かすみ比叡

「親鸞さんはな、あれは頭をってはおらなんだ」

 午後の茶事さじしょぱなだった。和尚がいった。

禿とく僧いうてな……」

 そこでぼくらは背筋を伸ばし、これは長くなるぞ、と覚悟した。

 和尚は続けた。

「あの禿とくいうんは、禿頭はげあたまのことやのうて、まあ、いうたらバリカンの五分刈りいうところやろか、自分でも愚禿ぐとくというておった」

 ぐ、と、く? 何のことだか、喉奥で、一人、鸚鵡おうむ返しにいってみた。

「五分刈りいうても、べつにずぼらをかましとったわけやない。あらがいいうたら下世話になるが、あの人なりの考えがあったのやろう」

 いいながら茶碗に湯をそそぐと、しゃか、しゃか、茶筌を躍らせた。

 ──茶はかたちから、

 作法にやかましい和尚だったが、口とは逆に、いらちの和尚の点茶はせわしなかった。

「禿は、かぶろとも読むんやな」

 これには一番上の兄弟子がうなずいた。それで和尚も勢いづいた。

「寒山拾得みたいに、というたらわかるやろ? 髪の毛をい上げんと、こう、短こう肩先までらしたままの、あれやな」 

 手真似しようとするのだが、あいにく二つとも茶碗と茶筅で塞がっている。代わりに肩をもぞもぞさせた。

「いうても、散切ざんぎりまではいかんかったやろ」

 そうして小一時間、いつものように和尚の話は続いたが、中学上がりのぼくには、話の深意はもちろん親鸞の何かもわからず、頭のなかは、はじめて胸を熱くしたクラスの女の子のことばかりだった。

 大徳寺の惣門を東に抜けた門前町もんぜんちょう、そのかかりの町家からだった。夕方、薬石の支度に商店街の豆腐屋に走って出ると、子犬を連れて境内散歩にやって来るのを見つけていたし、学校の通学路になっていた朝の参道でも毎日のように見留めていた。いつも時間を計ったように惣門をやって来る。それを参道の松の木陰で待って、偶然出会ったふりして会釈を送った。

 さて、禿の話だが、親鸞が自ら愚禿といったのは越後に下る前後のことだったらしい。源空、つまり法然から授かった綽空しゃっくうを改め、親鸞と名乗るのも同じ頃で、三十も半ばを過ぎていた。愚禿は愚僧と同じに使われることもあるが、もともとは親鸞がいったのにはじまっている。愚とはいっても、へりくだりではなく、親鸞の場合は苦悩の末の開き直りといっていい。愚にはもともと、おろかな物真似猿という意味があった。だから愚禿には「袈裟けさがけ姿でやってはいますが、ふりだけで、ほんとの出家ではありません」と素直な声も聞こえてくる。そんなことが大っぴらにいえたのも、親鸞当時、仏僧でありながら髪を伸ばしていても、けっして異形ではなかったからだ。道元はなげいている。

 ──長髪なががみは仏祖のいましむるところ、長爪ながづめ外道げどうの所行なり。仏祖の児孫じそん、これらの非法ひぼうをこのむべからず。身心をきよからしむべし、剪爪剃髪せんそうていはつすべきなり。

 かつて遊学した宋での仏僧の、たぶん物臭ものぐさから来る風紀の乱れをいったのだろう、『正法眼蔵』の戒めだが、弟子に向かってこう説かねばならなかったほど、この国の宗門も同じけしきにあったと見える。親鸞の少しあとのことだった。

 道元は鎌倉初期の一二〇〇年に生まれている。一一七三年の親鸞よりは二回り年下で、『正法眼蔵』は道元の三十過ぎから五十三の遷化せんげまでの記録だから、道元が歎いたときには親鸞はもう六十は過ぎていただろう、源平の争乱のあと、京師の仏僧の暮らしはかなりすさんでいた。といっても親鸞の場合はただの怠けからではない。剃髪とまげの中間、つまり聖(僧)でもなければ俗でもない、二つの狭間を生きようという意思表示があった。なぜだったか、もう一人、日蓮を並べてみるとよくわかる。三人はほぼ時代を前後同じにして不思議な関係で生きていたからだ。

