塀の話

「むかし、大徳寺にへいはなかった」

 和尚がいった。

 その日は、どんな風の吹き回しだったか、朝の茶事にも、きょうは濃茶こいちゃにする、といつもよりテンションも高かった。

 濃茶というのは、一つの茶碗に濃いめのお茶をかさも多く、だから、混ぜるのも、薄茶のように、しゃか、しゃか、ではなく壁土でもねるように、どろ、どろ、やるのだが、そのように、薄茶はてるといったが、濃茶はるといった。

 そのどろどろに練ったのをみんなで飲み回す。はっきりいって、いかに師弟、兄弟弟子といっても他人の口をつけたのを呑み継ぐのだから、潔癖症の下の兄弟子は、汚い、と顔をしかめて嫌がった。ぼくはそれほどでもなかったが、やっぱり最初は勇気がいった。紹鴎じょうおうや利休の頃は密談前の腹合わせ、意思統一のあかしの作法だったと和尚は教えたが、もともとお茶はそうして回し飲むものだったらしい。

 そして塀の話だが、和尚はむかしといったが、創建のむかしではもちろんなくて、和尚がやって来た頃のこと、つまり昭和も十年代はじめのことだった。同じ臨済宗でも兄弟寺の花園はなぞのの妙心寺などは、伽藍はもちろん外溝もきちんと整備され、外塀も五線もあざやかに立派だった。いまも全国に末寺三千五百を超える臨済禅最大の宗門だから当然のことだが、大徳寺は末寺もわずか二百カ寺に満たない。

南門通り

 当然、台所事情も知れたもので、塀がなかったというのも、こぼれたままにやり替えられなかっただけのことで、諸人に開けた宗門ということでは更々ない。

「高山彦九郎でのうても、泣きよったやろ。仏殿やら法堂はっとうやら、伽藍もそとからすけすけで、まあ、ひどいもんやった」

 濃茶の茶碗を、鼻汁でもすするかのように、ずずっ、とやると、唇を緑に染めたまま、まず上の兄弟子に回した。

 高山彦九郎?

 ああ、あれか、とぼくは思った。京都も近頃は、ほかと同じに街の変わり様も激しくて、どうなっているか、しばらく知らないが、京阪三条の改札を出ると、右に琵琶湖に走る石山いしやま線の線路を見ながら広場があって、その鴨川寄りの一隅すみに、尻を向けて正座する丁髷ちょんまげ姿の坐像があった。見るからに素寒貧すかんぴんとわかる浪人で、視線の先は仙洞せんとう御所。顔をゆがめて少し哀しそうにぼくには見えた。

「あれはな、御所の塀が崩れたままで、なかのあかりが見えたからなんや」、と教えてくれたのは小さい頃の父だった。翼賛壮年団の生き残りだった。御所はいまは整然ときれいになって観光名所の一つに変わっているが、幕末までは公家やしきがごちゃごちゃと建て込んで、迷路のようになっていたらしい。その一画に肩をすぼめるように御所はあった。それが明治になって車駕しゃが東幸、天皇の東下あづまくだりを追っかける公家の邸が空き家になったのを取り壊し、更地になって御苑になった。そんな御所の憐れさに彦九郎は涙した。といっても周りには町家も建て込んでいただろうから、三条大橋から御所は拝しようもなかったと思うのだが、とにかく父は、講談でもやるかのように、小学校に入ったばかりのぼくを前に、晩酌語りの憂国話はしょっちゅうだった。

 それでも茶碗は回ってくる。ずるっ、ずるっ、上の兄弟子がまず勇気をふるった。どんなに神経を誤魔化しても、子どもが青洟あおばなすするようで、まともに聴ける音ではなかった。けれど、けろりと次ぎに回した。そして中の兄弟子、下の兄弟子と巡っていよいよぼくの番だった。

 えっ!

 茶碗のなかを覗いて驚いた。兄弟子たちはどこをどんなにずずっとやったのか、どろどろがたっぷり残っている。小僧修行には知恵がる。年季の功というやつだろう、兄弟子たちは、ずずっと音だけでそのまま次ぎに送っていたのだった。

 けれど、ぼくには後がない。腹を決めた。

 ──茶をんどれば癌にはならん、

 和尚の口癖だったが、量にも限度があるだろう。その日は胸灼むねやけしてたいへんだった。それでなくても抹茶は刺激がきついから胃弱のぼくには命懸けだった。そんな兄弟子たちのやり口を、もちろん和尚は気づいていた。けれど、それも小僧暮らしのけしきの一つで、空惚そらとぼけてかかわらなかった。

「ほれ、そこの豆腐屋の隣のな」

 あごで肩口の向こうをさして、いった。

 いらちの和尚は休むことを知らない。濃茶がぼくらを回る間も、法衣ころもの袖を摘まんでは口に運んで唾をつけ、茶杓をとると、しこ、しこ、軸を磨いたりして落ち着かない。いつものことだが、一時としてじっとしていられない人だった。

 そこといったが、これも和尚の口癖で、南の電車通りもそこだったし、北の今宮神社あたりもそこだった。だからぼくらは想像をたくましくする。その日のそこは、東の惣門前の大徳寺みちのことだった。

 大徳寺道は小型車がすれ違うのもやっとの狭い通りだったが歴史のある古い通りで、平安京の大宮大路の延長にあたり、北に上賀茂神社をかすめて鞍馬に抜けていた。だから鞍馬道という人もたまにいた。味噌屋や畳屋やそれらしい古い店もいくつかあって、佃煮屋と豆腐屋も紅殻べんがら町家に軒を連ねていた。といっても、どれもこれも決まったように二間半間口の低棟ひくむねの二階家で、和尚がいったのは北に少し上がった一軒だった。

