ギジェの冒険
作 ドーラ・アロンソ
訳 倉部きよたか
その日の午後のギジェは、動物園に入っても足早に進むだけで、いつものように猿の檻の前で遊ぶこともなく、心はどこか別のところにあった。いつもはソフトドリンクも飲むはずなのにそれも忘れて、ライオンの飼育係のヘルマンと話すようすもなかった。
汗びっしょりで顔も真っ赤にして、急ぎ足でフラミンゴの池の脇を通り過ぎ、マンジュアリが泳ぐ噴水をぐるりと周ると、カフェテリアの隣の建物の前で立ち止まった。そして、だれかを待っているのか、ぐるりと辺りを見回した。
ギジェはもうすぐ十二歳になる。痩せ型で肌は浅黒かったが、頭のいい元気な少年だった。何よりも冒険好きで、学校の成績はよかったが、勉強はあまり好きじゃなかった。だからか、明るく気さくな性格で、みんなに親しまれていた。
なかでも、とくに親しくしていたのは、動物や植物好きの人たちで、みんなギジェより年上だったが、ときどきいっしょに出かけたり、だれ臆することもなく、助手のように彼らの手伝いをしていた。
動物園はにぎやかだった。コンゴウインコがけたたましく、ライオンは呻り、鳥たちはさえずる。ギジェはそれに目を奪われ、すぐ先の木陰で、じっと彼を見つめる人影に気づかなかった。背の高いほっそりとした男で、柔らかな目線をギジェに向けている。やがて、彼は鳥類図鑑を手に、それまで座っていたベンチを立ち上がり、笑顔満面、ギジェの前までゆっくりやって来た。
「ギジェ、だれを待ってるんだ、デートかい?」
男はいった。
そんな冗談もギジェにはまったく通じない。なにより、男の話をたのしみにしていた。
「何か、いいニュースでもあるの?」
「そうなんだ。昨日、園長から許可をもらった。何か新しい動物を入れてもいいってね。いよいよ、冒険ができるよ。まあ、座りなさい、ゆっくり話をしよう」
ギジェは目を輝かせて、ベンチに急いだ。男は、落ち着いたもので、頭の上に垂れ下がった小枝から葉を一枚、手折ると読みかけだった本の頁に挟んで閉じた。
「それで、夏休みはいつからなんだい。ローラはあの性格だからね、慎重に話を進めないと。ローラは、何かというと反対するだろ、大の心配性だからね」
「大丈夫だよ、マリオ」
ギジェはきっぱりいった。
「休暇は明日からだし、それに、試験にもいい成績で合格したんだ。すべて順調だからローラも文句はいわないよ」
「そうはいってもね、きみの叔母さんは、きみが海や山が好きなことに、いつも、ぶつぶついってるじゃないか。この前も、『今度、あの子を誘ったら容赦しないから』って、すごい剣幕だったんだ」
そんなマリオの不安など気にも留めず、ギジェは夢中だった。
「そんなことより、今度は何をするのか教えてよ。ローラには、ちゃんと話をするから」
その目は好奇心でいっぱいだった。
マリオは持っていた本の付箋の頁を開いた。きれいなカモメが描かれていた。だれでも一度は見たことがある、灰色と白の海鳥で、嘴が鋭く、白黒のくりっとした丸い目をしている。
マリオはいった。
「きみなら、よく知ってるだろ?」
もちろん、ギジェはうなずいた。
「カモメなんか、いつでも見てるよ」
「そんなことは知ってるさ。しかし、きょう、きみを呼んだのはカモメの話をするためじゃない。もっともっとおもしろい話が……」
といいかけて、マリオは口を閉じた。ギジェの心をたしかめたかったからだ。
ギジェはマリオの目を見つめた。研究熱心な彼が何をいおうとしているのか、それはわからなかったが、魅力でいっぱいなことはたしかだった。
「じれったいな、早く話してよ」
思わず、声を荒げた。
「ねえ、ねえ、どんな話なの?」
マリオがいった。
「ガビオタ・ネグラ(クロアジサシ)をさがしに行くのさ。といっても、どこにでもいるっていう鳥じゃないからな。長い旅になるだろう」
ギジェは興奮のあまり言葉もなく、びっくり眼でマリオを見つめていた。
見たこともない爬虫類や海鳥でいっぱいの島々、ガビオタ・ネグラは、きっとそんな島にいるんだろう……、いろんなけしきが頭の中をぐるぐる回りはじめた。
ギジェは疑問を連射した。
「ガビオタ・ネグラって、きれいなんでしょ! どうやって見つけるの? もちろんいっしょに行くよ、約束する!」
それをマリオが抑えた。
「いいかい、ギジェ、ローラから許可がもらえるかどうか、そんなに簡単なことじゃない。けど、きっと、意義深い旅になると思う。たとえ、見つからなくても、いろんなことを考えたり学んだりできるからね」
ギジェは苛立った。
「じゃあ、どうして許可がもらえないなんていうの」
「今度の旅は、ほんとに大変なんだよ。まず時間がかかるし、泊まるところだってあるかないかわからない。それに、ガビオタ・ネグラがいるところは町や村から遠く離れている。険しい岩場で、ウチワサボテンやウバス・カレタス(野葡萄)が生い茂って、凶暴なトカゲもいっぱいいる。波も荒いし、暑いし、ほんとに危険なところなんだ」
そんな警告もギジェには逆効果で、さらに好奇心を掻き立たせた。もうそこにいて、険しい崖をよじ登ったり、見たこともないいろんな魚が泳ぐ大海原に浸っているような気分になった。
「もっと、詳しく教えてよ」
「もちろん、教えてやるよ。きみは勇敢で冒険好きなのはわかってる。けどね、ローラを説得できるのかい?」
マリオは、半分、諦め気味に小さくいった。
「いいかい、ギジェ。ローラはね、ゴキブリが出ただけでも大声をあげるんだよ。今度の旅のことを詳しく話したらどうなると思う。だめよ!っていうにきまってるじゃないか。どうやら、今度は、わたし一人で出かけるしかないようだな」
ギジェは、ぐっと唇を結んでいる。悲観に負けまいとしていたのだろう、立ち上がると、マリオの腕を取って毅然といった。
「夏休みを、映画を見たり、女の子たちとビーチで泳いだり、そんなことをして過ごしたいんじゃない。マリオといっしょに行きたいんだ。どこに行けば、どんな生き物がいるのか、いろんなところに行って、いろんなものを見てみたいんだ。そうしないで、何がわかるっていうんだ。動物園だって、珍しい生き物が見つかるといいんでしょ」
マリオはうなずいた。
「その通りだよ、ギジェ。わたしもそう思う。最近、設立された科学アカデミーにも、できる限り支援しないといけない。どんな小さな発見でもいいんだ。貝類から昆虫までどんな生き物でも、蒐集、研究の対象になるし、フェリペ・ポエイ博物館の役に立つんだ。そんな取り組みに貢献できるなんて、誇らしいことだよ」
いいながら、自分も興奮してきた。
「そうだな、きみといっしょに行けるといいがなあ……、ただ、あのローラが何というか。彼女の許可なしに連れて行くわけにはいかんだろ」
「それはぼくがなんとかする。それより、いつ出かけるの?」
「遅くても三、四日後には出発したい。園長が急かせるんだよ、彼にも都合があるからな」
ギジェはズボンのポケットに手を突っ込んで、辺りをうろうろしていたが、何やらいい考えでも思いついたのか、ぴゆーっと口を鳴らした。
「帰って、ローラさんに話してみる。ぼくは、ガビオタ・ネグラをさがしに行くんだ、絶対に行くんだから」
ギジェの家はハバナの郊外にあった。質素なつくりで、玄関を入るとまず目に付くのが、ローラと学生服姿のギジェが仲良く並んだ写真だった。
ギジェはそこで生まれ、叔母のローラといっしょに暮らしてきた。生まれて数カ月で両親を失くしている。交通事故だった。
古い家だったが、とても幸せだった。ローラはギジェを心から愛し、ギジェも叔母が大好きで慕っていた。ただ、ギジェはしっかり者で積極的だったが、ローラは臆病で心配性だったから、二人の毎日は、口喧嘩と仲直りの繰り返しばかりだった。
ローラは小太りだったが、ブレスレットやチャームで身を飾るのが好きだった。そして、唯一人の甥を溺愛といっていいほどかわいがっていた。だから、ギジェの部屋が、本や地図はもちろん、乾燥ハーブの束やカタツムリといった植物や生き物で散らかっていても、がまんできたのだった。
といっても、彼女にはサメとマナティーの違いもわからなかった。そんなローラを説得し、マリオといっしょにガビオタ・ネグラをさがしに行くという許可を取らなければいけないのだから大変だった。
帰り道々、どうやって説得するか、歩きながら方法をさぐっていた。
ローラは部屋で縫い物をしていた。入るとギジェは、正面の鏡に映った自分の顔を確認した。そして、ゆっくりローラに近づいて背筋を糺した。
「ローラ、大事な話があるんだけど」
ローラは目を丸くして彼を見上げた。繕っていたシャツには縫い針が刺さったまま……。
「突然、何なの。びっくりさせないでよ。動物園の、あの変わり者のことじゃなかったら何でも聞くわよ」
思わず、ギジェは唾を呑み込んだ。もう後戻りできない、と心を決めた。
「マリオはそんな人じゃない、熱心な研究者だよ。ぼくを冒険に連れて行ってくれるっていうんだ」
それを聞いた途端、ローラは野獣に変身した。裁縫の指貫を外すと宙に放り投げ、ギジェを睨んで、両手を頭の上に、高く掲げて叫んだ。
「そんな話はしないで! いつ飛びかかってきて噛み付くかわからない、変な生き物がうじゃうじゃいるんでしょ。そんなのだめよ、話はもうお終いにして!」
けれど、ギジェはあきらめなかった。
「ちょっと待ってよ、ローラ、そんなに怒らないで! ほんとうはわかってくれてるんでしょ、ぼくはローラのことなら何でも知ってるよ」
思わぬギジェの言葉に、ローラの目は潤んだ。が、やがて部屋の隅に指貫を見つけて手に取ると、静かにいった。
「そんな言葉でごまかさないで」
ギジェは頭をフル回転させた。どういえばローラにわかってもらえるだろう……。けれど、見つからなかった。彼の顔は落胆の色に変わり、何メートルも先まで聞こえたにちがいない、深く長い溜息をついた。
「わかったよ、ローラ、夏休みはおとなしく、ローラのいうようにして過ごすよ。けど、ぼくは後悔すると思うよ、きっと」
ローラは心を締め付けられた。この子にそんな悲しい思いはさせたくはない、といって、この子はときどきとんでもないことをしでかすんだから……。しばらく天を仰ぐようにしていたが、どうやら心を決めたようだった。
「いいわ、ギジェ、ここに座りなさい」
そういって、彼女は続けた。
「あなたの冒険というのを、きちんと説明してちょうだい。どんな危険があるのかどうかも隠さず教えてほしいの」
それに元気を得たギジェは、よろこび勇んで、ガビオタ・ネグラさがしの旅の話を、続けに続けた。
それにローラは満腹した。
「わかった、わかったわよ、ギジェ」
彼女は片手を顔の前で、何度も左右に振ってギジェを制した。
「それで、そのなんとかいう鳥をさがしに、どこへ行くっていうの?」
「リンコン・フランセスだよ」
座っていたロッキングチェアから、ローラは跳び上がった。
「なんだって? 鳥を捕まえるのにフランスまで行くっていうの! とんでもないわよ、何だって、そんな遠いところまで」
