■移民手記■

memorias

キューバ移民の手記を紹介します。

Son las memorias de los emigrantes japoneses en Cuba.

 新潟からの移民の足跡を調べるためにキューバを訪ねたのはもう40年近い昔のこと。そのときお会いしたSさんをはじめ数人の方々から、数年後、キューバでの思い出を記したメモを預かりました。その中からいくつかを紹介します。ただ、いずれも、本人はもちろん周縁関係者への迷惑を考え、筆者名は伏せています。無断転載は良心に従ってひかえてください。括弧内は加筆。表示はタイトルをクリックしてください。

Fui a Cuba para estudiar sobre los emigrantes de Niigata a Cuba, hace ya 40 años. Conocí al sra. Sezai y muchas otras emigrantes, y guardé sus memorias. Estaba pensando en hacer un libro, por ejemplo, en el título "vidas de los emigrantes". Sin embargo, aún no se ha realizado. Voy a presentar algunas de esas solo por permiso. Estoy reescribiendo el nombre único para no molestar a sus familias. Por favor no copiar sin permiso en conciencia. Agregué entre paréntesis. Haga clic en el título para verlo.

私は行かなかった

No fuí a visitar.

 写真結婚で呼び寄せられ、キューバに嫁いだ婦人の手記です。半世紀にわたるキューバでの闘いの日々をこうも簡潔にまとめられるものかと驚かされます。1983年に記されたものですが、筆まめな人で15年近く便りが続いたあと、1997年に88歳で亡くなりました。忘れられない、どこか、母のような人でした。

Esta es una nota de una mujer que emigró a Cuba para un matrimonio fotográfico. Estoy sorprendido de por qué se pueden resumir brevemente los días de lucha en Cuba durante más de medio siglo. Escribió esto en 1983. Ella me dio muchas cartas por 15 años, y murió a la edad de 88 años en 1997. Era como la madre para mí.

亡兄の遺骨を故山に埋められないのが残念です

Lamento no poder enterrar las cenizas de mi hermano en su tierra natal.

 A5判ノートのページを切り離したのでしょう、表面のざらついた粗末な5枚の紙片に書かれています。これを書かれた前年の秋にお会いしたときはハバナ市内で夫人といっしょに元気でおられました。子どもはなかったが、どこか双体道祖のように寄り添う二人で、それから年に一度くらい、便りがあったのに、ばったり途切れ、どうされたかなと思っていたら、亡くなっていました。あの頃、日本とキューバの手紙のやりとりは不思議なことにソ連経由で、下手をすれば往復二カ月近くもかかりました。「私は、変わらず、元気であります」、便りの書き出しはいつもこんなでした。実直で控えめで、そして温情溢れる、いかにも越後人らしい、忘れられない一人で、多くと同じ、一時帰郷をねがいながらも、叶わず逝っている。

Esta nota está escrita en cinco pedazos de papel pobre. Quizás separó la página de cuaderno. Lo conocí en el otoño del año anterior a que escribiera esto. Estaba bien con su esposa en La Habana. La pareja no tuvo hijos, pero me pareció que estaba teniendo una feliz vejez. Una vez al año, aunque me escribía, de repente dejó de hacerlo. Fue en 1993. Lo sé más tarde, pero él murió. Al comienzo de su carta siempre fue así, "Estoy bien como siempre". Era un hombre sincero, humilde, de corazón cálido, con una personalidad única en Echigo-jin. También soñó con su regreso a casa, sin embargo, no se hace realidad y está muerto.

二度の接収で我が活動も終わった

Mi vida en Cuba ha terminado con dos "sesshu".

 アバナ・ビエハ(オールド・ハバナ)のオレリイ街に日本商品の雑貨店を開いていました。陶器、漆器、屏風、扇子、竹細工など、日本工芸品のほかにドゥルセ・オガル(甘美香)のブランドでオリジナルの蚊取り線香を販売、それがキューバ人に受けて繁盛したのでした。戦後は、家族の帰国後もずっとハバナで一人暮らしを続け、訪ねたときも、「百歳まで生きて日本に勲章を取りにいく」と矍鑠としておられたのに、二年後、消えるように逝ってしまわれた。革命による、いわゆる「接収」も、必然といえばそれまでですが、涙を呑んだ日本人も少なくありません。家族を棄ててまでキューバに生きようとしたのですが……。「在玖七十年中の活動と追憶」と題された手記で、この人らしい、○○年………、○○年………、と細かく箇条書きされたメモですが、無礼を承知で手直ししました。

Dirigía una tienda de abarrotes de productos japoneses en la calle Oleliy de Habana vieja, Además de artesanías japonesas como cerámica, laca, pantalla plegable, abanico, artesanías de bambú, etc., se vendía la bobina antimosquitos original con la marca dulce hogar. Este producto se hizo popular entre los cubanos, y la tienda floreció. Su familia regresó a Japón después de la guerra, pero siguió viviendo solo  en La Habana. Cuando lo visité, decía "Voy a vivir hasta 100 años de edad, ir a recibido una medalla en Japón", y estaba bien. Sin embargo, dos añnos después, murió como si desapareciera. Muchos japoneses sufrieron "sesshu" ; confiscación de propiedad privada después de la revolución. También trató de seguir viviendo en Cuba a pesar de que se separó de su familia,...

生まれかわったらこんな遠くには来ない

Si yo fuera más firme, podríamos haber hecho algo junto con nuestros tres hermanos.

