生まれかわったらこんな遠くには来ない

 五拾日の船旅の末、私達一行三十数名(海外興業第一回移民としては二十人、ほかに九人の呼び寄せなど自由渡航者がいた)ハバナに着いたのは一九二四年四月一日でした。

 上陸して第一に感じた事はハバナの暑さでした。今こんなに暑ければ七月、八月はんなに暑いだろうと話し合った事を思い出します。東洋汽船の楽洋丸らくようまるで同年二月十二日(記録では三日)神戸出帆、横浜、ホノルル、ヒロ、サンフランシスコ、サンディエゴ、メキシコのマンサニーヨに寄り、パナマで楽洋丸に左様さようならをし、十日程英国船エクアドール号を待ち、パナマ運河を通りようやくハバナに着いたわけです。

 二、三日見物や買い物をし、他の人達と別れ私達は〔丸山広司まるやまひろし飯島壮美たけみさんと私〕此の三名を呼び寄せてくれた私の叔父瀬在藤治せざいとうじったカマグェイ州の砂糖工場に向かいました。叔父はその工場のお客及び独身事務員の宿舎及び公園、庭園の責任者でした。

 そして、着いた翌日から叔父の下で働き始めました。一日拾時間労働、日給一ドル五拾セント、最初の一日の労働を終り自分たちの部屋の前の木陰に座りこんで、丸山と、「おい! 一弗五拾仙もうけたぞ……」と、生まれて始めて得た労賃にちょっとした感激を覚えたのをいつまでも思い出します。

 しかし、この庭園の仕事はつまらないと飯島さんが去り、丸山も出て行きました。私は砂糖製造期間中は〔一年に四、五ヶ月間〕工場で働き製糖のない時期は庭園で働きました。

 叔父はキューバの国語はスペイン語だけれど英語も通じると云ったのに、来て見たら英語はほとんど通じません、ことに労働者の間では。で、あわてて日本から西語文法の本を送ってもらいひとりで覚へ始めました。その内に丸山が病気で私共の処に帰って来ました。病名は肺結核。当時は不治の病でした。もう弱って居て殆んど外にも出ず私の部屋で寝たり起きたり、私もよく彼の蚊帳かやの中に這入はいり体をもんだりしてやりました。で、仕事の仲間も叔父も私に、結核が伝染するのを防ぐためたばこでも吸えと云いましたので、夜中に家の前の外灯の下でたばこの煙を少しずつ肺の中に吸い込むのを覚えました。

 丸山も段々衰弱し、風呂にも私が抱いて行き洗ってやり、また、抱いてベッドに寝かせるようになりましたので近くの町の病院に入院させましたが、不治の病の事、二週間後に死んでしまいました。私より一、二歳年長で中学時代に柔道初段の黒帯を講道館よりもらったあの強者つわものが何うしてあんな病気になったのかと残念でたまりませんでした。

 一方、私はその後、近くの他の砂糖工場の公園と庭園の責任者として叔父の推薦で行く事になりました。スペイン人四名、中国人二名、同胞二人を部下としての仕事でした。此の時も早速庭園作り花作りの本を日本より送ってもらい勉強せねばなりませんでした。

 そして、一九三〇年代の世界経済恐慌。仕事はなくなるし、あっても給料は下がる一方。でも庭園の草木花は水をやらねば枯れてしまいますので私達には仕事が続いてあり助かりました。此の不景気の真最中、長い間の流血の後、革命側がマチャード独裁大統領を追い出し国内の平和がもどって来ました。

 しかし、キューバ人の失業者は相変わらず多く数年後選ばれたグラウ大統領は、国内すべての企業の雇用人の五拾パーセントはキューバ人でなければならないといふ法律をつくりましたので外人労働者の失業が多く出ました。の法律のため、私と一緒に働いて居た同胞は工場の支配人宅のボーイに転職し、中国人二名とスペイン人一名は失職し、代りに四名の新しいキューバ人が働き出しました。

 その上、此の法律には、企業が新たに人員を雇う場合はキューバ人を優先的に雇い、キューバ人が不足の場合のみ外人の雇用が出来ると定められていたので、私達外人労働者は一度職を離れればボーイとかコックとか、あるいはガーデナーとして家庭奉公するか独立して何か商売をするしかなくなりました。金もなく力もない私は不景気で給料も安くなりましたが、何も出来ずその日その日を過して居りました。

