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自作品を紹介します。

峠の文化史

 メキシコ・キューバへの日本人移民のあとを追った『峠の文化史─キューバの日本人』(PMC出版、1989年)。最初の発表は新潟の越書房の雑誌『別冊どんこん』でした。主幹の関徹さんに「何か、移民のことを二十枚くらい書いてみないか」といわれ、百枚書いたら、突っ返されもせず二回に分けて載せてくれました。ぼくの最初の活字で、ちょっと興奮しました。それを大幅に加筆、書き換えたのを、さらにPMC出版の今井和久さんが季刊誌『汎』に連載してくれました。タイトルは「忘れ難く去り難し」。それが、単行本化で解題され『峠の文化史』になりました。ぼくとしては「忘れ難く去り難し」の方が好きだったのですが……。いまはもちろん、当時でも移民史に目を向ける編集者は指折り算えるほど。そんななかで今井さんはほんとうにたくさん、いい仕事をされたと思っています。堅気な人でした。ただ、それが仇となり事業が続かずこの本も絶版になっています。

日墨交流史

 学校を出たあと国連関連の文化団体で機関紙編集を担当していたのを十年で辞め、小さな出版社に食客のようにして勤めていたときでした。メキシコ、日墨協会の荻野正蔵さんから、日本人移民の歴史をまとめたいという依頼があってお手伝いしたことがありました。そうして生まれたのが『日墨交流史』(日墨協会、PMC出版、1990年)。大部の一書で、すでに『峠の文化史』で発表していたものも含めて、榎本移民のあとの日本人移民史を書かせていただきました。ぼくの最初のゴーストで、それが癖になって、以来、ずいぶん覆面原稿で生かされてきました。

母棄ははすて

「十五の春、ぼくは母を棄てた」の帯書き通り、ぼくの青春は母を棄てることではじまりました。そして、いきつくところ、母を殺している。以来、居もしない母をさがす旅になり、とっくに母の齢を越えたというのにいまもそれが続いている。そんな自分をふり返ったのが『母棄』(ポプラ社、2007年)。五十を過ぎて仕事が途絶え、ぼんやりしていたら、気の抜けたサイダーから、突然、ぷくっと一つ、泡ぶくが湧き上がるように昔が蘇ってきた。母を棄て、故郷も捨てたはずなのに、ぼくの血の中の「地縁」が抜けない。保育園からの仲良しのこと、守りをしてくれた女工さんのこと、村の鍛冶屋の親爺のこと、そして思い出したくもなかった小僧暮らしを綴りながら、母を想う気持ちはもちろん、その陰に父への鎮魂の思いを込めたつもりだが……、どう読んでいただけたか。いま、ぼくも父の齢に近くなって、「父」とは何なのか、不思議な気分になっている。

京都人は日本一薄情か

 家を出て小僧に入ったのが、京都、紫野大徳寺。ただ、最初から逃げるつもりでいたから自分で自分が厄介だった。嫌で、嫌で、朝寝坊をしたり、作務を愚図ったり、二年待ったら機会が来た。ある朝、いつものように朝課に遅れ、本堂に走ったら「出ていけ!」と一喝、破門された。戸惑いはしたがうれしかった。それからぼくの放浪がはじまっている。友だちの家、担任の家、兄の下宿、知り合いの不動産屋の事務所二階、と京都の街を西へ東へ転々として御所の近くにしばらくの居場所を見つけた。大変だったが、おかげでぼく流の京都案内が書けるようになった。『京都人は日本一薄情か』(文春新書、2005年)。「落第小僧だからこそ書けることもあるでしょう」、文春の宇田川眞さんが誘ってくれた。和尚も多分、最初から、ぼくの性根をわかっておられたのだろう、よく拾ってくれたといまはほんとうに謝するばかりで、京都に出かけたら、忘れず門前に手を合わせるようにしている。立花大亀宗雄、ぼくの和尚だった。

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