■「医良」のすすめ■

遺稿

 かけがえのない、高校以来の朋でした。京都も北の終て、一つ峠を越えればもう若狭、そんな美山にかれは生まれました。そして、中学からは実家を離れ京都に出ています。教育熱心だったお父さんの方針で、上賀茂の古い農家の二階に部屋を借り、自炊しながら中学、高校に通いました。生家は酒屋で、それなりに仕送りはありました。けれど十分ではなく、中学校のときは新聞や牛乳配達、高校時代は小さな出版社でアルバイトをしていました。ご存じでしょうか、取次から返品されてくる本は手垢や埃であちこち汚れています。その小口を鑢掛けして新しくカバーや帯をかけなおす、倉庫でのけっこうきつい裏方仕事でした。それでも、雨の日も欠かさず始業前と放課後に自転車で倉庫に走る、そんな毎日で、高校もあの頃は春夏冬の長期休暇以外のアルバイトは禁止されていましたから、仲間には秘密にしていました。そうして卒業後は理工系をめざしたのですが、兄の死を機に医学の道に進み、内科医として最初は西陣の堀川病院に勤めていました。そこで出会ったのが「わらじ医者」で知られた早川一光医師で、奨められ郷里美山の診療所で専任医として働くことになりました。ところが、いくらもしないうちに診療所の経営をめぐり縮小合理化を図ろうとする経営陣に住民が反発、住民側に立ったかれは診療所を追われます。合理化とはいえ、経営陣の不正に絡んだブラック事件で、何度も紙上にのぼり訴訟にまで発展するのですが、結局、診療所は縮小され美山の地域医療は崩壊します。京都に戻ったかれは相国寺東の出町診療所に勤めました。ただ、美山のことが忘れられず、その後も変わらず、京都での診療所勤めの傍ら毎週末には車で美山に走り、日夜、家々に往診を続けて明けには戻るという診療暮らしを続けました。あの当時、地域医療の充実が叫ばれ農村部にも近代設備の整った大病院がいくつも生まれます。しかし、経営難が続いて閉鎖が続きました。「何やかやいうてもな、田舎で大病になったら都会の病院に運ばれるしかないんやな。大事なんは、病気にならないための予防でな、それを見守るんが医者の務めなんや」、かれの口癖でした。とはいえ、休みなしの美山通いはきつかったでしょう、それが嵩じて腰を悪くするのですが、そんな診療医暮らしで確信したのが、医療でない「医良」でした。何事にも前向きなかれらしい、住民、患者との心の通い合いから生まれた、医師としてのかれの姿勢を示した言葉です。高校時代からそうでした。負けん気が強いうえに几帳面な性格で、記録魔といってもいいかもしれません、四十年近い診療医暮らしの日々を詳細に記録していました。それを知って、五年ほど前でした、何かまとめてみてはどうかと誘うと「パソコンにも、あれこれ、いっぱい入ってるんやけど、なかなか整理がつかんのよ」と嘆きながらも一文にまとめてくれました。腰はすべり症も酷くなっての車椅子暮らしでしたからキーを叩くのも辛かったでしょう、「気は逸るんやが、指がなかなかいうこと訊かんのよ」、メールで愚痴をこぼすのも度々でした。それを預かり某出版社に持ち込み、なんとか刊行予定にまで漕ぎつけました。そこにコロナがやってきて、出版事情が悪化、担当編集者の退職も重なって棚上げになってしまいました。そして、急逝。少し前の暑い最中でした、容体伺いのメールに「まあ、いろいろあってな、またゆっくり話するわ」と歯切れの悪い返事があって気になっていました。振り返っても不実ばかり、それだけに閑却に堪えず、ここに遺稿として掲げることにしました。だれもにある「老い」の生と死に、真摯に向かい合ったかれらしい心温かい一文で、ほんとうにいいものを遺してくれたとありがたく、勝手掲載は、そんなに先でもない冥途で詫びようと思っています。

内容目次

はじめに
第一章 在宅医の務めは「援命」にある
第二章 終末を元気に生きる
第三章 在宅療養をこう考える
第四章 終末の過ごし方
第五章 家族介護を楽しく続けるために
第六章 心の命は「医良」でしか救えない
第七章 「医良」従事者になるために
医学医療用語解説

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