一休の松
「薪能いうんはな、あれは、一休さんの村から出たんやな」
九月も半ばというのに、じっとりと汗ばむ朝だった。
「篝火に薪を焚くから薪能やと思うとったが、どうもそうやないらしい」
そんなふうにも和尚はいった。
いつもの茶礼。けれどぼくにはそれこそ犬に論語、馬の耳に念仏で、右から左へと素通りしている。あの頃ぼくは十五歳。半世紀も過ぎてすっかり忘れているはずなのに、気の抜けたサイダーの泡ぶくのように、ぷくっと記憶の底から浮かんでくるから人間の脳味噌の仕組みっておもしろい。
思い出すのは決まって朝の風呂掃除のとき、小僧暮らしの後遺症か、掃除も炊事といっしょにいまも日課のようになっていて、正直、面倒臭いと投げ出したくなることもときにあるけれど、嫌だと思ったことがない。皮脂やら黴やら、あちこち、ごしごしやっていると無心になれるからけっこう心地よくて、思わぬ蘇りも癒やしになって、ああそうでしたね、そんなこともありましたね、とむかしに帰っている。
和尚は能が好きだった。といっても謡の方で、だから聴かせたいという気にもなるのだろう、薬石のあと奥の書院に引っ込んだと思ったら、突然、唸り声が廊下を走ってきたりした。試しなら方丈でやった方が、声も通るし邪魔も入らないから気持ちもいいと思うのだが、隠寮の書院は玄関脇の小僧部屋からはまっすぐ廊下のどん突きだから筒抜けだった。
「これはあー、しょ、こく、いっけんのー、そうにてそろうー」
善知鳥と教えてくれたが、聞こえてくるのはいつも同じ条だけ。素直に唸れば、長年の声明で鍛えた錆び声が渋いのに、妙に力んで喉を絞るから耳障りで、はじまると台所に走って逃げた。
その途中、上の兄弟子は? と見たら、台所脇の八畳の自室に、坪庭に経机を向けて本を広げている。本といってもぼくにはまったく興味もない『古文真宝』や『文章軌範』『詩経』といった漢籍が多かった。雲水の詩文修行の教科書のようにもなっていたからだが、それが和尚の唸りがはじまっても馬耳東風と背を向けている。だからてっきり鍛練のできた人だと思っていたら、一日、出かけた留守に、消しゴムを借りようと経机の文箱を開けたら、スポンジの耳栓が入っていた。
さて、一休さんの村と和尚がいったのは、宇治の南、いまは京田辺と名前もきれいに変わっているが、田辺の薪村のことだった。平安のむかしは薪庄といって、少し北の男山の石清水八幡の荘園で、神楽の燎の薪を納めるのを生業にしていたらしい。すぐ南の甘南備山から続く見晴らしのいい小高い丘の上にあって、周りには弥生期の高地性集落跡がいくつも見つかっている。古代人は見晴らしのいい高台が好きだった。そんな村に一休さんは晩年を過ごしていた。
「酬恩庵へは、どう行くんでしょう?」
とたずねて首を傾げるようなら、一休寺、といってみるがいい。近鉄京都線の新田辺駅からなら歩いて十五分ばかり、緩やかな上りの外れに見つかるだろう。あの頃は鈍行電車がのんびり走って、窓の陽避けの鎧戸越しに、一面、緑の里山だった。それがいま、後ろを高速道路が横切って、斑に禿げた山肌を赤やら青やらカラフル屋根の住宅が後ろの男山までびっしり続いている。京都も郊外はどこもそうなのだが、伏見から南に奈良街道周辺の変わり様も凄まじい。
開基は南浦紹明。この国の臨済禅の祖師といってもいい人で、十五で鎌倉の建長寺に宋人、蘭渓道隆の門を叩いている。当時、道隆の建長寺は最新の舶来文化のサロンだった。そうして十年、宋に留学、のちに大徳寺の茶道師範としてやって来る虚堂智愚から法を嗣ぎ、建長寺に戻って子弟を育てた。その一人に宗峰妙超がいた。大徳寺開山、大燈国師である。
