて走る比良の山々と、薄鼠に煙る雪雲と、そして比良颪に騒ぐ白波の、すべてが水平世界にあって、湖の水平線を境に、比良の山並みと波立つ湖面が絶え間なく、交互に明暗を入れ替えることだった。つまり、遠く若狭の空が陽に明けると、比良山系はそれを背にして陰の闇に落ち、逆に湖面は陽光を受けて銀白に光る。それが一転、棚雲が若狭の空を塞ぐと、比良は雪に白んで湖面は鼠に沈む。その明と暗の対照に記憶があった。

 

「ちょっと、ついて来い」

 いわれてあとを追った。和尚はいつもの茶衣姿で、大きな袂をパラシュートのように向かい風に膨らませ、すたこら、先を行く。おくれまいとぼくは走った。参道を三門前から一折れ、二折れ、あとは僧堂前の孟宗竹の長いアーチを抜けると緩やかな坂道に入って、上り切ると孤篷庵だった。

 大徳寺といえば、一休さんの真珠庵に次いで遠州の孤篷庵、とだれもがいう。百五十六世住持江月宗玩こうげつそうげんの隠棲に遠州が造った草庵だった。もともとは山内もずっと手前の龍光院りょうこういんにあったのが、江戸初期の寛永期に移っている。そのあとを江月は弟子の江雲宗龍こううんそうりゅうに譲った。江雲は遠州の甥にあたる、江月の法嗣ほっしで、のちに大徳寺百八十四世となり孤篷庵にも長く住んだが、孤篷庵そのものは移築から百五十年後の寛政五年に焼け落ちて数年経って再建された。それが現在に続いていて、遠州当時とは少しようすがちがっているが、よく知られた茶室、忘筌庵ぼうせんなんだけは遠州の古指図をもとに最初のままに復元されている。

 さて、あのとき孤篷庵に、和尚はどんな用があったのか、玄関脇の小部屋に控えていたからわからなかったが、遮る衝立前にちょこんといたら、にやりと戻ってきた。

「忘筌庵を見せてやろう」

 余所よその寺にどかどかと上がり込んでの台詞でもなかったが、和尚にかぎってそんなことも不思議でなかった。大徳寺はわしのもの、繰り返すが、和尚の口癖だった。

 ふつうに茶室といえば、本堂なり庫裏なりから軒を分けた造りになっている。ほかでもない、利休好みによるもので、だから名前もあんとかけんとかていとか、簡素な一字で結んでいる。だが、もともと茶の湯、喫茶は武家にはじまったものだから、実際、茶室とあるように、建物の一室としてあったわけで、多くは寝殿造りの北側、つまり裏側の一画に隠れるように設けられた、一種、秘められた場としてあった。そのように、忘筌庵も孤篷庵の本堂である客殿の檀那間の裏側、衣鉢間いはつのまにあたるところに造られている。表の檀那間が陽の間なら、裏の衣鉢間は陰の間で、ときに檀越や客人との密談もあっただろう。

 少し説明を入れておくと、禅寺の本堂というのは、本来は仏殿にあたるものだった。だから畳も板床もない基壇にじかに瓦敷きの三和土だった。それが室町期に寝殿造りを取り入れ、高床を張り、さらに江戸期にはその上に畳を敷くようになっている。そうして使用目的も仏像安置の場から、スポンサーである檀越、檀那をもてなす場に変わり、だから客殿と呼ばれるようにもなった。

 なかは大きく六つに仕切られる。まず、南面する真ん中の区画が室中しっちゅうといって、仏事はここで行なわれる。そして左右の二つのうち、玄関に近い方が礼間れいのまで、奥が檀那間だんなま。礼間が客人接待の部屋なら、檀那間はスポンサー専用の座敷と思えばいいだろう。つまり、本堂は寺の財政支援者である檀越のための建物だった。同様に北側の三つは、真ん中が仏間で、手前が書院、奥が衣鉢間という造りになっている。書院は住持の居間を兼ねた寝室で、衣鉢間は住持が弟子に法を説く、つまり教室ということになる。

「おいっ、こっちや」

 勝手知ったる我が家のように本堂脇を飛び石伝いに、和尚は露地を行った。するとどん突き手前の木陰の洲浜すはまに苔生した蹲踞つくばいがあって、すぐ脇が、落縁おちえんといって、低いえんになっていた。軒下の三和土とはいくらの段差もない。そこから客人は部屋、つまり茶室に上がるのだが、変わっていたのは濡れ縁の上がりはなの敷居と鴨居の間にもう一つ敷居が走っていて、上側に明かり障子を仕立てていることだった。ふつう、茶室の入り口といえば躙口にじりぐちだが、開放的で、それがない。

「わかるか、これが遠州好みや」

 中敷居を、さしていった。

 下側は建具もないまま筒抜けて、洲浜にねた斜光を部屋の天井に映す仕掛けになっている。と同時に部屋からは縁先の蹲踞や植え込みの低燈籠も見てとれる。上側の明かり障子は西陽にしびを遮る目隠しの役目も兼ねているというわけだ。

「この上と下でころりと世界が変わる、遠州の真骨頂やな」

 重ねて、中の敷居をさしていった。そのように日中の陽の高いときは、上の障子部分は薄暗がりなのに、下は反射光で淡くしらみ、逆に陽が西に傾くと、上が明るんで、下が植え込みの陰を落として暗くなる。時間を追っての明と暗の水平世界、湖北に生まれ育った遠州にはごく日常の世界だった。それを和尚はいったのだろうが、落第小僧は、理解に半世紀もかかっている。

 

 そして週末の日の暮れだった。

 玄関の、ぴん、ぽーん、にドアを開けると友人だった。ぼくより一廻り近くも若いが、家も近い呑み仲間で、

「仕事帰りに、古本屋で見つけました」

 と一冊くれた。

 和尚の随筆本だった。利休鼠の簡素な装幀で、題字は和尚だろうと一目でわかる、筆尻の撥ねが躍りすぎる。すっかり背も灼け、小口も点々と染みだらけだった。

 開くと、ぷんとかびの臭いがする。奥付をたしかめると、逃亡半年後の初版だった。お礼をいって、はやる心を夜まで抑え、風呂上がりに、一人、食卓の丸テーブルに向かって読みはじめた。

 ああ、そうでしたね、そうでした……、

 頁を繰るごとにむかしが蘇って何度もうなずく。気づくとすっかり日付も変わっていた。

 あとは、明日にしよう、

 思って閉じたが断ち切れない。それでまた、ぱらりとめくりはじめたら、こんなくだりを見つけて胸が熱くなった。

 ──今夜、小僧のつくってくれたライスカレーは美味うまかった。どこの料亭の御馳走より美味かった……。

 嵯峨に、祇園に、上七軒、と招待さそいが多くて舌の肥えた和尚だったが、ぼくらに強請ねだるのは、いつもきまって肉じゃがかカレーライスだった。

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