私は行かなかった

 当時、長野では海外雄飛がずいぶん叫ばれていた。上田中学を卒業した彼は、移民奨励の活動写真を見たり、又、講演会にも行ったらしい。それで、心を動かされ二人の姉と義兄に相談した。姉達は師範学校を出て教師をしていて、義兄は宇都宮高等農林学校の教授をしていた。姉達は黙っていたが、義兄はすぐに賛成してくれ、それで、アメリカに渡ろうと思ったが、入国はもう難しくなっていた(一九一三年カリフォルニアで外国人土地法、一七年移民制限法施行)

 そんな時、樺太の友人から、こっちで教師をしないかという話があり、内地より給料が良いのですぐに出かけた。渡米旅費をつくるためだった。生徒は十五人足らずで、先生兼校長として教えていた。学校の一室に住んでいたが、住民達は皆親切な人ばかりで、風呂が沸いたと云っては呼んでくれるし食事も運んでくれる。しばらくすると近所のロシア人家族から、一緒に住まないかと云われてそこに下宿するようになった。そうして一年が過ぎた頃、義兄からクーバ(キューバ)行きを奨められて東京に戻り、力行会りっこうかいで講習を受け、大平おおひら(慶太郎)さんを知って、その呼寄せでクーバに来た。一九一七年のことだった。

 大平さんはアバナ・ビエハ(オールド・ハバナ)で雑貨店をしていて、日本人だけでなくクーバ人も沢山働いていた。それで、彼もその店員になって働いていたが、田舎にいた日本人から、セントラル(製糖工場)で働くと良い金になると云われて、それを頼って行く事にした。最初はクナグァ(シエゴ・デ・アビラ)だったらしい。新しくセントラルをつくる時で、原野を切開いて大木を切倒したり土を運んだりときつい仕事だった。その後、ハグェヤル(同)のセントラルに仕事を見付けた。砂糖をさらす仕事で、日本人も何人かいたし、他に床屋をしている日本人もいたから苦労はなかった。

セントラル・モンカダ

セントラル・モンカダ:
革命前はセントラル・コンスタンシアと呼ばれ、19世紀にはキューバ最大を誇る製糖工場だった。

 そのうち、支配人から、日本人は真面目によく働くのでセントラルや町のハルディネロ(庭師)として十人ほど集めて欲しいと云われてその監督をすることになった。信州人の彼は負けず嫌いで誠実によく働いた。又、人の世話もした。それで支配人から更に信用を得てホテルの支配人も兼ねるようになった。日本人も何人かいたが、皆専用の宿舎を与えられていた。炊事場の付いた食堂が真中にあって、両脇に部屋がいくつもあった。各部屋にはベッドが二つ宛あり、水洗トイレとバスがあった。此処にいた時、近くで井上留次郎とめじろう、新潟県出身)さんが野菜屋をやっていて、よくお茶やカフェをご馳走になったらしい。天長節には、豚の丸焼き、鶏の煮染めにセルベッサ(ビール)を沢山用意して、クーバ人も呼んで唄う踊るの楽しい一夜、皆、素人とは思えない芸人揃いだった。

 皆、ロテリア(宝くじ)をよく買った。一万ドルを当てて日本へ帰るのが夢だった。夢見が良かったと云っては買い、思わぬ金が入ったからと云っては買った。日本に残して来た妻子や許嫁いいなづけを思うと早く帰りたくて、ロテリアの誘惑には勝てなかった。たまに一弗引当てたという話はよくあったが、幸運をつかんだ人など聞いた事もなかった。

 そのうち郷里から妻を迎えることをすすめて来た。東京で教師をしていた妹の同僚で、既に一年近く手紙をやりとりしていた。それで、一九二三年、日本に帰って結婚し、妻と一緒にクーバに向かった。然し、パナマに入る一週間前に船の中で妻は喀血、そのまま引返し、五年近く闘病生活を続けて他界した。それから一年、希望のないむなしい生活を続けていた彼に郷里の姉がしきりに再婚話をすすめて来た。相手は、まだ女学生だった隣の娘、つまり私である。