「おまえらは知らんやろうが、おゆきさんいうてな」

 つる、つる、と、ぴか、ぴか、に磨き終えた茶杓をなつめの上に大事そうにそっと置いた。それで、ぼくらは、いよいよか、と腹をくくった。いつもの長講話の口開くちあけだった。

「わしより二回り近うはいっとったと思うが、足腰のしゃんとした婆さんやった」

 それに上の兄弟子がこたえた。

「モルガンお雪さん?」

 和尚は目を丸くした。よう知っとるな、という驚嘆ではなくて、魚が水を得たといった方がいいだろう、話にはずみがついた。

「なんや、知っとったか」

 兄弟子はしたり顔にうなずいた。

「たしか、四、五年前に……」

「ああ、元気やったが死によった」

 といって、これは話も早い、と思ったか、和尚は満足そうだった。

 お雪さんは祇園の芸妓だった。それが二十歳過ぎでアメリカのジョージ・モルガンと出会ったことで人生ドラマがはじまっている。あまり乗り気でなかったのを、われるままに嫁いで行った。当時、この国でもモルガンといって知らない者はいなかった。ロックフェラー、メロン、デュポンと並ぶアメリカの大富豪で、ジョージはその創始者の甥だった。たちまちお雪さんはときの人となり、モルガンお雪と綽名あだなされ、玉の輿こしの権化のように騒がれた。けれど長くは続いていない。十年後には夫に先立たれ、さらに当初からモルガン家の反対もあって入籍がかなわなかったから、日本人排斥の世情も手伝ってアメリカでは暮らせず、子どももないままフランスに移った。といってもそれなりの財産分与もあったのだろう、けっこう優雅にやっていたらしい。けれど結局、それもつぶし、晩年はほとんど身一つで日本に戻り伝手つてを頼って大徳寺の門前に暮らしていた。

「毎日、犬を連れて散歩しとったな」

「ええ」

「面倒臭かったんやろう、惣門には回らんと、くずれた塀を乗り越えて出入りしよった」

 これには兄弟子はこたえていない。

「鐘楼のあたりは跡形あとかたものうなって、け行けの、通り抜けのようになっとったからな」

 お雪さんのいた町家のすぐ真向かいが鐘楼だった。こぼれた築地ついじ塀は、それでもこんもりと土塁のようになって残っていた。それをよくも老婆が越えられたものだが、あちこち灌木かんぼくかぶっていたのが隠れん坊によかったか、近隣の子どもの遊び場にもなっていて、そこを通り道に町家の年寄り連も出入りしていた。南に惣門を回ってもわずかな距離だが、当の山内小僧もそうしてつかいに走っていたらしい。

「アメリカさんに嫁にいったんやが、五尺もなかったやろう、背のひくーい人やった。まあ、いうても、あの時分の女はみんなそうやったんやが」

「けど、背筋はしゃんとしてましたね」

「そやったな、しゅっとして、どないいうたらええのか、一本、しんが通っとるというか、性格もきりっとして、そこらの年寄とはちょっとちごうてた」

「言葉がそうでした」

「ああ、作務さむをしとったら、わしにでも『ちょっと、あなた』ってな、庭番でも呼ぶようにいいよった」

 気位が高いとまではいわないが、むかしの暮らしぶりが抜け切れなかったのかも知れない。

新撰京大絵図(元禄四年九月)から

 さて、この国のどこの宗門とも同じに、大徳寺がすさみはじめたのは明治に入ってからのこと、廃仏はいぶつ毀釈きしゃくの嵐のなかだった。いま、ぼくらが神道といっているのはせいぜいが江戸末期からの、いってみれば新興宗教で、もともとの神道は、この国に素直に生きる、ものの考え方というか、慣習をまとめた土俗信仰だった。だから、お伊勢参りといっても、おまいりが目的ではなくて、行き着く道中の遊びを悦しむのがねらいだっただろうし、伊勢講も、たとえば初穂はつほそなえるというのも、収穫を上げるための、いわば品種改良で、里から稲穂を持って行き、それを全国から集まってくる優良な稲穂と交換するのが目的だったと見ていい。そのために伊勢講といって、代表として村から遣いを出すための旅費積み立ての仕組みが生まれた意味もわかってくる。

 たぶんこの国の神と人との距離はそんなに遠くはなくて、だから廃仏毀釈の仏閣こわしというのも、神道擁護の仏教攻撃ではさらになくて、結局は、仏閣のなかにのさばる人間の傲慢さに対する民衆のらしではなかったか。仏をこわすその人も、じつは昨日まではお百度踏みに通ったその人だった。

 そんなふうに考えてみれば、明治に入っての仏閣のすさみようは、じつは徳川幕府の保護、つまり補助金支給のち切れにあったわけで、荒れようも、それを受けて安泰を誇っていた諸大寺に多かった。大徳寺もその一つ。

 和尚はいった。

「うちも、むかしはなかなかのもんやった」

 うち? 大徳寺のことを、和尚はいつもそういった。

「寺領二千三百石いうてな、五山はもちろん、清水きよみずや本願寺よりもうえやった」

 はじめて聞いた話で、これだけははっきりと、いまも忘れないでいて、手元に一枚の古地図を広げている。「京大絵図」と表書きされたそれで、発刊は貞享三年というから江戸中期。洛中の大路小路が細かくかれたなかに、各所大寺の堂宇もあって脇に寺領高が記されている。延暦寺五千石、上賀茂本社二千七百石、そして大徳寺二千四石、神護寺二百二十石、等持院四百二十石、龍安寺三百九十九石……、とある。

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