 親鸞と道元には二回りのとしの差があるといったが、一二二二年生まれの日蓮は、さらに道元よりも二回り後の人で、つまり親鸞からすれば、道元は子、日蓮は孫の世代にあたる。親鸞は九歳で慈円じえんのもとに得度して比叡山にのぼった。慈円は摂政から関白、太政大臣にまで昇り詰めた藤原氏嫡流九条兼実かねざねの弟で、兼実は後白河法皇と対立して源空に師事している。その源空は比叡山を嫌ってすでに東山の吉水よしみりていた。一方、道元は十四歳で同様に比叡山に上り、これは三条家から出た公円こうえんについて出家している。そして日蓮は十二のときに安房清澄山きよすみやまの道善房の門を叩いて、十六で出家、二十一のときに比叡山に移っている。

 そろって比叡山をめざしたのは、そこが最高学府だったから。最澄以来、中国を通じて蒐集した仏典の、つまり学問史資料のこの国最大の図書館だった。そしてもう一つ、僧の資格の戒を授ける国家機関でもあった。平たくいえば僧という欽明期以来の国務官僚の国家試験の場でもあったからだが、日蓮の頃にはほとんど機能をなくしていたと見ていい。

 修学期間は、親鸞が二十年、道元が三年あるいは四年、日蓮は十年だった。この期間や入山年齢の開きにはけっこう意味があって、三人のその後を決めたといってもいい。いまでいえば、親鸞は付属小学校からの生粋の叡山生だったのに対し、道元は大学部門からの入学で、それも何を思ったか、最後は中途退学している。そして日蓮の場合は大学院からの転入生だった。にもかかわらず修士から博士課程までを完修するという超英才コースを歩んでいる。同じ叡山修学といっても、三人の中味はまるでちがっていた。

「親鸞さんはな、堂僧どうそういうて、声明しょうみょうを専門にやる人やった」

 和尚はいったが、そのように比叡山の修行僧といってもいろいろで、まず出自のちがいから、貴族子弟のように、いまでいえば茶道宗家が子弟を京都や鎌倉の禅門に行儀見習いに出すように、成人までの一時を過ごすものと、僧の道そのものをめざすものがあり、また、貴族の出自にも京師みやこと地方のちがいもあって修学コースも入山はじめから大きく二つに分かれていた。学僧と楽僧である。

 学僧は、道元や日蓮がそうだったように、学問僧といえばわかりやすいか、経典の学究をめざした修行僧、つまり学生がくしょうで、比叡山の場合、その在学期間は十二年だった。それに対し楽僧は、経典を唱える声明を専門にした修行僧で、堂僧ともいったが、親鸞の場合はこれにあたる。

「声明いうんはな、わしらはやかましくいわんからおまえらもわからんやろうが、相国寺あたりはやたらきびしゅうてな、独特のふし回しでうなりよる」

 そのようにぼくらは経を教えられたことがなかった。すべて和尚の見様見真似で、だから弟子の間でも調子がちがって、優等生だった中の兄弟子は、うおーん、うおーん、と唸るように読んだのに、上の兄弟子は平板でさらりと癖がなかった。そしてぼくは蚊の鳴くように、ふおん、ふおん、と口籠もるばかり。経が嫌いで、般若心経以外、空でいえたためしがなかった。

 和尚は続けた。

「知らんもんが聞いたら吹き出しよるやろ。女のように、か細い声で、それを、童行ずんなん喝食かっしきいうて、ちっさいときから叩き込むんやな」

 聞いてぼくはさらにお経が嫌いになった。

「けど、親鸞さんら堂僧がやりよったんは、どないいうたらええやろか、浄瑠璃いうたらいい過ぎやろが、わしらみたいな舟をがすきょうやのうて、こう、人を酔わす、そんなんやったと思うがな」

 そうもいって、あとはどうだったか、ともかく本来の経というのは、たらたらと眠気を誘うようなものではなくて、唱えるにもきちんと決まった、音律、旋律というものがあったというのだった。だから一堂に会しての声明には、西洋のミサ曲やオラトリオさながらの荘重さ、華麗ささえ見えたのかも知れない。それを楽僧は、不断念仏、常行三昧じょうぎょうざんまいといって、方丈、つまり一丈四方の堂宇に籠もり、阿弥陀の周りを唱えてめぐる、一種、断食に近い難行で、わずかな食事と大小便以外は昼夜休みなく九十日にわたって続けた。

