正月の寺
「門松いうんはな、あれは、地についとらんと具合が悪い」
和尚がいった。
もうどれくらいか、暮れになると思い出す。
あの頃、京都はほんとに寒かった。それが、その年はいつになく厳しくて、大燈忌を過ぎたあたりから、雪のぱらつく日が続いたかと思ったら、晦日には根雪になって、方丈庭の真竹の結界も、青い肩を隠すほどに積もりに積もった。
そして朝、東の空がうっすら燃えて、東山もようやく峰筋を伸ばしはじめた薄明かりに、
かあーん、かあーん、
魚鼓の乾いた音が廊下に響くのだった。と、いつもなら勤行に、まっすぐ方丈に走るのが、その日は、庫裡の書院にぼくらは急いだ。
ふーっ、ふーっ、
息も白く凍るばかり、濡れ縁が鉛色に鈍くてかり、感覚以上に素足の裏を刺激する。敷居を入ると廊下を背に並んで座った。と、それを合図のように隣の隠寮の襖が開いた。和尚だった。けれど押し黙ったまま、ぼくらを前に背筋を正した。つもりだろうが、いつもの猫背が抜け切れない。脇には黒漆の縁高が二重ね、一つには搗栗が、もう一つには熨し昆布が入っている、はずだった。ほかでもない、昨日、ぼくらが揃って支度したからだが、それをまず、和尚が一つずつ懐紙に取り、あとは畳の上を滑らせたのを、ぼくらも倣って取り分けた。
しん、しん、しん、
素足の甲から畳の冷えが体を伝い、
ぽり、ぽり、ぽり、
搗栗の砕ける音が乾いて響く、と、それだけ。
搗栗といったが、よくある、臼で搗いて潰したあれではない。ふつうに秋に穫れたままの栗の実を、天日に干して焙烙で炒る。焙烙は素焼きの皿で、豆や胡麻を炒ったり、朝粥に入れる粉茶を焙じたり、焼き塩をつくったり、どこの台所にも一、二枚はあっただろう。ゆっくり炒ると、茶色く焦げた殻のなかで、ぱらりと実が弾け、やがて、から、ころ、土鈴のような音がして、爪で割ると焦げ茶に照かった丸い実が、ぽろりと落ちた。ちょっと見には甘栗のようでもあったが、ただ固いばかりで、味も、素朴といえば聞こえはいいが、正直、二個三個とすすむものではなかった。それを和尚は、ぽり、ぽり、やると、あとを続けた。
「あれはな、年の初めに吉凶を占う、いうてみたら、御神籤みたいなもんやな」
開かれた障子戸の外、濡れ縁の硝子戸越しに、肩に雪を乗せ、手水鉢に氷が光る。と、あとはどこも薄墨に、少しの彩を添えているのは真紅の万年青の実だけ、織部灯籠の裾に一株、これも頭に雪を被って首を窄めていた。
──山には山神がいる。神といってもほかでもない、その家の荒魂が年を経るうち穢れが取れて、やがて祖霊となって、里のようす窺いにやって来る。年に一度とはいわない、春は代掻きどきに、秋は穫り入れどきに、ほかにも孫子がうまくやっているか、折りを見てはやって来る。そのはじめが年の暮れ、家の主が山まで迎えにいった。祖霊は山の木々に宿っている。もちろん人目にはつかなくて、だから木ごといっしょに引き抜いて、といって大きいのは担げないから、せいぜい二、三年の若木を見繕った……。
もちろん細かな言い回しは忘れたが、大凡、こんなふうだったと思い出している。ただ、それがどうして松の木だったか、とうとう訊けずに終わった。冬枯れの里山に、緑は松の木くらいしかなかったか、戻ると門口や庭先に立てかけた。若松だった。そうして正月を遣り過ごし、うまく根付けば吉と見て、秋の豊穣をねがい、逆に、萎んで枯れてしまえば凶として、春の田作りを前に心を正した。
「せやから門松も、根がのうては具合が悪い」
和尚はいった。
それにも、ぼくらは黙ったまま、ぽり、ぽり、と口のなかは舌と搗栗の修羅場だったが、そこは涼し顔に喉奥にごくりとやって、休む間もなく熨し昆布をねじ込んだ。そしてまた、ぱり、ぱり、くちゃ、くちゃ、苦闘しながら、こっそり腰をひねっては悴む足の指を擦り合わせ、早く終われと祈るのだった。
いうまでもない、搗栗は勝ちに、熨し昆布は慶ぶに通じるという件の倣いだが、そのへんが禅門宗旨とどういう関わりがあったのか、和尚一人の気まぐれだったか、これも訊けずに終わっている。ともかく搗栗は、いくらぐちょぐちょやっても舌の上に残ったし、熨し昆布に至っては、ぬめぬめと虫歯に詰まって難儀した。けれど師弟向かい合っての年初め、気分は妙にきりりとしたものだった。終わると和尚は、まずは自分に、あとは兄弟子から順繰りにぼくらに茶を点てた。もちろんその間も変わらず話は続くのだが、一巡すると、ぼくらを見回し、「まあ、そういうこっちゃ」と猫背を伸ばし、「今年も気張ってやってくれ」と叱咤した。
それに一番上の兄弟子が、「よろしく、ご教示ねがいます」とお辞儀して座を締めた。
寂しいものの譬えに正月の寺。いつもなら朝も早くから境内散歩に忙しい町家の爺婆も、正月ばかりは背を向ける。そんな年明けの宗門に、門松の話というのも妙なものだったが、和尚の話とは裏腹に、山内どこの塔頭にも門松など影もなく、赤松並木の参道は泥沼のように、しんと静まり返っていた。
というのは外見だけで、塀のなかで正月の寺はけっこう忙しかった。まずは大晦日から、ぼくらはほとんど眠っていない。山内挙げての暮れの仏事が本山伽藍で続いていたからだが、夜、十一時、まず鐘楼に鐘が鳴る。撞いているのは禅道場の月番雲水だ。町家では年越しの蕎麦でもすすりながら、歌合戦の取を待っている頃だろう。禅門の年初行事、祝聖のはじまりだった。
除夜の鐘は、いまはどこにもあるが、もとは禅門にはじまっている。唐宋の頃だと和尚は教えたが、欠かさず朝夕の二回撞いて修錬の刻を知らせていた。夕焼け小焼けで陽が暮れて……、あの鐘は、きっとそんな名残だろう。数は百八、いろいろ謂われはあるけれど、この国にやって来たのは鎌倉の頃らしく、室町に入ると百八撞くのは暮れの晦日の一夜だけになっている。百八は煩悩の数だとか、いろいろいっても、もともとインドで百八は、数え切れない、というくらいの意味だった。実際、雲水も数を忘れないよう、十撞くごとに一つずつ、割り箸のような短い棒切れを足元に並べて記憶の足しにしている。
そんな鐘の響くなかを山内住持が勢揃い、大燈以来の歴代住持の塔所、つまり塔頭を声明して回る。巡塔諷経といったが、終わって和尚が戻る頃にはすっかり年も越していた。
「お帰りなさい」
頭から蒲団を被って、うつら、うつら、待ちに待ったぼくらは、それっ、とばかりに玄関に走って迎え、返すその足でまた蒲団にもぐる。と、うと、うと、する間もなく、かあーん、かあーん、方丈に魚鼓が鳴るのだった。打っていたのは一番上の兄弟子で、いつ、どんなふうに仮寝をしたか、鍛練の人だった。
そして、さっきの搗栗と熨し昆布の、ぱり、ぽり、くちゃ、くちゃ、がはじまるのだが、終わると和尚は、そのまま隠寮に戻って静かになった。けれどいくらもしないで、また続きの祝聖に出かける。これには一番上の兄弟子も脇侍について、ぼくらは二人を玄関に見送った。
「いってらっしゃいませ」
凍てつく床に額ずくと、「んっ」と一言、和尚は背中でいって、雪のなか、ふんわり浮かんだ飛び石に、ニの字ニの字に歯跡を残し、すた、すた、行った。それを兄弟子が、風呂敷包みを小脇に追いかける。なかにはきっと木靴や法具が入っていただろう。まだ薄暗い足元を、綿雪が法衣の裾にあおられて、ふわり、ふわり、舞い上がる。それをたしかめ、ぼくらは、また蒲団に走った。
仏殿では、愚中大般若経といったと思うが、大般若経全六百巻の転読があっただろう。得度もなしに寺を逃げた小僧はそんなふうにしかいえない。だから人伝をもっともらしく続けてみるのだが、愚中というのは午前十時のことらしく、そのように朝の十時から大般若経の声明がはじまっている。といっても六百巻もの大部だから、まともにやっていては日が暮れる。だから飛ばし飛ばしで狡をする。これは愚中声明にかぎらず、和尚不在の勤行で、兄弟子の隠し技の一つでもあった。
ともかく愚中の経机には、経巻が山と積まれている。その一つ一つを、まず最初の七行を声高に唱えると、頭の上に高くかざし、アコーデオンを広げるように、ばらばらと手繰ってみせる。と、今度は真ん中あたりの五行を唱えて、また、ばら、ばら。そして最後は終わりの三行を同じようにやっては次の巻へと移っていく。思い浮かべるだけで、くすっとくるが、それを形振りかまわず続けるのだから、奇妙なけしきだったにちがいない。
大般若経はあの玄奘三蔵がインドから持ち帰って漢訳した。玄奘の最後の仕事で、この国には平安初期に伝わったらしい。字数にして五百万字というから、単行本なら優に三十冊は超えるだろう。自然、すべてを唱えるには三日三晩かけても足りるかどうか、それをさらりと七五三に、数もきれいにすませてしまう。小僧暮らしもそうだったが、仏教教理には、そんな不思議な理屈がいくつもあって、ぼくらを悩ませた。
和尚はいった。
「人間界のどろどろを、いらんもんは削ぎ落とし、得心のいくもんを理に編み出した、それが釈迦の教え、つまり仏教なんや」
けれど、ぼくらはいつも腹を空かし、ただ眠りたかっただけ。だから正月も屎もなく、粛々と続いただろう祝聖の間も泥のように眠りこけた。
あとは知らない。はたと気づいて跳び起きると、中庭に雪は止んでいた。どういうわけか、宵の雪も朝には上がる、不思議な京都の空だった。
そして北山颪にも、あれほど碧く楚々としていた青木も一夜で凍てつき、葉は撓垂れ、幽霊の陰手のようにだらしない。それを宥めるように綿雪が、白梅のかたい蕾をふんわり包み、花が開いたようで温かかった。と、かた、かた、かた、下駄の歯音に、ぼくらは蒲団を撥ねた。
「戻ったぞ」
大戸が開いて、和尚だった。後ろで兄弟子が鼻の頭を真っ赤にしている。
「雪は、止みかけが、いっちょう冷える」
玄関の上がり端に両手をついて沓脱に下駄を脱ぐと、ぼくらを見回し、
「仕度しておけ」
短くいって奥の書院に猫背に消えた。
そしていくらもしない。戻った和尚は作務衣姿だった。もちろん、ぼくらも同じに待っている。恒例の年明け作務、といっても例年なら、参道の枯葉や落ち枝をさらりとやってそれで終わる。ところが大雪のその年は、南門を下りた歩道の雪掻きまで加わった。
門前の電車道は、さすがに雪の元旦、走る車もぴたりとなくて、真ん中に軌道が四筋、黒く走ってなければ、ただの雪野原と見えただろう、大路がさらに広く見えた。すると余計に背筋が寒く、たまらず霙の浸みる藁草履で何度も足踏みしてみるのだが、冷たさも通り越してただ痛いだけ。と、そこは我慢。杷で雪を掻き、竹箒で掃きながら進むと、やがて手も足も不思議に、ほこ、ほこ、作務衣の背中も汗ばんだ。そうして半時、石畳の目地も露わに歩道が蘇った。
「かなんなあ」
背中に聞こえた。二人連れだった。道行の肩を羽毛の襟巻に包んで首を窄め、建勲詣でか今宮詣でか、ぼくらを見留めると、
「おめでとうさん」
母親らしい年配女が白く息を残して通り過ぎた。
ぼくらは、のそっと会釈する。と、
「やあ、おめでとうさん、足元、気いつけてお詣りやす」
和尚がにっこりこたえた。
それにぼくらはあんぐり眼。京都も、ことに禅寺は町家と甍は並べても、どこか一線を画するけしきがあって、よほどの見知りでないかぎり、行きずりに声をかけることなど更々なくて、後にも先にもそれきりだった。
そんなことも懐かしく、電車道から、まっすぐ伸びる参道をぼくは辿っていた。あの頃は嫌な道だった。それが、なんとなく温かい気がするから不思議で、
「ご無沙汰してます」
声をかけると振り向いた。南門のとば口だった。参道脇に背中を見せて屈んでいた。てっぺんの大きく平たいつるつる頭だからすぐわかる、一番上の兄弟子だった。
「ちょっと近くまで来たもんですから……」
そうではなかったが、そうしておいた。すると、しばらくあって、
「おう、おまえか」
ようやく記憶を繋げてくれた。