 話はまとまり、彼の甥の中学卒業を待ち、連立って一九三〇年の二月二十八日アバナ(ハバナ)に着いた。カーニバルに熱狂する街、何もかも初めて見るものばかりで夢のようだった。大平さんが新婚の門出を祝って赤飯に尾頭付きを用意してくれていた。奥さんは良い方で、彼の結婚を我が子の事のように喜んでくれた。そして、四日後ハグェヤルに向かった。

 シエゴ・デ・アビラで列車を降り、マキナ(自動車)で、見渡す限り砂糖黍畑の中のガタガタ道を二時間程走ると白い煙突が見えて来た。彼に、あそこだと云われて、とんだ田舎に来て仕舞ったものだと思ったが言葉にならなかった。日本人がたくさん迎えに来てくれていた。中でも井上の奥さんキクノ、新潟県出身)が我が娘のように迎えてくれたのが嬉しかった。居間に、応接室、寝室、台所、皆新しかった。しかし、どれも狭くて、田舎の広い日本家に育った私にはわびびしく見えた。板張りの床は歩くとカタカタ音がした。窓から外を眺めると、きび畑に真赤な夕陽が沈む。これがクーバの生活なのかと思うと哀しくなった。

 その年の暮れには長男が生まれた。彼はとても喜んで、仕事の合間にも一寸ちょっと戻って来ては赤ん坊を抱上げた。そうして三年余り平穏な生活が続き次男の出産が迫った頃、セントラルが閉鎖された。日本人はバラバラになり、彼は一人つらかったが、支配人と一緒に新任地のモロン(同)に行った。そこには、日本人では横田勝一かついち、岡山県出身)さんが一人で野菜作りをしていた。やがて次男が生まれ、言葉が出来なかった私はほとんど外に出なかった。しばらく平穏な生活が続き、アメリカから郵送で『日米新聞』を購読し、その歌壇に彼と一緒に俳句を投稿したりした。それが時々入選して賞金をもらったり新聞代がただになったりした。

 そうしているうちに、共同で馬鈴薯ばれいしょ栽培をやらないかと云うクーバ人が現われた。土地と井戸と撒水機があるので資本を出して欲しいと云うのである。それで、井上さんも誘った。広い土地を開墾して畑を作り、井上さんの指導でクーバ人を使って馬鈴薯を植えた。それが当たり、二千ドル近い儲けがあった。次の年も当たり、更に、馬鈴薯の収穫の後に黒豆、サツマイモ、ナンキン等を植えて収入を増やした。常夏のクーバは、年中、作物が育つ。

 そうした頃、彼は私に、一度日本に行って来いと云った。七十を過ぎた私の両親への配慮からだった。それに、長男の教育の問題もあった。それで、子供二人と一緒に長野に帰り、長男を小学校に入れた。クーバでも私が日本語を教えていたから言葉に不自由はなかった。そして、私は次男を連れて方々旅行していたが、そろそろクーバに戻ろうかと準備を始めた時、日支事変(一九三七年、蘆溝橋事件)が起こった。「戦争はどうなるか分からない。親子は一緒にいるべきだ。早くクーバに帰れ」と父が云った。それで二人の子供と、甥の新妻と一緒にクーバに戻った。一九三八年一月十一日だった。その後、日増しに激しくなる戦争の様子がクーバにも伝わってきた。日本人会で慰問袋を集め幾つも日本に送った。そんな或る日、兵士が彼を呼びに来てそのまま帰って来なかった。来るものが来たと思って私は驚かなかった。