「声のきれいな人やったらしい」

 和尚はいったが、そうして念仏三昧、親鸞は二十年を送っている。

 といって、籠もってばかりいたわけでもない。上の兄弟子がいうには、僧堂暮らしもそうだったらしく、剋期摂心こっきせっしんといって夜昼ない坐禅三昧の堂籠もりは一年のうちでもほんの一時のことで、あとは托鉢と作務の林間学校のような毎日だった。その托鉢にも、じつはいろいろ抜け道があって、身を切るような寒風さむかぜの朝、シャーベット状の雪道を素足にわら草鞋で、うおーっ、うおーっ、と白く息を残して駆けていく、そんな墨染め姿は、見ているだけでも寒気がしたが、じつは、人もさまざま、ところもいろいろ、ふと町家の門口に立てば、「さむおっしゃろ」と暖簾のれんの内から声もかかり、一服どころか昼時の接待もあれば、ときには「一杯、どうどっしゃ」と熱燗に昼寝付きというのもあったらしい。

 比叡山も同じだった。回峰行といって、平安中期にはできあがっていたらしいが、白麻の息災浄衣そくさいじょうえと白袴の小五条袈裟こごじょうげさに身を包み、手甲脚絆てっこうきゃはんに蓮華草鞋、そして頭には檜傘ひがさ、手にはじょう、つまり不動明王そのままの姿で、険しい比叡山の杣道をうし三つ時から駆け抜ける、そんな苦行があった。峰筋だけでない、東の坂本に下ったり、反対の西には雲母坂きららざかを修学院から高野たかのに下りたり、さらに、これは大廻おおまわりといって市中の神社仏閣を、途中、大路小路の門口に加持かじを授けながら駆けめぐる。そうして夜はまた堂籠もり。これを百日にわたって続けるのが百日回峰行で、さらに七年に続けるのが千日回峰行といって、総程九百七十八里、約三万七千九百キロというから、地球一周にあと一歩という超人行だった。

 ただそこにも托鉢と同じにいろんなけしきがあって、ときに親鸞も、はやる想いで雲母きらら坂を駆け下ったことだろう。ほかでもない、行き先は条坊貴族の館だった。当時の京都は、洛中、つまり鴨川以西だけでなく、東に越えた、いわゆる川東かわひがしにも平氏の栄華で街は広がっていた。もちろん、洛中も保元以来の内乱ですさんではいたが復旧も進んで、そんな貴族のもとに、親鸞にかぎらず楽僧たちは足繁あししげく通っていたのだった。

 何をしに? 不断念仏のためだった。追善供養、安産祈願、滅罪、往生祈願など願事成就がんじじょうじゅが盛んで、念仏会が貴族の間で定期的に開かれていた。そこに招かれていくのだが、のちの親鸞の念仏道場というのも、それを京師にならって地方に広げたものだった。午後に山を下ると夕べから念仏に入り、宵の口まで続いて月明かりの雲母坂を戻っていく、そんな一日だったかも知れない。

 その念仏とは、どんなだったか? 気儘に想ってみるのだが、常行三昧で鍛えた喉奥から、流れるようにうたい出る声明は、貴族や子女の耳には陶酔の旋律で響いたにちがいない。

「念仏いうてもな、あの頃のお経いうんは抹香臭まっこうくさいもんやない。いうたら、いまの若いもんが走りよるニューミージックみたいなもんやなかったかな」

 ニューージック? 目を丸くするぼくら小僧にも涼し顔で、和尚にはそんな新語もめずらしくなかった。

 和尚のもとには、これもちょっとした理由わけがあって、毎日のように政財界の大物連がやって来ては、あれこれ書院や茶室で話をしたあと連れ立って嵯峨や北野の料亭に流れていった。そんな客連がグリーン車やハイヤーのなかで読んでいたのだろう、気を利かして、手土産といっしょにあれこれ週刊誌や雑誌を置いていった。それを和尚は捨てずにいたから、ぼくら小僧以上に流行はやりにも詳しかった。読むとあとは心得ていて、奥の隠寮から、とこ、とこ、東司とうすや用事ついでに廊下を来ては、ぽいっと玄関脇の小僧部屋に投げていく。ちょうど週刊誌も諸誌乱立の最中、過激化する記事や巻頭グラビアにぼくら小僧は性の癒やしを見つけたのだった。