 丁度ちょうどその頃、前記瀬在の叔母が子供二人を連れ故国訪問してこちらに帰る時、私の妻を同道して来てくれました。妻けさは東京都中野に住んで居りました私の伯母〔母の姉〕の近くの知人の娘で、伯母の肝煎きもいりでこんな遠くの私の処に来たのですが、事実可哀想でした。妻は長野市の旧制高女を卒業し東京都庁での何年かの勤めをやめて此の遠い異国の私のもとに来たのですから。「炭でご飯をたくの?」と、最初、聞かれ、可哀想な思いをしました。事実、木炭があの頃の熱源でした。でも、妻はけなげにも貧乏所帯をきりまわしてくれ、一年後長男が生れ、自分があまり丈夫でなかったので大変だったと思います。

 日本人といへば、近くの支配人宅のボーイのA君と理髪店を開いていたI君だけ。他は総て外人でした。

 それに、日支事変の真最中、妻と二人で慰問袋を作ったのを思い出します。而し、事態は悪化するばかりで、何時いつ日本は米国と戦争を始めるか分らない情勢でした。しそうなれば少なくとも日本人男子は収容所に入れられるだらう。妻子は何うなるか、いずれにせよ出来るだけお金をためておこうと妻も一生懸命倹約してくれました。

 そして、あの日曜日。私はいつも日曜日は午後社交クラブと遊園地に子供を連れて行くならわしでした。あの日、クラブに入るとぐキューバ人の友達が、「日本とアメリカが戦争をはじめたよ。今ラジオで、日本がパールハーバーを爆撃したといったよ!」と。これを聞いて私は直ぐ子供と家に帰り妻に告げ、何時捕えられるか分からないが、その時はこうこうしてくれるようにと話し合いました。そして、今日か明日かと待っていました。

 而し、その間、毎日の新聞には日本軍の大進撃大勝利のニュースばかり。私はキューバで発行されるマリナ、ムンド、パイス三紙を毎日買って胸をわくわくさせながら各紙の戦争記事をくり返しくり返し読みました。そして、あのグァダルカナルの大激戦の真最中(ガダルカナル撤退戦は四三年二月一日~七日、筆者の収容は二月二十三日)、私達三名は捕えられ、ハバナに護送され同市の刑務所の冷たいコンクリートの床に一ヶ月、皆ごろ寝させられ、次ぎに連れて行かれたピノス島の重犯罪の刑務所が我々の収容所でした。此処でも最初の数ヶ月は冷たいコンクリートの床に寝なければなりませんでした。私には、ガンパス一枚、毛布二枚、妻が用意してくれましたので助かりました。

 戦争は拾年戦争だ、いや百年戦争だなどと云はれ、私達は覚悟していました。此の時はキューバ在住の全日本人が敵国人として収容されましたが、れっきとしたキューバ人である二世も何人か私達と一緒に収容されました(二世は男性九人、女性二人の計十一人が収容されている)。而し、日本女性はわずか数名(三人)が女性収容所に入れられただけで大部分はそのままでしたので、働き手の男が全部捕えられたのですから残された婦女子の中には生活にも苦しまれた方があったにちがいありません。でも、日本女性は大和なでしこの本領を発揮して皆夫の留守をまもり家計をたて子供を育てましたが、大変だった事でせう。私共男性が収容所で何もせず長い間寝食をして居る間、彼女たちは大変な苦労をした分です。

 収容所には、最初、外界のニュース、殊に戦争のニュースは何も入って来ませんでしたが、連合国側の戦況のよかったようなニュースが入って来る様になりました。それでもグァダルカナルからの日本軍の撤退は戦略的なもので、日本軍は負けて居ないとかたく信じて居た私共の収容生活は呑気のんきなもので、部屋の掃除から食事まで皆向ふ様がしてくれました。運動場は私達の為、広い土地を区切ってくれ、野球、テニス、ゴルフの真似事が出来るようになりました。野菜があまりないので運動場の隅を各自少しずつ耕し、かけ水のため井戸を掘り、種子、肥料を手に入れ作りました。

 収容された日本人は合計三百六拾数名(実際は男性三百五十人、女性三人)で、五階建ての獄舎に全部住み、向い合った同じ型の獄舎にドイツ人、イタリア人、白系ロシア人、中国人等々、数へて見たら十三ヶ国の人が合計百三十人ほど居りました。皆同じ境遇なので仲良く行き来して居りました。

 収容所生活四年近くの間に病人も出ましたし、気の毒に亡くなった人も六、七名(九人)ありました。その中の一人、胃潰瘍を手術するので輸血が必要との事。私の血がO型といふので、或る日の夕方、刑務所の医務室で輸血し獄舎に帰って皆が病人を心配して色々と尋ねるのに答えたりおしゃべりしたら私の為に残してあった夕食はもう冷たくなっており食べる事もせずそのまま寝てしまいましたが、次の朝目がさめたら天井は良く見えないし体を起す事も出来ません。すっかり衰弱した病人の自分を発見してびっくりしましたが、一週間ぐらいで元気をとりもどしました。輸血した病人は首都ハバナで手術をうけましたが経過がよくなく亡くなったとあとで聞きました。