一休さんは、この妙超の孫弟子のさらに孫弟子にあたる人で、妙超遷化から百三十年、大徳寺四十七世住持に就いている。ただ、経緯は複雑だった。頃は応仁文明の十年戦争の真っ最中、京師の大半は焼け野原になっていた。大徳寺は、紫野といって、朱雀大路の北の終てに条坊から大きく外れていたが、すぐ南の船岡山に東軍の細川に対峙する山名の西陣があったから、洛中の諸寺同様、戦火に巻き込まれ、七堂伽藍はすっかり焼け落ちていた。その復興に一休さんは白羽の矢を立てられたのだった。
といっても、一休さんはふつうの人ではない。きわめて自由、闊歩の人で、同門なのに大徳寺の指導者層を批判して止まなかった。だから大徳寺がそんな厄介者をわざわざ招くというのもおかしな話だったが、組織はいつも現実的で、期待したのは一休さんに連なる堺商人の財力だった。
一休さんの生まれは謎に満ちている。いろいろ謂われはたくさんあるが、その略歴を弟子の没倫紹等、つまり真珠庵の開基が記した『東海一休和尚年譜』を辿れば、後小松天皇の落胤ということになっている。お母さんは一休さんを妊ると、多くの女御、更衣がそうだったように、すぐに実家に返されている。宮中で生まれた子は皇子になるからで、後年の政争の種を未然に始末するためだった。
そして二十二のとき、近江、堅田の祥瑞寺に華叟宗曇の門を叩いている。華叟は妙超のあとを嗣いで大徳寺の基礎をつくった徹翁義亨、つまり和尚の寺の開基の孫弟子にあたる人で、のちに大徳寺二十二世となるのだが、宗門維持のために権力に媚びる大徳寺を嫌って一歩も足を踏み入れていない。一休さんの大徳寺嫌いもそんな華叟譲りなのかも知れないし、だから一休さんに華叟もどこか自分のむかしを重ねたのかも知れない。三年後に「一休」の道号を与えている。法嗣と認めたのだった。
ただ、もう一人、華叟にはできる弟子がいた。一休さんには兄弟子にあたる養叟宗頤という人で、五山の東福寺で得度したあと、建仁寺を経て華叟に師事。つまり大徳寺からすれば傍系上がりだったが、後継として四代あとの二十六世大徳寺住持に就いている。のちに享徳二年の失火で丸焼けになった大徳寺の伽藍再建に努めたのはこの人だった。
それがどういうわけか、一休さんはこの兄弟子を毛嫌いして、養叟ならぬ、権力に靡く妖僧として、『狂雲集』や『自戒集』のなかでも、これが大人のやり方かと耳目を塞ぎたくなるほど、口汚く言葉のかぎりに罵っている。
ぼくらのむかしもそうだったが、兄弟弟子の仲の悪さはめずらしくない。宗門の師弟関係といえばピラミッド状に上下順序が厳然としているように見えるが、じつは弟子というのはそれぞれ師からの一本釣りで、個々が直接に繋がっている。だから表向きには、兄弟子さん、と敬いを見せても心の内では年季を越えて横並び状態で、そこに下克上が起きるのも不思議でなく、互いに相手をよく知るだけに根も深かった。実際、ぼくらがそうだったし、養叟と一休の諍いも史書に伝わるほど異様なことではなかった。
大徳寺は創建当時に後醍醐天皇方の保護を受けたため、足利幕府下では一転して苦難の時代を生きることになる。けれど、宗門維持のためには政治の時流に棹させない。その矢面に養叟は立たされることになった。