家人は里に帰り、一人正月の、空虚暮らしのふらり旅だった。明けて二日でもよかったが、あの感触をどうしてもたしかめておきたかった。
「久しぶりやなあ、元気にやっとるか?」
団扇顔をさらに広げて目を細めた。
「やっぱり作務でしたね」
傍の杷を指さすと、あとはわかってくれたようだった。
ぼくには三人の兄弟子がいた。いっしょにいたのはばらばらで、いずれも僧堂勤めが終わったあと、すぐ上の一人は奈良の大宇陀の末寺に入り、中の兄弟子は和尚の寺を嗣ぎ、一番上の兄弟子は、訳あって偶々空いた隣の塔頭に入っていた。
「よう覚えとるなあ」
宗門には休日も旗日もなくて、元日といえども欠かさず作務に出る、あの頃の慣習をいっていた。
「いまはむかしとちごうて、祝聖のあとくらい、炬燵にもぐっとってもええんやが、なんちゅうか、体が覚えとるんやな。ごろごろしてると気持ちが悪い」
いってはみたが、ちょっとつらそうに両手を膝に立ち上がると、くの字に曲がった腰を擦った。
「齢には勝てんでな、へたったら、じきにこないになりよる」
「あの年は大雪でしたね」
すると、またわかってくれた。
「せやったな、もう何年になるかなあ」
ぱた、ぱた、と、作務衣の塵を払いながら背を伸ばし遠くを眺める。そんな眉にも長く白いものが目立つようになっている。
「五十年ですよ」
「そないになるかなあ。あちこち、体にがたが来るはずや」
首を捻って笑ったが、ややあって、ぼくを見据えた。
「で、ほんまは、序でやないんやろ」
とっくに見透かされていた。
「まあ、ええ、ひさしぶりや、ゆっくりしていけ。老夫婦だけで、だれも居いひんわ」
と、くるりと背を向け、先を行った。
思い立ったら、電話も入れずにふらりと訪ねる。ぼくの悪い癖で、胸の内で詫びながらあとについた。といっても目と鼻の先、南門とは築地続きの棟門を入ると、茶枯れた下りの苔庭を飛び石伝いに、とん、とん、行って玄関脇の木戸をくぐった。きーっ、蝶番が情けなそうに小さく鳴いた。
「おーいっ」
勝手口で奥を呼んだ。
「めずらしいもんを拾うてきた」
人を塵か糸屑のようで、小耳に障ったが、それもすぐに心地よい響きになって消えている。どういう理由か、結界の内、特有の物言いで、ああ、そうだったね、と思い出していた。
「あら、ほんまや、めずらしい」
前垂れで手を拭きながらおくさんが暖簾から、と思ったら、
「はて? どなたはんどしたかな」
この街らしい惚けといっしょに笑顔を返してくれた。軽く無沙汰をたしなめているのだった。
「久しぶりやね、おめでとうさん」
大阪も根っからの船場育ちなのに、すっかり京言葉が板についている。ただ、抑揚の匙加減がいま一つだった。ぼくもそうだが、大阪人に京言葉は難しい。どこか根っこのところで張り合うものがあるのか、綴りでは変わらなくても言葉の節々の上げ下げに、いうにいわれぬちがいがあって、たとえば〝おおきに〟も、大阪では平たく流すが、京都人は〝おーきに〟と一山つくって念を押す。だから大阪人がそれを真似ると、人を小馬鹿にするようで禁忌だが、檀越相手の鍛錬の成果か、おくさんの大阪訛りの京言葉にはあのべたつきがなく、さらりと柔らかく気持ちよかった。
「お正月やからね」
あとについて通されたのは方丈の書院だった。それをすぐに兄弟子が追ってきて、
「ちょっと早いが、茶いうんもなんやから」
一升瓶を見せて、にやりとした。
「いけるやつとは、これにかぎる」
そうして、二人、昔語りに、やがて酔いも回り回って、何を思ったか、兄弟子が、ぐいっと呷った杯をぼくの鼻先に突き出した。
「それでやが、おまえはどない思う」
睨むように赤ら顔でいう。
んっ?
なんのことか、わからないでいると、
「わしも、そろそろ、けりをつけようと思うとる」
真顔にいった。
「息子らも独り立ちして外でなんとかやっとおる。それはええんやが、気になるんはこの女なんやな」
脇には少し下がっておくさんが、にっこり笑顔でちょこんといる。
「和尚がいうとったんを覚えとらんのか?」
わからずにいると、呆れたようで、
「寡婦、女犯の付を喰う」
吐いて、への字に口を結んだ。
「………」
返す言葉がなかった。
と、ぴしゃり、
障子戸の外、広縁先の泉水に、魚が跳ねた。
ぼくには意外だったが、和尚にもおくさんがいた。庫裡奥に人目を憚り、大黒という言葉もまだ少しは生きていた時代だった。それを不浄に思ったのが釦の掛け違いで、やがて寺を逃げることにもなるのだが、何も知らない少年だった。
たしか東京の、ごふくばし、といったと思う、音の響きで浮かべるだけだが、帯の老舗問屋の出戻り娘で、齢の割りに丈のある、細面にきりっと柳葉目の、たぶんむかしはきれいな女だった。
「茶会で遇うたんを、人に頼まれて知り合いにすすめたんやが、ひょんなことでわしんとこに来ることになった」
和尚は嘯いたが、さてどうだったか。ともに五十手前でいっしょになって、七十を過ぎておくさんの方が卒中で寝込んだのを、五年看たあと冥土に送っている。その野辺送りをすませての夜だった。
「ご苦労やった」
奥の書院にぼくらを並べて、ぼそりといった。
「可愛そうやったが、寿命やったと思う」
そして、あれこれ、ぼくらにも労いを忘れなかったが、最後に一言、
「やっと、肩の荷が下りた」
だれにいうともなく呟いて、それでなくても撫で肩をさらに落として背中を丸めるのを、ぼくらは想い想いに見とめていた。
それを、同じように兄弟子が、
「あのときはわからんかったが、ここに来て骨身に染みる」
眉根を寄せていうのだった。
住持遷化で住寺を明ける、禅門には譲れない鉄則があった。理屈はどうあれ、住持が逝けば寺を明け渡すのがあたりまえ。晋山といって次の住持がやって来る。だから女は居られない。いまはどこもだれ合って、娘に婿をとってまで誤魔化しているが、ほんとうはいけないことで、行雲流水、処定めず遊行に生きるのが禅僧だから、本来、禅僧に住寺はもちろん戸籍もない。出家とは家を出ること、つまり姓を棄てること、父との縁を切ることなのだから。
それが明治に入って、肉食、妻帯、蓄髪も勝手次第となり、それどころか苗字も持たねばならなくなって、さらに生きる糧の托鉢まで禁じられてしまう。太政官布告、問答無用のお達しだった。ねらいはもちろん明治政府による寺領奪いだったが、苗字を持つというのは、素直にいって還俗することで、そうしてこの国に、ほんとうの出家は一人もいなくなっている。居処を定めたから、道に頭を聚むことなく、衣食のために生きねばならなくなった。宗門、とりわけ禅門の、じつは苦難のはじまりだった。
兄弟子は続けた。
「息子たちの世話になるんもええが、そうもいかんでな」
衣紋掛けのように厳つかった肩もすっかり落ちている。それをおくさんが脇から助けた。
「知ってはるやろか? 男山のちょっとこっち。むかしは、竹藪がずうっと続いてたんが電車から見えましたやろ。あれがきれいさっぱり分譲地になってね、そこに上の子夫婦がおるんですわ、孫もできて」
目を細めたが、
「けど、いろいろあってねえ……」
兄弟子の横顔を窺うようにあとを濁した。
「どこにお勤めですか?」
ぼくは話を振った。
「はあ、大阪の天満の製薬会社に行ってるんやわ」
「早いもんですね」
いいながら、空で指折り算えていた。あれはいつだったか、まだよちよち歩きだった。
「あっという間やった。男の子やったんでうれしゅうてな、学校に上がる前から剃髪さして、経も教えてはみたんやが……、反対の方に行ってしもうた」
肩を落としてうつむいた。
だから、むかしをいってみた。
「可愛かったですよね、くりくり頭で。ほら、そこの広縁で胡座の膝に乗って遊んでおられた。あれは何歳ぐらいでしたかね」
寺をしくじって、十年ぶりだったか、訪ねた一日のことだった。兄弟子も家庭を持ち、子どもも二人に増えていた。それが墨染一色の禅寺に、淡く桃の花でも咲いたかのようで、禅寺にもこんなけしきがあったのか、とぼくらのむかしを思って、不思議な温もりを、割り切れないまま、ぼくにはうれしかった。
「けど、よかったと思うとる。いまは山内どこも息子や娘にあとをとらせよるが、あれは、やっぱりいかんこっちゃ」
ぼくは黙ってうなずいた。
「ほんまをいうたら、息子が二人とも、寺はやりとうない、て、いうてくれたんで胸を撫で下ろしたんやった。あとのことは、わしら二人の問題やからな」
すると、おくさんがにっこりいった。
「お嫁に来たときにね、わたし、この人にいうたんですわ。うちは好きでここに来ましたけど、子どもには押しつけんときましょね、って」
さっきまでの〝和尚さん〟が〝この人〟になっている。そして、よっこらしょ、と掛け声一つ、空いた銚子を盆の上に敷居を出た。その後ろ姿を、兄弟子が、そっと肩口から見送っている。
「住持の務めは、ほかでもない、預かった寺を護るだけのこと、そしてもともとあったままにお返しする、これに尽きるわな」
静かにいって、
「たいしたことはできんかったが、ここを護るだけは、わしにもできたと思うとる」
満足そうにした。
「ここは、ほんとに酷かったですからね」
「そやったなあ、本堂も、大棟が蛇のようにのた打って、あちこち、ぺんぺん草まで生えとった」
本山塔頭にあって嘘のような話だが、ほんとうで、ぼくらの寺とは隣り合っていたから、荒みようも築地越しに窺えて、あれやこれや、京童さながら悪たれ口を叩いたものだった。あろうことか、先住は博打に入れ上げ、終ては金貸しにまで手を出し、夜逃げ同然に雲隠れしていた。
子どもも、たしか女の子が二人いた。上の子は小学校に上がっていたか、表の参道で二人鞠つきをしたりゴム跳びをしたり、無心に遊ぶのを、遣い走りの行き帰りにそっと尻目に温かかった。その襤褸寺の再建に和尚は兄弟子を入れたのだった。あの頃、和尚は宗門筆頭の最高顧問、すべてが意のままだった。
「びっくりしたなあ、上がり端に立ったら、床が抜けたんやから」
団栗眼が団扇顔をさらに大きく見せた。
「それを大工を頼んで、いっしょに遣り替えたんやった」
「そうでしたか」
逃げたぼくはそれも知らない。
「屋根だけやのうて、建具も何も滅茶苦茶でな、障子の開け閉てもぎしぎしいうて、桟もあっちこち、毀れとった。けど、もったいのうて、部材を買うてきて挿げ替えたんやった。ほれ、そこも色が斑になっとるやろ」
広縁との仕切りだった。建て付けの怪しそうな障子戸を指さした。焦げ茶に煤けた桟の節々に色の浅く抜けたところがいくつも見える。すると、明るくいった。
「知ってるかな? 修学院に抜ける、ほれ、雲母坂のかかりに古い百姓家が空いてるらしいてな、植木屋の親爺が見つけてくれた」
比叡山の登り口に物置同然にあるらしかった。
「そうですねん、茅葺きでね、だいぶ草臥れてるみたいやけど、造りはしっかりしててね、二間続きに納戸とお勝手があって、年寄り夫婦にはもったいないくらいで」
敷居の外、廊下を戻ったおくさんもうれしそうだった。それを兄弟子が振り向いて銚子をとると、
「熱いのんをいこう」
と促した。
「宗務総長も春には満願でな、大燈さんも、もうわしに用はないやろう、ええ頃合いやと思うとる」
黙ったまま、返事代わりに杯を、ぼくはぐいっと空けて差し出した。酒には笊の兄弟子だったが、呑むとすぐに赤くなる。そこへ気の緩みも手伝ったか、火照り顔をさらに赤らめ、ぼくも久しぶりに心地よく、時間を忘れ、夜は宿に戻れないままになっている。
それから一年、暮れの挨拶に送った新酒に、明けて春、短い便りがあった。
『御身健勝問候。歳晩、美酒恵贈、唯々感謝』
あの日蓮さんも顔負けに、ぺんぺんと裾の跳ねた勢いのいい筆だったのが、蚯蚓が這ったようにくねくねと、あちこち擦れたり、少しの震えも見えて、先をこう結んでいた。
『拙僧、故あり余生断酒を誓い候。只今、鍛錬中』
断酒?
