小僧のあした

「そのほうき、ずいぶん変わってますね」

 雨上がりの門口をいていたら、ジャージ姿の婦人だった。朝の散歩らしい、一回りかそこいら年上だろう、ときどき見かけはしたが、話すのははじめてで、いつもは元気に大きく両手を振って、つつっと行ってしまうのに、どういうわけか、その日はちがった。

「これですか? 棕櫚箒しゅろぼうきですよ」

 すると婦人は首を傾げた。

「棕櫚って、あの棕櫚ですか? 茶色の、束子たわしの長いような」

「ええ、けど、あれは鬼毛おにげ箒といって、おんなじ棕櫚でも皮の方でつくるんですが、これはただ葉っぱをたばねただけで」

 いいながら改めて箒を見たが、婦人が不思議に思うのも無理はない。半年近くも使い古しているから腰もよれよれに、葉先も毛羽立ち、茶枯れたお化けのようになっている。それでも婦人はにこやかだった。

「へえー、めずらしいですね。ご自分でおつくりになったの?」

 いい人だった。だからぼくもその気になって、「ええ、まあ」と照れてみた。婦人は興味津々だった。

「でも、棕櫚なんて、 今時いまどき、なかなか手に入らないでしょ」

 それでぼくもその気になった。

「いえ、ほら、あそこ、森が見えるでしょ」

 通りの先を指さした。ここ四、五年、近くにも空き家が目立って寂しくなったが、むかしからの家並みのてに、少しだが、赤松のそびえる緑があった。

「何本か、棕櫚も植わってましてね。勝手にもらってるんですよ」

 すると、婦人はうなずいて、

「えー、えー、あそこね」

 と知ったふうだった。

「どなたがなさるのか、いつもきれいにしてらして、わたしも悦しませてもらってますの。この間なんか、宝鐸草ほうちゃくそうが咲いてましたもの」

 にっこりいって、胸前に、掌を小さく広げてつくって見せた。

 ほうちゃくそう? ぼくは首を傾げた。けれど婦人はそこまでで、くるりと向きを変え、すた、すた、行った。

 森といったが、ちょっといい過ぎ。もともと広い屋敷森だったのが相続で切り売りして、建て売りがいくつかできたその隅に猫の額ほどに残された一画だった。後ろに高い光悦垣の旧家があって、税金逃れだろう、自治体に明け渡して、憩いの森、と長閑のどかな案内板も立ち、残った五、六本の赤松も空高くすずやかだったが、子どもの遊ぶ姿はもちろん、犬猫の出入りする気配もなかった。

 ところが、どういうつもりか縁なのか、ときどき背中を丸めた老婦の姿があって、道沿いの植え込みに細々こまごまと季節の花がきれいだった。その奥の木陰に隠れてあった棕櫚の木から、盆暮れに五、六枚、黙って枝葉をもらっていた。小僧暮らしの褒美といえばうつくしいが、門前の小僧は経を覚えるというのに、落第小僧はそれさえできず、いまも棕櫚箒をつくることだけ忘れずにいる。

 

「棕櫚の葉を取ってこい」

 和尚がいった。

 粥座しゅくざのあとの、いつもの茶事は早めに切り上げ、その日は朝からせわしかった。いわれて走ったのは裏庭だった。比叡山を借景に東から南にくの字に広がる方丈庭の南の築地の向こう側、隣の塔頭との間には、奥行きも五間あったかどうか、細長い空き地があって、東の半分を縁戚墓地に、残りを畑にいろんな野菜をつくっていた。和尚は堺の商家の生まれだから百姓仕事にはうとくて、世話をしていたのは一番上の兄弟子だった。鳥取の東郷の人で、在は百姓家ではなかったと思うが、鍬を担ぐ姿がしっくり似合っていた。その墓地と畑の境に天を突いて二本、夫婦のように寄り添って古い棕櫚の木があった。これも兄弟子がやっていたのだろう、いつもきれいに枝打ちされて、高い空にさらさらと青葉が初夏の風に涼しかった。それに梯子を差しかけて、いわれた通りに五、六枚、手鋏で伐ると庫裡の中庭に持って走った。

