廻り盂蘭盆
「お寺にいたんだから、お葬式は詳しいでしょ?」
よく訊かれる。そして、
「お数珠って、右手、左手、どっちに持つの? お焼香は何回?」
かと思ったら、
「湯灌って、やったことある? あのお湯って、水なの、ほんとのお湯なの?」
こんな具合ならしょっちゅうだ。けれど偶には、
「小僧さんやってたんだから知ってるでしょ。お賽銭箱の掃除ってどうやるの? お金も貯まるけど、塵も溜まるもんね」
けっこう急所を突いていて、えっ? と頭を捻ることもある。だから、訊きたいのはこっちの方で、
「さあ、どうやろね、どっか裏の方に、穴でも開いてるんやないやろか」
と惚けてみせるしかない。
そう、京都、紫野大徳寺、つまり、ぼくのいたあの寺にも、方丈、法堂、三門と並ぶ伽藍の仏殿に賽銭箱はあるにはあった。けれど、考えてみれば禅寺に賽銭箱は似合わない。気になって調べてみると、賽銭というのは、幣とか幣とかいって、神にねがいごとをするときに供える、いわゆる供物のことで、あの道真が、
このたびは幣もとりあへず手向山……、
と歌ったあの幣のことらしい。それが神仏混淆でややこしくなり、貨幣が物をいう暮らしになって銭に姿を変えた。
お経もそうだったが、小僧はやっても、いわゆる仏事のことなど教えられたことは一つもない。もともと禅宗でも臨済禅ならどこでもそうだろう。臨済禅の寺というのは檀越武家の塔所、いいかえれば墓守小屋からはじまっているからで、それ以上に、寺のようで寺らしくなかったのが和尚の寺だった。
重ねていうが、この国の寺が抹香臭くなったのはようやく江戸期に入ってからのこと。そんなに古いことでもなくて、もともとこの国の寺は人の生き死にに手を染めていない。道元さんの寺は純禅苦行の場であったし、親鸞さんの寺はそのありがたい講話を楽しみにやって来る村の集会所だった。もちろんそんなことを教えてくれたのも和尚だったが、だからあとにも先にも、わずかなぼくの小僧暮らしの毎日で、いわゆる坊主、この言葉には人が人を蔑むにおいがしていまも嫌いなのだが、らしきことをしたのは、日課の朝課晩課は別として、和尚の大黒さんの葬式と、あとは一夏の那智行きだけだった。
暑い、暑い、と愚痴っても、京都の夏は送り火で峠を越える。そんな盆入り前の、やっぱり暑い朝だった。
「これを持って行け」
和尚はいって、隠寮の書院の外、廊下に控えるぼくの膝先に畳の上を滑らせた。ぱりっと糊の利いた畳紙の四角な包みで、小僧部屋に戻って紙縒りを解くと紫衣だった。えっ? と思わず目を擦った。紫衣は最高位の法衣だった。少しの理由あって小僧にはなったものの、法衣はまだ着たことがなかった。
どうしてって?
きちんといえばまだ得度していなかったから。平たくいえば仏さんのアドレス帳に載せてもらえてなかったから。小僧は得度してはじめて仏さんの弟子になれる。ぼくはその一歩手前で穴を割っている。
ぼくは勝手に思っていた。寺へ行けば白い下衣に墨染めの法衣、裾をからりと絡げて高下駄履いて闊歩する……、それがぼくにはちょっとちがって、朝課にも、はじめて門をくぐったときのまま、小倉のズボンに白の開襟シャツ、いわゆる学生服というやつで、あの頃のぼくには余所行きの一張羅だった。
それが、二月目の晩方だった。
「おーい」
と薬石のあと、呼ばれて隠寮に走ると、黒い包みを、ぼんとくれた。
「あしたから、朝課には、これを着れ」
法衣かな? よろこび勇んだ。好きでなった小僧ではなかったから、法衣なんか、ほんとうは着たくもなかった。けれど少年心理はどこかちぐはぐで、一人前に法衣が着られる、そう思うと、小僧暮らしも一つ上に進級したような気がして、正直、うれしかった。
さっそく部屋に戻って広げてみた。
何だ、これ?