嫌な気がした。
どこか体でも悪くされたかな?
心配したが、所番地の以前とちがうのに事情が読めた。
「やっと、自由になった……」
そんな声が聞こえる気がした。
香り梅
小僧部屋に一つ開いた腰窓の、明かり障子の向こうだった。本堂に続く渡り廊下を挟んで中庭の、深く苔を被った築山の裾に、腰丈ほどの雪見灯籠があって、脇から梅の古木が傘を差しかけるように乾いた枝を広げていた。
それがなんとも花が遅くて、三月に入ってようやく、ここは桜に越されては顔が立たん、とばかり、薄紅色に蕾をつけた。そして半ばを過ぎると枝一面に大きく咲いて、寒の名残の北山颪に、ひらり、ひらり、花弁を散らすと、薄茶に萎んだ萼の付け根を淡い緑に膨らませた。
丈はそんなでもなかった。いくら背伸びをしても、弓反りの本堂屋根の庇にも届かない。それでも毎年、 七、八十は実ったか、梅雨はじめに庫裡裏のもう一本といっしょに摘んで、庭蔵から担ぎ出した丹波の大壺に塩を塗して重石を置いた。
そして二十日ばかり、壺の口まで果汁でいっぱいになったのを、一つ一つ取り出して、方丈庭に三日三晩、天日に干したあと、また大壺に戻し、塩揉みの紫蘇を着せてゆっくり寝かせた。それを朝に二、三粒、次の夏まで粥座の卓に乗せたのだった。
「わしが来たときから、あんなもんやった」
和尚がいったから、ずいぶんな樹齢だっただろう、ずんぐりむっくりの太い幹は中程から根元にかけて、ぱっくり、縦に大口を開け、がらんどうの腹腔が痛々しかった。それがどうしたわけか、明くる年にはどの枝も隠れんばかりに花がつき、梅雨の長雨前には鈴なりに実を膨らませた。
「こいつ、どないしよったんやろ?」
びっくりしたのは和尚だった。ただ、ぼくら小僧は塩漬けしたあとの日干し作業がたいへんで、ふだんの竹籠だけでは足りなくて、夏の日除けに使っていた葦簀を、これも庭蔵から引っ張り出して方丈庭に広げた。
そして秋口、台風一過の、からりと明けた朝だった。苔庭の落ち葉や枯れ枝の後始末に忙しいぼくらの後ろで、倒れた。
それが、んっ? と周りを見回したくらい、静かだった。
「最期を悟っとったかな?」
すぐ傍の渡り廊下で和尚がいった。東司への帰りだったか、寝間着姿で、いつもならぼくら小僧といっしょの作務衣なのに、その日はめずらしく風邪をこじらせ寝込んでいた。
「寿命やろう、根方はそのままにしといてやれ」
体が辛かったか、それだけいうと奥の隠寮をさして、とぼ、とぼ、行った。その丸めた背中を、ぼくらは庭先から見送った。
「ほんに、これじゃ、倒れるわな」
根方を覗きながら上の兄弟子が、丸い目をさらにぱちくりさせて呟いた。黴なのか苔なのか、倒れた幹はかさかさに粉が吹いて、そのまま風呂の焚き口に突っ込めば、きれいさっぱり灰になったにちがいない。ただ、兄弟子はやさしかった。鳥取の、たしか東郷の人だった。担いで運ぶと小枝を払い、庫裏裏の、納屋の軒下に立てかけた。それを後日、和尚が通りがけに見つけ、なにやら気儘につくって自慢した。
「ほれ、見い、ええ仏さんになりよった」
どこにそんな技能があったのか、といってとくに鑿を揮ったわけでもなく、もちろんそれに堪えられるほどの幹でもなかったから、ちょっと力を込めただけでも、さくっと毀れる。それを腕丈ほどに細長く手折り、あとは小刀で刮ぎ落としただけの素直なもので、勝手に仏の姿に見立てて隠寮の客間の床に置いていた。円空のそれ、といえばわかりよいか、もちろんいい過ぎなのはわかっているが、妙に和尚は気に入って、来る客相手に鼻の穴を膨らませた。
「どや?」
いわれて客もこたえようがない。けれどそこは人扱いには強者ぞろいで、
「なかなかのもんですな」
決まり文句でさらりと躱す。そのように和尚が勝手に納得しているだけで、どんなに目を凝らしても、ただの枯木の木っ端だった。それが偶には、できた客もいて、
「ほおーっ、これ、和尚さんが? なかなかよろしなあ。この辺りの線の流れ具合が、なんというか、味があります」
とくすぐってみせるのだが、そこまでだった。だから客が表に消えると、
「も一つ、わからんやっちゃ」
舌打ちして、一月ばかりでどこかにやってしまった。
そんなむかしも懐かしく、二人、彼岸過ぎの一日だった。
「大宇陀に行きたいんですが……」
近鉄名古屋線を桜井に下る少し手前、榛原駅の改札だった。駅員に訊くと、なんのことはない、すぐ前にバス乗り場があった。
県道に出ると、乗合バスは宇陀川に沿って、がた、ごと、走った。そして谷奥さして半時間ばかり、揺られ揺られて小学校らしき校舎を過ぎたあたりでたしかめてみた。
「かぎろひの丘って、ここら辺ですか?」
すると一瞬、首を傾げたが、すぐに笑顔が返ってきた。
「ああ、万葉公園な。それやったら次の停留所を右に入ったとこですわ」
同年輩の運転手だった。
脇道を入ったが、春の空はわからない、東京でからりと晴れていたのが、名古屋に入ると薄墨雲が流れはじめ、名張を過ぎると、ぽつり、ぽつり、窓を濡らしていた。それが急に荒れ出して、広げた傘をしならせた。
「大丈夫?」
気遣いながら野道を行くと、くねくね坂の上りの終てに大きな茅葺き屋根が頭を見せた。
「松源院を知っとるか?」
前の年の暮れだった。無沙汰続きにぶらりと大徳寺に上の兄弟子を訪ねていた。
「大宇陀のな、かぎろひの丘いうて、ほれ、人麻呂の、あれ……」
兄弟子もそうだったか、ぼくもここに来てちょっと惚け気味で、すぐに言葉にできなかったのを、ええ、とわかったふうにこたえると、
「あのちょっと先や、序でがあったら、いっぺん行ってみい」
といわれていた。
人麻呂の……、と兄弟子が額に手をやったのは、ひんがしの野に陽炎の……、とはじまるあの歌だろう、あたりが整備され、名前もきれいに万葉公園となっているらしかった。
松源院といったのは、大徳寺二十六世住持で、一休さんの兄弟子にあたる養叟宗頤の塔所のことで法嗣の春浦宗凞が開いている。大徳寺ではごく初期の塔所だが、失火で焼けて廃絶のままになっていた。それを和尚が大宇陀に古民家を借りて再興していた。
養叟といえば、河内から紀ノ川に抜ける紀見峠にしばらく庵を結んでいたこともあるらしいが、どうして山内でなく、縁も所縁もない遠く離れた大宇陀だったのか、ぼくなりにいろいろ想像してみるのだがわからない。焼けた松源院の跡地には方丈を移したから、山内には影も形もなかったが、代替地は境内南の外れの一画に残されていた。それを隣接する塔頭が、たぶん戦後のことだろう、いつの間にやら自院の墓地に転用してしまった。だから再興するにも行き場がなく、外に伝手をさがして大宇陀を選んだのだった。養叟には勝手のちがう馴れない土地で気の毒な気もするが、やっぱり、和尚は大徳寺最高顧問、すべてが我が意のままだった。
養叟宗頤という人は、法嗣の春浦宗凞同様、いろいろ話題の多い人だったらしい。あちこちで女性との関係も取り沙汰され、一休さんの『狂雲集』や『自戒集』でも、二人とも、ここでいうのも憚るような口汚い言葉で扱き下ろされている。もちろん一休さんはたいていの人にそうなのだが……。ただ、女性といっても、二人が関係したのは、社会でいうその筋の人ではなく、尼僧だった。だから同業の一休さんも具体的なことまでは伝えていない。
ここで知っておきたいのは尼僧というもののほんとうの姿だ。この国での尼僧は、記録に残るところでは、蘇我馬子のもとで技術集団の長だった司馬達等の娘が、渡来した高句麗僧から受戒して善信と名乗ったのが最初とされている。それが翌年、物部の廃仏騒動で法衣を剥がれ、海石榴市といって、いまなら駅前広場かコミュニティーセンターにあたるだろうか、公衆の面前で鞭打ちにされたという週刊誌的な話も記紀にはあって、女性の出家は容易でなく、天平期には国分寺と並んで国分尼寺もつくられるが、以後、平安期を通じて女性に戒を授けることは許されなかった。
もちろん貴族の妻たちは、床避りといって、一定年齢を過ぎると若い後妻にあとを譲って出家、尼になることがふつうにあった。ただ、それもあくまで私的なもので、正式な尼僧はどこにもいなかった。平安仏教の双璧、空海の高野でも最澄の比叡でも尼僧への授戒の例はない。
それに道を開いたのが鎌倉仏教だった。多くは室町期に入ってからのことだが、ことに臨済禅で盛んだった。ちょうど養叟の頃にあたる。スポンサーである檀越の室町貴族や足利将軍家一族の女たちの要望にこたえたもので、本音をいえばかれらからの寄進を期待したものだが、養叟も春浦も盛んに授戒した。だから女性の出入りも当然だった。
同じことは武士社会にもいえて、平安仏教から疎外された新興の鎌倉仏教は、中央貴族社会から弾かれた地方武士団に門戸を開くことで宗門維持を図り、地方武士はそれを受け容れることで中央に勢力を結ぼうとした。地方武士団に、禅、ことに臨済禅の帰依者が多かったのはその結果で、春浦の場合は、たとえば関東武士団の雄、北条早雲が若い頃から師事していた。
「あれかしら?」
前を行っていたのが思案顔に振り返った。二人だけの野道は、春の嵐の小高い丘を上っている。それをさして、途中、民家を二、三軒、やり過ごして辿ると黒塗りの長屋門の前に出た。ずっしりと重そうな、四角張った門柱に青い真竹の結界が二本、ぴしゃりと、向こうとこちらを隔てている。どこか俗世を蔑むようで、むかしを思い出して足が竦んだ。
「入れないのかしら?」
不安そうにした。
すると、後ろで声がした。
「お詣りですか?」
後ろ手に、白髪頭の老爺だった。
「以前は、こんなんやなかったんですがな」
苦々しそうに青竹を顎でさした。
「いくら流儀いうても、わしら村の者にしたら、なんや除け者にされてるようで、いただけまへん」
と、呆れ顔。
「前任の和尚さんは、そら、まあ、気のええ人でな、門もどこも開けっ広げで、わしらも用もないのに、茶飲み話に入ったり……。それが、今度の人はこれですわ」
門柱の厚い木札を睨みつけるようにした。拝観謝絶、と筆跡も黒々と真新しかった。それを二人、遠く、何気に眺めていると、気の毒に思ったか、
「なんやったら、頼んでみまひょか」
気遣ってくれたが、むかしは結界の内の一人だったから、拝観など、そんなつもりは更々なくて、
「結構ですよ」
とお礼をいったが、隣を見ると、気になってしかたがないらしく、ちょこ、ちょこ、行くと青竹の結界越しに奥を窺うように身を乗り出した。何にでもすぐに興味を示して、おまけに諦めの悪い人だから、旅の先々でそんなふうにいつも二人はちぐはぐになる。ただ、その日はぼくもつい釣られ、あとを追って後ろを肩口から首を伸ばした。
まず、まっすぐ、枝垂れ桜の老木が目に飛び込んできた。庭先のどん突きに存在感を示していたが、花はまだない。そして後ろの白壁塀の上には、吉野の峰々だろう、烟って見える。その脇に長棟の母屋が手前から長く続いていた。桁行十間はあるだろう、大棟だが、ふつうの民家で、濡れ縁も入り口の大戸もぴしゃりと閉ざされたまま。入母屋の大屋根は、茅葺きだったのを葺き替えたか、鼠瓦が真新しかった。
「へえー」
何かを見つけたようだった。
「どうかした?」
「ほら、あそこ」
大棟の妻のあたりを指さした。
「なんか、変よね、あの窓」
いわれてみれば、破風の真下に、明かり採りなのか、小窓が見えて、青やら赤やら緑色に光っている。ステンドグラスだった。
「お寺なのに、なんか、意味があるの?」
と、ぼくを見上げた。そして、息つく間もなく、
「ほら、このあいだの、あそこ、あれといっしょよ。何ていったっけ、あのお寺」
んっ……?