 なにより気高い人でした。そして自分に正直な人だったと思っています。1982年にお会いしたあと、翌年、この手記を受け取りました。なぜキューバに行ったのか、どんな思いで暮らしたのか、淡々と振り返りながら、移民とは何だったのか、最後の行が簡潔に語っています。ここで注意してほしいのは「移民」という言葉です。1960年代のことでした。移民にかわって「移住」という言葉が使われるようになりました。いいはじめたのは外務省です。理由ははっきりしています。朝鮮戦争のあと、石炭から石油へと日本のエネルギー政策が切り替えられ、産業合理化と価格統制の廃止によって、九州をはじめ各地で中小炭坑の人員整理、倒産、閉鎖が続きました。その結果、失業者が続出、それが労働運動から政治運動に発展するのを避けるために進められたのが炭坑離職者を南米のブラジルやボリビア、パラグァイの未開地に送り込むという移民政策でした。これははっきりいって厄介者を棄てる棄民政策でした。そのイメージを払拭したかったのでしょう、「移民」にかえて「移住」という言葉を使いはじめたのです。外務省の管轄で各県にあった海外移民協会といった移民奨励機関も海外移住協会というふうに看板を書き換えました。いうまでもありません。移民という言葉には、民を移すということのほかに、主体的には、移る民という意味もあります。明治も最初の頃の移民は、自らの意思で移る「移る民」でした。それが移民会社が登場するようになって「民を移す」に少しずつ変わっていきます。それに対し、移住は「移り住む」、つまり、進んでそうするという能動の意思に加えて、永住という意味もあり、まったく意味がちがってきます。炭坑離職者の場合は、合理化と閉山による解雇で仕事がなくなり日本で暮らすことができなくなったため、意思に反して南米に行かざるを得なかったわけで、それを移住といってしまうにはかなりの無理があります。さらに戦前移民の場合は、目的はあくまでも出稼ぎであって、移り住む、永住する気など微塵もありません。そのことを、この手記がはっきりと言い伝えています。移民と移住、たった一字のちがいです。しかし、この言い換えでほんとうの歴史が見えにくくなってしまっています。もう二十年以上も前のことです。アメリカとの経済自由化絡みでキューバ移民のことが話題になり、とある公共放送局の夜のニュース番組に呼ばれたことがありました。オンエア直前でした、ディレクターから念を押されました。「移民という言葉ですが、局では移住に統一しています。移民は使わないようにしてください」。予想はしていましたが、右へ倣えの偏向報道姿勢に言葉もありませんでした。それがいまも続いています。

Era una persona muy noble. Y era una persona honesta contra sí mismo. Lo conocí en 1982, y al año siguiente recibí esta nota. Por qué fui a Cuba, qué pensamientos viví en Cuba...,  él está mirando hacia atrás en la vida, sin dudarlo. La última línea nos enseña brevemente, ¿qué fue la emigración?

二度の大変動に遭って決心した

Dos cataclismos me golpearon, y me hicieron decidir.

 アメリカはもちろんメキシコやペルーでも日米戦争による収容という挫折はありました。しかし、キューバの場合、その後の革命によってさらに苦難を強いられ、戻るに戻れなくなっています。ただ、もしこの人がキューバにいなかったら日本人移民の歴史も闇のままだったかもしれません。移民としてはごく後期の人ですが、イスラをかわきりに不況のなかを仕事をさがして各地のセントラルを転々としたのと、イスラでの収容時に自治会の下役として努めたのが幸いして、先行移民に学ぶことも多く、また、無類の人好きな性格から各地の日本人移民との交流も深くそのようすに詳しかった。そんな人に出会えたのもぼくには幸せでした。いま振り返って、人生は人との出会いで味が出ると思っています。不思議なもので、ぼくの場合、そのほとんどが偶然からでした。もともと目的は移民が出た背景、出移民を調べることにあって、それも偶々、新潟の北蒲原からの出移民の事情をさぐるうちに、この人と出会ってここまで来ています。もう四十年もむかしのことです。訪ねたハバナで「名簿づくりを手伝ってくれませんか」と誘われたのがはじまりで、以来、いまも、ぼくには父のような人であり続けています。

Los inmigrantes japoneses fueron detenidos durante la guerra entre Japón y EEUU en EEUU, México y Perú. Además, en el caso de Cuba, la revolución ha obligado a los inmigrantes japoneses a sufrir, y aunque quieran regresar a sus lugares de origen, no pueden. Sin embargo, si esta persona no se hubiera quedado en Cuba, la historia de los inmigrantes japoneses podría haber quedado oscura. Es un inmigrante muy tardío, pero, en medio de la recesión, se movió por Cuba en busca de trabajo y luchó como miembro de la sociedad autónoma japonesa en el momento de la detención. Por eso, tenía una relación cercana con inmigrantes japoneses de toda Cuba y los conocía bien. Estaba feliz de conocer a una persona así. Creo que la forma de vida de las personas comienza con conocer gente. Mi propósito era explorar el entorno social en el que nacieron los inmigrantes. Lo conocí mientras estudiaba la historia de los inmigrantes de Kitakanbara-gun, prefectura de Niigata. Han pasado 40 años. Cuando visité La Habana, me dijo: "¿Puedes ayudarme a hacer la lista?" Desde entonces, ha sido como mi padre para mí.

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