禅の教えは一器の水をそのまま次の器に移すように師から子弟に嗣がれていく。師資相承、一流相承といって、大徳寺は頑なにそれを守っていた。一種、正統血統主義である。それに対し幕府は宗門統制の必要から、相国寺がそうだったように、十方住持制といって、五山をはじめとした官寺には宗門を越えて他寺からも住持を相互に迎え入れるのを慣例としていた。これは表向きには、宗門の偏向、孤立を防ぐ開かれたやり方のように見えるが、実際に住持を指名するのは幕府だったから、官寺はすべて幕府の統制下に組み込まれることになる。やむなく大徳寺もそれを受け容れるのだが、二人の師の華叟は、そんな大徳寺を嫌って近江堅田の庵を一歩も出なかった。
養叟はそんな師に背いたわけではなかった。かれは住持に就くとすぐさま、大徳寺の官寺辞退を幕府に申し出ている。幕府の統制を避け、祖師からの一流相承の大徳寺を続けようとしたのだった。だが、官寺でなくなれば幕府の経済保護は断たれてしまう。結果として、官寺となった五山が、その後、幕府の盛衰に歩みを合わせてしまうことになるのに対し、大徳寺は窮乏を堪えて生きのびる。養叟のおかげといってよかった。
それに対し一休さんは、純禅に生きようとした。といえばきれいに聞こえるが、唐宋の禅者がそうだったように、かれも自由人だった。ただ、それでも宗門を見捨てるまではできずにいて、養叟のあと、応仁文明の十年戦争で再び焼けた伽藍復興に重い腰を上げた。養叟との対立はどうあれ、この二人がいて、いまの大徳寺もあるわけで、ともに中興の祖といっていいだろう。
そんな一休さんの薪村暮らしは晩年のこと。自由人も六十を三つも過ぎていた。いまでいえば九十近い齢だろう。妙勝寺といって、廃寺同然になっていた紹明のかつての禅道場を建て直して住み込んだ。酬恩庵である。
といっても、じっと腰を据えたわけではなかった。根っからの風流の人は、かまわずあちこちを転々としていたし、十一年後にはじまった応仁文明の争乱は、翌年には、戦場も京師を越えて南都方面にも広がる勢いで、途中の薪村も例外ではなく、それを避け、明くる文明二年には檀越に招かれ堺に庵住まいしている。
檀越とは、檀家ともいって帰依者のことだが、平たくいえばパトロンで、たぶん尾和宗臨がそれだろう。堺の対明貿易の豪商で、この人を通じて一休さんは堺商人の間に人脈を広げていた。反対に宗臨は一休さんの幕府、貴族へのパイプを期待した。そこに天皇の落胤という歴が働いている。
戦乱の難を避けたのは一休さんだけではなかった。洛中のほとんどが焼け野原になっていたから、条坊の寺社はもちろんのこと、西陣織などの生産機能も、堺のほかに北は丹波にも一時凌ぎに移っていた。のちに堺に各宗旨の大寺が開かれたり、泉州や丹波に機業が起こって江戸期を通じて発展していくのも根は応仁文明の戦火を避けたこの移転にある。なべて、この国の処々方々に小京都が生まれ、平安のむかしや文化を伝えるのも、また、列島一律、平安文化が日本文化と名を変えて育まれていくのも、いってみれば十年戦争のおかげなのかも知れない。
こうして堺商人の財力を背景に、一休さんは大徳寺再建に立ち上がる。八十一になっていた。ところが、再建のプロデューサーでありながら、大徳寺にいたのはわずかに一週間に過ぎない。養叟傘下の住持たちと反りが合わなかったのか、自由人は、逃げるようにして薪村に戻っている。いい齢をしても、どこか子どもさながら意のままに行動する、そんなところが一休さんにはあって、あとは酬恩庵から輿を仕立てて通うことになる。
自然、毎日とはいかなかっただろう。直線距離にしても三十キロはある。早朝に薪村を出ても着くのは日の暮れで、おそらく数日置きの泊まりがけの通勤となったことだろう。そして五年、ようやく仏殿、方丈、庫裏の修復がなり、翌々年には三門の東の土手っ腹に新たな出入り口として惣門も完成して再建は終わった。