「そう、そう、新薬師寺よ、あそこの窓も同じだった」
自答して、一人、すっきりしていた。
このあいだ、といったがもうずいぶんになる。三輪山の裾から山辺の上ツ道を北に春日まで歩いたときのことで、日の暮れ前にそばを通ったので訪ねていた。日本最古だという十二神将をおさめた堂宇の一画の東側だったか連子窓に、不思議な緑や赤の賑やかなステンドグラスが嵌まっていて、二人、目を丸くしたのだった。おまけにモーツァルトだったか、リフレインのしつこい音楽も流れていた。
「ほんま、けったいでっしゃろ?」
後ろで老爺だった。
「ようわからんのやが、あすこで、なんや、坐禅でもしよるみたいで、むかしの屋根裏をやり替えたんやろな、仏さんも祀ってあるらしいてな。ときどき外人さんも来てなさって、妙な音楽もかかっとりますわ」
「禅堂かしら?」
脇からいった。最近、けっこう仏教伽藍に詳しくなっている。
「そうでっしゃろな、もう三年になりますやろか、大けな台風が来よりましてな、屋根が飛ばされたんですわ。それでわしらも手伝うて葺き替えたんやが、そのときに改造なさったんやろな」
老爺も入ったことがないようだった。
ぼくは思い出していた。
「新聞、見たかい?」
晩飯のあと、ごろりと横になってテレビを見ていたら電話が鳴って、受話器を取ると親友だった。
「和尚さん、亡くなったね。訃報に出てるよ」
そして明くる始発の新幹線に乗ったのだった。
逃亡のあと一度も訪ねていない。盆前の暑い一日だった。記帳の列に並び、仏殿の柩の前に手を合わせ、ふと見上げると、うおーん、うおーん、と声明の重く響くなかを、けしきのちがいに、あれっ? と思った。仏殿古来の瓦敷きの床はそれでいいのだが、脇の連子窓に光が鮮やか過ぎた。びっくりした。なんと、七色のステンドグラスが填まっている。
逃亡のあとしばらくして和尚は中の兄弟子にあとを譲り、本坊裏に、開山大燈の孫弟子にあたる言外宗忠の塔所を復興して移っていた。だからぼくにははじめてだった。禅門にどうしてステンドグラスなのか、不思議だったが、和尚のことだ、きっと深い理由があるんだろう、とそれぐらいに思って心の隅にかたづけていた。
和尚は、百歳を過ぎても変わらずにいた。
──お茶と作務は、長生きの秘訣じゃ、
口癖だった。抹茶を飲むと癌にならないらしかった。毎日欠かさず作務を続けると惚けないらしかった。人一倍、健康を気にかける人だった。
といってもさすがに足腰も弱り、冬の一日、朝課の仏殿で転んで瓦床に腰をむさんこに打ちつけ、車椅子暮らしになっていた。けれど元気でいた。
それが急に逝った。百と五歳だった。この国の僧尼に長生きが多いが、なかでも最上位に入るだろう。野送りには山内住持がそろって顔を並べた。法衣袈裟懸け姿で、それぞれ腹を抱えるようにでんとはしているが、よく見ると、あれ、あいつか? あれもだ、と、かすかに覚えのある顔もいくつかあって、といってもやはり落第小僧の身、憚るようにして遠く柩を見送った。
ゆるり、ゆるり、時を惜しむかのように黒塗り車が参道を行く。と、引かれるようにして、位牌そして骨箱を胸前に、上の兄弟子と中の兄弟子が先導して、そろり、そろり、列が続いた。和尚には、知ってる限り六人の弟子がいた。けれど、結局は二人だけになっている。その葬列のどん尻に参道を外してぼくはついたが、三門を過ぎて惣門にかかる手前だった。列はいったん足を止め、上の兄弟子と中の兄弟子がやはり位牌と骨箱を胸前のまま参道を逸れ、三門の東脇を奥に向かった。あたりは、一見、変わらないように見えたが、生け垣に隠れるように鉄柵ができて、立ち入り禁止の高札もかかっている。思案のしどころだったが、かまわず人垣を抜け、少しの距離を置いてぼくは二人を追いかけた。
左に三門、仏殿、法堂が一直線に、右手に浴室と経蔵が変わらずあるが、ふと、むかしのけしきが記憶の底から溢れ出て胸が熱くなった。
せかせか先を行く和尚、
屈み込む和尚、
振り向く和尚……、
その背中を追って作務に走ったのだった。そしてどん突き、方丈を囲む白塀前で二人は足を止め、徐ろに経を上げはじめた。塀の向こうには開山大燈の廟があるはずだ。ほんとうなら亡骸といっしょのところを、和尚に代わって開山に別れを告げるためだろう、そうして黒車は惣門を抜け、和尚の七十年の大徳寺も終わっている。
「どうです? こっちに来て一服しはったら」
老爺に誘われて入ったのは松源院とは野道を挟んで斜向かい、真っ黒な煤壁に真っ白な海鼠漆喰壁の対比も鮮やかな土蔵だった。棟の瓦も新しい。その入り口の三和土の隅に、老爺は丸椅子を二つすすめてくれた。
「ご存知やろか、京都の大徳寺はん? そこの和尚さんの記念館なんですわ。有名な方でしてな」
いいながら脇の小部屋に入り、しばらく、こと、こと、やっていたが、やがて湯呑みを載せた丸盆片手に戻ってきた。
「遺品やらなんやら、いろいろ置いとりましてな。無料で公開してますんやが、いうてもこんな田舎でっしゃろ、滅多に客ものうて、大概は閉めとるんですが、休みの日だけ、こないして交替で留守番がてらに来てますんや。村の老人会ですわ」
変わらず笑顔がいい。もちろん兄弟子から聞いて知っている。それが目的で来たのだが、老爺に悪い気がして、行きずり、ということにしておいた。
「一階の方は、村の民俗資料室ちゅうことになっとりましてな」
奥の扉を指さした。染みだらけの節榑立った指だった。
「いうても、ぶっちゃけた話、唐箕や蓑傘や、ご存知やろか? それに古い指物もおますがな、百姓家のごたごたを並べとるんですわ。和尚さんのは二階で、ほれ、そこの階段を上がった先にスイッチがおますさかい、好きなように見たってください。人がおらんのに、点けっぱなしいうんももったいないんで消しとるんですわ」
そのように、階段を上がった先は踊り場から真っ暗だった。が、やがて馴れた目に壁のスイッチも見つかって、ぱちん、と入れると陳列室だった。季節のせいもあったが、寒々として黴臭い。
「へえー」
脇で、齢に似合わず黄色い声を上げた。驚きなのか期待外れなのか、けれどぼくには宝物の隠れた秘密の蔵のようだった。
まず見つけたのが頂相だった。禅門流の肖像画といえばいいだろうか、射貫くような険しい目つきだが、ぼくにはわかる笑みがあった。
「これ、和尚さん?」
顎をしゃくり上げた。
「何歳ぐらいかしら、ずいぶん若く見えるわね」
「いた頃じゃないかな」
適当だったが、そんなに外れてもいないだろう。あの頃、和尚はもう七十近かった。ただ、だれの目にも十は若く見えただろう、せかせかと忙しい人だった。そんなことも懐かしく、次の陳列棚に丸い硯を見つけた。おーい! 奥の隠寮から呼ばれては、墨を磨らされた。野面石をそのまま彫り上げた和尚好みの逸品だった。
それでまた思い出した。
和尚はときにとんでもないことをする人で、庫裡玄関の上がり端の床が緩んで新しく張り替えたときも、削り立ての無垢板が周りにそぐわない、と、ぼくらに墨を磨らせて床に流し、擦らせた上に菜種油をぶっちゃけ、雑巾で磨かせた。いくら擦っても足の裏にべとついて始末に困った。けれど一月もすれば不思議にさらりと溶け込んで、煤けたむかしに姿を戻した。
かと思ったら、今度は庫裡の書院の壁裾が汚くなったのを、上から和紙を貼り、同じようにぼくらに墨を磨らせると、いきなりそれに向かって筆を走らせた。ぼくらはあんぐり眼で眺めている。「どや、ようできとるやろ」と和尚はいって、はっ? と、ぼくらは首を捻ったが、それでも遠目に見ると、なんとなく絵に見えたから不思議で、寒山拾得のそれらしかった。以来、来る客来る客、捉まえては鼻の穴を膨らませたが、それも一月しないで終わっている。
「これ、和尚さんがつくったの?」
隣の陳列に茶杓を見つけている。胡麻竹のいわゆる逆樋というやつで、櫂先にうっすら叢雲が渦巻いている。脇の詰筒には、日蓮さながら、筆足の激しく撥ねた銘があった。まちがいない、和尚のだ。
飽き性なくせに、やり出すと変に根を詰める。茶杓造りもそんな一つで、隠寮の書院で小刀片手に奮闘していた。なんでも、やっかいなのは櫂先を撓めるときだそうで、一日、水に浸けたのを、蝋燭の火にそおっとかざして、曲げてはかざしを繰り返すのだが、廊下の陰からそっと覗くと、熱っ! と耳朶に指をやったり、磨くためだろう、中庭の軒先下に木賊採りに走ったり、忙しくやっていたが、やがて艶やかな、それでいて渋い逸品に仕上がっている。まちがいない、仕上げは法衣の袖先に唾をつけて擦ったのだろう。ほかにも机の上や飾り棚や、和尚の身の回りの道具の照かりは、みんな唾をつけてのそれだった。
四つ目の陳列は蒐集の骨董だった。といっても並んでいたのはほとんどが我楽多で、それもそのはず、これはと思ったものは手に入れた尻から、客に土産に持たせていた。あれこれ集めはしても執着のない人だった。もちろんブランド嫌いだから、野良ものばかりを漁っては、「これにわしの花押が付いたら値が変わる」と嘯いていた。
そんな声も懐かしく、記念館をあとに野道を戻ると、来がけには気づかなかった丘の外れに杜が見えた。ちょうど雨も上がって雲間に青い空が覗いている。
「行ってみる?」
やっぱり振り返ったのを、また牽かれて野道に入ると、棚田の裾を大きく巻いてその先だった。
阿紀神社、鳥居をくぐると高札にそうあった。いまにも倒れそうに傾いて、おまけに腐りかけてもいたが縁起が記してあった。垂仁記らしい。垂仁の遣いで娘の倭媛が、天照大神の御霊を大宇陀に移した。ところが天照大神は、ここは嫌だといって伊賀から近江に出たり美濃に行ったり、やがて伊勢に落ち着いた。伊勢といってもいまの志摩ではなく、あの頃の伊勢はせいぜい四日市あたりまでだった。だから伊勢神宮というのもちょっと怪しい。地名は人口の増加や文化の発展によって周縁に移動する。神武が辿った熊野というのも、じつは紀ノ川沿いのことで、大和の周縁、つまり、隈野だったのが、文化が広がって半島の南の終てまで移動した。だからいまの伊勢神宮の歴史もそんなに古くはなくて、たとえば熱田神宮の方がきっと古いだろう。天照大神も一代前の崇神のときは、娘の豊鍬入媛に祀られて三輪山の西麓の磯城にいた。これは勝手な想像だが、崇神期に同盟関係にあった天照大神に象徴される部族、つまり海女族との関係が次の垂仁期には崩れてしまい、海女族は転々と移動する、その最初が大宇陀で阿紀神社のあたりだったということになる。そして万葉の頃には牧になっていたらしく、そこに狩りに出かけて歌ったのが、人麻呂のあの歌だった。
そんなことを二人話しながら境内をあちこちそぞろ歩いて、さて、帰ろうかと戻った社務所の前だった。
「どちらから?」
硝子戸が開いて、胡麻塩頭の爺さんだった。社務所といっても待合のような小屋掛けで、奥を覗くと同年輩の四、五人が板の間に火鉢を囲んで一杯やっていた。普段着のまま、月番仲間か、湯呑み片手にご機嫌だった。
「東京です」
こたえると、
「ご苦労さんです」
と、ぺこりとお辞儀をしたが、それからが意外だった。