 和尚は作務衣姿で待っていた。柄にする青竹は、前の日に僧堂の竹藪からもらってきている。その枝を払って腰丈ほどに切り、先っぽにとってきた棕櫚の葉を括り付ける。

「こうやってな、向こうとこっち、右と左、交互に重ねるんやな」

 手取り足取り、和尚は教えた。そうしていわれたように葉を裏返しに二枚ずつ向かい合わせに重ねてこれも棕櫚縄で縛る。すると縄の墨と葉の緑の対比もさわやかにきれいな箒になった。それを茶会の玄関や飛び石や、にじり口の三和土たたきの浄めに使ったのだった。青竹の緑の匂いも気持ちよくて、妙にぴりっとしたものだったが、いまはどうか、そんな箒を使う茶会もないかも知れない。

 それを五十を過ぎてからだった。ふと思い出してつくってみた。といっても都会暮らしだから竹を伐る藪もない。少し前なら、竹材の卸商も大通りに見かけたが、それもだいが替わって店を閉め、貸しマンションに建て替わっている。しかたなく、ようやく見つけたネットで送ってもらったが、棕櫚葉の方はそうもいかない。自転車でさがし回って、もうだめか、と諦めかけていたのを、なんのことはない、目と鼻の先に見つけたのだった。そうしてやってみれば昔取った杵柄で、けっこううまく仕上がった。だから一人、悦に入って、以来、盆暮れには新しいのをつくって気分替えのしにしている。

 

 箒ができあがると、和尚はいった。

「ちょっと、ついて来い」

 いつものことだったが、この、ちょっと、に不安と期待が渦巻いた。それがいまは懐かしいのだから不思議だ。

 和尚は庫裡裏から塀際の木陰道をすたすた行った。そして方丈庭の苔の緑を横切ると隅の椿の老木の陰に隠れた木戸をくぐった。さっき話した方丈の裏庭には、棕櫚のほかにも畑と墓地の境に大きな木槿むくげの株立ちがあった。肌も汗ばむ日も多くなりはじめた梅雨明けに、涼しげな立ち居姿で、それはよかったが、咲き終わるとだらしなく花がしぼみ、ぽたり、ぽたり、とあたりに散らかって行儀悪かった。それを和尚は背伸びして、まだ花先の捻りを残したままの白い一輪を、手折ると塀際をまた戻った。ついて来いとはいったが、何をさせるわけでもない。それが、

 ──かたちは見て取れ、

 ということだったか。台所の什器棚に並んだ器のなかから丹波の一輪挿しを選ぶと、本堂脇の中庭の井戸端に走り、汲み上げた釣瓶の水に一輪をさっとくぐらせ丹波にけた。それを骨清庵こっせいあんの床柱に掛けたのだった。

 骨清庵は方丈と庫裡の間に二つあった小さい方の茶室で、和尚好みに造ってあった。繰り返すが、一畳台目中板向板丸炉壁床といって、素朴な造りだった。いわゆる方丈で、畳が二枚きりの、一枚はふつうの大きさだが、もう一枚は台目だいめ畳といって、四分の三に一方が削られている。その二枚の真ん中に細長い板を挟んでいるから中板なかいたで、板幅は五寸二分というから十五センチぐらいだったか、向板むこういたは台目の残りの四分の一を板敷きにした点前てまえの水屋で、台目がまえというらしいが、上に吊り棚をしつらえていた。

 炉は入炉いりろ、つまり台目畳の内側にあって、細かくは向炉むこうろというらしいが、中板寄りに切ってあったと思う。まん丸い炉で、その内側を塗っていたのが伏見の稲荷山の土だった。明るい黄色がかった壁土で、いまも伏見稲荷に行けば土産に売られているあの伏見人形も同じ土でできている。そういえば稲荷山一帯の伏見丘陵の歴史は古く、すでに縄文期から開けていて、古代には秦氏も最初に落ち着いて、土師部はじべも置かれていた。なんでも伏見人形は壊れて捨てられるとまた稲荷山に飛んで帰るらしい。だから稲荷山の土はいくら掘っても少しも減らない。そんなことを教えてくれたのも和尚だった。

 ともかく骨清庵はこの上なく利休好みの瀟洒な造りで、茶室に付きもののとこもなく、廊下側の茶道口を入った脇の土壁を、壁床かべどこといって、床の間に見立てて和尚の掛字がかかっていた。莫妄想、と書いてあって、それはよく覚えているのに、意味はいまもわからないまま。あとは茶道口の斜め向かいに躙口にじりぐちがあって、脇に座蒲団ほどの連子窓れんじまどが明かり採りにいていた。だから、明るさも手元で文字が読めるかどうかの頃合いで、ちょうどよかった。