そのときの輿が、和尚の寺、つまりぼくらがいた寺の方丈の、広縁の高い梁からぶら下がっていた。
「一休さんはな、これに乗って通いよった」
和尚の自慢の一つだった。
いわれてみればそれらしい。ところどころ漆の塗りも剥げ、隅金具や縁金具や引手には緑青が吹いて、屋形もあちこち穴が開いて毀れたまま、木乃伊のように煤けたのが吊るしてあって、暮れの大掃除にも、壊れてはいけないからと叩をかけることもなかったから、轅の先まで遠慮なく埃が白く山のように積もっていた。
そんな和尚の自慢はほかにもいっぱいあって、
「大徳寺には塔頭はなんぼでもあるが、ここは別格や」
というのにもきちんと理由があった。
大徳寺開山の宗峰妙超は、弟子をとるのを嫌ったが、それでも慕う二人がいた。一人はぼくらの寺の開山だった徹翁義亨。妙超が紫野に禅堂を開く前から暮らしをともにしてきた愛弟子だった。そんな妙超に、晩年、関山慧玄が門を叩く。徹翁より十八も年上どころか、妙超より五つも年輩だった。つまり、徹翁からは、年上の弟弟子という捻れ関係になるわけで、おまけに関山は、妙超以前に、妙超の師にあたる南浦紹明に師事していたから、徹翁からすれば、弟弟子でありながら、師の兄弟子ということになる。
また、風貌からも二人にはちがいがあり過ぎた。頂相と和尚は教えてくれたが、方丈裏の内蔵には徹翁の肖像画が遺っていた。和尚はそれを年に一度、虫干しに、方丈の衣鉢の間に広げた。だからぼくもしっかり覚えている。十五の少年の目にも、頑固さと鈍重さばかりが目立つ醜男だった。一方、関山の方は、頂相は知らないが、その後の動きからして切れのいい姿が浮かんでくる。
そこに一本釣りの師弟関係だから、ふつうなら関山への嗣法となるのだろうが、あえて妙超は徹翁を選び、関山の方は、花園上皇の依願にこたえ、嵯峨の離宮に開かれた新寺の開創に差し向けた。花園の妙心寺である。
徹翁は、そんな師の思いにどうこたえたか。妙超遷化のあとを託されはしたが、そこに居を構えることを潔しとせず、伽藍南の外れに自分の塔所をつくって隠棲、弟子を育てることに明け暮れた。いまは北大路南の雲林院となっているあたり、平安初期には淳和天皇の離宮があった。
塔所は、塔頭ともいって、もともとは弟子が師の墓所に建てた塔のことだが、それを見守るために傍に小屋掛けのような四阿をつくったのが立派になって、やがて法嗣、つまり後継ぎの居処のようになっていく。
そんな塔所は、ふつうは伽藍を囲む寺域内につくられ、院となる。それをあえて徹翁は外に避け、さらに別の一寺とした。妙超の後継、法嗣となることへの謙退、憚りがあったからだろう。それが十年戦争で焼けたままになっていたのを、伽藍のすぐ南脇に再興したのが一休さんだった。和尚の寺である。
「いまの南門も、あれは、もともとはうちの表門やった」
そんなふうにもいっていた。
大徳寺には大きく門が三つあって、東の惣門、これは一休さんがつくったのだが、そして同じ東側の南の角に、いまは開かずの門になっている梶井門と、もう一つ、伽藍真南の電車通りにも棟門が開いていて、それをぼくらは南門と呼んで親しんだ。東の惣門が正門であるのに対し裏の勝手口のようなものだが、電車の駅に近かったから、惣門よりもこっちの方が表門のようになっていて、簡素な造りだったが、通りからは石段を駆け上がった先に大きく仰ぐ目線にあったからか、小振りながらも威厳を見せて、くぐったあとにまっすぐ伸びる松並木の参道がうつくしかった。
「わしの寺も……」