「せっかくのお詣りですよって」
揉み手をしながら、硝子戸の外に置いた縁台に、ちら、ちら、目を遣る。
「どうです? 一つ、御守でも……」
縁台に広げた白布の上には、絵馬やら御札にまざって、あたりで穫れるのか、干し椎茸もビニール袋に入って並んでいた。
えっ? 二人、顔を見合わせた。
そして素直に手が出たのが御璽の御札だった。
「じゃあ、これを」
と、とって差し出すと、
「おおきに、五百円ですわ」
喜色満面、今度は深くお辞儀した。
困ったのは、その御札のおさめどころだった。家に帰って部屋を見渡し、戸棚やら鴨居の上やら、垂仁の天照大神さながら、あちこち祀ってみたが、どこも落ち着かなくて、とどのつまり、トイレに座った目の前に、ちょうどいい飾り棚が見つかって、その板壁にもたれておさまった。思案の末の苦肉の策だった。
それが明くる日、いつものように、その人がやってきて、
「ちょっと、借りるよ」
とトイレに立ったのが、そのまま流れる音もなく戻って来た。
「どうされました?」
心配したら、
「ここのトイレ、畏れ多くてできないね」
笑って、いつものように話を続けたが、やはり我慢しきれなくなったか、
「きょうは、これで」
と椅子を立った。
ぼくを弟のように親しくしてくれる人で、毎日の散歩の途中、いつも時間を計ったかのように、ぴん、ぽんっ、と現われるのがカントのようで、あれこれ茶飲み話をしては帰っていく。話といっても、いつも筋のモジュールは整っていて、最後の組み立てとバグ取りのつもりなのだろう、話したのがそっくりそのまま、しばらくすると、早いときは一月後には雑誌に載って、半年後には本にもなった。
農民詩人とだけ明かしておこう、その人もいまは和尚と同じに鬼籍に入り、だから毎朝、御札には、二つの影を重ねながら、しゃがんでは、深くお辞儀してすっきりしている。
そして、あの梅の木はどうなったか。そっと倒れた明くる春だった。
「おーい」
和尚の声に走ると、中庭に背中を丸めて踞り、枯れ株を、じいっと食い入るように覗いている。
「ほれ、若芽が出よるわな」
うれしそうに指さした、その先に、小さく捩れた萌黄の若芽が風に吹かれて揺れていた。
「ようがんばっとるわい」
にっこりいったのを、ぼくはいまも忘れないでいる。
うつむき椿
方丈庭は比叡山を借景に、東から南にくの字に広がり、築地際には白壁を背に、大人の腰丈ばかりに山茶花の植え込みが続いていた。花弁は白、暮れからちらほら開くと、旧正月を迎える前には盛りになって、それがどれも、こちらに背中を向けて隠れるように咲くからおかしかった。
「むかしの椿いうんは、あれは山茶花のことやな」
和尚の話はいつも突飛に、結びからはじまる。粥座といって、毎朝、文字通り茶粥と沢庵の簡単な朝飯のあと欠かさず茶礼があって、ぼくらを前に一人一人に茶を点てながら、あれこれ話すのが和尚の日課になっていた。ねたはもちろん和尚の思いつきで、季節に因んだこともあったが、だから中身は和尚好みで、ぼくには聞いたこともない、ときにはわけのわからない話ばかりだった。それがいまになって耳奥に、気の抜けたサイダーの泡ぶくのように、ぷっくり湧き出てくるから不思議だ。
とにかく時間があれば机に向かっている人で、物知りにちがいなかったが、といって毎日のことだから、ときには和尚流の作り話もあったかも知れない。そんな和尚に一番上の兄弟子は心得ていて、話がはじまると、ときにはにんまりしながら小指を口にやるとそのまま眉に運んだりしてぼくらに合図を送ったが、あの日にかぎってそれはなかった。
「おまえらもよう知ってるやろが、いまの椿の盛りは春やわな。どんなに早ようても三月にしか咲きよらん」
どんな話がどこまで続くのか、気が気でないが、しかたがない、ぼくらはそれぞれにうなずいた。そのように方丈庭の西の隅、唐門に続く玄関脇に、あれは春日さんといっていたが、たぶん神仏混淆の名残だろう、どうして神明社や諏訪社でなかったか、小さな祠があって、脇からそれを抱きかかえるように大きな椿の老木があった。幹は大人の一抱えもあっただろう、成長の遅い椿だから齢も百歳、いや、もっとだったかも知れない。薄鼠の木肌に亜麻色の斑を散らした太い幹はあちこち瘤だらけで、ずんぐり、むっくり、まるで仁王さまだった。
和尚は続けた。
「椿は木偏に春と書くやろが」
いいながら軽く湯を注いだ井戸茶碗に茶筌をさして、二、三回、くる、くる、濯ぐと膝脇の建水の上に運んで、すっと反した。
「けど、あの春いうんは、いまのようなうららかな春やのうて、新たかな春、つまり正月のことなんやな」
茶碗のお湯は、建水の上で行き場を失い、一瞬、きらりと光った。そして、次には滝のように細い帯を描くと、ほの白い煙を残して建水のなかに、ぴしゃっと消えた。
「せやから、椿は正月には咲いておらんといかんことになる。ちょうどいま時分やな」
と廊下の向こう、坪庭に目をやった。
「見てみい、まだどこにも咲いとらん。それで思うんやが、あの椿いうんは山茶花のことなんや」
ぼくらを見回しながら自慢顔にいうのだった。そんな和尚は、あの頃、とっくに七十を過ぎていただろう。いまのぼくからすれば超人のように思えるが、毎朝、茶事を終えると小雨のなかでも木枯らしの日でも、欠かさず作務に走って出た。
──禅の真髄は作務にあり、
和尚の口癖で、
──勤しみに上下なく師弟普く邁進する、これを普請という、
何かにつけ、ぼくらに説いた。ほかでもない、道路や橋梁の工事をいうあの普請も、もとは師弟そろって作務に励むという禅の言葉だったらしいが、この作務というのがぼくにはほんとにきつかった。
「きょうはどこやろか、あれがなければええがなあ……」
愚痴る兄弟子と並んで、判決を待つ思いで和尚の丸い背中を追った。あれというのは溝浚えのこと。山内伽藍を囲むようにあった堀割の掃除で、むかしはぐるりと伽藍南の電車通りの方まであったらしいが、昭和初めの市電敷設の道路拡張で埋められて、ぼくらの頃には東の惣門前を南北に残っているきりだった。
溝浚えといっても、縁に立って杷や鍬で掻き上げるなんて、そんな生やさしいものではもちろんない。薄氷の泥濘にぬるりと下りて、長靴もない、素足に藁草履のままだった。冬は薄く氷が張っている。夏はそれがなかった代わりに、ねっとり、皮膚に纏わりつく泥の饐えた臭いに鼻が曲がった。
これが作務のワーストワン。次いで境内南の参道沿いの枳殻の垣根周りの掃除だった。観光客や近隣町家の悪たれたちが遊びにやって来ては投げていく塵や紙屑が風に飛ばされ垣根のなかに絡まっている。それを取ったり落ち葉を払ったり、軍手もない素手でやるのだから、指に棘が刺さるのもあたりまえで、下手をすると手の甲の皮膚が裂けて血が滲んだ。
救いは一つ、和尚の仏心だけ。偶に参道をひょっこり止まると、思い出したかのように振り向いた。
「そや、きょうは、おまえは方丈に行け」
このおまえがだれなのか、ただの気まぐれでは決してなくて、過去数日の、いわゆる行ないの査定の結果で、選ばれし者は地獄の亡者が蜘蛛の糸でも掴んだかのように小躍りして参道を戻った。
だから、ぼくらにとって冬の溝浚えはシベリア送りのようなものだった。比べて方丈作務は極楽で、苔庭の落ち葉や塀際に、気儘に散り落ちた山茶花の花弁を拾い回ってそれでお終い。もちろん寒いことに変わりなかったが、苔の蒲団は縮かんだ足の裏にふわりふわりと温かかったし、高い築地は身を切る北山颪から救ってくれて、半ば庭を愉しむ余裕すらあった。だからどこにどんな植え込みや立木があったか、いまもぼくは思いのままに浮かべることができる。
「それで思うんが、お水取りのことやな」
晒し木綿の短冊布巾を四つ折りに、片方を人差し指に絡めると、もう一方を茶碗の肩にかけ、時計廻りに、ぐい、ぐいっ、拭った。
「あれは修二会いうてな、印度で年初めに仏さんに華を供える行事やった」
いいながら、きれいになった茶碗を膝先にそっと置いて前の棗に手を伸ばす。そして上の茶杓を右手でとると薬指と小指で軽く握り、左手で胴を掴んで膝の上に乗せ、右手の残った三つ指で蓋をつまんでひらりと開ける。と、蓋に引かれてふんわりと、鶯色に抹茶の煙が舞い上がった。
「あの華というんがどんな花やったんか、わからんのやが、おまえらも知っとるやろ? 東大寺のあの二月堂のは椿の花を供えよる」
これには一番上の兄弟子がうなずいた。
「けど、あれは、なんちゅうか、造花やな。紙を赤う染めとるらしいが、あれがわしには不思議でならん」
そして茶杓で二匙、茶碗に運ぶと鉄瓶から湯を注ぎ、茶筅を握ると、ぐぁしゃ、ぐぁしゃ、混ぜた。和尚のお茶は忙しくて、点てるというより捏ねくり回すといった方がいい。茶碗の底を掻き毟るように力任せにやるから、茶筌の先の欠けたのが泡ぶくに隠れていることもときどきあって怖かった。けれど、その分、味は極上。きらきらと泡ぶくも若葉色にふんわり膨らみ、それをぼくらは見様見真似で覚えている。
──茶はかたちから、
和尚の流儀で、
──作法は見てとれ、
ぼくらに教えた。
「それであれこれ考えるんやが、仏さんの供華に造花いうんは感心できん話で、むかしは造花なんぞなかったやろし、あの時節に椿も咲いとらんしな」
供華は供花とも書いて、仏に供える四季折々の花のことだが、だから修二会の椿というのは、じつは初春に咲く椿、つまり山茶花だろうというのだった。
東大寺は平城京の一条大路の東の終て、若草山の麓に開け、広大な寺域に、なかでも二月堂は法華堂と並ぶ一番高みにあって、なにより舞台からの眺めがすばらしい。足元に大仏殿の大屋根を見下ろして、緑の杜の向こうに興福寺の五重塔を見越して鼠一色に町家の甍が広がる。遥か先に碧く屏風のように烟るのが信貴生駒の峰々だ。
だから夜景もまた格別。街中の社寺とちがって二月堂は夜も開放されたまま、いつ訪ねてもそのままにある。凍てつくような冬の夜、燈明だけの薄闇に、一つ、二つ、と舞台の欄干に沈む無言の背中があったり、ふと摺り足の気配に振り向くと、小さく唱えるお百度踏みの女の影があったりもする。好きなけしきの一つだが、修二会はお水取りといった方がわかりやすいか、二月堂の春の恒例で、供える椿の花は舞台から南の石段を降りた広場の白壁塀のなか、良弁を祀った開山堂があって、そこの椿を模したものと縁起は伝える。なんでも綾部の黒谷和紙を使ったらしく、毎年、練行衆と呼ばれる役僧たちが手造りしている。それを裏の春日山から伐り出した薮椿の生木の枝に飾り付けたのを供華として、二月堂の内陣の浄めに使ったり、本尊の十一面観音に供えたり、大きいのは堂の四隅に立てかけるらしくて、一度、勤行最中の内陣を堂宇の背中から覗いたが、凍りつくような深夜、一種、不気味な闇中の秘儀だった。
東大寺にかぎらない。法隆寺でも薬師寺でも同じように修二会はあって、いまは三月の頭からに決まっているが、もとは旧暦二月の一日から二週にわたって行なわれたから、年によって日にちも動いた。インドの正月行事だったのが、中国に入って二月になったのは、インドの一月が中国の二月だったかららしい。修は、おさめる、ものをあらため調えるという意味で、二月にそうしたから修二会で、そのための堂宇だから二月堂だった。