「おまえらにはわからんやろうが、寺が葬式にかかわるようになったんは、そんな古いことやない。さかのぼってもせいぜい江戸の頃やろう、はじめに手を染めたんは、わしら臨済禅やった」

 檀越だんおつの室町守護や戦国大名、武将が没落。喰えなくなった臨済禅が、幕府保護の代償に葬式仏教の先頭に立った、それをいっているのだった。

「禅宗いうんはな、もともと中国では貧乏人相手の宗教やった。不立文字ふりゅうもんじ教外別伝きょうげべつでんいうんも、いうてる本人も字が読めんかったからそういうたまでのことで、それがどういう理屈か、この国では気位がたこうなってしもうた。武士を相手にしたからやろう」

 禅宗にかぎったことでもなかったが、僧が人の生き死、つまり、とむらいにかかわるようになったのは江戸期の宗教政策、檀家制度、寺請制度によるもので、臨済禅が先陣を切って牽引役になっている。

「まあっ、そういうこっちゃ。ようはわからんが、念仏の、あのうたうような節回しに貴族の女は酔いよったんやろな」

 けろりといったが、楽僧だけでない、より上のエリート集団だった学僧も、同じように雲母坂を下っては貴族の館を訪ねている。ただかれらの場合はちょっとちがって、経典の講釈をして聴かせる、いわば文化講演会のようなものだった。

 それを親鸞たち楽僧は、頭でなく耳を通して間脳を刺激した。一日に限らない、別時べつじ念仏といって、一週間、十日と、昼夜にわたって続くこともあったらしい。と、そこは生身の人間世界で、男と女、聖と俗、いろんな交わりもあったにちがいない。そんな親鸞の訪ね先の一つに、のちに妻となる恵信尼えしんにもいて、やがて聖俗結界の雲母坂が、戒と邪の煩悶もだえ坂に変わっていく。

 その雲母坂を和尚ものぼっていた。

「わしらの頃でも、比叡山はこの道の原点やった」

 大阪の堺に古くから続く紙問屋の、和尚は後取り息子だった。それを十八で家業を投げて大林宗套そうとう南宗寺なんしゅうじで得度、二十歳のときに比叡山をめざしている。

「とにかく、まっすぐのぼってやろうと思うてな」

 和尚らしかった。

「鴨川も、じゃぶ、じゃぶ、法衣ころもの裾をからげて渡ったわな。白川の一乗寺あたりやった、春の泥田どろたもそのまま突き切ってな。目が見えんいうんはああいうのやろう、いさむばっかりで怖いもんがなかったわな」

 ところが門前に追われたか、逆に、和尚の方が見切ったのか、わずか三日で山を下りている。たぶん和尚の飽き性の結果だろう。それを親鸞は二十年続け、山をあとにしたのは二十九のときだった。妻帯という破戒との煩悶の末だったか、学僧とのいさかいだったか、それとも寺門じもん園城寺おんじょうじ南都なんと興福寺との政争に明け暮れる山門醜姿しゅうしいたのか、市中、六角堂に籠もっている。いまの烏丸御池の交差点にほど近い。むかしはかなりの寺域を誇っていただろうことを『名所図会』は教えてくれるが、すっかりビルの谷間に縮籠ちぢこもっている。開基は聖徳太子、と縁起はうそぶくがおそらく平安半ばの創建だろう、西国三十三箇所の札所にもなっている観音霊場で、そこに親鸞は百日参籠さんろうをめざし、九十五日目の朝、枕辺に太子が立ってを授けたとして、煩悶の鎖を解いた。

 本来、仏殿、仏堂というのは、中国伝来そのままに床は三和土たたきか、瓦敷きの素朴なものだった。それが平安半ばに観音信仰の広がりで霊験参籠さんろうがブームになり、長くじかに座るのは足腰に悪いからと板張りになり、さらに座蒲団代わりに畳が敷かれることになる。六角堂もそんなかたちでなかったか、山を下りた親鸞は吉水に源空の門を叩いている。吉水は東山の山懐やまふところ、知恩院の南の将軍塚への上り口で、もちろんいまより山深かった。そこに源空は草の庵を結んでいた。