和尚はときどきそういった。
「いまは境内に入ってしもうとるが、むかしの境内いうんはもっと狭うてな、一休さんの再興で近うはなったいうても、やっぱり大徳寺の外やった。そうやないと、一休さんは徹翁さんを冒涜したことになる」
徹翁が門外に蹲踞してつくったのを山内に入れてしまったのでは、自分の塔所を寺域から外してまで己を殺そうとした徹翁の遺志を踏み躙ることになるというのだった。
さて、一休さんの寺といえば真珠庵が有名で、だから長く住んでいたようにいわれるが、真珠庵は一休さんが死んだあと、堺の尾和宗臨が一休さんの墓所としてつくっている。そんなことから、大徳寺といえば一休さんとなるのだが、一休さんは大徳寺とは深く縁があっても、大徳寺に住んだことがない。伽藍再建のときもそうだったが、ほかに一休さんが大徳寺にいたというのは四十七歳のときだけで、それもわずかに九日間に過ぎない。師の華叟の十三回忌法要のために重い腰を上げてやって来たのだった。その席でも兄弟子の養叟をあたりかまわず罵倒して、犬が後足で砂を蹴るようにして大徳寺をあとにしている。そのとき寄宿していたのが如意庵。大徳寺七世言外宗忠の塔所で、大徳寺最初の塔頭だったが、いくらも経たずに焼失、それを養叟が再建していた。ところが、やがてまた消失、そのままになっていたのを五百年を経て和尚が再々建した。一休さんを慕って止まなかった和尚なのに不思議な奇縁だが、和尚も、やることなすこと、根は養叟宗頤に通じているのかも知れない。
それはともかく、一休さんは、伽藍復興のときには、まず徹翁の塔所、つまりぼくらの寺を再建して宿にした。それも和尚自慢の一つになっている。
「薪村から来た一休さんは、ここに住んどった。わしの寺は一休さんの寺やった」
和尚の口癖で、方丈庭もそのとき一休さんが指南してつくったらしかった。
「ほれ、あれは一休さん御手植えの松やな」
方丈の広縁に立つと顎でさし、ぼくらに教えたが、東から南にくの字に広がる方丈庭の正面には、鶴亀の築山がこんもりあって五葉松の古木が植わっていた。それが、よく見ると、葉の緑はかすかにくすんで、幹は燻し銀のように鈍く光る不思議な松で、客が来ると欠かさず和尚は披露して、鼻の穴を広げた。
たしかにそれだけのことはあったと思う。とりたてて大きくもないのに、どこか訳ありそうな風情があって、株元から人の胸丈ほどのところで、左と右、そして斜め前と三叉に幹が分かれて、いずれもほぼ水平に築山に傘を差しかけるように大枝を広げていた。松のうちでも五葉松は一段と成長が遅い。だから一休さんの頃から四百年、五百年を生きているといわれても嘘でない気がした。
そんな一日のことだった。
「これ、だれかわかるか?」
下の兄弟子が、古いアルバム片手に玄関脇の小僧部屋にやって来て、なかの一枚をさしていった。和尚はいつもの東京行きで留守だった。
写真は、下手に触ると縁が毀れそうで、すっかりくすんでセピアに色抜けしている。けれど一目でわかった。方丈庭の真ん中、松の木らしい大きな木があって、分かれた幹の三又の凹みに墨染め姿で座っている。脳天の尖ったつるつる頭に、反っくり返るように背筋を伸ばし、結跏趺坐に印を結ぶ。ほかでもない、和尚だった。