 もともと茶室というのは北向きにあったものらしい。村田珠光も麁相そそうと呼んで、茶碗が地のまま素朴に見えるのをよろこんだ。それを南向きに、連子窓と下地窓したじまどを組み合わせて、明かり採りに変化をつけたのが利休だった。光が低く一方に偏るから、茶碗に陰が差して表と裏に表情が変わる。それを利休はたのしんだ。

勅使門前から南門へ

 

 さて和尚だが、丹波の一輪挿しを床の柱に掛けると、にっこりいった。

「きょうは風炉ふろやからな」

 だからぼくも手伝って、連子窓の跳戸はねどを上げた。露地風が爽やかで、植え込みの緑の匂いがやわらかだった。

 茶釜にはいろいろあって、入炉いりろを使うのは秋から冬にかけての寒い時節にかぎっていた。反対に暑い夏は、風炉といって、畳の上に火鉢のように釜を据えた。入炉に比べれば少しの炭ですむ。不要な熱さを避けるためだろう、炉には部屋を暖める役目もあったのだ。だから炉板は上げないで、そのままにしておけ、という意味だった。

 そして、また、とこ、とこ、と忙しそうに丸い撫で肩を左右に揺すりながら奥の隠寮にまっすぐ消えた。ぼくは一人、中庭に回り、広縁からの飛び石と、躙口の三和土周りを、つくったばかりの緑の匂いいっぱいの棕櫚箒で掃いて回る。といっても、大方は毎日やっているから改めて掃くほどの塵もなく、さらさらと浄めのような真似事だけで、棕櫚の葉先がかすかに土に触れるかどうか、そのふんわり感に遊んでいた。終わると中庭の井戸端に走り、手桶に水を汲んで飛び石周りに水打ちする。これはもう一度、陽の照り具合にもよるのだが、客が顔を見せる十分ばかり前にも同じように繰り返す。粋な計らいだったが、この井戸水というのが和尚自慢の名水だった。

 いまは京都もけしきが変わって思い浮かべるのも難しい。けれど、むかし、京都は水の街だった。もともとが賀茂川の扇状地に広がったようなところだから当然だが、あちこちで伏流水が湧き出ていた。その名残がいまも堀川の東沿いに見えるが、大徳寺もその筋にあって、境内をめぐる外溝には北の尺八池からの用水が大宮や紫竹しちくの田圃をあちこち廻り廻って流れ込み、終ては一条手前で堀川に注いでいた。その外溝のすぐ南、船岡山の北麓には、いまは木陰の公園に変わっているが、滾々こんこんと水の湧き出るけっこうなふちもあった。それが、がたん、ごとん、とのんびり走った電車も消えて、空ものっぺりと筒抜けにアスファルトの乾いた街になっている。

「どや、美味うまいやろ」

 和尚がいった。小僧に入った春、和尚の背中を追って作務が終わったあとだった。その井戸端で鶴瓶つるべに水を汲んでくれた。

「いとくすい、いうてな、ここの真下を流れとる」

 あのときは、ただ音だけで、無理矢理、納得していたが、偉徳水と書いたといまは知っている。たしかに水は旨かった。とろりと舌の上を滑るように、そしてほんのりだが鉄臭い味がしたのはどうしてだったか。井筒は四角く野面石を組み上げて、覗くとへりはびっしりと苔生こけむして、それほど深くはなかったと思い出しているが、羊歯しだが生い茂って底がなかった。その井筒の上に高く鳥居のように木組みした櫓にぶら下がった滑車に木造りの鶴瓶がかかっていた。といっても傍には新しくモーターポンプもあるにはあって、ただ苔庭の風情をそぐわないよう、竹囲いに隠していたのも禅寺のけしきだった。

 ほかにもあたりの名水といえば、毎日、夕方には走って出る商店街の豆腐屋の裏にも、牛若丸が産湯を使ったとか古潭のある古井戸もあって、そんな縁だろう、境内の北の外れには紫竹牛若町と歴女には震えも来るような町名もあった。頼山陽が山紫水明といったのはずっと南の方だったが、平安の昔から内裏を北に外れた大徳寺のあたりは、西は風葬の蓮台野に続く風光明媚な牧だった。ちょうど北の鷹峯から流れ下る扇状地の頂きにあたり、夏のはじめにはあたり一面、白く紫草が咲き乱れた。だから紫野。

 さらに、そこを流れていたのが小川こがわで、いまも堀川のすぐ東に名前だけがかすかに残っているが、けっこうな水量だったのだろう、室町期には水運の土倉も軒を連ねていたそうで、義尚だったか足利将軍の館もあって、たしかに水もよかったのだろう、利休のあとの表、裏、武者小路の三千家もその流れに庵を結んでいる。