ギジェは笑った。
「ちがうよ、ローラ。リンコン・フランセスっていうのはマタンサスだよ、知らないの? バラデロの先の、イカコスっていう岬にあるんだよ」
「……?」
「マリオはそこに小屋を持ってて、あちこち出かけては、いろんな生き物を見つけて、それを標本にして研究してるんだ」
ギジェは得意になつて説明した。ところが、それは逆効果で、ローラを安心させるどころか、かえって怒りを増幅することになってしまった。
手首にはめたブレスレットが、かち、かち、忙しく鳴った。と、また、指貫が宙を舞った。
「なんていう子なの、あなたは!」
怒りはてっぺんに達した。
「何をいってるの! イカコスっていったら、もう、ジャングルみたいなところでしょ。それくらい、わたしだって知ってるわよ。蚊やらブヨやら毒蛇やらトカゲやら、へんてこりんなのがいっぱいいるっていうじゃないの。そんなところに行かせるわけにはいかないわよ!」
そののまま眉毛を釣り上げて、部屋の中を行ったり来たり……。そんな姿にギジェは思わず吹き出したくなったが、いま、それは賢明な策ではない、そう思って、いまのイカコスはどう変わっているか、そんなことから話してみることにした。
「といってもね、ローラ、昔とちがって、いまはずいぶん変わっているらしいよ。半島には高速道路も走っているっていうし、町もにぎやかになって、電気もついて、学校はもちろんいろんなお店もできているらしいし、飛行機まで飛んでるんだから」
そして、それ以上はローラを責めることは止め、こんな絶好の機会だけは失いたくないんだ、と、そのことだけを訴えた。
ギジェは、そっとローラを抱きしめた。
「ローラ、おねがい、行かせてよ」
思わず、ローラは目を潤ませた。
「わかったわ。でも、それなら、マリオときちんと話をしておかないといけないわ。彼に電話して、わたしが待ってるからっていってちょうだい」
一時間もするとマリオがやって来た。その耳元に、ギジェは囁いた。
「心配しないで、すべて順調だよ」
それをマリオが抑えた。
「楽観するんじゃない、ローラは手強いから」
部屋に入ったマリオは、笑顔満面のローラに、やっぱりな、と襟を正した。ローラは、何もかもわからないふりしてマリオに訊ねた。
「マリオさん、今度の冒険というのがこの子の人生にどんなに役に立つのか、説明してもらえません?」
「もちろんです! 何よりも、この国の動植物の生態を勉強する絶好の機会だと考えてください。素晴らしい発見が、きっと、いっぱいあるはずです」
そして、こうも続けた。
「もし、ギジェのことがご心配なら、どうか安心してください。わたしが責任を持って、しっかりと守りますから、まちがいなく彼は元気に……」
と、ローラはさえぎった。
「正直にいいますとね、わたし、ターザンって好きじゃないんです。もし、チータがあの子に噛みついたらどうします?」
マリオは、ぐっとこらえた。
「どうか、そんな大げさなことはいわないでください。アフリカやアマゾンのジャングルに行こうっていうんじゃないんですから。ただの小旅行ですよ。どうか、落ち着いて、心配しないで」
それに、ローラは冷静に、決定打を放った。
「わたし、落ち着いてますわよ。だって、あなたたちといっしょに行こうと思っているんですもの」
スーツケースにハンモック、大きな手籠に網の檻……、荷物を満載したバスは、青い大空の下をバラデロを抜け、半島の南岸、穏やかな海沿いの高速道路を走っている。ギジェは窓から身を乗り出し、ただ、空想に耽っていた。
潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。白い羽の水鳥たちが、迎えるように大空を飛び交っている。これから起こるだろう出来事を思うと、胸の鼓動も大きくなった。
リンコン・フランセスはイカコス岬の北岸だ。水のきれいな遠浅の砂浜が続いているから、波がいろんな貝や生き物を運んでくる。そして、少し離れてマングローブの深い林もあってイカカレスが緑の花をいっぱいに咲かせている。革命後は、その美しい浜から続く松林の中に、インディアンテントを思わせる、尖がり屋根のバンガローがいくつも建てられた。
そんな一つに、三人は、期待と歓びを胸にいっぱいに辿り着いたのだった。
イカコス岬に伸びる新しい高速道路を十七キロほど走ったところで、ギジェとローラ、そしてマリオを乗せた車は、リンコン・フランセスと書かれた標識通りに左折した。
鬱蒼とした海岸沿いの草叢とイカカレスに挟まれた砂地の土手を走っていた。辺りには藻類に覆われた大きな岩があちこちに転がっていて、かつては海の底に沈んでいたことがよくわかる。また、点々と地面に穴が開いて、いくつか洞窟もあった。
やがて車は道路を外れて、小さな門をくぐった。めざす、屋根の尖ったバンガローがあって、すぐ向こうに美しい砂浜と青い海が広がっている。ギジェはすぐにそこまで走って行きたくなった。それをマリオが呼び止め、近くの小屋に誘った。見た目通りの粗末な掘立小屋だったが、それでもマリオには大事な研究室であり、図書館であり、博物館でもあった。
そこに、ローラが入ってきた。
「何なの、ここは! まるで 精神病院じゃない」
と周りを見回すと、
「わけのわからない、へんなものがいっぱいね。檻や瓶やら、薬缶にランタン……、これは何なの、鳥の巣? うわっ、これ、カエルの標本じゃない!」
顔をしかめながら、それでも好奇心が先走るのか、部屋の隅に小さな白い袋を見つけた。口が固そうに紐で縛ってある。
「あの袋、かわいいわね。何が入ってるの?」
と走った脚元に、のそっとトカゲが首を出した。ローラはもちろん、ギジェも小屋を飛び出した。
「こんなとこ、二度と来ないから!」
外で、ローラが叫んだ。
それでも、その日は穏やかに過ぎそうだった。ギジェは荷物を広げるローラを手伝い、自分の下着と水中眼鏡と帽子も取り出した。
わずか数メートル先が砂浜で、穏やかに波が打ち寄せている。遥か彼方、水平線の手前には松林に包まれたカジョ・ピエドラの灯台が小さく見えた。海軍だろう、高速艇が海を切り裂くように白い水飛沫を上げて走っている。
日が暮れて食事をしたあと、二人はマリオの話に耳を傾けた。もちろん、ウミガメの生態についての講義だった。
「……彼らはもう何百万年もの間、この地球に生息している。それが、ちょうどこの時期、砂浜に産卵するためにやって来るんだ。信じられるかね、三百から八百個の卵を産むんだよ。陸生種や淡水生種に比べたら二十倍だよ。けど、いっぺんにそんなにたくさんの卵を持っていたら、母ガメはお腹が重くて動けなくなる。だから、百から二百個を数回に分けて産み落とす。そのためには、二週間ぐらいの間に四、五回、陸に上がって来ないといけないんだね」
ギジェは目を丸くした。
「それ、この辺りでも産むの?」
「そうだよ」
マリオは答えた。
「イカコス岬の砂浜に産卵するんだ。なかでも、アカウミガメは、学名はカレッタ・カレッタっていうんだが、卵が食用になるから、みんな、巣を見つけて獲ってしまうんだ」
ローラは首を傾げた。
「でも、どうやって卵のあるところがわかるのよ。アカウミガメはだれにもいわないでしょ」
マリオは、したり顔に解説した。
「アカウミガメはね、産卵するために浜に上がると、長い平行線の足跡を残すんだよ。重い体を引き摺って歩くからね。そんな習性を知っていれば、だれだって見つけられるのさ。肉はおいしいらしい。それに、魚を捕るとき魚を集めるためにアカウミガメの血を撒くんだね。そんな漁師もいる。血は波に乗って遠くまで運ばれるから、魚はその匂いを追って近づいてくるんだな」
ローラはすかさず返した。
「でも、どれだけ殺されても、アカウミガメは絶滅しないわよ。あんなにたくさん卵を産むんだから」
「そうはいってもね、ローラ、天敵がいっぱいいるんだよ。卵が孵っても、海鳥や魚に食べられてしまうから、生き残れるのは三分の一にもならない。おまけに、人間が巣を荒らして食用にしてしまう」
それでも、ローラは引き下がらない。
「わたしは、あんな年寄り臭いカメの卵なんて、絶対、食べない! だって、硬いに決まってるから」
と、ギジェが口を挟んだ。
「ぼくなら食べるね。おいしいっていうんなら」
そんな二人をマリオは諫めた。
「二人とも、食べることばっかり考えないで。どんな動物だって、人間といっしょだ。虐待してはいけないよ。みんな、この地球にいっしょに暮らしているんだから。さあ、もう遅くなった。あとはまた明日にして、そろそろ休もうか」
そういってマリオは、真っ暗な中を小屋に戻っていった。
ローラはすぐにベッドに飛び込んだ。蚊の集団から逃れるためだった。けれど、ギジェは目が冴えてしまって眠れない。ベッドに入っても、頭の中をマリオの話がぐるぐる廻る。とうとうがまんできずに、そっと部屋を抜けると浜辺に走った。真っ暗な空いっぱいに星がきらきら煌めく。波も静かで穏やかだった。
ギジェは立ち止まると、ゆっくり、大きく深呼吸した。松林の匂いが海のそれと合わさって神秘の囁きに包まれた気分になった。きよらかな夜風が頬を撫で、素足が砂に沈んで、月明かりに足跡を残していく。ケレケテ(夜鷹の一種)のけたたましい声が静かな夜空に響き渡った。浜辺は神秘にそして物憂げに広がっている。ギジェは、周りのすべてが昆虫や魚や鳥や植物など、無数の生命に満たされていることを実感した。それは、夢にまで見た冒険のはじまりだった。
影が水辺に向かって細く伸びていく。つい、うれしくなって辺りを見回すと、足早に逃げるカニの小さな足音も聞こえる。それを見つけてよく見ると、口を大きく開いて、丸い目を尖らせた。
ギジェは砂浜から少し戻り、草叢の中に身を隠してそのときを待った。体を丸めて二時間近く、月明かりに照らされた砂浜から目を離さなかった。
と、数メートルほど先だった。静かだった水面が、ゆら、ゆら、揺れたかと思うと、太くて丸い嘴のようなものが現われた。彼は興奮に身を震わせた。アカウミガメだった。ゆっくり、ゆっくり、警戒の姿勢を崩さず、重い体を引き摺るようにして砂浜に上がってくる。まちがいない、アカウミガメだった。
アカウミガメは、体長約一・五メートル、幅約一メートルに、体重は二百キロを超える。そんな巨体だから、水の中では俊敏に動き回るが、陸に上がると驚くほど動作が鈍くなる。
アカウミガメは、鰭のような足を懸命に使って砂の上を進んだ。そのたびに、平行の足跡を二本、深く残していく。そうして三十歩ほど進んだか、やがて、白い砂の上に黒い塊のように動きを止めた。
と、後ろ足で尾の下あたりに穴を掘りはじめた。掘っては穴の周りに砂を積み上げる。そんなようすをギジェは目を丸くしてじっと見ていた。後ろ足をシャベルのように器用に使って三十センチほど掘り下げただろうか、急に動きを止めてじっとして、両目を、ぱちくり、踏ん張るようにしている。穴の中に卵を産みつけているのだった。