勉強家の和尚は、奥の書院横の六畳間を書斎にしていた。東の白壁塀に面した坪庭に臨んだ小部屋で、奥に一間幅の押し入れがあった。それが奇妙な造りで、襖を開けるとなかにもう一つ、半間の襖障子が仕組んであって、それを開けると二段ばかり下った先に、狭い板敷きのこれも六畳くらいの一間があった。庫裡裏の軒下に付け足したのだろう、立ってようやくの梁の低い寒部屋で、窓も明かり採りもないまま、裸電球が一つ、無造作にぶら下がって、薄暗いなかに書架が三つ川の字に並び、周りの壁には造り付けの棚と箪笥が二棹立って、上に柳行李が三つばかり乗っていた。外から見ても書院の続きにしか見えなかったし、入り口がそんな仕込みになっていたから、秘密の隠し部屋のような気がして、興味津々、東京行きや講演会で和尚が出かけるのを見計らって忍んで入った。
書架には哲学本や漢籍のほか、これは意外だったが、文学書に混ざって少しの科学書も並んでいて、趣味の謡曲の和綴じ本は木箱に入って平積みになっていた。
箪笥は桐のが一棹と、欅だったか栗だったか、頑丈に角を飾り金具で縁取った重そうなのが一棹あって、桐の方には帖紙に包んだ女物の着物がびっしり詰まっていた。奥さんのだろう、ぷーんっと樟脳と黴の臭いが混ざって鼻を衝いた。けれど欅の方はいつも鉤がかかっていた。柳行李は、これも何が入っているのか気にはなったが、太い麻紐で襷掛けに縛ってあったから戻すのが面倒で、だから開けたことはなかった。
そして、これが探検の一番の成果だったが、書架の上には茶箱だろう、横腹に○に茶の字の貼り紙のある大きな木箱が並んでいた。ちょっと秘密が隠れていそうで、蓋の上も埃だらけだったのを、脚立を頼りにそうっと下ろした。開けると、これも、ぷーんと黴臭かった。だから、何かあると期待したが、手紙や葉書の束ばかり。それを除けると底に少し厚めの茶封筒の束があった。
「ほおーっ、株券やないか」
封を解いた下の兄弟子が口元を細めていった。有効なのかどうか、右から左に旧字で書かれている。
もう一つの木箱は、これは墨や筆や文具の類が、使い古しのもいっしょにごちゃ混ぜに入っていて、あとは和紙の束が入った一箱のほかに、がらくた同然の小物がいっぱい詰まった一箱もあって、底を掻き回すと、大きな水晶玉や、不思議に花札も出てきた。そして半ば隠れるかのように書架の最下段にそっとあったのがアルバムだった。背表紙も黒や鼠色にくすんだものばかり十数冊あって、それを玄関部屋に運んで盗み見するのが、留守を守るぼくらの日課になってしまった。
「あとは頼んだぞ。薬石はいらん。帰りは遅うなるから耳門の掛金だけは外しといてくれ」
そして、こつ、こつ、こつ……、靴音が表門の向こうに消えるのをたしかめ、ぼくらは隠し部屋にすっ飛んだ。
そんな一日だった。
「べっぴんや、へちゃや、いうても、面の皮一枚の仕業やな」
アルバムの一葉をさして、下の兄弟子がにやりとした。レースの帽子に白いワンピース姿の女性が、方丈の広縁だろう、背もたれの大きな籐椅子に片肘ついて涼し顔に写っている。そして半開きの白い扇子片手に、軽く足組みしていた。
「奥さんだよ」
口を斜めに、にいっといった。信じられんだろうといわんばかり。
ぱっと見に三十くらいに見えた。薄く微笑んでいる。それをいうと、
「阿呆いえ、どうみても四十過ぎとるやろ」
吐き捨てた。
きれいだった。けれど微笑の目元に、人を見放すような乾いたけしきも見えて、すぐにぼくの心から離れている。
「これが、あの酒買い観音になるんやからな」
下の兄弟子は口達者だった。
小僧に入ったとき、奥さんはもう寝たきりだった。四、五年前に脳梗塞で倒れたらしく、和尚が介抱していた。といってもやりきれず、ぼくらも手伝っていた。庫裡玄関のすぐ脇に、むかしは台所の土間だったのを改装して十畳ほどの和室をつくり、ベッドを入れて介護部屋に変えていた。だから、夏はそうでもなかったが冬はストーブを焚いて閉め切るから、前を通るだけでも籠もった臭いが障子戸を洩れてくる。それを嫌ったわけではない。母も同じだったから鼻は馴れてはいた。けれど心はちがって、さらに他人となるとようすも違ってくる。