 妻から後で聞いた話ですが、その頃、丁度妻も病気になり近くの病院で手術をうけたそうです。体がすっかり弱っていてあぶないので麻酔をかけずに手術をしたのでその痛かった事。妻は、その後、痛み恐怖症になってしまいました。体があまり丈夫でないのに、夫は不在、言葉もあまり分からない、外人の間での小さい子供と二人きりの生活、精神的肉体的にまいってしまったのだと思います。

 収容所と外界との通信には西語だけ許されていました。ですから、妻に辞典をひけば分る動詞の原形を使って書きました。西語の動詞は数、格、時によって数拾に変化するので大変です。妻からもスペイン語でないスペイン語の手紙が来ましたが、云いたい事は私に通じました。また、送ってくれたコーヒーの粉の中に小さく折った日本字の手紙を入れたり、トイレットペーパーの中程に長い日本語の手紙を書き込んで送ってくれましたので、紙を使っている内に日本文がある部分が出て来て、びっくりしたり喜んだりしました。

 収容された人の家族がよく収容所に面会に来られました。而し、妻はハバナから四百キロ以上遠い所に住んで居ましたし、ハバナに着いてから、亦、汽車で南海岸の港(バタバノ)まで行き、そこから船でピノス島に来ましても、面会時間は一時間か三拾分。費用もかかるし子供を連れてのこの旅は、あまり丈夫でない妻には大変でしたので面会には来ない様知らせておきました。

 そうこうする内に、連合国側の戦況が良くなったせいか、新聞も毎日収容所に入る様になりましたが、私達の気持は重くなるばかりでした。そして、サイパン陥落の記事。サイパンからB(B29)で日本本土の爆撃が可能な事は知っておりましたので私達には大ショックでした。まさかまさかと思った事が事実となって目の前に現はれた分です。続いてレイテ、沖縄、最後は広島、長崎への原爆、日本の無条件降伏の記事。あの夜は親友Tととてもやりきれない気持で色々話し合いながら一晩明かしました。私が、「忍術使ってアメリカの大統領、司令官を皆殺したらと思ふよ!」と云ったら、Tも、「今俺も丁度それを思って居た処だ!」との事。二人淋しく苦笑したのを思い出します。

 戦争は終った、家へ一日も早く、これが皆の希望でしたが、なかなか帰してくれません。戦争は八月に終ったのに十月も十一月も過ぎ、しかと思っていたクリスマス、正月が近づいてもんの音沙汰もありません。

 放免になったのは翌年の二月の半ばでした。家では妻も子供も元気で待って居てくれました。私は頭ばかりとても大きく見えたそうです。やはり食事情が長い間悪かったのでせてしまった分です。妻も手術やその後お手伝いさんをしばらく雇ったりしたので余分の出費がありましたが、刺繍、編物、縫物、造花などの内職をしてがんばり、わずかですが、私が一番心配していたお金もまだ持っておりました。それに、日本赤十字社の援助金も七、八ヶ月の間、妻と子供の分として合計拾三ペソ、スペイン大使館を通じて毎日ありがたくいただいたそうです。スペイン対日参戦まで。

 而し、家に帰って来た私に職はありません。精糖(製糖)会社がアメリカ資本なので就職させてくれません。近くに何かと捜しましたが、敗戦国民には何もありません。その上、前記の五十パーセント法があります。仕方なく、家族をおいて親友Tを頼って一人ハバナに出、新聞広告で職を探しました処、ある富豪の私営水道係りの職を得ました。

 水道は邸内〔四拾町歩ちょうぶ位〕を流れる小川から丘の上の浄水池にポンプで水を上げ、それを下の貯水池に落しクロールをまいて殺菌し少し離れた拾数軒の貸家に配水するのが私の仕事。他に邸宅内に置く観葉植物や蘭の手入れも私の係りでした。

 その年の末、その屋敷の中にある使用人達とその家族が住む一部に私達の住む処を造ってくれましたので、妻子をむかへに行き貧しいながらも一家三人平穏な日が来ました。而し、間もなく妻の病気が再発、手術後も思わしくなく心配しましたが、どうにか危険を脱しました。心臓が強かったからと医者に云はれました。

 それからは一人息子の教育が私達夫婦の一番の関心事。而し、高校を卒業した時は丁度革命進行中でハバナ大学は閉鎖されていましたので、昼は銀行に勤め夜は私立大学に通はせました。此の大学の商科は夜学だけでした。銀行への往き来、夜学への往復、バスでは大変ですから中古車を買ってやりましたが、政府側と革命側がしのぎを削って居る時期に大学の同級生をのせて毎晩車をとばして居たので、二、三回捕まり、或る晩などは朝の四時になっても帰宅せず私達両親を心配させました。事実、息子も革命地下戦線に入って居りましたから、中南米はどの国でも政治的に真先にさはぐのは大学生です。私はキューバで革命を二度経験しました。而し、出来たら武力革命は避けるべきです。犠牲が多過ぎます、双方とも。