たった十分ほどだったが長く感じた。その間、ギジェは咳をするのもがまんした。カレッタ・カレッタに気づかれたくなかったからだ。もっと近づいて、卵を見て、数えて、そして、触ってみたかった。それをぐっと堪えて時を待った。アカウミガメは、また、後ろ足で穴を隠すようにていねいに覆うと、難儀そうに重い体の向きを変え、のそり、のそり、砂の上を水辺に向かって歩きはじめた。そして、水際に辿り着くと、今度は、あっという間に水の中に身を沈め、朝焼けに星が眠りはじめた蒼い海に消えていった。
夢か現か、ギジェは目をこすってたしかめた。そして、わかった。漫画のどんな冒険話も、このことに比べれば何の価値もないことに。
彼は胸を躍らせ、バンガローに走った。一刻も早くみんなに伝えたかった。けれど、何かが足りない。心の中の隅から隅までぴたりと満たす何かが欠けている。それに気づいたギジェは走りながら大声で叫んだ。
「そうだ、あの卵を見てみよう!」
そのあとを追うようにして朝日が昇り、ばら色の光がやさしく包む。淡い霧の中から世界が眠たげに身を起こす。遠くで雄鶏が一日のはじまりを知らせて鳴いた。
「ローラ、起きて、起きて!」
ローラはまだ夢の中だった。
「何なの? この子は……」
ようやく細く目を開けたが、何が何だかよくわからない。
「浜辺で見たんだよ!」
「何を……」
「卵を産んでいるのを見たんだ! カレッタ・カレッタだ、ほら、マリオがいってただろ、アカウミガメだよ、でっかいやつだ」
それでも、ローラはぴくりともしない。
「何いってんの、悪い夢でも見たんじゃない? わたしもカメレオンに追いかけられる夢を見てたの。この辺は、けったいなのがうようよいるからね、だれだっておかしくなっちゃう」
ギジェは、それ以上相手をするのはあきらめ、マリオのところに走った。
マリオは小屋の前にいた。
「ずいぶん早起きだね、まだ六時だよ」
ギジェは息せき切って、さっき見たことをみんな話した。
「ブラボー、ギジェ!」
マリオが目を丸くした。
「よくやった、よくやった。それで、ローラには話したかい?」
「もちろん、一番に話したよ。けど、全然、信じてくれないんだ。だから、あの卵をもっとよく見てみたいんだ。いっしょにさがしてくれない?」
マリオは急いで小屋戻った。そして、シャベルと、一メートルちょっとの細い棒を持って出てきた。
「ようし、巣の見つけ方を教えてやろう」
二人は浜辺に向かって走った。
と、バンガローの前でローラが待ち構えていた。ぶかぶかの青いパンツに、大きな帽子を被って、サングラスまでかけている。
「ちょっと、お二人さん、わたしを置いていかないでよ」
膨れ顔にいって二人のあとに続いた。ブレスレットが、かち、かち、鳴った。
浜辺には砂の上に、くっきりと二本の平行線が残っていた。それを見たローラは、ぎゃっ、と叫んだ。顔を真っ青にして震えている。
「ゾウが来たんだわ! きっと、どっかに隠れているわよ、すぐに逃げなきゃ」
ギジェが笑った。
「ローラ、キューバにゾウなんかいないよ」
「何を暢気なことをいってるの、この子は。海を泳いできたかもしれないじゃない、きっとそうよ」
そんな二人には目もくれず、マリオは辺りをじっくり見まわしている。そして、次々と砂の中に棒を突き刺しはじめた。刺しては抜き、先っぽを触って、また突き刺す。二人は、わけがわからず見守っているだけ。
「卵のあるところは砂が掘り返されて柔らかくなっているだろう。だから、棒がすうっと入って、中の卵に触れてしんなり湿る、それをたしかめてるのさ」
と棒をすっと引き抜いて、
「ほら、ご覧!」
二人に見せた棒の先は、どろっ、と黄色く濡れていた。
「しまった、卵に刺さってしまったか」
巣を荒らさないよう、マリオは注意深く掘りはじめた。そして、六十センチ近く掘ると丸い穴に鈍い白色のまん丸い卵がいっぱ見つかった。その一つを、マリオは屈んで指さした。
「ほら、ピンポン玉のようだが、殻は皮膚みたいに柔らかい。粘着質の物質で覆われているだろう。これは卵同士をくっつけておくためなんだ」
ローラも走ってしゃがみ込むと、身を乗り出してじっくり眺めた。それからが、彼女しか思いつかない感想だった。
「これがメルカードに並んでいたら最高よね。なんて大きいのかしら。こんなのを産むなんて、母親は鶏の雛ぐらいなら丸ごと食べてしまうんでしょうね。トウモロコシなら一日一袋は食べるかしら?」
「水中の生き物なら何でも食べるよ。魚、カニ、ロブスター、ヒトデ、と、雑食性だから何でも食べる。鳥の嘴のように硬い口だから、簡単に噛み潰せるんだね。おまけに泳ぎが得意だから狩りも簡単なんだ」
マリオはウミガメの生態を話して聞かせたが、ギジェにもそれは無駄だった。
「そんな話はいいから、早く卵を取り出して、スクランブルエッグでも茹で卵でも何でもいいから食べようよ。ローラは料理が上手なんだから!」
マリオは呆れた。
「どうして、そんなことしか考えられんのかね。これは生物学的には大変な発見なんだよ」
恥ずかしくて、ギジェは黙り込んだ。
マリオは続けた。
「昨日、いったじゃないか。この時期は産卵期だから、砂浜は立入禁止になっているんだ。種の減少や絶滅を防ぐためにね」
「でも、マリオ」
ギジェは口籠った。
「マリオがここに来てくれて、掘るのも手伝ってくれたから、つい……」
「それは大間違いだ。わたしが野生生物に危害を加える略奪や虐待に反対していることを、きみもよく知ってるだろ。むかしは、監視したり警告したりしなかったから見逃されてきたが、いまはちがう。国の富を守るためには、みんな責任を負っているんだ」
ギジェは、耳までトマトのように赤く熱くなった。だから、マリオはそれ以上は責めなかった。そして、また、穴の前に屈んで、卵を一つ取り出し掌に乗せた。
「よく見ててごらん」
柔らかい殻を爪で慎重に開くと、まん丸い黄身が現われ、白身はゼリーのようにどろどろしていた。
「アカウミガメの卵白はね、どんなに熱を加えても、透明のままで白くはならないんだ」
ローラは、彼女らしく考えていた。
「かわいそうに、砂の上を歩くだけでも大変だし、卵を孵化させるのに、重い体を何日も横たえておかなきゃならないのね」
「いや、母ガメはもう戻ってこないんだよ、ローラ」
マリオがいった。
「太陽が巣を温めるんだね。そして、四十五日後には子ガメが砂の中から這い出して海に帰っていく。といっても、まだ、うまく泳げないから、しばらくは波に揺られて浮かんでるんだ。その間に、魚や海鳥に半分近くが食べられてしまうんだね」
「そういえば、学校の友だちのお父さんがいってた。子ガメが海に入っていくと、お父さんガメが待ち構えていて食べてしまうんだって」
ギジェがいったのに、マリオは笑った。
「そんなの大嘘だよ。深い海の底で交尾する彼らが、メスがどこに卵を産んだかなんてわかるはずがないだろう。産卵を確認するまでメスを追いかけて、孵化した子ガメが海に入るのをどうして予測できるんだね。それより不思議なことは、孵化したばかりの子ガメを海とは反対の方向に置いてもくるりと海の方に向き直るってことさ。どうして海の方向がわかるのか、もちろん、科学的に証明されているけどね」
「そうはいっても、卵を温めない母ガメなんて、そんなの褒められないわ」
とローラは膨れっ面をした。
「それに、父ガメだって、交尾しっぱなしで子ガメのことなんか何にも考えていない。よちよちと一生懸命に歩いて、お母さんのあとを追っていく、そんな健気な姿を想像してみてよ。けど、ほかのカメたちはもっときちんとしているかもしれないわね」
おかしな話に、思わずマリオは吹き出してしまった。
ウミガメにはいろんな種類がある。体長二メートルに四百キロを超える最大種のオサガメからアオウミガメ、アカウミガメ、そして、甲羅が櫛やら眼鏡やらいろんなものに使われているタイマイまで、ウミガメにはいろんな種類があるが、どれも同じような習性を持っている。
そんなことをマリオは話をしながら、ギジェといっしょに巣を覆い、密猟に荒らされないように砂に残された二本の足跡も均して消した。
朝の陽光は目に眩しくて、海は宝石をちりばめたようにきらきら輝く。その透き通った中に、砂底がゆらゆらと幾重にも揺れて重なる。その美しさに魅かれてギジェは頭から飛び込んだ。潜っては浮かび、また、潜っては浮かび、波の流れに身を委ねた。ゆらゆら揺れるその心地よさに、ギジェは一人、想いに耽った。
ガビオタ・ネグラはどこにいるんだろう、毎日、何をしているんだろう……、
と、岸から声がした。
「ギジェ、早く、早く。フアン・キンコンテが来てくれたんだ」
マリオが大きく手を振った。
軽快な足取りで男がやって来る。それがフアン・キンコンテだった。その姿を見て、ギジェにはすぐにわかった。彼は漁師だった。
中年の痩せ型で、背が高く、厳しい自然にさらされてきたのか肌はインディアンのように赤銅色をしていた。そして、顔は潮風と太陽のせいか皺も深く、腕は筋骨隆々として、頭には椰子の帽子を被っているが、穴だらけの擦り切れ帽で、よれよれの継ぎ接ぎだらけの半袖シャツを着て、これも同様に継ぎ接ぎだらけのズボンを脹脛の辺りまでたくし上げていた。
もちろん、肩には漁網を担いでいたが、ギジェが驚いたのはその足だった。その変わった足の形で知られた人だったからだ。
ローラも好奇心いっぱいで、その男の姿に釘付けになっている。そんな視線に気づいたか、男は大声を上げた。
「もう、マリオがばらしたな、カニ足だって」
男はみんなの前に、その足を隠そうともせず投げ出した。そして、ギジェに向かってこういった。
「よく見るんだ。海の男の足っていうのはこういうものをいうのさ」
たしかに、奇妙な足だった。幅広で日に灼け、裏は革靴の底のように厚くて硬かった。けれど、もっとびっくりしたのは親指だった。内側にカニの爪のように大きく曲がっている。
そんな視線に気づいたか、男は指を開いたり閉じたりして、ギジェを笑わせた。
「この足は、たしかに見てくれは悪い。けど、海に生きるには欠かせない、手と同じくらい貴重なものなんだ」
ローラは興味津々、もうがまんできなかった。
「それって、生まれつきなの、それともシクロン(台風)にでもやられたの?」
男は、悪戯っぽい目でローラを睨んだ。
「話せば長くなる。コーヒーでもご馳走してくれるんなら、続けてもいいが、聞いてくれるかい?」
みんなはバンガローのポーチに集まり、フアン・キンコンテは葉巻に火をつけると、コーヒーを一口飲み、語りはじめた。
「むかし、カジョ・クルス・デル・パドレの近くで釣りをしたことがあってな、ラ・マルタという船に乗っていた。風が船尾から吹いていたから帆を下ろして碇を沈めたんだ。それから、魚を集めるためにエビの殻を餌に釣り糸を垂らした」
フアンはみんなが真剣に聞いているのに満足したか、マリオに目線で合図した。