それが本人にもわかるのだろう、ぼくらが世話をするのを嫌がって、
「和尚さまは? ねえ、どこ?」
と和尚をさがした。子どもがいなかったせいもあっただろう、和尚しか信じない人だった。といっても和尚がいないときはあきらめて、そっぽを向きながらもぼくらの介護を受け容れて、東司にも立つ。その姿が、法隆寺の、あの百済観音そっくりで、下の兄弟子が綽名したのをぼくらは隠れて呼んでいた。
「結婚前やろか、嗚呼無常いうんはこのことやな」
下の兄弟子は例えもうまかった。
そんな奥さんのだったと思う、書架の文学書には紅葉や漱石に並んで荷風もあって、大部の『断腸亭日乗』には、なぜか、あちこち付箋もついて、開くと少しの書き込みもあった。けれどそんなものには目もくれず、すぐにもとに戻している。気になったのは平積みされた薄茶の和綴じの謡本で、それを暇つぶしに引っ張り出しては、書院脇の、骨清庵といったが、 一畳台目の茶室にごろ寝して眺めていた。表紙はいろいろで、絵巻物の俯瞰図のようなものもあったが、なかはどこを開いても頁六行に大きなくねくね文字が延々と続くだけ。とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう、ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう……、と端からさっばりわからない。たちまち、午後の微睡みに、たらり、たらりら……、
うとうとして、気づくと頭の上に和尚が立っていた。
「何をしとる」
いつ戻ったのか、跳び起きようとしたら、胸から本が滑り落ちた。
んっ? 今度は、和尚が目を丸くした。
「翁やないか」
拾い上げ、
「わかるんか」
と傍に腰を下ろした。
「呪文みたいやろうが」
にやりとした。怒られると思ったから気が抜けて、そのままこくりとうなずいた。
「そらそうや、わしにもようわからん」
そして教えてくれた。大凡、こんなふうだったか。
「……翁いうんは、能のうちでも特別なもんでな。いまは神事くらいでしかやりよらん。知っとるか? 興福寺の薪能でも初っ端に、春日さんの庭でやりよるやろう」
いつもの茶事の講話みたいだった。
「そもそも、薪能いうんは正月を迎える神事やったんやな。修二会いうて、二月堂のはお水取りというとるが、あれも春迎えの神事やった。咒師いうてな、二月堂の下にある若狭井から水を汲んで走って上るんがおるやろ」
和尚の話は脈絡が無茶苦茶で、ひょいといろんなところに飛んでいく。
「あれが、最後の晩に篝火を焚いて舞をやりよる。薪猿楽いうて、薪能のはじまりやと興福寺ではいうておるが、まあ、いうたら、修二会の打ち上げのようなもんやな。酒も入っとったやろう、慰労がてらに、おもしろおかしゅう、戯け芸をやりよったらしい。猿楽の猿いうんは、猿真似の猿、つまり物真似のことでな、楽は、おもしろおかしくしゃべるということやろう。修二会の行を満願したんで、すっきりしたんやろな、戯け寸劇をやりよった。芝の庭でやりよったから芝居でな、いまの狂言のようなもんやったんやろう」
いわれて少しはわかる気がした。だから、うれしくて、返事をしようと思うのだが、妙に胸のあたりが息苦しい。