 一週間後、彼はふらっと戻って来た。カマグェイで抑留されていたのだ。それから二週間ほどって、ハバナの日本人会の役員達が逮捕された事を新聞で知った。数日後(一九四二年四月二十一日)、彼にも呼び出しが来た。中尉だという兵士が入って来て留置の由を告げ、着替や洗面用具を用意するよう云った。そして、二人の兵士と一人の婦人が入って来て家宅捜索すると云った。婦人を同伴したのは夫が連れて行かれたあと女の私一人になってしまうのを気遣ったのだろう。近所の人が、何事かとのぞきに来たが私は顔色一つ変えなかった。

 その後、新聞は、夫の事をエスピア(スパイ)だとか、軍人だとか色々書き立てた。親しかったクーバ人も寄りつかなくなった。彼は何処どこに連れて行かれたのか分からなかったが、しばらくすると手紙でイスラにいる事を知らせて来た。スペイン語で書かれていた。

 彼が共同経営していたクーバ人からは、いくら待っても売上金が届かなかったが、四ヶ月余り過ぎた頃、勤めていた会社の弁護士セグリー氏と会社の病院長のアリアスさんがやって来て、彼から依頼された金だと云って二千五百ペソを置いて行った。又、支配人の指示だと云って、会社の巡査が、毎朝、牛乳三リットルを届けてくれた。それから数ヶ月後(一九四三年二月二十三日)、今度は十七歳以上の男子の殆どが逮捕され収容された。

収容を報じる新聞:
ハバナのカスティージョ・デル・プリンシペを出る日本人・ドイツ人移民。このあとイスラ・デ・ピノスのプレシディオ(収容所)に送られた。上の右端に肥田野有作の姿が見える。

 女達の苦労が始まった。手紙を書くのはすべてスペイン語で、街を出る時は軍の許可を得る事という通達があった。子供達は私に代って手紙を書いた。アバナでは夫や息子を収容された女達は一軒の家に集まって暮らしていた。家庭を持っていた者なら大抵は当座の生活費には困らなかった。然し、収容は何時まで続くか知れなかったから働きに出た。手っ取り早いのは洗濯婦だった。大きなシーツに汚れ物を入れて四隅を縛ってかついで帰る。それを洗濯すると一・五ペソから二ペソもらえた。他に洋裁をする人、石鹸や化粧品の行商をする人もいた。心ある人は少しでも買ってくれたが、無碍むげに断られるとみじめになって泣き出したくなった。私も洗濯婦をしたが、苦労ばかり多くて大した収入にはならなかった。それで、裁縫をする事にした。クーバに来る前、父に云われて私立の洋裁学校に通っていた。それが役立った。赤ん坊の産着うぶぎを縫ってくれと頼まれ、おむつにも可愛く刺繍したり、靴下を編んだり、小物もつくった。それでも二十ペソにはなった。久し振りの裁縫で馴れなかったが結構楽しい仕事だった。

 そのうち長男の小学校の卒業式が近づいて来た。彼は抜群の成績で、会社の奨学金で上級学校に行けると思っていた。だが、敵国人の子供は資格がない事を知って悲しんだ。自分は立派なキューバ人なのにと泣いた。私は色々話して聞かせたが辛かった。彼が寝た後、私も初めてこの国で泣いた。彼の卒業式が済んだ日、会社の支配人から、彼を二十ペソで事務見習いに採用するという通知が来た。彼は喜んで夜学の中学予備校に入った。そして、仕事と勉強に専念した。成績は上の上だった。

 収容所の夫には時々小包を送った。誕生日や父の日には、長男が時間外で働いて得たお金を送って喜ばせた。しばらく平穏な日々が続いた。そんな或る日、アバナの小川喜一きいち妻ミヨセ)さんから手紙が来た。榎本さとしさんが亡くなったと云うのだ。スペイン語の単語を並べただけのたどたどしい手紙だった。夜、カマ(ベッド)に入ってからも繰り返し読んだ。涙が止まらなかった。収容所からアバナの病院に送られた時にはもう手のほどこしようがなかったらしい。奥さんのきよさんのことを想ってみた。私も、同じように、単語を並べただけの返事を書いた。すると、結構通じたらしく、今度はアバナの人達の様子も知らせてくれた。