「半時間ほどだったか、いや、もっとだったな、最初の引きがあった。かなり大きいやつだ。強烈に引っ張られた。操るのに苦労したよ。暴れて暴れて悪魔のようなやつだった。腕が痛くってな、辛抱してると、やっと姿を現わした。サメだった。百キロ以上はあったな。尖った鋭い歯と、洞窟のような大きな口をしていた」
そこでフアンはいったん話を止めた。ローラは怯え顔で身を縮めている。それを横目にフアンは続けた。
「船に引き揚げようとしたら、暴れ狂ってな。その拍子に、釣り糸に足が引っかかって親指に巻き付いてしまったんだ。やつも苦しかったんだろう、逃げながら、船ごとわしをカルデナスの港まで曳いていった。それで、気が付いたら足の指がこうなっていたというわけさ。鋏みたいに酷い格好で、もうまっすぐにできなかった。仕方がない、元に戻すことは諦めて、逆にもう一方の足も同じようにすることにした。それで、また、海に出て、前と同じようにサメを捕まえて同じようにやってみた。すると、今度はわしをバラデロまで曳いて行った。わしはやつに感謝して、放してやったよ。それで両足ともこういう具合になったというわけだ」
マリオとギジェは大笑いし、フアンは、もう一本、葉巻に火をつけた。ただ、どうしたのか、ローラは機嫌が悪い。
「何がおかしいの? さっぱりわからない」
マリオはぐっと笑いを堪えた。
「ローラ、フアンは冗談をいうのが好きなんだ。悪気はないんだよ。いまに、彼の性格がわかって、いい仲間になれると思うよ」
そして、フアンにいった。フアンは何食わぬ顔で葉巻をくゆらせている。
「会えてほんとにうれしいよ、フアン。きみの家に行って頼もうと思っていたところだったんだ。イカコスの断崖や水路や暗礁のことをよく知っている人はきみ以外にいないからね。じつはね、ガビオタ・ネグラをさがしてるんだよ。それで、きみに道案内をしてほしいんだ」
フアンは驚いてマリオの目を見た。長年、海に出ているが、ガビオタ・ネグラなんて見たこともない。フアンは肩を竦めた。
「ガビオタ・ネグラをさがすなんて、ミドリフエダイ釣りと同じで、時間の無駄さ。カモメタといったら灰色、というか、白黒しかいないよ」
「それはそうだ。けど、ガビオタ・ネグラは絶対どこかにいるんだよ。それを見つけないでハバナに戻るつもりはないんだ」
フアンは、椰子の帽子を阿弥陀に被り頭を掻いた。そして、なら、仕方がないな、とばかり、ぼそりといった。
「きみは親友だし、それに恩義もある。だから断れん。恩知らずは餌にもならないからな。ただ、二、三日、待ってくれないか」
「わかった。船の修理でもするのかね?」
フアンはきっぱりいった。
「とんでもない! ラ・ホベン・フリア号はいつでも海に出られる。軽快でいい船なんだ。そうじゃなくてな、カジョス・ブランコス沖にロブスター籠を仕掛けてきたばっかりでな、それを引き上げてからでないといけないんだ。明日、行って、明後日の朝には戻ってくる」
それだけ告げると、また、投網を肩に、松林の中をどこかに消えた。
フアンは、いつものように葉巻を咥え、先を急いだ。行先は決まっているようで、じっと前を見つめている。オオヤマネコのような鋭い目だった。
そして、目当ての浜辺に着くと、砂の上に奇妙な足跡を残し、網を広げながら呟いた。
「イワシだな」
波打ち際から二十メートルほど先だった。海が沸騰しているかのように銀色に輝いている。貪欲な大魚に追われているのだろう、泡立つ波の中から何十尾も、銀色に光る細身をくねらせ波の上を跳びはねていた。
フアンは投網を握った。そして、左腕に掛け、その端を口に咥え、右手でもう一方の端を掴んで投げる用意をすると、そのまま、太ももの真ん中あたりの深さまで波の中を進み、じっと待った。目は魚の群れに釘付けになっていた。と、次の瞬間、全身を翻して網を投げた。網は大きなキノコのように空中に舞いながら、イワシの群れの真上に開いて落ちた。
素早く手元の綱を手繰って引いた。網の中は銀色いっぱいの豊漁だった。それを砂浜に網を広げて揺すり落とした。
ギジェが走ってやって来た。
「やっぱり、ここだったんだ」
さがすのも簡単だった。
「足跡ですぐにわかったよ」
「そうだろうな。この辺りで一目でわかる足跡は、カニか、ダイシャクシギか、アオウミガメか、わしぐらいのもんさ」
それからも、フアンは二、三度、投網を打った。そして、漁を終えるとイワシを集めて袋に詰めた。
「きみは海が好きなんだな。それに、マリオといっしょいるということは動物の勉強もしているということかな」
ギジェはうれしくて、やって来た理由を、じっくり話したくなった。
「だから、あなたの手伝いをしたくってさがしてたんだ」
「じゃあ、訊くが、船酔いはしないのかい?」
フアンはたしかめた。
「ハバナの男たちは、口でいうほど、役に立たないからな」
「しないよ! ぼくは、きっと」
ギジェは答えた。
「そうかい」
フアンは葉巻に火をつけた。
「泳ぎは? 潜り方は知ってるかい」
「もちろんだよ、船も少しは漕げるし、釣りもできるよっ」
「そんな、町の人間がやる釣りなんて、ここじゃ、何の役にも立ちやしない」
フアンは斬って捨てたが、それはやさしさからだった。
「心配するな、ほんとの釣りというのを教えてやるから」
「それじゃ、明日、連れてってくれるの? 何時に出発するの?」
「夜が明ける前だ。バンガローまで迎えに行ってやるよ。ついでにローラにも、ちょっと話をしておきたいからな」
そして、こういって、さよならした。
「わしといっしょに漁に出たいんなら、どんなことにも備えておかないといけないよ。フアン・キンコンテは、風も、波も、どんな凶暴な魚も恐れない。きみはそれに堪えられるかね」
「大丈夫だよ」
ギジェはフアンの手を握った。
「それじゃ、明日、日の出前に出発する。目標はカジョス・ブランコスだ」
マリオはベッドでぐっすり眠り込んでいた。その夜は、新種のトカゲを発見した夢を見ていたらしい、扉を叩く音で目を覚ました。
「だれだ?」
「起きてよ、マリオ、たいへんなの!」
ローラの声だった。
手探りで懐中電灯を取って扉を開けた。ぶかぶかの花柄のローブに、髪を後ろにリボンで結んでいる。
「ギジェが、フアンといっしょに怪物釣りに行くっていうの。おねがいだから、ちょっと来てちょうだい!」
心臓が止まらんばかりの勢いだ。
「あの子、ワニに食べられてしまうわよ」
「海にワニなんていないよ」
マリオはいうのだが、ローラに聞く耳がない。
バンガローに着いたが、蛻の殻だった。何度呼んでも返事がない。ただ、波の音とコオロギの涼しげな鳴き声だけだった。
ローラは椅子に腰を下ろして溜息をついた。
「何なの、あの子は、わたしの許可もなしに行っちゃうなんて」
「心配いらないよ、ローラ」
マリオは慰めた。
「いつまでも、子ども扱いしてちゃだめさ。ギジェは独り歩きしようとしてるんだから。それに、フアンは責任感の強い男だ。ギジェも冒険をしたい年頃なんだ。この辺りはそれにはぴったりのところだし、いい機会だと思うよ」
その頃、ギジェとフアンは、ひんやりと心地いい朝靄の中を歩いていた。空は穏やかで明けの明星が二人の道を明るく照らす。
露に濡れた草がフアンの裸足を濡らすが、彼は道の小石も気にしない。やがて、二人は道を逸れると草の生い茂る小道を抜け、岬の南岸に出た。犬の歯のように鋭く尖った岩が続いている。その上を進むのだが、裸足でもフアンには何ともない。
ギジェが躓いて転びそうになった。それを支えてフアンがいった。
「わしも生まれつきにこんなんじゃないんだ。こんなに皮のような裸足になったのは、そうだな、きっと、貧しさのせいだろうな。ついこの間まで、漁師の暮らしは大変だった。痩せ犬のように生きていたんだ」
「フアンは、ここで生まれたの?」
「そうだよ。親父も祖父さんも、ここで漁師をしていた。みんな、目を開けたそのときからずっと二つのものを見てきたのさ。仕事と飢え、あったのはそれだけさ。けど、海は豊かだった。タイにカジキにブリにハタ……、と何でもあった。いっぱいあった。ただ、それで儲かるのは網元だけで、わしらはいくら海に出ても何も残らなかった」
「いつから働きはじめたの、学校に通っていた頃から?」
フアンは鼻で笑った。
「学校? そんなもの知らなかったさ。プンタ・デ・イカコスでは見たこともなかったな。文字も数字も習ったことなんて一度もない。みんなそうだったさ。物心ついたころから網を担いで、罠を仕掛けるのも見よう見まねで働いた。文字なんて何にも知らないまま大人になったってわけさ」
ギジェは、訊いたことに恥ずかしくなった。それを、フアンは逆に慰めた。
「とはいってもな、わしを馬鹿だとは思わないでくれよ。いまは読み書きもできるようになった。知ってるだろう、識字運動って。きみと同じくらいの少年がやって来て教えてくれたんだ。だから、いまは手紙も書ける」
ギジェは自慢顔でいった。
「ぼくもシエラで識字教師をしていたんだ。それで、政府から奨学金をもらえるようになったんだ」
マリオは笑顔満面、鉄のような大きな手を差し出した。
「そうか、そうか、だから、きみとは気が合ったんだな」
そして、握手をしながらこういった。
「さあ、カジョス・ブランコスへ出発だ。けど、その前に、ちょっとわしの家に寄っていこうか、見せたいものがあるんだ」
と、それ以上はいわず、マリオは先を行った。その頭の中は、海の向こう遥か彼方を漂っているかのようだった。
思わぬ誘いに大喜びで、どんな秘密が待っているのか、あれやこれや、ギジェは思い巡らせたがまとまらなかった。
もちろん、フアンはそんなことに気づくはずもなく、少しの疲れたようすも見せず、荒くれた岩の上を歩き続け、しばらく行くと足を止めた。
「あそこだ」
指さす先に小さな小屋があった。波打ち際からほんの少し離れた岩山の上だ。茅葺き屋根の粗末な小屋だった。
建付けの悪そうな扉だった。それを押し開け、フアンはギジェを手招きした。頭の上に梁から長いワイヤーでランタンが吊るされている。それにフアンが火を点けた。寝室も居間も食堂の区別もない、みんな一つの部屋だった。奥の方に低い調理台と薪ストーブがあって、傍の木箱の上に赤い土瓶が置いてあった。周りの壁には、一面に、釣り道具やべっ甲や、見たこともないいろんなものが飾られていた。
と、フアンは、どこにあったのか、大きなトランクを土間に広げて中を掻き回した。そして、一葉の写真を見つけるとうれしそうに差し出した。
「この世で一番大事なものだ。どうだ、きれいだろ!」
ギジェは、それを手に、目を丸くした。
同じくらいの年頃だった。三つ編み髪の少女が、じっとギジェを見つめている。黒い瞳が輝いていた。
フアンは笑った。
「顔だけじゃなくて、服もよく見てみろよ」
えっ! ギジェはびっくりした。少女が着ていたのは奨学生の制服だった。
ということは、会えるかも……?