黒絹の道行だった。みちゆき? そんな言葉を知っていたのも、病気で寝たきりの母に指図され、家の掃除や洗濯や、ときには着物を虫干ししたり畳んだりしていたからで、襟先を見ればすぐにわかった。婦人がちょっとのお出かけに軽く上に羽織る薄い外套で、死んだ大黒さんの、たぶん着古しだったのだろう、明くる日から、白ワイシャツの上にひっかけて朝課に走った。
「なんや、それ?」
見るなり、下の兄弟子が吹き出した。
そんなこと、いわれなくてもわかっている。朝課を戻った洗面所の、鏡の前でぼくは悄げた。なるほど、見れば見るほど奇妙なけしきで、生まれつきの撫で肩が、さらに落ちて幽霊のようにだらしなかった。朝課は朝の五時にはじまる。まだ薄暗がりの本堂では、白いシャツ地がぼんやり透けて、なんとか法衣姿に見えなくもない。けれど、やっぱりおかしい、というより漫画だった。
得度の理屈を知らなかったぼくは、まともに考えた。和尚はどういうつもりなんだろう、法衣を買うのをけちったのかな、それとも、ぼくに法衣はまだ早いというのかな? 経を読むのも口パクだけで誤魔化して、朝課の間も和尚を疑った。それが昂じて、やがて経にも身が入らなくなってしまった。
いいわけではない。寺を逃げた理由はほかにもあったが、あの道行も釦の掛け違いの一つになっている。毎朝、見るのも嫌になって、
こいつさえ、消えてしまえばいい!
ぼくは道行を呪った。それから半年。朝の本堂だった。朝課を終えて、ひょいと立った拍子に後ろの裾を踏んだ。しゅっ、と短い音がした。あれっ? 不思議な気分で振り返ると、腰のあたりで横に大きく裂けていた。透けるように薄いうえ、年季ものだから当然だった。
やったあ! これで、屎道行ともさよならだ!
うれしかった。と思ったのも束の間、和尚に報告すると、手文庫ほどのビスケットの空き缶を、これもやっぱり畳の上を、廊下のぼくを目がけて滑らせた。
「これで縫え」
和尚流儀の裁縫箱だった。
縫いものなんて簡単だった。小学校に上がった頃から、母の口先指図で習っていた。だから裂け口を寄り合わせて、かがり縫いでやってみた。それはうまくいったのだが、少し寄せすぎたか、今度は裂け口の上下の糸目が伸びて周りが蜘蛛の巣のように裏が透けた。だからぶよぶよに弛んでいる。それでも和尚は素知らぬ顔で、それからも破れや解れが何度も続いて、その都度、和尚に空き缶の裁縫箱を借りている。
何なんだ、この格好は!
