亡兄の遺骨を故山に埋められないのが残念です

 私は山間僻村の農家の七人兄弟の末っ子に生まれました。腕白小僧には、早春の融雪の山川にヤマメ、岩魚いわな釣りより、夏季には加治川かじかわの清流での鮎の友釣りで過ごし、旧制新発田しばた農校を卒業しているうちに玖馬クーバ国に在住している実兄の呼寄せで一九二七年十月十一日横浜出航の安洋丸あんようまるで単身玖馬国に出発しました。偶然にも玖馬国に再渡航せらるる榊原利一さかきばらりいち(愛知県出身、一九八四年死亡)氏にお逢いして同航桑港(サンフランシスコ)に上陸し、アメリカ横断列車で大西洋岸のニオルヤンス港(ニューオリンズ)に行き、米船ガチン号で十一月十一日、玖馬のハバナ港に到着致しました。

新潟県北蒲原の早春:
雪解け水にゆるんだ田圃。遠くに新津に向かう列車が走る。

 兄が出迎えていたので、同伴、カマグェイ州セントラル・バラグァに着きました。バラグァは製糖工場の所在地で三十人余の日本人が在留していました。そして、庭園働きしているうちに、同地にる米人経営の熱帯植物試験場に職を得て働きました。

 バラグァ時代の十三年間は、バラグァは盆地で非常に湿気が多く、暑いし沢山の蚊、食中毒で、身体には吹出物は出るし、マラリア病にはかかるし、加へて盲腸炎で切開手術をしたり、何が故にこんな土地に来たのかと、つくづくと郷愁の念にかられることもありました。

 四ヶ年の収容所生活は省略致します。

 一九四六年、出所すると、バラグァには帰らずハバナ市に残り、着の身着のままの丸裸であったので、差し当たり家庭労働している時に兄が自動車事故で頭部打傷して一週間余も人事不省であった。しかし、看護の甲斐かいあって全快致しました。

中央・白顎髭の男性がヘミングウェイ
その後ろに立つのが「兄」

 の後、一寸ちょっと資本を貯めて家を借り、植木屋並に造園請負業を始め、ぼつぼつ喰うや喰わずの貧しい生活をしている時に、当国の大蔵省並に銀行に、室内装飾の植木鉢を置く契約ができたので、七、八人の玖馬人を使うまでになりました。そうして経済的にも恵まれて来たので、一九五六年、現在の妻(キューバ婦人)と結婚致しました。

 一九五九年、革命が起き新政府が樹立されると、自由業は出来なくなったので政府の蔬菜園芸指導員として働き、一九六四年、日本の矢口大使の推薦でイギリス大使館に園芸担当員として転職致しました。

 六八年、助け合って来た兄も死亡。八二年十月、十八年勤めたイギリス大使館を退職、玖馬政府より恩給をもらって暮しています。退職後は、すぐ白内障で両眼を切開手術しましたが、完全に視力も恢復かいふくしよろこんでいます。

 玖馬の日本人移民も、四、五人は何百町歩もの土地を所有していた者もありましたが、現在はみんな団栗どんぐりの背競べで、他人に迷惑厄介をかけないで自力で生活できれば上等と思へます。故国日本を出発する時は、海外雄飛、遠大なる理想を抱き来たが濡れ手で粟をつかむような甘い金儲けはなく、一生独身でさびしく異国の病院で客死する者、酒と女におぼれて最後に養老院に厄介になる者、百人百色です。

 振返って見れば、私の足跡は平凡ではあったが、私の基本教育と経験を活用して、蔬菜園芸、果樹を多数のキューバ人に実地指導して、幾分いくぶんなりとも貢献できたと思えます。これからは人生の終止符を打つまでは第二の人生ですから、お互いに在留同胞と助合い、日玖親善に努力する考へです。

 ただ、痛感するのは、キューバ貨(幣)は国際貨(幣)に両替不可能なので故国を訪問出来得ないことです。故郷の先祖、親兄弟の墓参りが出来ず、加えて亡兄の遺骨を分骨して故山に埋められないことが残念です。カリブ海は暖流と寒流の交差点で魚類は豊富です。ですから海浜で魚釣りして暮します。余生のたのしみです。

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