 それに勇気を得て今度は夫に手紙を書いてみた。初めてだった。彼はとても喜んで、子供の手紙も嬉しいが妻からの手紙はもっと嬉しいと返事が来た。私が面会に行かなかったのは、罪人のように扱われた惨めな父の姿を子供達に見せたくなかったからだが、そんな気持ちを夫は分かってくれるだろうか、寝ながら色々考えた。

 長男は正式に事務員となり、色んな仕事が出来るようになった。そして、新しい支配人がやって来た。アメリカ人で、その息子が補佐役になった。気さくで明るいクーバ人と違い、この二人は気難しい人だった。息子は長男に好感を持ったらしいが、支配人の方は、日米戦争で息子を二人失ったというので日本人を嫌い、長男を追出しにかかった。然し、シンジケートの力の方が強かった。事務所の皆もこの狭量なアメリカ人を嫌がった。

 そして、敗戦。終生忘れられない日となった。子供達は、私を思ってか、黙っていた。シエゴ・デ・アビラの支那人(中国人)街では爆竹を鳴らし街中を練歩いているという噂も伝わって来た。

 長男は、毎日欠かさず新聞の隅々にまで目を通した。父の様子を知るためだった。翌年、釈放が始まった。独身者が先に、最後の方に彼の名もあった。帰って来た彼は心臓を悪くしたらしく少し顔色が悪かった。

イスラ・デ・ピノスのプレシディオ:
右の四角い建物はドイツ人・イタリア人用の収容棟。日本人は、このさらに右奥の建物に収容された。

 本島の日本人は皆仕事を失った。長男は夫に、あせらずゆっくり静養するよう云ったが、子供の臑齧すねかじりは出来ないと、すぐ仕事探しに歩いた。しばらくすると仕事は見付かったが、遠く離れたセントラル・ベルティエンテス(カマグェイ)の耕地監督だった。クーバ人やハマイカ(ジャマイカ)やアイチ(ハイチ)からの労働者を使う。馬に乗って広い耕地を監督して廻る仕事はきつかった。又、労働者は、支払日が遅い、賃銀が少ないと云っては騒ぐ。身も心もへとへとになり五ヶ月後に彼は帰って来た。そして、今度はモロンの花屋に勤める事になった。

 そんな時、長男が写真屋をやろうと言い出した。夫にも長男にも写真の趣味があり、長男は自分で暗室まで持っていた。それで、部屋を増築して写真屋を始めた。それが、大きなセントラルなのに写真屋がなかったので繁盛した。夫が写真を撮り、私が暗室で現像を担当する、久し振りにやって来た平穏な日々だった。

 次男は中学で野球部に入りキャプテンになった。盗塁の名手で、彼が一塁に出ると球場は割れるような声援に包まれた。家中、野球の話でにぎやかだった。そして、数年が過ぎ、彼が大学の五年になった時、反乱が激しくなり大学が閉鎖になった。長男は課長クラスにまで昇進していたが、時々血圧が高くなり横になる事もあった。そうしながらも、若者が皆そうしたように、彼も又、薬品や食料品を集めて密かに革命軍に送った。それを見た夫は、投獄されないよう注意してやれと云った。

 一九六四年一月、三十三歳で長男はった。子供はまだ三歳と一歳だった。子煩悩だった彼はどんなにか無念だった事だろう。そして丸五年、その後を追うかのように今度は夫が逝った。

 それから十四年、長男の残した二人の子供は立派に成長し、長女は大学を卒業の予定で、今、論文を書いている。次女は高校を出て銀行に勤めている。そして、次男の四人の子供も皆元気でいる。新しいしあわせがやって来たように思う。

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