毎朝、思ってかなしかったが事態は何も変わらず、やがて寺を逃げる朝まで襤褸道行がぼくの法衣になっていた。
だから畳紙を開けたときには、正直、目を疑った。そして胸を熱くした。妙な少年心理だった。もちろんくれたわけではない。檀家、檀徒に侮られてはいけない、と持たせたのだろう。それでも、小僧として少しは認めてくれた気がしてうれしかった。ただそれも、思い過ごしだった、とやがて知るのだが……。
行け、といわれたのは盂蘭盆の棚経回りだった。
「健さんから頼まれた」
と和尚はいった。
健さんは熊野の人だった。和尚の弟子、といっても知り合いからの預かりだったが、ともかく最初の弟子だった。和尚も晋山したばかりの三十代、雲水上がりだったからか、弟子というより同夏といってもいい、僧堂仲間のような気がしていたのかも知れない。ぼくも入れて六人の弟子をとった和尚だが、健さんに限ってさん付けで呼んでいた。ただ、そんなに長くはいなかったようで、郷里の新宮に戻って末寺に入っていた。
大徳寺は臨済禅でも妙心寺などに比べれば極めて少数派で、末寺もそんなになかった。それがどういうわけか、半島には十津川から熊野にかけてけっこうあって、健さんの寺もそうだったが、新宮を奥に入った那智裏の山合いにもいくつかあった。もともとは天台寺か真言寺だったのが、江戸期に入って宗旨替えしたらしい。それが戦後の過疎化で無住になって、健さんもいくつか掛け持ちしていた。
ふだんなら健さん一人で十分だった。それが盂蘭盆となると手が足りず、棚経回りの助っ人に、毎夏、和尚は頼まれ、弟子を差し向けていたのだった。それが順繰りで、ぼくにも番が回ってきたというわけで、一種、新参小僧の最初の関門、中間試験のようなものだった。
そして盆前の一日、健さんが車で迎えにやって来た。あの頃流行りのツードアの玩具のようなミニカーで、
「スバルやな」
下世話に強い下の兄弟子が教えてくれた。どこからネタを仕入れるのか、芸能ニュースにもけっこう詳しい人だった。
薬石が終わると和尚は健さんと二人いっしょに風呂に入り、積もる話もあったのだろう、夜は、奥の書院に蒲団を並べ、遅くまでひそひそ話が止まなかった。そして明くる朝、茶事を終えたその足で、ぼくらは出かけた。
堀川通りをまっすぐ下るとそのまま二十四号線を奈良に入る。あとは橿原から御所を抜け、五條から十津川を下った。谷瀬の吊り橋も、あの頃はできたばかり、切り立った深い谷を向こうに跨いで、青葉のなかに赤いアーチがきれいだった。それをさらに南に、流れを右に左に見ながら新宮に出たのはもう日の暮れで、せっかく海に出たというのに、隣の大川沿いをまた一時間ばかり山に入っている。頭から墨を被ったような薄闇の山合に蛍のように灯りが点々と揺れていた。
ぎ、ぎっ! と健さんはサイドブレーキを入れた。ずいぶん高みのようだった。きら、きら、瞬く満天の星を背に小さな堂宇が浮かんで見えて、脇に、庫裡だろう、小棟が影のように現われた。
「遠いとこ、ご苦労はんだしたな」
ドアを出ると闇のなかに声がした。小柄な老爺だった。
「お疲れですやろ」
笑顔で会釈したのにお辞儀でこたえると、
「和尚さんは?」
と車のなかを覗くようにした。
「この方です」
健さんが、ぼくをさして脇からいった。
んっ?
呆れとも吃驚ともとれない妙な目線でぼくを見上げて、あとがなかった。
うつら、うつら……、と寝苦しい夜だった。喉が渇いて枕元に何度も水を飲んだ。そうして障子の向こうが白むのを、まだか、まだか、と待ちに待った。ところが明け方に眠り込んでしまったか、気がつくと陽が射していて、蒲団を跳ねて縁に出ると庭先にいた。
「おはようさん」
竹箒片手に、昨夜と同じ、満面の笑顔だった。
「眠れなさったかね」
はい、とこたえたものの、
「まあ、午後は昼寝でもしてくだされ」
と、とっくに見抜かれていた。そして、箒の柄先で遠くをさした。
「どうです? けっこういけまっしゃろ」
それではじめて気づいたが、庭先が宙に迫り出すように、遥か先、朝靄の峰々に向かっている。その碧く重なり合って広がるなかに、白く一本、糸のように筋が見える。
「大滝ですわ」
いいながら、ひょこ、ひょこ、やって来て濡れ縁に腰を下ろした。
「雨の多いとこでっしゃろ。ほかにもようさんあるんですわ。けど、その分、田圃や畑はさっぱりでな」