「あの供華が椿になったには理由がある」
ぼくらにぐるりと一回り、茶も点て終わっていた。と、ふつうならそこで話もお終いになるのだが、その日はちがった。
「どういうたらええか、日本人特有の死生観というもんがあるんやな」
拭き終えた茶碗を左手に、右手を袖に突っ込んで肩を窄めると、法衣の袖口を指先に摘まんで口に運び、唾をつけると茶碗の尻を擦りはじめた。
和尚は雑巾を知らない人だった。机の上でも棚でも柱でも、果ては革靴でも、なんでもかんでもそうやって袖に唾をつけて擦りたおす。だから和尚の周りはどこもぴかぴかだった。
革靴? きっと不思議に思われるだろう。だから断わっておかないといけないが、山内行事のときの木靴や作務のときの草履は別として、出かける和尚はいつも革靴だった。スリッポンというやつで、爪先のつるりと丸く靴紐のない、英国製の焦げ茶の革靴だった。むかしヨーロッパを行脚したときロンドンで新調したらしかった。と、一番上の兄弟子が、咳払いをしながら横目にぼくらに目配せした。これは長くなるぞ、そういっているのだった。
禅寺の朝は早い。毎朝五時、ことに冬場は真っ暗ななかを、律儀に唸る目覚まし時計の頭を叩くと跳ね起きて本堂に走る。といっても、そうするのは兄弟子だけで、下っ端のぼくは蒲団にもぐり込んだまま。あと五分、もう三分とずるをして、ときには二十分近くも寝坊する。だから、いつもあとからゆるりとやって来る和尚にも先を越されて、気まずい思いをすることも度々だった。勤行はやり方にもよるが、五十分ばかり。終わると、本堂周りや庫裏の掃除が待っていて、仕上げに濡れ雑巾で広縁や廊下を拭いて走る。そのあと粥座があって茶事だった。草臥れたうえに腹も膨れ、そこに長話が続けばたまらない。見る見る上瞼が落ちてきて、ときに舟も漕ぎながら、濁のかかった和尚の声にもぼくは空ろになっていた。
そうして半世紀、以前はそんなでもなかったが、最近、とみに和尚が現われる。夢だけではない、電車を待つ駅のベンチや、風呂掃除をしていたり、いつものなんでもない、無心のときに、ふらり、現われては話しかける。
椿の話もそうだった。和尚なら、ああいっただろうな、こういっただろう、と、ぼくなりに尾鰭をつけて、勝手に思ってみるのである。
「一口に、霊魂いうてもいろいろでな、人は死ぬと魂になるのは同じやが、魂は魂でも、死んで間なしのは荒魂いうて、まだまだこの世に未練が残っとるからやろう、悪さをしよる。いうたら、迷いの魂やな」
そういって、
「それが、なんぼか年季が入って浄められたら御魂になる。同じ魂というても迷いがのうて、いうたら、孫子を見守る性根のええ魂になっておる。これをこの国の人は神というてきた」
ともいって、
「前にもいうたが、その神いうんは、ふつうは山におる。そうやって孫子がどないに暮らしとるか見てるわけやが、気が気でならん。それで年になんべんか、山を降りては里にやって来よる。というても代わりの遣いをやるだけやが、それを山人いうて、つまり神の眷属、わかりやすういうたら付き人やな」
と続けて、
「で、この山人は、年初めの春、つまり正月には椿の木の枝を杖代わりに持ってきて、田圃に入ると、それであちこち撞いて回りよった。田の精霊を目覚めさせる、気付けやな。これ、早よ起きんといかんぞ、田作りに後れるぞ、というわけで、正月だけやない、田植えどきや、稲の花の開く夏の盛りや、刈り入れの秋にもやって来よったわけやが、持ってくる杖もいろいろでな、夏は榎で、秋は楸、それから冬は柊やった」
と、そんなふうにもいっただろう。
楸とはどんな木だったか、植物図鑑を広げても、柏の木の仲間らしいが詳しくわからない。榎は森の大木で、春半ば、目立たないが枝のあちこちから小さく房状に白い花を咲かせるからよく目立つ。柊は、むかしはあちこちの垣根になっていて、葉のとげとげが嫌だったが、わりに可憐な花を咲かせて意外だった。垣根の向こうに木犀の花が終わったあと、小枝の葉の付け根に豆粒のような白い花をいっぱいつけて、わずかに木斛のような仄かな香りがして、きびしい冬がやって来るのを、悪餓鬼だったぼくらにもそっと教えた。どれも木偏に春夏秋冬と書いているが、うまく考えたもので、輸入品の漢語ではない、移ろう四季のこの国でこそ生まれた国字だった。
ぼくは思った。それじゃ、神はどうして山から来るのだろう……。
和尚ならいっただろう。
「それは、わしらの原風景いうんかな。大むかしにやって来たわしらの先祖がそこに暮らしはじめた名残やないやろか、いうたら、故地というやつじゃ」
もう二十年もむかしになる。葛城道を御所から南に下って、高天をさして麓から歩いた。金剛山の中腹のちょっとした台地に開けた小さな部落で、ふと立った田圃の畦から眺めた大和平野がまるで海のようで、霞のなかに畝傍山がぽっかり浮かんで見えて、
真狭き国といえども
蜻蛤の臀呫の如くにあるかな
倭は国のまほらま
畳づく青垣
山籠れる
記紀の条に納得して考古学の定説を思ってみた。縄文後期から弥生にかけてのかれらが住んでいたのは、平地に突き出した尾根の外れか、あるいは平場に浮かぶようにあった小高い丘か、とにかく見晴らしのきく台地で、そこから日々、麓の田圃、といってもたいていは沼地だったが、行き来して稲をつくっていた。闖入者から暮らしを守るためで、高天はそっくりそれを思わせた。
記紀の高天原もそうだろう。この国のどこにもあって、たどり着いたかれらが最初に住みついた小高い丘や、尾根外れのことをそう呼んだのだろうが、そこから田作りに降りる行為が天降るで、見下ろす稲田の沼沢が葦原中国だったのだろう。ほかでもない、神はかれら自身だった。そうして、やがて高みでの暮らしから平場に移ると、かつての暮らしの場は故地となり、祖霊の住処、つまり神の居所になる。高天原から葦原中国に天降る、そんなけしきは、じつはこの国にはいっぱいあって、記紀はそれを瓊瓊杵一人に集めて役者に仕立てた。
では、神はさらにどこからやって来たのか。いうまでもない、この国の場合は海の向こうからで、だから水際に立てば、彼方を祖霊の故地として懐旧の思いを深くした。禊というのも、この思いから来ているわけで、西方浄土というのも、とりわけ仏教にはじまったことでもなくて、この国では、じつは故地懐旧の思いにはじまっている。だから、記紀の高天原や天降る神も、ほんとうは国の創世譚ではなく、たとえば住吉の神が、病んだ妻を戸板に乗せて茅渟の海に流すという淡島伝説も、無慈悲な仕業ではさらになく、魂の故地返しとしてあるわけで、降臨譚よりずっと古いむかしのことになる。
さて、山人というのはだれだったか。たぶんもとは村仲間の一人だったにちがいない。何かの理由で選ばれた、祖霊の故地を守ることを専業とした者、集団だろう。神の付き人、守り人として、特別だったから生業は持たない。だから農事からは超越して、時節の折々に山を降りて神の言葉を伝えた。神の言葉とは、ほかでもない農事の知恵で、それに人は感謝し、できあがった農作物を捧げ供えた。といえばうつくしいが、これも生業を持たない山人だからの食糧調達の手段であって、その交換に、いろんな仕草でその年の豊穣を占って見せたというのがほんとうだろう。
里に下りると村のかかりの辻に、杖にしてきた時節の木の枝、たとえば春は椿の枝を地に立てる。それを人は季節の産物を供えて迎え、その辻が、やがては村の交流と憩いの場になった。それが市だろう。根付いた椿の木が目印になったから椿市と呼ばれて、三輪山西麓の海石榴市もそんな一つだろう、賑わう交流の場だったにちがいない。
ようすはやはり日本紀に見える。細かくなるが、武烈記の仁賢十一年八月の項。武烈が物部麁鹿火の娘の影媛と逢瀬を交わす場面があるが、それが海石榴市の辻で、文物交換の群れのほかにも、歌垣の姿があったことを伝えている。歌垣というのは、歌を詠むのは手段であって、男女が互いに相手を見つけることがねらいの、もともとは豊饒を祈る農耕儀礼の一つだった。いずれにしても、村外れに交易や遊興の場として人の集まる場があって、それが海石榴市だった。
興味深いのは、続く敏達記の十四年三月三十日の項。いわゆる廃仏の条で、物部守屋と中臣勝海が敏達に廃仏をすすめ、蘇我馬子の建てた飛鳥寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に棄てる。この難波の堀江というのはいまの大阪のそれではなく、飛鳥寺の近く、甘樫丘の北麓にあった飛鳥川の舟留のことで、さらに、物部は僧や尼を捕らえ公開の鞭打ち刑にする。その場所も海石榴市だった。つまり、海石榴市は、人の行き交う、西欧でいう広場、セントロ、センターにあたるもので、西欧ではそれを中心に街をつくったが、この国では、それを境に下手、つまり多くは川下に向かって村ができた。反対に、上手は異世界、つまり神の領域だった。村の墓地や戦死者の忠霊塔が村外れにあったのはその結果で、洋の東西は、姓の生成のちがいと同じに、人の交流のあり方が大きく異なる。
そして、お水取り。いわゆる若水汲みだが、これももとは海をやって来たかれらの祓、つまりは望郷の儀式だったと見ていい。祖霊の故地を望み拝する浄めの儀礼であって、場所は内陸の大和であっても、心は山の向こうに海を見ている。そんな故地はどこなのか、その一つをお水取りが伝えている。
二月堂の麓の閼伽屋と呼ばれる祠のなかに若狭井という井戸があるらしくて、その湧き水を汲んで二月堂に供える。部外者立ち入り禁止の秘儀なのだからこう書くしかないのだが、若狭井はふだんは涸れていて、そのときだけ湧き上がる。その名の通り、若狭の小浜、遠敷川上流の鵜之瀬につながっていて、そこから水送りしたのを大和で水を取るという仕組みになっている。JR小浜線の東小浜駅から自転車を借りて走ったが、どこにでも見かける川原だった。
若狭なのはいろいろあって、遠敷は大丹生とも書いて、丹は、朱あるいは辰砂といえばわかりよいか、硫化水銀からなる赤色顔料で、むかしは建物の防腐塗料として貴重だった。また、この辰砂を蒸留製錬したのが水銀で、大仏をはじめ仏像の金メッキに欠かせなかった。若狭はその有力な産地だった。
もう一つは建築資材だろう。若狭の背後の比良山系から伐り出した杉や檜を、琵琶湖から宇治川を流して運んでいる。その大和への荷揚げ口が京都との境の木津であり、木材の集まる港だから木の津といっていた。
こうして大和は若狭とつながっていた。ほかにもこの国の先人が海の向こうを故地と仰ぎ望む、そんなところはいくつもあって、遠く瀬戸内海につながる大阪の難波や和泉や、淡島伝説で知られる和歌山の加太や紀ノ川流域もそうなら、また、能登や三国もそうだったろうし、若狭から但馬、伯耆にかけて点々と続く浦島伝説も、じつは水底ではなく海の向こうの話ということになる。だから若狭から大和へのお水送りも、水ではなく、人の流れ、交流の歴史を教えていると考えてみるといい。気になるのはそのルート。記紀の神々が歩いた道筋の一つでもあるからだ。