「翁も、たぶん咒師がやりよったんやろう。いうても翁は戯けやのうて神迎えの儀式やな。新たな年を前に、祖霊を迎える儀式やったんやな。篝火を焚くのも、神さま、ここに降ってくださいよ、と目印にするためやった。そうやってお迎えすると、今度は、できるだけ長いこといてくれるようもてなした。お神酒を供えるいうのも、酔わして長居させるためやった。それでうまいもんをいっぱい並べるんやが、喰うだけでは飽きてしまうから、あれこれおもしろおかしゅう戯けを見せた。翁いうんもはじまりはそういうもんやなかったかな。せやから、修二会より、根はもっとむかしになるやろう」
そうして、一息つくとまたはじめた。
「春田打ちいうてな、わしらの村でも、正月明けには村の者が神社の前の枯れ田圃でやりよったわな。二人、鬼のような格好しよって、どた、どた、地面を踏んで踊りよった。それに、代掻いうてな、田圃を掘り起こすような戯けもしよった」
しろかき? これにはぼくも覚えがあった。
春だった。蓮華が一面に広がる田圃に牛を入れて田を起こしていた。きれいな蓮華が畝立ての土のなかに埋もれていく。ちょっと残酷な気もしたが、それから一月、からからに干涸らびた田圃に上の池から水を引き、また牛を入れて掻きならし田植えの準備をする。そんな忙しい梅雨の最中にぼくは生まれている。
「あの頃はさっぱり理由もわからんでな、なにを阿呆なことしよるんかと思うたが、あれは豊穣の祈りやったんやな。戯けて踊りよったんも、鬼と思うとったが、じつは神さんやった。一人は余所から来た神さんで、もう一人はそれを迎える村の神さんやな。どす、どす、地踏みしたんは田圃の精霊を起こすためで、おい、春が来たぞ、早よ、田植えの支度をせんか、そないいうてな」
「………」
「そうや、おまえは、春日さんの御祭を知っとるか」
おんまつり? 訊こうとしたが、喉が詰まって声にならない。
「いまは大名行列やなんのと派手にやっとるが、もともとは簡素なもんで、秋の豊穣を祈る神迎えの神事やった。神さんいうんは、どうも姿形を見せとうないらしいてな、来るのも夜なら、帰るのも夜で、やって来たんはええが、一刻も早よう去のうとしよる。それを退屈させんと長居させるために、夜も薪を焚いて、おもしろおかしゅう芝居をやる」
「それが薪能に……」
いってるつもりが、やっぱり声になっていない。けれど思いは通じたようだった。
「まあ、そういうこっちゃ。せやから人が寄って村ができたら、どこでも神事は生まれるわけで、薪村も、薪能も、田辺にかぎらん、同じようにあちこちにあったということやろな」
そして、どこへ行くのか、すうっと和尚は背を向ける。その背にぼくは呼びかけた。
「おっ、お、」
呼んでるつもりが、やたら息苦しい。
と、隣で声がした。
「ちょっと? どうしたの」
二つ並べた蒲団からだった。
「さっきから、唸ってばっかりで、悪い夢でも見てたの?」
どういう理屈か、いまだに年に二、三度、小僧のむかしに戻った夢を見る。そしてたいていは魘される。寒い冬は滅多にないが、寝苦しい夏場に多い。いまだに落第小僧を引きずっているのか。
そうしてぼくらの探検は続いたし、書棚の陰に、これも客から贈られたのだが、禅寺には似合わない、あの頃売り出されたばかりの赤い小さなポータブルテレビがあるのを見つけ、小僧部屋に運んでは、流行だした妖しい深夜番組に生唾を飲んだりもした。そして、あの一休さんの御手植えの松は、二年目の秋口だった、見事だった三叉の一つが台風にやられ、分かれ目からばっさり折れた。
「寿命かも知れんな」
和尚はいったが、いまはどうなっているか、逃げた小僧はあとを知らない。