けろりといった。
「毎年、梅雨が明けたと思うたら、今度は台風で。それも風だけならよろしけど、ここらの雨は、それこそバケツをひっくり返したみたいでな、田圃も畑も水を被ってしもうて、わやですわ」
そのように、一月前には八号台風が潮岬からまっすぐ北に走り抜けていた。
「田圃いうてもなんぼものうて、あとは山で食いつないどるいうのに、それもやられて、若い者はさっぱり居つきませんわな」
と、裏の方から女の嗄れ声がした。
「総代さん、御飯、でけましたでー」
村にはいくつか、地区といったが、部落があって、もちろん無住だったが一つ一つにきちんと檀家寺があった。ただ土地が土地だから、寺は山のてっぺんか谷底の無用の地にしか開かれない。だから棚経回りも深い谷を上へ下への難行になり、うまくいっても午前に二つ、午後は日の暮れの法要は禁忌だから一つだけに終わってしまう。昔は住持の方から部落を一軒一軒、巡り歩いたらしいが、いまは反対に、家人が出向いての盂蘭盆だった。
朝飯を終えると総代は軽トラを表に出した。はじめの一つはすぐ向かいのこれも山の頂きで、朝も八時を回ったばかりというのに狭い堂宇は老若男女でびっしりだった。前の方は年寄り連で、後ろに若輩、そして広縁には悪たれ小僧が走り回っている。年寄り連は、ぱたぱたと団扇片手に、それでもきちんと黒装束で、これは里帰りだろう、若い男たちも慣れないネクタイ姿で、正座の娘たちは眩しいばかりのミニスカートからぷちぷちの膝頭を覗かせている。それをさして、そろ、そろ、ぼくは入っていった。はじめての紫衣がボール紙のようで馴染まなかった。
ほおーっ、遠慮のないざわめきが背中に沸いた。と、たちまち足元から震えのようなものが走ってきて、すぐにも走って帰りたくなった。それを、ここは我慢、と作法通り、経机に鈴を正して、鉦を叩いた。
しん、と後ろが静まった。ところが、それが逆効果で、さらに胸の動悸が激しくなった。経本を持つ手が震え、声もそれに続いた。そこまでならまだよかった。じつは経を読むスタイルにもいろいろあって、喉の奥でころころと声を震わせる、そんな声明もあるにはあった。ただ事態はちょっとちがって、気づいたら背中の後ろで、婆さん連だろう、経の唱和がはじまっている。か細く頭のてっぺんから裏返る声もあれば、渋い燻し銀のような濁声に、まるで謡でも唸るような節回しもあって、あわてて声を詰まらせるぼくを一人置いて先を行く。
結果は明らかだった。あとはもう、しどろもどろに、鈴を打つタイミングも狂いまくって滅茶苦茶。続く大悲圓満無礙神呪でも消災咒でも、とうとう婆さんたちには追いつけず、終わると廊下を庫裡の支度部屋に逃げ込んだ。
総代は、すぐにあとを追ってやって来た。
「ご苦労さんでしたな。お疲れでっしゃろ、しばらく横になられては」
にこりといって、いい人だった。
そうして小一時間、今度は一転、谷底の無住寺だった。山裾をぐるりと巻いて林道が走る。その突き当たりで軽トラを捨て、総代のあとについて杣道を下りると、やがて盆底のように開けた窪地に、杉の木立に隠れるように頼りない堂宇が現われた。それが、やっぱり、老若男女でなかがいっぱい。ほおーっ、とか、へえーっ、とか、嫌な囁きに迎えられ、同じようにしどろもどろに終わっている。
そうして、夜は新盆の読経にも回ったか、そんなことを盆明けまで繰り返し、帰りは総代が、また軽トラで駅まで送ってくれた。
「ご苦労さんでしたな」
にっこりいって、四角い大きな唐草の風呂敷包みをぼくに持たせた。
「懲りんと、また来てくだされ、待っとります」
改札横の木柵に手をかけ、ぺこりと一つお辞儀した。それが胸に熱くて、しばらく行って振り返ると、まだそのまま、小さく胸前に手を振っていた。
何が入っているのか、唐草の包みを抱いてぼくは乗った。いまはどこにもないだろう、乗車口は車両の前と後ろだけ、扉もないステップを駆け上がる鈍行列車だった。
帰るとその足で奥の書院にぼくは走った。
「只今、戻りました」
廊下に額ずくと、紫衣の畳紙と布施の束といっしょに唐草の包みを差し出した。夜も遅かったからかも知れない、和尚は邪魔臭そうに包みを解いた。四角い大きな紙箱だった。蓋を開けた。ぼくも廊下から首を伸ばした。
えっ!