ギジェは胸を躍らせた。
「名前は何ていうの? ハバナで何を勉強してるの? どこに住んでるの? たぶんタララビーチのマカレンコ・スクールでしょ?」
ギジェのよろこびようにフアンは大満足だった。
「エストレラというんだ。服飾と裁縫を習ってる。もうすぐ六年生も終わるから、ほかの習い事もはじめるだろうな。勉強熱心な子だよ。何物にも代えられん、わしの宝物さ」
ランタンの灯り照らされた彼の顔は輝いていた。
「この写真を見たり、手紙を読んだりすると、どんなにうれしいか、わかるかい。あの子がここを出ていくなんて、想像もしなかった。網の繕いや炊事を手伝ってくれる姿を見てると、この子も同じ暮らしをするようになるんじゃないかと、胸が苦しかったよ。けど、革命がそれを救ってくれた。ありがたいことさ」
フアンは写真をトランクに戻すと、ギジェの傍に立って肩を抱き締めた。
「ハバナに戻ったらエストレリータに会えるよ」
顔を赤らめるギジェに、フアンはウインクした。
「あの子はイルカみたいに泳ぐし、飛び込みもできるし、網打ちだってだれにも負けない」
そして、窓から身を乗り出して遠くに目をやった。
「もうすぐ日の出だ、急ごう」
フアンは炊事場から小さな水筒を持ってきて、ほかの荷物といっしょに籠に入れ、食器棚からビスケットの缶を取ってギジェに手渡した。
朝靄の小道は、やがて、泥まみれの砂道に変わり、毀れかけた板敷きの粗末な遊歩道がしばらく続いたあと、固い地面の岸辺に出た。足裏に当たるのは軟体動物の化石らしい。少し先に古い桟橋があって、小さなボートを繋いだモーターボートが浮かんでいた。
ギジェが乗り込むと、フアンは舵を取ってエンジンをかけた。あとは蒼い海を進むだけ。めざすはプンタ・デ・イカコス(イカコス岬)、そして、カジョ・リベルタドだ。
淡いバラ色に染まった薄闇の中から、まん丸い太陽が昇りはじめた。青い海原に一本のシルクの道をまっすぐ伸ばす。その上を波を掻き分け二人の船は進んだ。
やがて、小さな港が見えてきて、長い桟橋に船を付けた。桟橋の水に沈んだ柱には貝がびっしりくっついている。
港の先は険しい崖に続いていて、鉱夫と船乗りだけの小さな村ラ・ロマがあった。裸足で日焼けした男たちが行き交う。
フアンはエンジンを切った。
「漁業組合に出航許可を貰わないといけない。そのあと、店でちょっと休んで行こう。もう開いているだろう」
ギジェは桟橋に飛び移り、フアンが投げたロープを柱に結んだ。
漁業組合の倉庫は賑わっていた。海の幸がいっぱいに詰まった木箱が辺りを埋め尽くし、計量の順番を待って漁師が列をつくっている。
はじめてのけしきにギジェは目を丸くした。マリオはそんな一人一人にあいさつを交わしながら歩いて、配船事務所を兼ねた小さな建物の前で足を止めた。
革命軍の若い伍長がにこにこ顔で立っている。背の高い東洋系の青年だった。もちろん、彼は出航を許可するだろう。それを待っている間、ギジェはおもしろいものを見つけて走った。
岸辺にほど近い、荒れ果てた小屋の陰だった。上半身裸の少年がいた。十歳ぐらいだろうか、たぶん漁師の子どもだろう、山積みの葦の束から一本一本、手に取っては、ナイフで樹皮を削っている。彼はすぐにギジェを見つけたが、また、一心に作業を続けた。
ギジェは近づいて、傍にあった木箱に腰を下ろした。魚の匂いがする。
「何をしてるんだい、それで遊ぶの?」
少年は脇目も振らず短くいった。
「罠をつくるんだ、そんなこともわからないのか」
そして、にやりと笑って続けた。
「フアンといっしょにいるというのに、海のことを知らないんだな」
ギジェは狼狽えた。何といえばいいのかわからなくて、もじもじしていると、少年はいった。
「見た目ほど簡単な仕事じゃない。まず、葦原で葦を刈り取る、それを担いでここまで運ぶ、それを削って長さをそろえる、それから罠を編むってわけさ。何もかも大変な仕事だ」
ギジェは、少しでも知っていることを話そうと焦った。
「その、罠っていうのは、あの丸い籠のことだろ」
埠頭の先を指さした。
「あちこちで見たけど、網目がきれいだった」
それにも、少年は振り向きもせず、手も止めない。
「丸いだけじゃない、四角いのもある。ハイチ式ってやつだ。入口はマタデロっていってね、魚は入るのは簡単だけどなかなか出られない。わかるかい? お祖父さんは罠を編むのが得意なんだ。この葦さえあれば最高の罠がつくれる。餌がなくても魚が獲れるんだから」
そこにフアンが戻ってきた。
「ギジェ、出発だ!」
少年にはさよならもしないでフアンのあとをギジェは急いだ。
船が桟橋を離れて沖に出た。港に、大きく手を振る椰子の葉帽の少年の姿があった。
フアンは船尾に立っていた。あのカニの鋏がしっかりと船の針路に向いている。エンジン音は軽やかに規則正しく心地よい。波しぶきが優しく頬を滑る。ラ・ホベン・フリア号は快調だった。
カモメやサギが、道案内でもしているつもりなのか、空高く風に乗って先を行く。それを眩しそうに眺めてフアンは語りはじめた。
「カモメはとても賢い。貝を咥えると、空高く舞い上がって岩の上に貝を落とす。嘴で貝の殻を割れないんだね。大きなカモメも、小さいカモメも同じようにする。けど、ガビオタ・ネグラっていうのは見たこともない。わしが知っているのはシロカモメとコカモメだけだ」
フアンはズボンのポケットからマッチを取り出し葉巻に火を点けた。風でうまく点かないのか、何度も深く吸い込んでは、白く煙を吐いた。
「カワセミのことは知っておいてもいいかもしれんな。あの鳥は、蟻塚に巣をつくって卵を産むんだ。おもしろいのは、蟻塚の住人も彼らを排除しないことだ。蟻たちは、たぶん、こう考えているんだろうな。やつらは他所者だが、子どもの世話をしてほしいというんなら、よろこんでしてやろう、やつらは、ちょっとだけ散歩にでも来てるんだろうってね」
いいながら、フアンは空を眺めた。たのしそうに鳴きながらカモメが飛び交う。その向こうを、シラサギの群れが空高く飛んでいく。さらに向こうには、彼らが遊ぶ潟湖があるにちがいない。
フアンはいった。
「もしもだよ、鳥たちのきれい好き大会が開かれたら、きっと、サギが優勝するだろうね」
ギジェが笑った。
「サギは潟湖の浅瀬で、まるでナイフで刺すように、細長い嘴で魚を獲るよね。けど、それに満腹すると、きれいな水のところに飛んで行って、羽についた泥や魚のぬめぬめを水できれいに洗い流すんだよ」
いいながらフアンは舵を切り、船を沖に向けた。そして、吸いかけの葉巻を海に投げ捨てた。と、カモメが急降下で降りてきて、嘴で拾い上げた。
「カモメはどんだけ食いしん坊か、わかっただろ」
そして、サギの話を続けた。
「洗い落とすといっても、サギはシャワーを知らないからな、羽根を嘴で毟り取って、それを使って汚れを落とすんだよ。羽根をスポンジ代わりに、全身に何度も滑らせて汚れを落とすってわけさ」
そんな話をしていると、向こうから、若い漁師を乗せたボートが近づいてきた。
フアンが大声で呼びかけた。
「どうしたんだ、ヒニグアノ、イワシ獲りに行くのかい?」
「いや、そうじゃない。最近、イワシは豊漁でな。それより、あんたはどこへ行くんだ、沖釣りかい?」
「カジョス・ブランコスに罠を引き揚げに行くのさ。それより、このキャビンボーイを見てみろよ、いい男だろ」
と笑いながらギジェを指さした。ギジェはうれしくて、大きく胸を張った。
ヒニグアノはボートを近づけた。そして、ギジェを上から下まで、じろ、じろ、見回した。
「ほおー、いい助っ人だな。立派に靴まで履いてるじゃないか!」
あいさつしようとしていたギジェは機先を削がれた。その場を早く離れたいと思った。恥ずかしさで耳が熱くなり、言葉を失くした。
フアンはすぐに庇った。
「それがどうしたっていうんだ、人は靴で決まるんじゃない!」
ボートの男を窘めた。
温かい何かが胸に込み上げるのをギジェは感じた。
ヒニグアノのボートが行ってしまうと、ギジェはさっそく靴を脱ぎ、ズボンをふくらはぎの上までたくし上げ、シャツを脱いで船底に投げた。そして、フアンにきっぱりいった。
「フアン、ありがとう。役に立てるよう、がんばるよ」
そんなギジェに、フアンは安心した。と同時に感心もした。この年頃は、ともすれば臆病がちなことをよく知っていた。そこで、ギジェが船底に投げたシャツを拾い上げ、ギジェに手渡してこういった。
「よくわかった。だから、日射病になりたくなかったらシャツを着なさい。日焼けをしたいのなら、これからいつでも十分できる。椰子の葉帽も被っておきなさい」
はい、とギジェは答えて船首に座った。そして、辺りを見回した。ちょっと別人になったようで、大空と太陽と波の音、ただそれだけなのに、このうえなく魅惑の世界に生きているような気がした。たしかに、心配性のローラの枷を解かれ、ハバナの窮屈な家や喧騒から逃れ、自由な世界に生きていた。
ラ・ホベン・フリア号は半島の先端を回り、プンタ・デ・モラスとカジェロの間を横切った。カジェロはカジョ・リベルタドと名前も変わって、きれいな公園の島に姿を変えていた。松林の木陰のベンチに座って本を読む人もいる。革命はこんなに遠く離れた小島にも成果を見せていた。
北の海に入ったからか、急に波も荒くなり、船体が大きく揺れはじめた。波が船首に激しく打ち寄せ、ギジェに水飛沫を浴びせる。顔までびしょ濡れになって飛び上がった。
フアンはそんな荒波も屁とも思わず舵を握っている。彼ほどカジョ・ブバ周辺の海をよく知っている者はいなかった。どんなに腕のいい船乗りでもこの辺りでは座礁してしまう。風によって波が海の中で砂を巻き上げ海底に砂の壁をつくるのだった。その場所が日々変化する。もちろんフアンも若い頃は何度も苦い思いをした。だから、気を緩めず、エンジンを半速にして、舵を握りながら半身を乗り出して水面を見つめている。
カジョ・ブバが右舷に過ぎていった。岸辺が密生したマングローブに覆われている。その周りに危険な砂州が潜んでいるのだ。
コルーアの群れが低空飛行でやって来たかと思うと、青い水面に水飛沫を上げて波間に消える。そして、数メートル先に再び姿を現わすと、嘴に魚を咥えていた。
「見事だね。わしも彼らにはかなわない」
コルーアの群れを指さした。
「魚を咥えていないのを見たことがない。大食いだから、一日に四ポンドも魚を呑み込んでしまう」
ギジェは右手に波立つ海をじっと睨んでいた。カジョ・チャルパ・アルタとカジョ・ロメロが見えてきた。水平線の上には、海から生えているかのようにカジョス・ブランコスの松林が聳え立っている。
ラ・ホベン・フリア号は、透明なガラスの上を滑るかのように波から波へと進む。海底は砂場なら翡翠色、海草場なら深緑に、棚が深いところは藍色に変わっていく。
見惚れるギジェにフアンはいった。
「どうだ、ギジェ、罠を引き揚げる前に、ちょっと沖に出て、いいカジキが釣れるかどうか調べてみないか? ひょっとしたら、二メートルもあるカジキが鳥のように飛ぶのを見られるぞ」
返事を待つ必要はなかった。太陽のように明るくなったギジェの顔を見たフアンはすぐに舵を大きく切って、船首を沖に向けた。
ポン、ポン、ポン…!