 源空は親鸞には一世代上の大先輩だった。美作みまさかの人で十三のときに比叡山に上って学僧をつとめている。鋭才だった。そして親鸞が生まれた頃には、見切りをつけて吉水に下りていた。四十三歳。あとを慕って弟子の多くが山を下りている。いまでいえば、政争と保身の狂騒に飽き飽きした看板教授が大学を去り、私塾か研究所を開いたところに、将来を約束された俊英たちが中退して参集したかのようで、親鸞も、楽僧という専門学校コースの学生ではあったが、少しおくれて門を叩いたのだった。

 源空が注目されていいのは、女性に対しても教えを説いたことだった。それまでのこの国の仏の教え、つまり仏典というのは漢字で書かれていて、男だけを対象にしていた。それを声明、いいかえれば音の経典として源空は万人に広めようとした。漢字が読めない、さらに文字を知らない階層への社会参加のきっかけづくりだった。すると、当然のように、それは聖と俗とのへだたりの解消、つまり、僧の世俗化につながっていく。だから親鸞が六角堂に籠もったのも、聖徳太子からさずかったというのも、いうまでもない、のちの教団の辻褄合わせの説話に過ぎない。ほんとうはまっすぐ源空のもとに走っただろうし、行き着く先はそこしかなかった。そして名前も範宴はんねんから善信ぜんしんと改めている。何のためか? 善信というのは俗名で、つまりは法号を棄てるという意思表示だった。いうまでもない、得度して師から戒を受けた者はそのときもらった法号で仏さんのアドレス帳にリストアップされている。それを棄てるというのだから仏さんと縁を切るということになる。その理由わけは? 妻帯のためだった、と考えていい。といって信仰、つまり自分の立ち位置は棄てられない。現実には矛盾だらけになってしまうが、聖と俗の狭間を生きようとしたのだった。

 そこであの言葉だが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」というのは、そんな親鸞の独創と思っていたが、じつは源空が最初だった。二人がちがったのは、源空は、それでも善人たらんと努めたのに、親鸞は、さらりと棄てて、自ら悪人であると開き直っている。といって斜に構えたわけではなく、まっすぐ素直に生きようとしただけのこと。これは知っておいていいと思うが、当時、僧の妻帯はめずらしいことではなかった。僧に女犯の戒がきちんとしていたのは、せいぜいが平安遷都頃までだろう。あとはりつも法も崩れっぱなしで、平安末期には妻帯もごくふつうのけしきになっていた。

 もともと釈迦の集団、グループには、その教えを守って家、つまり私財や地位を棄てる出家に対し、教えは守るが家は棄てずに、逆に家を守ることで出家を支える者、つまり檀越、あるいは沙弥しゃみともいったが、周縁の取り巻きの二つがあった。出家に妻帯は許されない。けれど檀越、沙弥はその限りでなかったから、たとえ出家の身で妻帯することになったとしても、出家をやめ、檀越として支援者に回ることで、変わらず教団に身を置くことができた。それがこの国ではようすがちがって、妻帯しても出家をやめないのがふつうになっていた。親鸞はそれにあらがったのだろう。だから比叡山を下り、自らを禿僧と呼び、出家の象徴でもあった剃髪をやめたのだろうとぼくは想像している。よく目にする、あの人相の悪い親鸞像は剃髪姿で写っているが、じつはずっと晩年の作で、禿とするにも老い過ぎて髪がなかったのではないか。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや……、同じようにいった二人だが、戒を守り出家を通した源空には、人に善悪の仕切りをつける必要はなかった。ともに救われればそれでよかった。けれど、妻帯、破戒の親鸞には、悪人の往生は欠かせない。あの悪人は、土地を持たない、川筋に生きた下層の人々、というばかりではなかった。

 そして妻帯の問題は、じつは法の問題でもあった。よくいわれる、正法しょうぼう像法ぞうぼう末法まっぽう三時さんじの説も、ほんとうは僧の妻帯問題から生まれている。釈迦が死んでから五百年なのか千年なのか、いろいろ議論はあっても、ともかく数百年の間は釈迦の教えもきちんと守られ、すべてが覚者かくしゃ、つまり釈迦の生き方をめざしていた。それが正法の時代であって、あとの数百年は、教えはなんとか守られるが覚者をめざす者がいなくなる像法の時代、そしてあとは、覚者をめざす者はもちろん、釈迦の教え、つまり法さえ守られなくなる末法の時代に入っていく。これは、そうなることを預言したわけではなく、そうなってからの理屈付けだった。だからこの国に仏法がやって来たときには、すでにどこにも覚者をめざす者などいなかった。はなから、破戒、無法の仏教だった。