声が洩れそうだったのを我慢した。なかには細々と盂蘭盆の供物だろう、落雁やら煎餅やら羊羹やら、細々と我楽多のように詰まっていた。それを、思った通り、投げるようにそのまま和尚は畳の上を滑らせた。和尚の悪い癖だった。死人に口なし、いまは鬼籍の和尚だが、これだけはいっても許してくれるだろう。
そして明くる年、なぜか二年続きでぼくの番になり、また出かけた。けれど総代はいなかった。
聞いて、その夜、ぼくは訪ねた。街灯もない暗がり道を新しい総代が案内してくれた。さわさわと足元から、流れの音がかすかに響く竹藪沿いに、欄干もない土橋があって、渡ると山陰に灯りが見えた。
「こんな遠いとこまで、ようお参りくださいました」
上がり端に背中を丸めた。似たもの夫婦、小柄な夫人だった。
奥座敷の仏壇は棚飾りの明かりも賑やかに、漆黒の位牌に箔押しの金文字が光っていた。時間を考え短く端折りはしたが、経は一年前とちがって、なんとかそれらしく読めた、気がした。すると不思議に紫衣もちょっと自慢に思えた。
「あのあと、秋口でしたわ、また大けな台風が来よりましてな」
お茶をすすめて夫人がいった。
「やめといたら、て、いうたんですけど、きかん人でね。出ていったんですよ、土砂降りのなか、山の畑に。胡瓜や茄子の手が倒れたらいかん、いうてから。風に飛ばされたらしいてね、腰を打って寝込んでしもうたんですわ」
そして最期のようすも話してくれた。腰は治ったものの、それがもとで急に足腰が弱くなり、寝ついたところに風邪を引いたのが悪化して、肺炎らしかった。
「あっという間でしたわ、年明けに。若いときから病気もせんと、達者な人やったのにねえ……。あなたのことは、よういうとりましたよ。来年も来てくれるやろかな、いうて、楽しみにしとりましたがなあ……」
と、目を潤ませた。
「孫が名古屋の方にいてましてね、あなたに重ねたんかも知れません。なんで小僧はんになったんやろか、いうて、気にしとりましたわ」
一人娘夫婦の長男が中学に入ったばかりらしかった。いくらも齢がちがわない。けれど夫人は先を詮索せず、またぼくは夜道を戻った。
と、ぼくの盂蘭盆はこんなけしきでいまも胸に残っている。だから寺のそれはどんなだったか、明くる年には逃げているから、何も知らない。和尚の寺の場合、檀家が一つもなかったのだから何事もなく、いつも通りではなかったかと思い出している。
けれど、塀を越えた町家では、精霊送りに忙しかったことだろう。はじめて見たのは寺を逃げたその夏だった。
夕餉の仕舞事を終えた小母さんが、とこ、とこ、階段を駆けて来て、とん、とん、と襖を叩いた。
「ちょっと来よし」
裏庭に張り出した二階の物干しだった。逃亡のあと、京都の街を西に東に彷徨いて、やがて西陣の千家近くの小川通りの下宿に落ち着いた。妙なもので、どこまで寺に取り憑かれているのか、四、五軒上がった先が、むかし、秀吉が御土居をつくるのにじゃまになった東の諸寺を集中移転させたという寺之内筋だった。
「ほら、ちょうど火が回るとこやわ」
隣の町家の屋根越しに東の空の一点がぽうっと橙に点ったかと思ったら、薄闇に点々と大の字が浮かんで上に下に広がっていく。ぼんやりと靄のように煙が尾を引いて揺れるようすまでまっすぐ見えた。
「どお? よう見えるでしょ。ちょうどここらへんが真っ正面なんよ」