エンジンが鳴り響き、魚と風に到来を告げているようだった。後ろには、子犬を連れて歩くように、小さなボートが繋がれている。
「カジキを釣るのは大変だぞ。針に掛かったら冷静な判断が必要だ。あの魚はとても危険なんだ」
船はたっぷり一時間は一直線に進んだ。海の色は濃い青色に変わっていた。海底が一気に傾斜して沈み込んでいる証拠だ。
「この辺りの水深は四十メートルを超える。カジキは百二十メートルの深さまで泳いでいる」
「錨を下ろす?」
ギジェはたしかめた。
「いや、深すぎて届かんよ。エンジンを止めて準備しよう。じっくりカジキの釣り方を教えてやるから」
といって、籠からいろんな道具を取り出すと、一つ一つ並べて使い方を教えた。
「ごらん、これがヤヤという木でつくった棒だね。魚が餌に食いついたときに使うんだ。ヤヤはゴムのように曲がるから折れないんだ。どう使うかはあとでわかるだろう」
フアンは、その細長い棒を脇にやり、次に、透明な緑色のナイロン糸を二本取り出した。木製のリールに巻いてあって、先端に釣り針と丸い鉛の錘を付ける。解けないよう特殊な結び方をする。うまく結ばないと流されたり、釣り針が海面に浮いてしまう。
そんな最初の準備作業を終えると、缶詰を開けてピクアという魚の肉を二枚取り出し、釣り針に巻き付け、さらにその上に釣り針をいくつかイヤリングのように付け足した。
「シロカジキは、サメのように何にでも喰いつくわけじゃない」
フアンはそういって、イワシを数匹、イヤリングの針先に刺した。
「ハバナでは、これをラ・プンタっていうらしいが、この辺りじゃギンダンテと呼んでいる。水中で動くと生きているように見えるんだな。だから、カジキが食いつくってわけさ」
「カジキが食いついたかどうか、どうしてわかるの?」
「さっきの棒が教えてくれるのさ、糸の引っ張りがわかるんだよ」
「カジキって、闘魚なの?」
ギジェの質問は尽きない。
「悪魔だよ」
フアンはきっぱりいった。
「やつは、往生際が悪いんだな。激しく抵抗する。だから、気をつけないといけない。その瞬間に、慌てたり、油断したりするとあの世行きだ。重さ五十キロの巨体が、長さ五十センチもある槍で飛びかかってきたらどうなるか、想像するだけでも恐ろしい。あっという間に串刺しにされてしまう」
ギジェは背筋が寒くなった。けれど、それを悟られまいと両足を踏ん張った。その一瞬だった。エストレリータの顔が頭の中を過った。彼女がすぐ傍にいて、きれいな大きい黒い目で見つめられているような気がした。だから、彼女に笑われてはいけないと思った。
気がつくと、フアンが、竿やロールや餌を脇に置いたまま、何かをさがしている。たぶんポリーニョだろう。釣り上げて船に引き上げるときにカジキの頭を叩く長い棒切れだ。
フアンは立ち上がって仕掛けを海に投げた。カジキは流れに乗って餌を追うので、針が海底につかないようにしないといけない。さらにもう一つを投げ、二本の竿を船体から突き出して舷に結んで固定した。
「こうすれば、カジキが喰い付くと糸を引っ張るから、竿が大きく曲がるのが人目でわかるんだ。それまで、キューバの海で獲れるカジキの種類について教えてやるよ」
フアンは葉巻を咥えたまま、講義をはじめた。
「この種類の魚が海賊って呼ばれてることは知ってるだろ。どうしてかわからなかったが、マリオに訊くと、海賊は、むかし、海上を行くものなら何でも、自分と同じ旗を掲げていないと襲いかかっていたからだと教えてくれた」
「それとカジキはどういう関係があるの?」
「カジキも、目の前を通るものは何でも襲うんだ。自分よりよっぽど大きなものしか逃さない」
そして、ほかのいろんな種類のことも話して聞かせた。学名は、カジキはイスティオフォルス・アメリカス、シロカジキはマカイラ・アルビダ、クロカジキはマカイラ・アンプラということや、エンペラーカジキはクシフィアス・グラディウスというらしかった。
「こんな変な名前を覚えるのにどれだけ苦労したか、わかるかい」
フアンは笑った。
「マリオはほかにもいろんな学名をすらすらいったが、わしには右から左、馬の耳に念仏さ。マリオはいっしょに勉強しようといってくれたが断った。さっきの四つでもう満腹した。漁師には学名なんてどうでもいい。わしには、ハタはハタ、アグアジはアグアジ、それだけだよ」
「で、きょうはどの種類のカジキを釣るの?」
ギジェが訊くと、フアンが笑った。
「餌に喰い付くものしか、それはわからないよ。けど、カステロが釣れるといいな。やつらは三百リブラもの海域を泳いでいるから肉質がとてもいい。体長四メートルもあるカステロを見たことがあるが、きょうはそんなやつは釣れないほうがいい。引き上げるのが大変だ。ギジェはまだプロじゃないからな」
「そんなことないよ。ぼくだっていつかはプロになれるんだから」
フアンは首を振った。
「いいや、危険だから、まだ無理だ。それに、そんなことをローラに知られたら何といわれるか。彼女は気絶してしまうよ」
そのあともカジキ釣りと、そのいろんな釣り方について話が続いた。竿とリールを使うもの、釣り糸だけで釣るもの、また、定置釣りや流し釣りの話もあった。
「むかしは、小さな船で一人で海に出た。道具も使わず、ただ手だけで引き上げた。孤独と危険の漁だった。けど、いまはずいぶん変わった。多くの仲間といっしょに漁に出て、船には無線機もついている。だから、サイクロンや嵐も避けられる。規模も大きくなって、大型の機械も使われるようになった。トロールや延縄っていう、すごいのも登場している。若者も海洋学校で勉強しているから何でも知っている。もう、漁師が一人で素手で漁をする時代じゃない。十年も経てばわしのような漁師もいなくなるだろう」
重い声が風に乗って波間を駆けた。海で働く者たちに、迫り来る未来への警告を果てしなく遠くまで届けようとするかのようだった。
勇敢な男たちは、日々命を危険にさらし、貧困と無知の中で生きてきた。フアンのような漁師や、あの港にいた懸命な少年たちがどうなっていくのか、思うとギジェも胸が熱くなり、怒りに震えた。
煌めく空の下、青い海にぽつんと浮かぶ船、二人は話に夢中で、ヤヤの棒の一つが大きくしなるのに気づかなかった。
「ギジェ、かかったぞ!」
ようやく、フアンが気づいた。
ギジェは不思議な気分になった。いま、ここにいなければ、あの恐ろしい獲物が水の中から現われて宙を横切る姿を見なくてすむのに、と思ったが、すぐにそれを打ち消した。勇気を証明したかったからだ。
唇がちょっと震えた。それを歯を食いしばってフアンの傍に走ろうとした。
「動くな!」
フアンが叫んだ。
ギジェは、じっと釘付けになった。
フアンは素早くヤヤの棒を抜くと、両手で糸を掴んだ。そして、デッキに足を踏ん張り、糸を握った鉄のような拳を、足元から一気に頭上に持ち上げ、獲物の口にフックを突き刺した。その瞬間、獲物との激闘がはじまった。
フアンの日焼けした皮膚に鋼鉄のような筋肉が浮かび上がる。容赦なく糸を手繰った。糸は棒のように張り詰めた。フアンのあの蟹の足は船に釘付けされたように踏ん張っている。腕には汗が玉のように流れている。それを堪えてギジェに叫んだ。
「気をつけろ! 糸の動きを見失うな」
フアンは糸の先を鋭い視線で追いかけ、獲物の位置を推測した。たぶん、獲物はもう目が見えなくなっている、だから、死に物狂いで襲いかかって来るだろう。
ギジェは口をぎゅっと結んだまま、身動き一つできない。
と、二十メートルほど先に、海面が大きく渦を巻いて獲物が現われた。
「あそこだ!」
フアンが叫んだ。
「準備しろ!」
大きな渦の中から獲物が飛び出した。シロカジキだった。長い剣が宙に舞う。巨体は完璧なほどの放物線を描いて、また、海に沈んでいった。
ギジェは口もきけずにただ震えていた。けれど、心だけは、フアンとなら何でもできる覚悟があった。
フアンは糸を手繰っては巻き上げながら、懸命に目で獲物のあとを追っていた。
「また来たぞ、気をつけろ!」
フアンの叫びといっしょに獲物が近づいてきた。青い海の中に鋼鉄のような巨体がうねっている。と、水面から身を乗り出し、陽光に身を輝かせながら、一直線に空を切り、暴れ馬のように真っ向から突進してきた。
「気をつけて、フアン!」
ギジェが叫んだ。
獲物は、糸の張力に堪え切れず、砲弾のような勢いでフアンに向かってきた。その瞬間だった。ギジェは獲物とフアンの間に走って身を投げた。
ギジェの体は宙を舞い、黒い巨体にぶつかって跳びはねた。
なにが起こったのか、フアンにはわからなかった。だが、すぐに理解し、舷から身を乗り出して海をさがした。
と、うしろの補助ボートの脇に、何かが浮かんで頭を出した。ギジェだった。
「大丈夫だよ、ぼくは泳ぎが得意なんだ!」
フアンはボートの綱を手繰り寄せ、ギジェを引き上げ、力いっぱい抱き締めた。
「助かったよ、ギジェ。きみがいなかったら、まちがいなく、胸を突き刺されていただろう」
ギジェは胸いっぱいに、心地よい温かい何かが湧き上がるのを感じた。
「それにしても、なんて大きなやつなんだ!」
フアンは、暴れるカジキに近づくと、その頭を殴り続けた。
シロカジキあるいはカジキマグロとして知られるこの魚は四十五キロもあった。滑らかで光沢のあるその膚はまるで鏡のようだ。フアンは身を乗り出し、三十センチもある突き出た硬い剣を何度も撫でた。そして、先端を掴むと、根元からナイフで切り落とし、ギジェに差し出した。
「わしを救ってくれた記念品だ」
フアンは、ラ・ホベン・フリア号をカジョス・ブランコスの白い浜辺に向け、大きく舵を切った。
一時間ちょっとで、罠を仕掛けた浅瀬に着いた。エンジンを減速しながらフアンがいった。
「ロブスターやカニを食べたら思い出してくれ。こんなに沖まで出て漁をしてるんだ。猫に一口もやりたくなくなるぞ」
フアンは長いロープに繋いだ留め金を海に投げ、船を左右に蛇行させながら、行っては来たりを繰り返した。辺り一面に仕掛けていた罠を引っ掛けるためだった。
やがて、留め金がマドリナ(ゴッドマザー)と呼んでいる太いロープを引っ掛けた。そこからいくつもレイナル(クィーン)という細いロープが分岐してその端に罠の籠を結んである。
フアンは、まずはマドリナを手繰り寄せ、レイナルを引っ張って罠を一つずつ船に引き上げ、蓋を取って中身を水槽に投げ入れた。何十匹ものロブスターに、赤や茶色のカニ、それに見たこともない小魚もいっぱいだった。
そんな戦利品にマリオは満足したか、船尾に繋いだ補助ボートに空になった罠を投げると、笑顔でいった。。
「さあ、昼食にしよう!」
魚のフライとクラッカーに、そして水。ただ、それだけだったが、二人はたのしく分け合った。
そうして二人は追い風に乗り、カジョス・ブランコスをあとにした。