 そのように、いまの京都は中心が烏丸や河原町に移っているが、室町以前はずっと西に主軸があった。平安京の正中線、つまり南北の中心軸は朱雀大路といって、大凡おおよそいまの千本通りにあたる。それが少しずつ街は東に動いて、室町半ばには堀川を中心に、その流れを水運に賑わった。小川はそのすぐ東を同じように北から南に流れ、山名、細川の応仁文明の十年戦争も、東西両軍がこの川を境ににらみ合った。

 

「おがわとちがうえ、こがわやし」

 ただしてくれたのは下宿の小母おばさんだった。寺を逃げたあと東に西に街をあちこち彷徨うろついたてにたどり着いたのが西陣、小川通りの下宿屋だった。大正のはじめから続く大きな織元で、亭主が死んで廃業したのを、子どものいない後妻が、広い町家の二階を間貸しして学生下宿をやっていた。あの頃でもめずらしくなっていたまかない付きで、おまけに洗濯までしてくれて、男ばかり十三人の学生のなかに子どもはぼく一人だった。

 すぐかみの横町が寺之内で、表裏の千家のほかに本阿弥光悦の本法寺や同じ法華の妙顕寺も目と鼻の先、そしてこれはいつも門を固く閉ざしていたが人形の寺の宝鏡寺もすぐだった。それが、西陣でも一番東寄りで織元が多かったからか、昼間は荷運びの車が絶えず出入りしても、夜にはぴたりと人通りも絶え、機音もなく沼底のように静まり返った。

 部屋は表を入った見世みせ庭の真上、細長い四畳間で、おかしな間取りだな? と思ったら、糸置きの納戸を改装したと教えてくれた。すぐ下の見世庭とは床板一枚だから、から、ころ、出入りの下駄の歯音もそっくり聞こえた。

 明かり採りには、通り庭の内玄関からの吹き抜けに硝子障子の腰窓があって、もう一つは反対の表通りに虫籠むしこ窓が開いていた。腰窓からは下の勝手から小母さんの水仕事の音が、こと、こと、がちゃ、がちゃ、と賑やかだったが、虫籠窓はただ寂しいばかり。向かいの町家の屋根に上る月も漆喰しっくい格子にスライスされて、入ったこともない獄窓を思ってみたりした。

 本来が学生相手の下宿で、そのなかに一人小さかったからか、小母さんはよくしてくれた。休みの日には寺町や三条商店街の買い物にも連れて行ってくれたし、夜には、「ほら、連ドラ、はじまるわよ」と、ほかのみんなには禁断の、カラーテレビのある奥の座敷にも誘ってくれた。有馬稲子似の、くりくり眼に、鼻筋のきりっと通った、癖のない京言葉のやわらかい人だった。

 といっても京都人ではなかった。どんな事情わけがあったのか、生まれ在所はいわなかったが、二十歳過ぎでいっしょになった夫に死に別れ、あとは形見の一人娘の手を引いて転々としたことは昔語りに話してくれた。

飯場はんばにも行ったんよ」

 秋田の尾去沢でのことだった。鉱山事務所を訪ねると親方は快く雇ってはくれたが、こういった。

「飯炊き女もええが、どうや、おれといっしょにならんか」

 四十過ぎの屈強な大男だったらしい。それがいくらもしないで坑内事故で死んでいる。そして流れ着いたのが西陣だった。織り子か、住み込みの賄い婦に、と思ったのが戦後の糸屋不景気の最中さなかだった。

「見ての通りで、いまはさっぱりでな。織り子もらんし、女中も要らん」

 檀那はいった。

「それより、どやろか? 嫁さんに死なれて不自由しとる。あとに入る気はないか」

 ほかでもない、有馬稲子似が生きるのを手伝ったといえる。檀那とは一回り以上も齢がちがった。これも大男で、難しい年頃の娘が二人いた。ところが、また、十年そこそこで逝ってしまう。

「あたし、男殺しのそうがあるんよ」

 ふふっと笑って、明るかった。といっても織屋は女手一つではやっていけない。しかたなく暖簾を下ろし表の見世みせは人に貸し、その店賃たなちんで娘三人を育て上げ、嫁にも出した。すると、大きな町家に一人になった。