 くて両方で殺し合いをした革命も一九五九年一月一日に革命側の勝利となり、ハバナ大学も再開しましたので息子も早速この大学に替りました。勤めの方も銀行から貿易省にかはり、ついで在日本キューバ大使館付き商務官に任命され母親を伴い赴任しました。

 私の方は革命後一年ほどして富豪一家はそれぞれ国外に亡命し、邸宅、土地は政府に接収されましたので、しばらくハバナ市の公園課で働いて居りましたが、キューバ政府の招聘で来られた、当時社会党の代議士帆足計ほあしけい(一九〇五~八九年)氏の通訳にと当国外務省より呼ばれ、同氏キューバ一巡のお供をした後、私も東京のキューバ大使館の通訳に任命され妻子の後を追ふ形で三十七年ぶりに故国の土を踏みなつかしい家族、親戚、友人一同に会はれる幸運に恵まれました。

 故国には三年近く居り、キューバに帰って外務省で翻訳、通訳を数年しておりました時、日本より来られたカイロプラチックのS氏が体育局に雇はれ治療を始められたので、私は同氏の通訳に廻され、四、五年後同氏が帰国された後も体育局に残り、主に翻訳ですが他の機関からたのまれて翻訳したり、その機関に来られた日本の方の通訳をしたり、体育局に来られる日本のスポーツ選手団やスポーツ関係者の通訳をして今日に至っております。

 私はよくキューバ人に限らず日本の方からも、何んな理由でキューバに来たかをよく聞かれます。キューバに来た理由ですが、私が丁度旧制の中学を卒業する前の年、キューバに居った前記の叔父〔母の弟〕が結婚の為帰郷し、私に、卒業したらキューバに行かないかと誘いました。

 その当時、我が家も左前ひだりまえになっており、父からは兄弟が多いから中学へは皆出してやれるがそれ以上は不可能と云はれておりましたので、叔父によればキューバは良い国だそうですので行く事に決めた分です。

 此れを聞いた私の同級生、前記の丸山が、俺も行きたいから叔父さんに頼んでくれとの事で一緒になり叔父の郷里の飯島さんと叔父のキューバの友人小林(百輝)さんの弟明(暎)君も加はり長野県より四名一緒にキューバに来た分です。

 あの当時は日本政府が海外移民を奨励し毎年のように村の小学校の校庭でブラジル移民の現状等をスライドで見せ、移民希望を募った時代でしたので、それに影響された私達だったかも知れません。事実、私達四名が一緒に来た一行三十数名も日本海外協会が募集し(海外興業による第一回キューバ移民だったが、各県毎の募集は海外協会が代行していた)方々ほうぼうの県から集まったキューバ行契約移民の第一号だったのです。

 と云ふのは、私達がキューバに行く事を信濃海外協会の人が知り、学校に訪ねて来、「今度キューバ行移民三名が協会に割当てられた。しあなた達三名に行ってもらへれば募集しなくてすむ。出発日は二月十二日」との事。それでは卒業もせずに行く事になるからと、彼氏が学校当局と話し合い、私と丸山の卒業試験を出発前にしてくれましたが、試験が終って家に居ったのがたったの三日間、すぐ神戸に出なければなりませんでした。ですから、神戸出帆後横浜に寄った時、卒業証書と私が属して居た山岳部と音楽部のメダルを持って級友Sがわざわざ長野からやって来て、船で夕食を皆と一緒に取り一晩一緒に船に寝て帰って行った事を思い出します。

 而し、私がキューバに来たので、ぐ下の弟救治も長野中学を出て直ぐ、その下の弟三郎も屋代やしろ中学を出て直ぐこちらに来ました。

 兄の私がしっかりしておれば三人して何か出来たはずですが、能力も金もない私には何も出来ず、救治は二十八歳、三郎は五十八歳で二人とも結婚もせずに死んでしまいました。前述の丸山も若死にし、飯島さんはその後メキシコに渡り間もなく死亡されたと聞きました。小林明(暎)君は叔父さんの居られたブラジルに行かれましたが若くして亡くなられたと聞きました。

 で、私一人まだ生きのびて居る分ですが、前記の皆の分まで長生きしようとがんばって居る次第です。妻ももうじき七十歳になります。貧乏世帯をやりくりし苦労のしつづけでしたが本当によくやってくれましたし、まだやっております。

 而し、今度生れかわったら家族と別れてこんな遠くには来ないと云って居ります。

 私も同感です。(一九八三年九月十日、記)

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