ローラは食事中だった。ふと、浜の方に目を遣るとギジェだった。バンガローに向かって駆けてくる。思わず、フォークをテーブルに投げ、外に走った。
「ああ、私の可愛い子!」
ぎゅっと抱きしめ、キスと涙を浴びせた。
「もう会えないと思ってたわ。どこも痛くない? 怪我はしていない?」
ギジェの周りを回りながらあちこち体をたしかめた。
「あなたがフアンと行ってから、ずっと、ずっと、心配で、心配で、海の怪物に食べられているんじゃないかってね。どうやって助かったの、教えてちょうだい」
ギジェは大きなシロカジキを釣り上げたことに密かに満足していた。けれど、まだ、その話をしたくなかった。マリオに、一番先に聞いてもらいたかったからだ。
そんなギジェの心を察したかのようにマリオがやって来た。
「どうしたんだ、ギジェ、ちょっと太ったんじゃないか? それに、背も高くなった気がする。カジョス・ブランコスはどうだった、フアンとはうまくいったかい?」
ギジェは話しはじめた。ローラとマリオは耳を傾けた。ところが、フアンの危険を救うために身を投げたことを話しはじめると、ローラは眉をひそめ、フアンからもらったカジキの剣を見せた途端、飛び上がって頭を抱えた。
「なんてことするの! そんな自慢気に話すことじゃないでしょ。もう冒険なんていや、ハバナに帰りましょ!」
「けど、ローラ、何も危ないことはなかったよ。ほんとにたのしかった」
「え、え、そうでしょね。でも、もう少しでサメに食べられるところだったんでしょ」
マリオが割って入った。
「ギジェはね、ウミカモメさがしに夢中なんだよ。彼を落胆させないで、勇敢になれるよう応援してやってくださいよ。将来、積極性も意志もない臆病な大人になる方がいいんですか?」
ローラは黙ったまま唇を噛み締め、キッチンに走った。途端、鍋やらフライパンやらが、がら、がら、大きな音を立てた。二人は肩をすくめて笑った。
しばらくすると、ローラが戻ってきた。
「いいわ、ギジェをウミカモメさがしに連れて行ってやって。石頭女なんていわれたくないから。もう、わたしは自分のことだけ考える」
その夜、ローラはベッドの中でも聞き耳を立てていた。マリオとフアン、そしてギジェの三人が夜通し声を潜めて次の航海のことを話し合っていたからだった。フアンは、糊の利いた白いシャツを着て、髭もきれいに剃っていたので別人に見えた。
「ロス・カベソス・デル・カナルの岩場を調べて回るのがいいんじゃないかな。あそこにはいつも海鳥がたくさんいる」
フアンがいうと、マリオがうなずいた。
「そうだな、海のことは、きみが一番詳しいからな」
フアンは肩をすくめた。
「出発は何時なの?」
ギジェはもう興奮している。
「もちろん、夜明け前だ」
フアンがいうと、マリオがまとめた。
「じゃあ、五時だ、桟橋で会おう」
フアンは、咥えていた葉巻を窓から投げた。そして、隣の部屋でじっと聞き耳を立てているだろうローラにいった。
「安心しろ、ローラ、今度はサメはいないからな。たとえいても、わしの許可がないと襲ってこないさ」
それから数時間、ギジェはマリオのあとを桟橋に向かう小道を歩いていた。薄闇空に、まだ星が瞬いている。
と、突然、マリオの足が止まった。
「動くんじゃない、ギジェ!」
浜辺への茂みを抜ける途中だった。
「何か、いるの?」
ギジェは身をすくめた。
「茂みが揺れている。ほら、あそこだ、動いてるだろ」
と指さした。
「どうするかな、これ以外に武器はない」
マリオはナイフを握ると、動く茂みに飛び込んだ。
何かがしゃがみ込んでいた。
「手を上げろ!」
と叫んだマリオが呆れ返った。
「ローラじゃないか。何をしてるんだ、こんなところで」
薄闇の中にローラがうずくまっている。よく見ると、鍋、釜にハンモックから、ライフジャケットやカメラまで抱えて、頭には大きなビーチハットを被っていた。
「どこに行こうと、わたしの自由よ。わたしもウミカモメをさがすんだから」
「それは無理だよ、船酔いするぞ」
マリオは諌めた。
「心配しないで、酔い止めの薬を持ってるから」
とローラも負けていない。
「でも、泳げないでしょ」
ギジェがいった。
すると、ローラは救命胴衣を取り出した。
「これがあるから大丈夫」
準備よく、もうぱんぱんに膨らませてあった。
それを二人でなだめすかし、泣く泣くローラはバンガローに戻っていった。
桟橋ではフアンが痺れを切らせていた。
「何をやってたんだい、お前さんたちは、もう日が昇っちまったぞ」
こうして三人はロス・カベソスを目指し、一時間ばかりで大海原の小さな砂島に近づいた。マリオがいうには、漁師たちがロス・カベソスと呼んでいるのは、じつは人工の島だった。港への水路をつくるために浚渫船が掘削した砂を積み上げてできたのだった。そこに、鳥や波がいろんな植物の種を運び、それが島を覆うようになった。だから、水深の浅いところにはもともとの岩礁も残っている、と、そんなことをマリオは教えた。
もちろん、フアンも海に詳しい。
「ロス・カベソスには海藻と貝殻しかなくて、だから、鳥しか棲んでいないんだ」
あまり島に近づきすぎると、海底の岩にぶつかり座礁する恐れがある。フアンはそれを警戒してずっと手前に錨を下ろし、三人は海に飛び込んだ。そして、腰まで浸かりながら島をめざした。浜辺にはあたり一面、いろんな種類と大きさの貝殻が絨毯のように敷き詰められている。まるで夢のようなけしきだった。
よく見ると、真珠貝が煌めいていた。波は穏やかで、砂浜に寄せては引いて、きれいな波紋を残していく。一面の貝殻は、その砂や波に擦り削られ、ピンクやパールやバイオレットなど万華鏡のようにきらきら輝いている。そして、水辺にはヒトデやウニや奇妙な海綿の姿もあって、白いサンゴは、水晶をちりばめた小枝のようだった。
思わずギジェは目を擦った。歩くと貝殻を潰してしまう、と怖くなって立ち止まった。
「心配しなくていいよ」
マリオがいった。
「どの種にも何百万もの個体があるんだ。この国は、いろんな軟体動物の種の数では世界第三位だからね」
少年は夢中になった。
「じゃあ、早く海に潜って標本を集めたいな」
マリオは続けた。
「深いところは軟体動物はほとんど生息していない。だから、時間の無駄だな。たとえいても、数は少ないし、あまりきれいでもない。浅瀬にいる種に比べると、鮮やでもないから、がっかりするだけだよ」
それに、フアンも加わった。
「わしが一番好きなのは牡蠣の殻だな。といっても、中が空っぽでないやつだよ。それに塩とレモンがあれば最高だ」
と、すぐ先を、海鳥の群れが騒ぎながら飛び立った。その中空を黒い影が横切った。三人はほぼ同時に叫んだ。
「ガビオタ・ネグラ!」
しかし、興奮はすぐに醒めてしまった。小さな黒い影、それはカモメだった。
フアンは肩をすくめた。
「あれはカモメだ、ガビオタ・ネグラじゃない」
マリオが励ました。
「行こう、きっと見つかるさ」
ギジェは、ポケットと帽子を貝殻でいっぱいにして二人のあとを追った。彼は海の宝物を集めようと躍起になっていたのだ。
それからも三人は次々とカモメの群れに出会った。けれど、それ以上のことはなかった。さがしてもさがしても徒労だった。だが、マリオは諦めなかった。
「きっと出会えるさ、次をたのしみにしよう」
高い太陽が、大海原にぽつんと浮かぶ木の葉のようなラ・ホベン・フリア号を照らしていた。老練な船長の手は、標識ブイに従い、危険な暗礁を迂回し水路を巧みに進んだ。そんな彼らを嘲笑うかのように、カモメが頭の上を飛び交い遊ぶ。
「諦めたり、落胆したりする者は科学の役には立たないんだ」
マリオは繰り返した。
「そうだな。けど、その前に、目当ての鳥はどんな格好をしているのか教えてくれないかな。足跡で見つけられるかもしれんから」
フアンがいった。
「ガビオタ・ネグラの嘴や脚は真っ黒で、羽毛全体は濃い色をしているが、下の方は明るい色をしている。遠くから見ると黒く見えても、実際は灰色をしていて、尾は二股に分かれている。学名はステルナ・フスカタ・フスカタっていうんだがね」
「そんな鳥がほんとにいるのかい?」
フアンが首を傾げたのに、マリオは断言した。
「絶対、見つかるよ。ガビオタ・ネグラは、フロリダやバハマやアンティル諸島の海岸で繁殖するだが、いまはその営巣期なんだ。だから、見つけるまで旅を続けるつもりだ」
「どこまで行くんだ? もう、このあたりの島は見尽くしただろ」
「カジョ・モノはどうだろ? あそこもカモメはたくさんいる」
フアンは頑固な科学者の要望に応え、水平線に突き出た黒い一点を目指して大きく舵を切った。
「ほら、あそこ」
フアンは指さした。
「白い雲が湧いている。海が荒れるかもしれない」
「雲なんか気にするな。とにかくカジョ・モノへやってくれ。ギジェ、きみはどう思う? 諦めたほうがいいのか」
正直、ガビオタ・ネグラはいないんじゃないか、ギジェは思いはじめていた。それを悟られるのが嫌だったから、目を逸らして小さくいった。
「どこまでも、ぼくはいっしょに行くよ」
聞いてマリオは勢いづいた。
「どうだい、フアン?」
フアンは黙ったまま、舵を握った。船首はゆっくり旋回し水平線に向かった。
船は激しい波をかき分けながら、紺碧の海を進む。
「カジョ・モノはこの辺りでは最悪の島だ」
フアンはいった。
「イソガニやアカガニやウチワサボテン、それに大きなアリ塚がいっぱいある。おまけに、周りは絶壁ばかりで船を寄せられない」
遠くの黒い一点を見据えたまま、フアンは続けた。
「水だって一滴もないんだ。どこもかしこも尖った岩だらけで、躓きでもしたら海まで真っ逆さまで、その海には人喰い鮫がわんさか待ち受けているってわけさ」
二人はそのまま黙ってしまった。
それでも、ラ・ホベン・フリア号は進み続けた。
そうして数時間、巨大な奇岩の塊が、難攻不落の砦のように姿を現わした。頂上は、青々としたウバス・カレタスとウチワサボテンで緑に覆われている。あとはすべて、鋭く尖った岩場ばかりだった。
フアンが錨を投げた。三人は網や籠を積んだ補助ボートに乗り移り、フアンがゆっくりオールを漕ぎはじめた。
浅瀬が広がる穏やかな水面を進んだ。あちこちに岩礁が海底から突き出している。そして、小さな入り江に入ったところで錨を下ろし、岩だらけの岸に飛び移った。
ギジェが小型放水砲を手に先に立った。それに、マリオとフアンが網と籠を担いで続いた。ギジェは息を切らしながら急斜面を登っていく。そして、頂上に辿り着いたところで大声で叫んだ。
「すごいよ、これは!」
眼の前の光景が信じられず、興奮で喉がからからになった。
島全体がカモメで覆われていた。何十万といるだろう、足の踏み場もない。それを踏み潰さないよう注意しながら進もうとしたそのときだった。フアンが叫んだ。
「ギジェ!」
岩から岩へ響き渡り、鳥たちを驚かせた。