答はもちろんいくつかあって、たとえば、小浜を東に向かって琵琶湖の今津に出る、その少し手前を南に谷筋を途中越えで京都の八瀬に下る、いわゆる鯖街道も一つだが、こちらはずっとのちに開かれたもので、本筋はやはり今津に出たあと湖西を南にたどるルートだろう。今津からは南に高島から大津に下るほか、今津から湖上を対岸の彦根から草津あたりに渡ることもあっただろう。ただ、当時の琵琶湖はいまの二倍以上もあっただろうから、現在の湖東のほとんどは水のなかで、俵藤太の百足退治の三上山も、竹生島のように水にぽっかり浮かんだ小島だったにちがいない。
ともかく、近江は日本海をやって来たこの国の先人たちでいっぱいだった。それが大和に流れていく。たとえば、大津の少し北の和邇という同じ地名が奈良の天理の少し北にもあって、つながりを窺わせる。
そして近江から大和への道は大きく二つあった。一つは先の宇治川ルートで、もう一つは草津から、むかしの東海道、いまのJR草津線に沿った川筋を水口から小高い峠越えで伊賀に出るルート。そこから先は、西に笠置を通って木津から平城山を越えるものと、笠置から柳生を経由するルートがあったが、もう一つ、伊賀からさらに南に名張回りで、いまの近鉄名古屋線沿いに三輪山の南麓に出るルートが、たぶん本筋だったと思う。
泊瀬といって、雄略が都を置いた狭い谷間を下り切ったところが海石榴市だったが、その先の磯城から広がる奈良盆地のようすもいまとは大きくちがっていた。近江といっしょで、一面、きら、きら、光る水いっぱいの沼地だったと想像している。当時の稲作は、いまのような陸地の田圃に水を張って苗を植えるというやり方ではなく、沼地に直に籾を蒔く。それは、たとえば唐古遺跡の田下駄が教えてくれている。だから奈良盆地を行くには、一つは南側の山裾を明日香にたどって、さらに西に葛城に進むか、もう一つは三輪山麓を北に上がるしかなかった。この北行の山裾道が上つ道と呼ばれた山辺の道で、その道筋に先人の開発村ができていく。南から、三輪山西麓、天理東の石上、そして奈良の春日で、それぞれ、出雲、物部、中臣の根拠地になった。
と、ここまで想像してみて、気になるのがつばきの表記だ。この国の言葉は音である大和言葉に外国語である漢字を借りているからややこしい。海石榴市の「海石榴」もそうだが、古いところでは、古事記の仁徳記には「都婆岐」と出てくる。若い妃の八田媛に気移りする仁徳と后の磐之媛とのやりとりの歌があって、磐之媛はこう歌う。
「都藝泥布夜。夜麻志呂賀波袁。迦波能煩理。和賀能煩禮婆。賀波能倍迩。淤斐陀弖流。佐斯夫袁。佐斯夫能紀。斯賀斯多迩。淤斐陀弖流。波毘呂。由都麻都婆岐。斯賀波那能。弖理伊麻斯。芝賀波能。比呂理伊麻須波。淤富岐美呂迦母」
古事記は記述に漢字の音と訓を借りているが、たとえば一書は「都婆岐」を「椿」とあて、こう書き下している。
「つぎねふや山代河を河上り 我が上れば河の辺に 生い立てる 烏草樹を 烏草樹の木 其が下に 生い立てる 葉広 ゆつ真椿 其が花の 照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも」
それが日本紀になるとかなりちがって、同じ歌も、なぜかずいぶん簡略化されてしまう。
「菟藝泥赴。揶莽之呂餓波烏。箇破能朋利。涴餓能朋例麼。箇波区莽珥。多知瑳箇踰屡。毛毛多羅儒。揶素麼能紀破。於朋耆瀰呂箇茂」
これを一書はこう書き下す。
「つぎねふ、山背河を、河泝り、我が泝れば、河隈に、立ち栄ゆる、百足らず、八十葉の木は、大君ろかも」
古事記では「由都麻都婆岐」と、たくさんのつばきとしていたのが、日本紀では「揶素麼能紀」と、つばきではなく、葉の生い茂った、ただの木になってしまっている。
では、この「椿」という字はいつ頃登場するのか。日本紀より十数年あとの『出雲国風土記』には、つばきは「海榴」あるいは「海石(柘)榴」として二カ所、「椿」として六カ所に登場し、「海石榴作字椿或」、つまり、つばきという音から椿という字をつくったとあって、松、栢、楠、桐、椙(杉)、樫、楡、楮、櫟、竹などと並んで現われる。
風土記は、和銅六年(七一三年)に、従来の国造に代わって諸国に派遣された国司が、官命に応じてその地勢や郷、駅、社、物産、地名の由来などを調べてまとめたレポートだが、ほとんどは散逸していて、現存しているのはわずかに五カ国、運よく『出雲国風土記』は完本に近い形で伝えられている。
表記は漢文体。天平五年(七三三年)の成立というから、その頃には「椿」という字が生まれていたことになる。ただ、風土記も物産についてはほとんどが簡単な箇条書き程度で、どんな木だったかは教えてくれないが、杉や桐、松、楠などと列記されているところを見ると、いまの椿や山茶花とはちがって、けっこう丈のある高木樹だったかもしれない。また、これは数十年、時代は下るが、万葉集にも、つばきは、「都婆伎」「都婆吉」「海石榴」「椿」といろんな表記で記されていて、全部で十首、うち、椿が四、海石榴が四、あとは一首ずつになっている。
一方、「山茶花」の登場はいつのことか。もちろん記紀にはなくて、ずっと下って貝原益軒を覗いてみると、元禄七年(一六九四年)の『花譜』には、正月の項に「山茶花」とあって、こう記している。
「つばきは、さかり久しくしていとめでたし。花は歳寒をおかしてひらき、春にいたりて、いとさかんなり。葉は四時をおひてしぼます。これ又君子の操ありと云べし。日本にむかしより、椿の字をあやまりて、つばきとよむ。椿は漆の木に似て、其葉かうばし。近年唐よりわたる。又日本紀及順和名抄には、つばきを、海石榴とかけり。むかしは、つばきの数、すくなかりしが、近代人のこのむによりて、其品類はなはだおほくいできて、あげてかぞへがたし。からの書にも、其類おほき事をしるせり。山つばきいとよし」
おもしろいのは、益軒がつばきの花の姿を「これ又君子の操ありと云べし」としていることだ。なんとなく記紀の磐之媛の歌を思わせる。この操というのは、節操や貞操のそれではなく、常緑樹の葉のように四季を通じて変わらない緑の美しさをいったもので、つばきの、花のことよりも葉の方を讃えている。
また、同じ益軒の『大和本草』にも「山茶」として、こうある。
「延喜式にもつばきを海石榴とかけり、順和名抄も同其葉厚しあつばのきと云意なり。花は単葉あり重葉あり千葉あり。紅あり白あり。山つばきは紅の単葉なり。(略)本草綱目に山茶に海榴茶、石榴茶あり。是つばきの品種なり。日本の古書につばきを海石榴とかけるも由ある事なり。酉陽雑俎続集に曰く、山茶は海石榴に似る。然らば山茶と海石榴は別なり。凡、山茶は花の盛り久し、葉も花も美し。(略)つばきは山茶と云を日本にいつの時よりかあやまりて椿の字をばつばきとよめり。順和名抄にもあやまって椿をつばきと訓す。つばきは椿にあらず。椿は近年寛文年中からよりふたる香椿なり」
益軒だけでない。元禄十年(一六九七年)の宮崎安貞の『農業全書』も「山茶」として、簡単だが、「俗に椿の字を用ゆるハ非なり」としている。
話を括ればこういうことか。
つばきは、奈良のむかしには「海石榴」と書いていた。葉が厚いので、あつばのきと呼んだのが訛ってつばきになったともいわれ、花は一重と八重、そして紅と白とあるが、やはり紅一重の山つばきが一番いい。ほんとうは「山茶花」あるいは「山茶」と書くのだが、まちがって「椿」をつばきと読むようになった。一方、「椿」は、ちんといって、最近、中国から入ってきた漆の一種の香木である……。
ややこしい話だが、端折っていえば、まず、つばきという言葉があって、その音に漢字を借りて「海石榴」や「都婆岐」とあてたが、同時に意味をとって「椿」の字をつくった。それに、いつのころか、漢語の「山茶」「山茶花」の字をあてるようになり、逆に「椿」の字は、たぶん同様の時期に中国から入ってきた漆の一種の灌木にあてられるようになったということらしい。
では、「山茶花」のさざんかという読みはどこから来たか。たぶん「山茶」の漢語音の「しゃんちゃ」だろう。それがつばきの一種に定着して「さざんか」と訛ったと思ってみる。いまの山茶花である。気になるのは「山茶と海石榴は別なり」とあって、記紀の「海石榴」は「山茶」、つまり、いまの椿とはちがうといっていること。とすれば、修二会本来のつばきも、いまの椿ではないことになる。
さて、和尚は何を思っていったのかわからないまま、ぼくは、いま、一つのけしきを浮かべている。骨清庵といったが、方丈裏の庫裡との間に和尚好みの茶室があって、一畳台目向板、つまり畳一枚と四分の三に、隅の残りは板張りの粗末な造りで、床も壁床といって、床の間に見立てた土壁に、掛字を一軸吊らくっただけ。その躙り口の脇に胸丈ほどの侘助が、そっと半身を忍ぶように立っていた。
侘助は、同じ椿のなかでも茶の木に近く、だから葉にもあのてかてかがなく、名の通り、どことなくもの寂びた風情があった。花は五弁の白。それが蕾のときは薄桃色に膨らむのが、開くと淡雪のように透き通り、太い黄色の花心が鮮やかだった。花付きも山茶花のようにしつこくなく、あちらに一つ、こちらに一つ、楚々として、何を考えるのか、どれもがうつむき加減に小首を垂れて、風に揺れると打ち水の、わずかに残る飛び石にひらりと落ちた。それがいまも、ぼくの心の額縁に、きれいにおさまっている。
醍醐味
「酥というのを知っとるか」
その日は薬石のときだった。お気に入りの信楽の角皿の縁を箸で突きながら和尚がいった。皿の上には鮒鮨が気持ちよさそうに糀の蒲団を被って眠っている。
「チーズやとか、なんやかやいうとるが、そうやない」
和尚の話はいつも唐突で、その日も、目を丸くするぼくらを余所にまた長くなりそうだった。
「あれは五味いうて、牛の乳を炊いたんやな。火のかけ具合で、乳味、酪味、生酥味、熟酥味と味もようなって、最後は醍醐味いうて、極上のものになるんやが、なかなかそこまではいかんかったようで、一歩手前の酥というんが一番うまいもんということになっとった」
講釈すると、似五郎鮒が蒲団にしていた糀、つまり、てれてれの白い粒々を箸の先で器用に掬い、熟れ具合をたしかめるのか、軽く鼻先をかすめるようにして口に運んだ。
「いうても、それは印度の話でな、処変われば品も変わる。この国でいうてきた酥というんは、やっぱり島国らしい、鮒鮨やったとわしは思うとる。それも身の方やのうて、この外側の、とろっとろの糀のことやな」
そして、くちゃ、くちゃ、やると、
「なかなかのもんや」
とご機嫌だった。
和尚は酒好きだった。といっても、不許葷酒入山門、呑助では更々なくて、雰囲気が好きなのだろう、嗜むといえば聞こえはいいが、偶に一合ばかり、ぼくらを前にちびちびやった。
「酒は百薬の長いうてな」