 これを経典からいえば、釈迦の説法、つまり経が意味を持っていたのは正法の時代だけとなる。続く像法の時代には、それを忘れないよう解釈して努めた。それが末法の時代になると、もう中身を説ける者もなく、ただ、南無阿弥陀仏、妙法蓮華経と題目を唱えるしかなかった。釈迦の教えは、時代が下るにつれて大衆化されたのではなく、説く者がなくなっただけのこと、源空、親鸞の時代には法も覚者もすでになく、念仏でさえすでに怪しかった。

 源空は嘯いている。「聖であって念仏がならないなら、妻帯して念仏せよ」。妻帯のために僧をやめるというのなら、妻帯するのもかまわないから信仰を棄てるな、素直すなおにはそう読める。けれど、もう少し奥が深かった。

 古くインドではサンガ(僧伽)といって、教団のことだが、僧というのはもともと、そのなかでしか生きられなかった。家も財も棄てていたからで、だからサンガを離れると、身を寄せる家と財を求めなければならない。つまり、妻帯するしかなかった。いまとちがって女性にも相続権があったからで、それが否定されたのはこの国では江戸に入ってからのこと、室町までは女も男から自立して家を持っていた。その意味で、僧の妻帯というのは教団の拡大には自然なことで、むしろ、あるべき姿だった。ただ、親鸞がちがったのは、多くは妻帯しても聖の地位に執着したのに、それを棄て、ひたすら俗のなか、禿僧に生きようとしたことだった。

 親鸞が吉水の門をくぐった頃、源空人気は最高潮にあった。宗門に限らず貴族や、遠くは熊谷直実、宇都宮頼綱といった幕府の有力御家人や関東武士団も門を叩いていた。余談だが、宇都宮頼綱の宇都宮というのは領国の地縁によるもので、姓としては藤原姓、とう氏を名乗っている。時代的に藤原定家とも親しく、娘は定家の長男為家の正妻に入っている。その子の為氏と、阿仏尼で知られる為家の後妻うわなりの子為相ためすけとの間で家督相続の所領争いがあって、為相が別家を立てる。それが歌道の冷泉家としていまに続いている。

上:正伝寺からの比叡山
下:稲田の見返り橋

 そんな勢いの源空だったから南都北嶺はおもしろくないのも当然で、その提訴で源空は讃岐に流され、親鸞も連座して京師を追われる。頼った先が越後の国、妻の父三善みよし為教の所領があった。当時、刑罰というのは貴族を対象としたもので、だから流刑といっても裸一貫で追われるのではなく扶持ふちも支給されていた。ただそれもせいぜいが半年で、あとは自力で生きていかねばならなかった。ために身寄、コネクションが欠かせない。親鸞にそれは恵信尼以外になかったし、だから恵心尼とは京師で知り合っていたと想像するしかない。聖と俗の狭間で苦しみ、悶えたのも恵心尼がいたからこそのことだった。

 そして四年、赦免は下りたが親鸞は戻らなかった。源空は吉水に帰ったが二カ月後に逝っている。七十八歳。それも親鸞には一つの節目になったのだろう、かつて源空から授かった綽空しゃっくうの法号を改め、自ら愚禿と呼びはじめた。見た目、形としての僧を棄てたということだろう。三年後には妻子とともに越後を出て、途中、転々としながら信濃から碓氷を越えて常陸の稲田いなだに落ち着いている。なぜ稲田だったか? そこに恵信尼の父の所領があったからとも、あたりに勢力のあった宇都宮頼綱の縁族に招かれてのことともいうがどうだったか、吹雪谷と呼ばれた山合に庵を結んだ。南に筑波山から加波山かばさんに連なる碧い峰筋を望む、いまも穏やかな里である。

「ああ、あれやったら、まっすぐこの先の……、ほれ、あそこに見えますやろ」

 稲穂がやさしく小首を垂れ、蕎麦の花が白くさわやかな一日だった。二人、常磐線を友部で乗り換え、ごと、ごと、行った。前から訪ねたいと思っていた。それを一通り境内をめぐり廻り、裏門から里に抜けたところでさがしていたら、田圃の畦から老爺が教えた。ごつごつと節榑ふしくれ立った指先の、野道のてに白く小さく光っていた。見返みかえり橋。京師に戻る親鸞を、越後に向かう恵信尼が見送った。還暦を過ぎての親鸞の、妻との最後の別れだった。