「人間、万事、塞翁が馬」

 からりといって小母さんは、

「学校で習ったでしょ? あなたもおんなじ、どこでどうなるかわからんわよ。だから、いまはしっかり勉強しときなさい」

 奥の座敷でぼくを諭した。そんな下宿に逃亡のあとの癒やしを見つけたが、それが過ぎたか、心地よさに溺れるばかりで、年上の学生に倣ってはいろいろ青い遊びも覚えた。

「ちょっと、ちゃんと勉強してる? そんなんで、試験、受からへんよ」

 母のようないさめの言葉も右から左で、案の定、明くる春、大学入試に落ちている。

 

「ほんまは、茶人になりたかったんやな」

 和尚はいった。茶会の終わった夜だった。

 と、ここで少し、ぼくらの夜の話をしておくと、夕方六時からの薬石、つまり晩飯のあと、仕舞事が終わって一息つくと八時を過ぎていて、小僧部屋に戻ってごろりとしていると和尚が風呂に入る。和尚は薬石のあとは隠寮で本を読んだり、ときには趣味の謡を唸ることもあったが、聞こえてくるのは、

「これは、諸国一見の、僧にて候……」

 といつも同じくだりばかり。そしていくらもしない、九時になると、ちりん、ちりん、兄弟子のりんを合図に、庫裡の台所脇におさまる韋駄天いだてんさんに短い経を上げて一日の勤めが終わる。韋駄天さんは足が早く、仏さんの、いわばパシリで、台所の守り神だった。その働きに仏さんは、ご馳走さま、といったかどうか。

 すかさず、

「おーいっ」

 と奥の隠寮から声がかかった。これがもう一つの苦行のはじまり。就寝前の和尚への按摩のお勤めで、下っ端小僧の役割だった。按摩といってもちょっとちがう。野口整体といって、創始者の野口晴哉はるちか本人も年に三、四回は寺に顔を見せていた。見るからに神がかった風貌の人で、和尚より一回りは年下だったと思う。射貫くような眼光の、いつも羽織袴姿でやって来て、逆に和尚の方が整体のほかにも教えを受けていたのかも知れない。夫人は近衛文麿の長女だった。だから、あの日本新党の首相は甥にあたる。もとは島津家に嫁いでいて、そこに出入りしていたのが野口で、その鋭い眼光に射貫かれたか射貫いたか、あの白蓮さんも顔負けに二人駆け落ちしていっしょになった。それで「昭和のノラ」と騒がれたのだが、情熱の人というか、きっと感覚の鋭い人ではなかったか。どうしてって? そういう人にしか野口の整体は効かないからだ。それはともかく、和尚は飽き性だったが凝り性で、風呂上がりの体の弛んだのが頃合いなのか、蒲団に横になったのを、首元から背筋をぐにゅぐにゅとさえたり、足の筋をこりこりとやってみたり、その細かな指示通りにぼくは勤めるのだった。

 毎日、一時間近く、カイロのようにぐいぐいと力任せにやるのではなく、そろり、そろり、背骨のついを一つずつ押し広げるように軽く指をあててははじくようなことからはじめ、最後は足の付け根から踵や足裏までを、「そこ、そこ、いや、もうちょっと右」といわれるままにつぼをさがして指の頭でさえていく。たいして力は要らないのだが、なんせ日課が終わったあとのぐったりどきだから、ゆるり、そろり、という緩慢さがつらくて、つい舟を漕ぐことになる。それがわかっているから、眠気覚ましに和尚はいろんな話をした。

 そんな梅雨に入る少し前だった。慌て者の夏虫も稽古を終えたか、しんと二人きりの隠寮に、ほんの童行ずんなん上がりの子どものぼくに何を教えようとしたのか、その夜の話はちょっと深刻だった。

「おまえはどうか知らんがな」

 たぶん、ぼくの出家いえで理由わけを見抜いていたのだろう。

「わしらのこの世界も、いうてみたら、駆け込みのようなところがあってな。じつは、わしもそうやった」

 もちろん、ぼくはうつらうつらに聞いている。それも知ってのことだろう、和尚はいった。

「わしも、逃げたかったんやな」

 意外だった。えっ? と眠気が吹っ飛んだ。思わず母の姿が浮かんだ。春先だった。家を出るぼくの背中に母はいった。「気いつけて行くんよ」、気丈ないつもとその日はちがって、鼻にかかった声だった。いまも耳奥に残っている。それを振り切り、ぼくは走った。

 