カモメはいっせいに飛び立った。げ、げ、げ、げ、げっー、甲高い鳴き声と羽ばたきの轟音にギジェは立ち竦んだ。カモメは渦巻くように大空を旋回しては、急降下してギジェを威嚇し、鋭く鳴いては、また空高く舞い上がる。
そこにフアンが走ってきた。
「どうしたんだ、怖いのか?」
笑いながら大手を広げてカモメを追い払った。
「見ろ、こんなにいっぱいいるというのに、めざすやつは一羽もいない」
マリオは、一人、カモメが大空に舞うのを眺めてよろこびに浸っていた。
「すごい数だな、こんなにいっせいに飛び立つなんて、はじめて見たよ」
カモメたちは、そうしてしばらく大空を飛び回っていたが、やがて、少し離れて南側の砂地に、何か大切なものを守るかのように降り立った。
「どうしてか、わかるかい」
マリオがいった。
「雛を育てているんだ。日中は太陽の光が強くて雛が弱ってしまうから、長く巣を離れたくないんだよ」
周りの砂地や岩場に溶け込んでいるのでわからなかったが、よく見ると、黄色い綿毛に黒い斑点のある雛鳥がいっぱいいて、闖入者たちから守ろうと、岩の間をぎこちない足取りで走り回っていた。
その一羽を、ギジェは手に取りやさしく撫でた。雛は逃げたくて身を捩って鳴いている。
「放してやりなさい」
マリオはいった。
「それより、少しでも早く、ガビオタ・ネグラをさがしに行こう。フアンは、もう一度、カモメを追い払って、ガビオタ・ネグラが混ざっていないか調べてくれないかな。わたしは南側でやってみる」
「ぼくは何をすればいいの?」
ギジェが訊いた。
「そうだな、もし勇気があるんなら、あの一番高いところに登って、茂みの枝に巣がないか調べてくれないか。前にいっただろ、こっちのカモメは地面に卵を産んでいる。けど、ガビオタ・ネグラは茂みに巣をつくるんだ。見つけたら大声で呼んでくれ」
フアンは二人を促した。
「まあ、話はそれくらいにして、霞網を張ろう。ひょっとしたら、あのカモメの中にガビオタ・ネグラが混ざっているかもしれない」
マリオの指示で、三人は霞網を組み立て長いポールを使って高く張った。そして、三人は、それぞれの持ち場に出発した。逞しいフアンは岬の突端に、マリオは南に向かい、ギジェは決意も新たに崖の上の、灌木やウチワサボテンが生い茂る頂上をめざした。
あまりの緊張に体中の筋肉が収縮する。足元の岩は脆くて崩れそうで、体を支えるために頭の上の岩に手をかけようとすると、手が擦り切れ血が滲んだ。
眼下にはカモメが賑やかに飛び回り、そのはるか下には荒波が轟音を立てて打ち寄せる。少年の額から汗が流れ落ち、太陽が顔を焦がした。
もう限界だと諦めかけたとき、ようやく頂上に辿り着いた。けれど、その先には、容赦ない荊の茂みが続いていた。一歩、足を進めるたびに鋭く棘が刺さって激痛が走る。それを、歯を食いしばり、一歩、また一歩、と進んだ。
「ウバス・カレタスの木陰があるはずだ」
ギジェは心の中で繰り返した。
そして、最後の一歩を踏み出し、荊の茂みを抜けた。一息ついて足元を見下ろすと、おもちゃのような人影が二つ、カジョ・モノの切り立った崖の端に小さく動いていた。
目の前には深い茂みが続いて人の侵入を拒んでいる。ギジェは、息を切らしながら手前のウバス・カレタスの木陰に入り、岩の上に腰を下ろした。
汗は、顔はもちろん、体中を伝い、シャツはべっとり肌に貼り付いていた。なのに、腕は日射に灼かれて焦げるようで、喉の渇きがギジェを苦しめた。それでも諦めなかった。
少し休んだあと、茂みに足を踏み入れた。べっとりと湿気が全身を包み込む。足元は木々や木の葉が積もり積もって腐葉土になり厚い絨毯のようにぶかぶかで、その中から、あちこちに小さな突起が蟻塚のように立ち上がっている。
「何なんだ、ここは!」
声にならず吐き捨てた。そして、慎重に周りを見回しながら先を急いだ。そのときだった。頭の上の枝が小刻みに震えた。と思ったら、何かが降ってきた。虫の雨だった。あたり構わず、彼の髪やら腕やら首筋に降り注いだ。
と、次の瞬間、火箸をあてられたような痛みが走った。さらに、足元からも襲ってきた。ヒアリだった。
そのあとは、恐ろしいほどの静寂だった。遠くに断崖を砕く波の音がかすかに聞こえる。少し進んで立ち止まり、辺りを見回した。茂みのどこかで、何かが蠢く気配がしたからだ。見えないだけに不気味だった。
「トラッ、ルルルルル……」
ギジェは声を上げて威嚇した。
「だれだ!」
すると、
「………」
静まり返った。
足の震えが少しずつ腰から上に伝わってくる。
と、また、
「トラッ、ルルルルル…」
ギジェは身構えた。心臓が高鳴る。の目を見開いて、上下、左右、そして後ろにもやってみるが何も起こらない。
あの剣を持ってくるんだった……、声を殺して呟いた。
不思議なことに、奇妙な音はしばらく止んだ。その隙に、ギジェは蔦を掻き分け前に進んだ。変わらず、しんと不気味な静寂が続いている。
やつはどこに行った……?
ゆっくり振り返り、また、後ろを見回してみる。
どうして黙っているんだろう?
それが気に入らなかった。傍の木の枝を折って身構えた。そして、声を荒げた。
「おまえなんか、怖くないぞ、卑怯者! 何か用があるんなら、さっさと出てこい!」
叫びながら、自分でもおかしくなったが、気は許せない。
すると、応えるように、また、聞こえた。
「トラッ、ルルルルル……」
ギジェは心を決め、その音をめがけて茂みに飛び込んだ。
絡み合った枝や垂れ下がった蔓を掻き分け、少し進んだところで立ち尽くした。髪が逆立つ気がした。
すぐ足元にそれがいた。鋭い爪に太い脚、赤く血走った丸い目は怒りも露わに、鉄の棍棒のような太い尾を振り回し地面を叩いている。
すぐにその正体がわかった。
「シクルラ・マクレアイだ!」
彼は叫んだ。
濃いオリーブ色の大トカゲは、体長二メートル近くあった。キューバ最大のトカゲで、凶暴さこの上ない。そのように、大きな赤みがかった口を大きく開けて、鋸のような歯を剥き出して威嚇する。
たたかうしかないか、ギジェは心を決めた。
大トカゲが繁殖期にはより凶暴になることは、本で読んで知っていた。とくに雄は、死をかけてでも襲ってくる。
ギジェは目を離さず身構えた。尻尾にやられないよう気をつけないといけない。シクルラ・マクレアイは尻尾に栄養を蓄えている。食べ物も水もない時期を生き延びるために工夫しているのだ。そして、尻尾は切り取られても再生することもギジェは知っていた。
鋭い爪で引っ掻かれることにも用心した。大トカゲは、巣穴を掘り木や岩をよじ上り、そして、攻撃するために爪を使う。
大トカゲも身を守るためだ、ギジェが木の枝を向けると、怒り狂ったように大口を開けて噛みついた。そして、身を捩るようにして大口を振り回し、唸り声を上げながら尻尾を地面に叩きつけた。
ギジェは枝を握って立ち向かった。けれど、落ち着け、冷静になれ、と言い聞かせもした。傷つけてはいけない、どんなに獰猛でもキューバの動物相を代表する貴重な生き物なんだ、だから、一瞬の隙に一撃して気絶させるしかない、その機会をギジェは待った。
と、何を思ったか、大トカゲは唸りを止め、くるりと向きを変えると、驚くほどの速さで走って逃げた。
シクルラ・マクレアイは、グァイラヘやヤニジャなどの果実やハーブのような雑草も餌にしていて、メスは巣穴に卵を産みつけると、ウミガメのように埋めてしまうらしい。ただ、そんなことは、いまのギジェにはどうでもよかった。何よりも、ガビオタ・ネグラだった。
ガビオタ・ネグラを見つけた!
とマリオに報告しないといけないのだった。
一歩、一歩、進むごとに、木々の中や上の方までたしかめた。さっきまでよりしつこく、得体の知れない虫がまとわりつく。だが、そんなことを気にしていられない。捜索に集中しないといけない、と思うのだが、少しの迷いも頭の隅に残っている。マリオがいっていた。キューバではいまだガビオタ・ネグラの巣が見つかっていないのだ。
だからといって、弱気になっていられない。フアンとの固い約束があった。
茂みの中は湿気で噎せ返るように暑かった。さっきの荊の茂みでシャツはぼろぼろになり、腕はあちこち傷だらけで血も滲んでいた。さらに、喉はからからで、唇は乾いてひび割れ、舌は麻布のようにざらざらだった。
「もうだめか!」
息切れして脇の木の根元に崩れ落ち、幹に寄りかかって大きく一つ、溜息をついた。そして、上を見上げた。長く垂れた蔓先に、緑の葉っぱが揺れている。図鑑だったか、見覚えのある葉っぱだった。
ギジェは飛び上がった。さっきまでの疲れと渇きはどこに消えたか、立ち上がるとその葉をたしかめた。まちがいない、ウバス・カレタスだった。
そして、見つけた。頭のずっと上の方、梢の陰に粗づくりの籠のようなものが見える。一気に頭に血が上った。全身の筋肉が歓喜に奮い立った。
ただ、情熱を賢明さで抑える冷静さも忘れていなかった。
「いや、違うかもしれない」
心の中で呟いた。それまで何度も間違えたことがあったからだ。
そっと、そして、ゆっくりと幹を登りはじめた。一歩、一歩、慎重に、失望を恐れず足を進めた。けれど、そのたびに不安と疑念が深まっていく。それを振り切り、最後の分岐を上って梢の上からそっと覗いた。
瞬間、激しく耳鳴りがした。
と思ったのは、雛鳥の抗議のさえずりだった。
「ガビオタ・ネグラだ!」
ギジェも叫んだ。
すぐ目の前に、かわいい黒い雛鳥が、びっくり眼でギジェを見つめていた。
「ガビオタ・ネグラだ、ガビオタ・ネグラだ」
何度も繰り返した。涙が溢れた。
「やっと見つけた!」
震える手を伸ばし、宝物をそっと触ってみた。
そして、もしや、と幾重にも重なるほかの梢を見回すと、なんと、同じような巣が十個以上もあった。
ギジェは、その一羽を手に、持ち上げようとしたが、逃げもしなければ、嘴で突きもしない。安心して胸に抱きしめ、木を降りた。
輝かしい夢の実現だった。だから、荊の切り傷も、虫の刺し傷も、ウチワサボテンの棘の痕も気にならなかった。一気に、崖を駆け下りて、二人をさがした。
ようやくマリオを見つけて宝物を差し出した。どういっていいか、言葉が見つからない。
「ギジェ、きみは最高の助手だ。科学者になるにふさわしい。そんな友を持ったことを誇りに思う」
笑顔でいった。
そんな二人を、フアンは見て見ぬふりをしている。ギジェはマリオから雛を受け取ると、フアンのところに走った。
「さあ、フアン、口を大きく開けて、これを食べるんでしょ?」
フアンは吹き出し、力いっぱいギジェをた抱きしめた。
「ようし、約束通り、こいつを嘴から尾っぽまで、一口に呑み込んでやる」
そういって、帽子を空に投げ、声を限りに叫んだ。
「ギジェ、よくやった!」
驚いたカモメの群れがいっせいに旋風のように舞い上がった。ギジェは両手を腰に、大きく踏ん張り、それを見上げた。
遠くに、ラ・ホベン・フリア号が、煌めく青い海に揺れていた。