 親鸞は生きるに器用な人だった。禿僧といったのもその一つだろう、戒を棄てた俗僧に、自力による開悟の道はあり得ない。すると他力によるしかなかった。そう考えての他力本願であって、妻子を持った親鸞は、俗僧であることを自認していたから、門下を子弟でなく、同朋どうぼう同行どうぎょうと呼んで親しんだ。ともに念仏する者、という意思だろう。だから暮らしの場も、いまでいう寺ではなく、ふつうの造りの建物で、それを道場と呼んでいた。

 そして三十年、最初は越後の恵信尼からの助けもあったというが、それも絶えたか、晩年は同朋からの布施によって過ごしている。どこか、いまの年金暮らしに似て、微笑ましい。九十歳で、仏陀さながら北を枕に西面し、念仏を唱えながらの最期だったらしいが、家族思いだったのだろう、俗に過ぎるといえばそれまでだが、直前に、死後の家族への援助を常陸の同朋、同行に願いのこしている。「ひたちの人々の御中へ」と結んだ書状で、受け取った弟子たちによって東山の大谷に廟が建てられ、娘の覚信尼がその留守居として暮らすようになる。つまり墓守で、それが世襲となって、いまの門主に続いている。

「どこかで見た気がする」

 傍でいった。ぼくも思っていた。御坊の裏山の、杉木立のなかを二人並んで南に向かい、加波山を望んだその山並みが、比叡山から音羽山にかけての東山にそっくりだった。親鸞の稲田を選んだ想いが、少しだったが、わかる気がした。

 そんな比叡山もじつはいろいろで、御所の北、今出川を越えて上がると頭もつんととがらせてりんとして見せるが、逆に、丸太町を南に下がるとずんぐりむっくり、愚鈍といえばいい過ぎだが、穏やかに丸ぼったくなる。もちろん稲田のそれはあとの方で、たぶんむかしは、六角堂からの眺めもそんなふうではなかったか、親鸞の原点ともいえるけしきだった。

 そしてぼくにもぼくの比叡山があった。小僧に入ったその日、あてがわれたのは庫裡くり奥の屋根裏部屋だった。天井はきちんとあった。けれど低い鴨居に、古畳も黴臭いばかりか、あちこちへりり切れ、藁床わらどこもぶかぶかと頼りなかった。それでも広い八畳間はぼくには贅沢過ぎた。

 ほうけだらけの毎日なのに、鮮やかにむかしが蘇るから不思議だが、片側に二けんの押し入れがあって、反対側には一間幅に腰窓がいていた。ちょうど東に向かう切り妻の真下にあたる。明かり障子の外に木格子の入ったげ窓で、内から竹棒で突っ張り上げる鎧板よろいいたり戸がかかっていた。と、それだけで、真ん中に天井から、乳白の硝子傘を被ったあかりが一つぶら下がっているだけ。しん、しん、と夜も更けて、はじめての朝だった。枕元の時計に夢から醒めた。五時前だった。腰窓に鎧板の割れ目から、ぼんやりと、白く光が射している。

 そうだ、うちじゃないんだ……、

 いい聞かせると蒲団を出て、柱に吊った竹棒で鎧戸を上げた。

 ぎいーっ、と鈍い音がした。

 街はまだ、どこも薄鼠に眠りのなか、比叡山がまっすぐ見えた。きれいだった。うっすらしらみはじめた茜空に峰筋をゆるりと伸ばし、少しだが左肩を落としている。その傾きがなんとも妙で、すすけた窓の額縁に墨絵のようにおさまった。

 はじめての比叡山だった。だから、比叡山といえば、京都からのが表の顔と思っていたが、最近、近江を歩くようになって、ほんとうの顔は近江にあって、あの頃、見ていたのは、じつは裏比叡でなかったかと気づきはじめている。

 そんなぼくにも迷いがあって、二年目の秋だった。二人、雲母坂から、錦に燃える木立のなか、てっぺんめざして登っていた。途中、ふと出た見晴らしで膝丈ほどの野面石に並んで休んだ。街が晴れてうつくしかった。と、隣で小さくいった。

「禅宗のお坊さんって、結婚できないんでしょ」

 それに黙ったまま、明くる春、ぼくは寺を逃げている。

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