出町や今出川まで出なくても、物干しから見えるのがちょっと自慢らしく、鼻の穴を膨らませた。そんな性格をそのままに、すっと鼻筋の通ったきれいな小顔の女だった。大文字は将軍義政が夭折した長子の弔いのためにはじめたらしい。霊魂をその館から見送ったのだろう、いまの新町今出川あたりが正面になっている。だから本来はそのあたりから眺めるものだったのだろう、下宿はそんな室町御所の斜交いだった。
京都人は出歩かない。祭やなんのと、あれこれ着飾って表を行き来しているのはたいていは余所者で、送り火も同じ、ふつうに京都人は家に居て台所仕事のその足で、濡れ手を前垂れで拭きながら、箱階段を上がっては二階の物干しからふつうに眺める、それが物干し大文字。
「ちょっと裾が隠れてるけどね」
遠慮気味に肩を窄める隣家の長棟に、大の字の足の撥ねが欠けて見えるのも愛嬌だった。だから、盂蘭盆といっても京都人は送り火に意外と素っ気ない。代わって京都人がそれらしさを見せるのが地蔵盆だった。
東よりも西の方、ずばり西陣がいいだろう。それも横町より南北の竪町がいい。好きだからそうするのだが、たとえば烏丸通りを少し西の油小路を一条あたりから北に歩いてみるといい。きっと不思議なけしきに出会うだろう。
ぴっ、ぴいっ……、振り向くと軽トラなんかがやって来て、傍を過ぎると急にスピードを落として、すうっと停まる。何か用かと思ったら、そうではなくて、窓から男が道端に向かってそっと手を合わせる。嘘ではない。見かけなければあなたのうっかりにちがいない。
男の祈りの先は、脇の町家の軒下の、小さな祠。隣家との境を分ける妻壁にへばりつくように隠れているか、もっと倹しければその壁にめり込むように鎮座している。なかにいるのは石のお地蔵さま。
そして車は、また、ばたばたとエンジン音も喧しく走り過ぎていく。ふうっと心の和む、京都の素顔の一つだった。もちろん、てくてくと道行く人にもそれはあって、古老ならぬ、中年男や、ときにはバイクの若者連にもそうなのが京都らしい。
たぶんいまも変わらないであるだろう。嫌だった寺の暮らしにやりきれず、ぷいっと飛び出し、あてもなく彷徨いたのが西陣の路地裏だった。機の音をさがしたのかも知れない。生まれ在所と同じに西陣は機屋の街だった。
小川の下宿の表にも隣との卯建の裾に祠があった。見世の遣り戸を出たすぐ脇に何気にあって、毎日、前を学校に通った。朝は向かいの婆さんが、濡れ雑巾を手に祠を拭いていて、帰りは隣の、これは歯科医だったが、看護婦を兼ねた夫人が前を掃いていた。
「おかえりいー」
団扇顔のロイド眼鏡のその人は不器量だったがいつも笑顔がよかった。
だから、誰彼と隣組で決めたわけでもないのに祠周りはいつもきれいにあって、お地蔵さまは赤い水子の前垂れを首に、穏やかで、気持ちよさそうだった。
地蔵盆はそんなお地蔵さまへの感謝の日。合わせて水子を供養する。送り火から一週ばかり、茹だるような京都の夏も、日の暮れには、気持ちばかり秋先も見えて、路地や辻子奥にも子どもたちの黄色い声が響いて走る。そんななか、その日ばかりはお地蔵さんも、いつもの祠から町家の見世棚に招待され、有難い唱名をもらってこそばゆそうにしていた。後ろでは、数珠回しといったか、子どもたちが車座に、ぐるりと二、三メートルはあっただろう、大きな数珠を膝送りに手繰っている。