 和尚は続けた。

家業いえを継ぐのが嫌でな」

 息遣いが聞こえる、しんと静かな夜だった。

「十八のときやった、飛び出したのを拾うてもろうた。大林和尚にな」

「だ、い、り、ん……?」

「そうや、南宗寺なんしゅうじの、ほれ、おまえの実家さとともそんなに離れとらんやろ。いまは末寺になっとるが、もともとは一派をなした大寺でな」

 そしてわずかに調子トーンを落とした。

「先のことも考えんと、家を飛び出したまではよかったが、結局は行き場がのうて門を叩いたんやった」

 紙問屋の、和尚は後取り息子だった。なんでも江戸の頃から続いたけっこうな家筋らしかった。それが早くに父親を失い、するとたちまち屋台が傾き、ようやく番頭の切り盛りで潰れずにいた。

「若旦那、若旦那、てほだされてな。後取りやいうのに、たなの方は番頭に任せっきりで、したい放題やった」

 もちろん、ぼくは黙って、こりこり、ぐにゃぐにゃ……。

がらでもないのに骨董に走って、茶碗やらなんやら買いあさり、南宗寺で茶会があるいうと家はそっちのけで」

 南宗寺は檀那寺だった。

「だいたいが、あきないが肌に合わんかった。それで番頭を姉の婿にくっつけて、後をとらせて飛び出したんやった」

 そして、ぽつりといった。

「母親も棄ててな」

 どんな目でいったか、うつむいていたからわからない。あとにも先にも一度きり、和尚を身近に感じた瞬間ときだった。だからまともな言葉もなくて、

「それで、どうされたんですか?」

 訊いてみた。ぼくも母を想っていた。

 和尚はいった。

「三年後やった、死んでしもうた」

 声明で灼けたしわがれ声がさらにかすれて低く響いた。

「生まれがよかったからやろう、体の弱いひとでな、数えの五十四やった」

「………」

「わしが殺したようなもんやった」

 ぼくも同じといっていい、よく似たかたちで母を送っている。けれどようすはちょっとちがって、もっときびしく母を殺している。

 かなしいけれど、立ち居姿の母をぼくは知らない。実家さとは百姓家を兼ねた織屋だった。といってもはたはもちろん糸も借り物の、いわゆる賃織りの零細機屋はたや。夫婦二人に九州から中学上がりの織り子を呼んで、昼も夜もない夜業やんぎょう続き。そんな夜鍋よなべ仕事が体をいじめたのだろう、梅雨の田植え時にぼくを産んでそのまま寝ついた。

「これは、リューマチやね。古い病気やけど、どうにもならんで、あとはまあ、せいぜい養生するしかねえ……」

 村の婆さん医者も匙を投げた。

 あの頃、村に手足の関節をまりのように膨らませた女はざらにいた。薬はあったが副作用の方が大きかった。だから、ただ、じっと我慢するだけ。男女平等、女性の社会進出をいう前に、男以上に生業に身を粉にした女はとっくにいて、そんな働き者の女ばかりをねらう、リューマチは風土病といってよかった。だから、母の世話と三度の家事がぼくの仕事になった。小学校に上がってすぐだった。父は工場こうばに忙しかった。兄はいたが上の学校の勉強で家事どころではない。そんな家から、中学卒業の明くる日、ぼくは逃げた。

 拾ってくれたのは和尚だった。もし出会うことがなかったら、ぼくはどうしていたことか、有り難い人だった。ただ、それにもこたえずまた逃げた。ぼくの習性といっていい。それから三年、母は死んだ。

 仏書はさらりといっている。

 ──殺母せつも殺父せつぷ殺阿羅漢せつあらかん出仏身血しゅつぶつしんけつ破和合僧はわごうそう、これを五逆という、

 そのように、母を殺す、父を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を傷つける、僧団を乱す、の五つは人として、やってはいけない一番悪いことだった。無間業むけんごうといって、犯すと無間地獄行き。

 和尚と同じにぼくも母を棄てた。寝たきりで、ぼくがいなければ小用はおろか三度の飯も口にできない人だった。だから、棄てたことは殺したに等しい。

 望んだわけではけっしてなかった。ほかに術がなかったからだが、してみて、しくじって、振り返ってぼくは思っている。出家とは、ほかでもない、家を出ること、つまり、父と縁を切り、母を棄てること。そんなふうに仏書は教えるが、それは詭弁うそだ。

 どうしてか、って?

 母を棄てても、殺しても、どこにも逃げ場はなくて、いまもこうしてぼくは母を追い、そして父を想っている。出家、それは言葉でいえても、少年の、生身にできることではなかった。きっと和尚もそうだったと思う。

「あれは、わしが殺したようなもんやった……」

 和尚がいった、そんな年回りに、いまはぼくもなっている。

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