といっても、そんなけしきは西陣も東の織屋筋に限られたことで、零細機屋の蘆山の裏路地では祠の前に蓙や筵を敷いてのことだった。主役は子どもの生き仏。鮨や菓子やと好みの供物を前に満足そうで、やがて余興もはじまり、あれは畚降ろしといったと覚えているが、籤引きがあって、引き当てた景品が二階の窓から竹籠に入れて釣り下ろされる。その一瞬が堪らないのだろう、見上げて子どもたちは固唾を呑んだ。だから地蔵盆は子どもたちには年にいくらもないエンターテインメントだった。それが、いまはどういうわけか、西陣も終ての方ならいざ知らず、毎日が、ざあーざあーと雨降りのようだった機音も絶え絶えに、子どもたちの影もない。
ほかでもない、在所の村にもそれはあった。もちろん同じ八月の二十三、四日だったと思う。祠の前の、地べたに筵を四、五枚並べて、婆さんたちの御詠歌ではじまった。ぺたりとへたって背中を丸め、額の前で鈴を振り、膝元の丸い摺鉦を丁字の撞木で、きん、こん、叩く。謡は七五七五に流れるようで、鉦は耳に触ったが、鈴音はきよらにすずしく、子ども心にお大師さんの丸い顔も見え隠れした。
たかのーのー
やーまーのー
じーぞーお、おーそーんー
響きはいまも耳奥にきれいで、婆さんの、か細く震える声に、悪たれ小僧も素直な気持ちで頭を垂れた。
あのけしきは何だったのか?
いろいろ説明はできるけれど、先は冥土にしろ高野にしろ、子どもを送らねばならなかった母の嘆きではなかったか。終わると一転、場も賑やかに、
「ほれ、そこの子、割り込んだらあかん、ちゃんと並びんか」
どこにいたのか、母親たちも現われて、長い餅箱や丸盆片手に供物を居並ぶぼくらに分けて回った。
供物といっても長閑なもので、握り飯が一人に二つ、一つは胡麻塩を塗したものに、もう一つは小豆の赤飯だった。赤飯は寺でも月に一度、二十日と決めて炊いていたが、村ではこの上ない御馳走だった。それに沢庵が二切れ、冬を越した古漬けで、ぷーんと臭う皺くちゃのが申し訳についていただけ。それでもぼくらは先を争って両手に受けた。といっても皿はもちろん箱折りや竹皮なんてあるわけがない。古新聞の四つ折りを、さらに四角に折って広げ、逆さまの尖り帽子のようにした。
「おばちゃん、おおきに」
順番にお辞儀して、帰りの道々、かぶりつく。落とすまいとしっかり握り過ぎたか、飯粒に新聞のインクの臭いが浸みついていた。それをぼくらは昼飯代わりに、また日が暮れるまで、めだか掬いや蝉採りに走るのだった。
そんな地蔵祠は村外れ。先は深い竹藪に抱かれた埋め墓で、昼間でも傍を通ると風がしっとりと湿っぽく、悪さをすると婆さんが怖い顔をつくって話して聞かせた冥界への入り口だった。だから人家もない、はずなのに、陽が落ちると、薮の奥の山合に、蛍火のように小さな灯りが点って揺れた。
「ほれ、鬼火や」
婆さんはいって、
「悪さしなや、追いかけてくるでえ」
ぼくらを嚇したが、そこまでぼくらも無邪気じゃなくて、ちゃんと事の次第を知っていた。
月に二、三度だった。村中を漁るように彷徨いて、ぼくの家の勝手口にもやって来た。たしか、ゆきさんと大人たちはいっていたと思う、金屑集めの女が一人で住んでいた。それを、いけない好奇心からだった。悪たれ仲間に誘われて、
「ぜったい、いうんやないぞ!」
凄まれたのを、
「うん」
と一つ返事に、学校帰りの探検だった。埋め墓山の脇、隈笹に埋もれた杣道をそろりと入ったその奥に、少しの風にも飛ばされそうな小屋を見つけて、思わずごくんと唾を飲み込んだ。そして、窓に垂れたアンペラの隙間から、そっと覗いてみたのを、薄闇から、ぎろりと睨み返され、ぼくらは逃げている。