蘊蓄も忘れなかったが、銚子は、これもお気に入りの丹波で、軽く二合は入っただろう広口の、もともとは一輪挿しだったのを好んで使った。それに衒いのない二級酒を半分ばかり、膳の脇に置いた薬罐に浸け、
「燗は頃合いいうてな」
尤もなことをいいながら、ここでも忙しげに何度も湯から上げては銚子の尻に掌をあて、やがてうんうんとしたり顔にうなずいた。自分のことは自分でする、師といえども弟子に厄介はかけないのが宗門暮らしの鉄則だったが、酒の燗だけはさらにこだわり、ぼくらには触れさせなかった。そうして鮒鮨のとろとろを肴に、これも丹波の猪口でしばらくやって、最後は忘れず銚子を振ってたしかめる。ちょぴんっ、とでも跳ねる音がすれば極楽顔で、それも悦しみの一つになっていた。そうして最後の一滴に舌打ちすると、信楽皿を箸先で追いやるように、ぼくらの方に卓の上を滑らせた。
あとは、みんなで分けろ、そういっているのだった。皿の上には、すっかり身ぐるみ剥がされた鮒の木乃伊が寒そうに少しの糀粒を枕に変わらず眠っている。ぼくらへの気遣いだったかどうか、鮒鮨といっても肝腎の身の方はいっさい口にしなかった。
そんな和尚の寺には檀家がなかった。本来、禅寺とは開山墓所をまもる塔所だから当然のことで、その点、江戸期以来、とりわけ明治以後の禅寺のけしきはかなりおかしい。さらに和尚の寺は山内同じ塔頭のなかでも、ほかとちがって、代々大徳寺住持の住む寺で、自治体でいえば知事公邸のようなものだったからだが、その名残に、いまも大徳寺住持に選ばれると、晋山といって、仏殿で行なわれる就任の儀式には和尚のいた寺から出向くことになっている。
一方、ほかの塔頭は、みんな細川や畠山、六角、三好、大友、黒田といった戦国武将の菩提寺にはじまっている。だからその孫子、縁戚が檀越、つまりスポンサーとなって寺の暮らしを支えていた。それが和尚の寺にはなかった。代わりに、代々入れ替わる大徳寺住持の公的住居として大徳寺が、一種、別院としてその存続を保障していたのだった。
当時、といっても江戸の話だが、どの宗門も、幕府からの補助金、つまり寺領という荘園を安堵されることで成り立っていた。たとえば江戸初期の貞享の頃の数字になるが、五山の建仁寺が八百二十石、相国寺が千六百五十石、東福寺が千八百石の寺領だったのに対し、大徳寺は二千二百石で禅門では五山を抜いてトップクラスだった。京師でも地図でいえば、いまの北大路から北、西賀茂の手前までのほとんどは大徳寺領だった。また他宗では、ちなみに清水寺はわずかに百三十石、徳川家菩提の浄土宗の知恩院でさえ千七百石。そこまで禅門が優遇されていたのは、本来の禅門宗旨をかなぐり捨て、死人取り扱い、つまり人の弔いに手を染め、幕府の寺請制度に加担するようになっていたからだ。
それが明治の廃仏毀釈で寺領が接収され、大徳寺も三分の一近くの塔頭が喰っていけなくなり廃絶に追い込まれている。いまの紫野高校や周辺の町家はそのあとに建っている。和尚の寺も同じだった。それを半世紀を過ぎて和尚が入って再興した。廃絶した多くの塔頭は敷地まできれいさっぱりなくしたが、和尚の寺は、一時は方丈庭も掘り返されて芋畑になったり、方丈は結核患者の避病舎になるなど荒んでいたが、そこは腐っても鯛、大徳寺別院として寺域も堂宇もそのままになっていた。檀家がなかったから、喰えない寺、とだれも寄りつかなかったのだろう。でなければ、大徳寺一世住持の徹翁義亨の塔所だった由緒寺が無住のままに捨て置かれたわけがない。
「よくもまあ、あないな襤褸寺に……、奴さんも物好きな男やなあ」
三十もようやく半ばを過ぎたばかりの向意気だけの雲水上がりを周囲は笑ったが、和尚の英断だった。というより、さすがは堺商人の後取り息子、すべては計算尽くのことだった。いまもそうだが、どんな寺でもいいというならいくらでもあてはあった。けれど、俗世にも家柄があるように宗門も同じで、それなりの寺格のあるところへの晋山は難しかった。
そうして和尚も格は掴んだものの、檀家がないから、自力で喰っていかねばならない。するとむかしなら純禅のむかしに帰って、大燈の教え通り瘋癲漢に京師市中を托鉢して生きるしかない。檀家のない寺は、本来、禅僧として生きるにはぴったりの身の置き処だった。といって、それができる時代でもない。うぉー、うぉー、と大路小路を巡るのも、すでに形骸化した僧堂の雲水にしか許されないけしきで、それを外れて一人、鉄鉢を手に町家の門口に立っても、乞食坊主と白い目で追われるだけ。だから和尚は頭で稼いだ。
きっかけは野村證券の奥村綱雄だった。和尚とは従兄弟だったか縁戚筋にあたる。この奥村を通して政財界に人脈を広げていく。別に奇異なことでもない、この国の禅、鎌倉仏教の祖師たちもそうして生きる道を切り開いている。
だから和尚は忙しかった。講演会といっては、奥村やその伝でいろんな企業の社員教育の研修会や重役連の集まりに出かけていったし、政財要人相手の茶会をいくつも手がけていた。出先は大阪や名古屋や福岡もあったが、ほとんどが東京で、できたばかりの新幹線で走ったり、ときには空も飛んだ。
東京では虎ノ門のホテル大倉に、もちろん奥村の支援だったが、常時、専用の部屋があって、法話会と称しては紀尾井町の福田家で宴席に出たり泊まったり、月の半分近くを出かけていた。そして寺の方にも政財交々、いろんな時の人が、それぞれほとんど決まったスケジュールで毎月違わず顔を見せた。
奥村は広尾の有栖川公園の西向かいに、いまは大きなマンションに変わっているが豪邸を構えていた。あたりはいまとちがって仕舞屋続きで、そんな町家は目障りだとでもいうかのような高塀に、おまけにその上には尖頭鏃の付いた鉄柵が張り巡らされ、鉄鋲の厳めしい表の門扉は日中も固く鎖されたまま。和尚に連れられ一度入ったが、前に車が停まると、だれがそうするのか、ぎ、ぎ、ぎっ、と開いて、そのまま深い植え込みのアーチを抜けると、車寄せの飛び出た石造りの洋館が聳えていた。
奥村本人は、寺には偶に人の紹介に顔を見せるくらいだったが、奥さんの方はしょっちゅうやって来た。といってべつに用があったわけでもなく、奥村のいくつになっても抜け切らない浮気の愚痴をこぼしたり、二、三時間、あれこれ世間話をして帰るだけ。腰の据わった捌けた人で、庫裡奥の書院の廊下に、から、から、と高笑いがよく響いたが、そんな内輪話ができるのも和尚だからこそのこと、点茶を運んで下がろうとすると、着物の袂を探りながら、
「ちょっと、小僧さん」
と、ぼくを呼び止め、半紙にくるんだお捻りを、そっと後ろ手に握らせた。だから、いい人だった。和尚と同じ大阪の堺の生まれで、けっこうな家筋だった。それがどうしたわけか、奥村と結婚したての頃は路地奥の長屋住まいだった。
「表の七輪で、毎日、目刺しや秋刀魚を焼く暮らしでねえ。それでも奥村は、毎晩、きちんきちんと帰ってきて、それは、ええ時代でしたわな」
吐き捨て気味にいっては、けら、けら、笑う。気取りの欠片もない、庶民臭ぷんぷんの大阪人だった。
一方、亭主の奥村は南近江の信楽の生まれ。古くから畿内一円に名の知れた窯元だったが、何があったか、物心つく頃には一家挙げて堺に移って和菓子屋をはじめている。がたいのいい、割れるような濁声の、どちらかといえば土建屋の親爺といった方がわかりやすいか、小太り男で、大阪の金貸しにはじまった地方銀行の先の見えない証券部に過ぎなかった野村を業界トップの「調査の野村」に伸し上げた、見るからに体臭むんむんのエネルギッシュ男で、あの頃はもう会長から相談役に退いていたが、変わらず政財界に隠然たる力をもっていた。
それが数年後に斃れると、奥さんは広尾の豪邸を追われることになった。ワンマン経営からか、税対策からか、私財と社財の区分けが曖昧のまま、家屋敷は社有になっていた。後継の瀬川美能留も和尚人脈の一人で、同じようによく寺にも顔を見せたが、これが奥村とは反りが合わず、すったもんだの挙げ句、泣く泣く奥さんは近くの小さなマンションに移った。それでも高輪の高台の、窓のカーテンもすべてお揃いのワンフロア占有の豪邸だった。
ほかにも財界では、高千穂交易の鍵谷武雄や銭高組の銭高輝之に、ナショナルの松下幸之助や三洋電機の井植歳男も常連だったし、大御所ではあの電力王で知られた松永安左ヱ門も、ときどきぶらりとやって来た。
一風変わっていたのが鍵谷だった。若手で役者にしたいほどの目鼻立ちの整った上背のある、がっしり男で、一日、ひょっこりやって来て、ぺこりと下げた頭は五分刈りだった。
「今度、映画に出ることになりまして」
てっぺんのつんと尖った釈迦仏頭をばつ悪そうに何度も撫で回した。映画『トラ・トラ・トラ!』に山本五十六役で出演するというのだった。黒澤明を監督に準備が進んでいた日米合作の戦争もので、そのまま行くのかと思っていたら、急転直下、黒澤に代わって舛田利雄が監督になり、深作欣二がアクション監督に抜擢され、山本五十六役も山村聡に入れ替わって、鍵谷の銀幕デビューも幻に消えている。
クランクイン最中のどたばた劇で、何があったのか、財界のずぶの素人を主役格にキャスティングした黒沢の常識外れなやり方にアメリカ側からクレームがついたようにいわれたが、あとで鍵谷がやって来て話したのには、裏に日米間の経済トラブルがあったらしく、
「あれは、鍵谷の方が似合うとった」
と和尚も残念がった。
いまはどうなったか、高千穂交易もあの頃は大卒の就職にも人気が高くて、アメリカのバロース社と提携してOCRシステムやラベリングマシンといった先端機器の販売を手がける一方、独自にミニコンや、いまでは在庫管理やマーケティングに常識となったPOSシステムを開発するなど電子機器業界での成長株だった。たぶんそんな勢いが先行のIBMとも絡んで鍵谷降板に繋がったのだろう。
井植は淡路島の廻船問屋の生まれで、姉が松下幸之助に嫁いでいた。その伝手で大阪に出て松下といっしょに電気器具をつくりはじめるのだが、どちらかといえば奥村と同じ、土建屋親爺の風貌だったが、名を上げても叩き上げの気質を失わない豪快肌の人だった。
「松下は井植が大きくした」
和尚はいったが、幸之助の線の細さとは対照に、これもエネルギーの塊のような人だった。それが、体の具合が悪いらしいと聞こえたら、あっという間に逝ってしまった。なんと、肺結核だった。そしてあとには後取り息子の敏が代わってやって来たが、影が薄くてさっぱりぼくにも記憶がない。夫人は博多の大手百貨店、玉屋の田中丸の次女だったか三女だったか、和尚が世話をして、自民党の池田勇人が仲人になっている。
そして、なにより一番強烈に印象を残して逝ったのは松永安左ヱ門だろう。九十を過ぎていたというのに大男で、まず顔が異様に長いのにびっくりした。獄門面と渾名されたのを知ったのはずっとあとのことで、戦後、電力再編、民営化を断行、資金源に電気料金の値上げを強行したから、鬼の松永と異名をとったことなど、あの頃のぼくはもちろん知るわけもない。いまの電力業界のありさまを知ったら、爺さんは何というか、見かけたのはたった一度、小僧に入った春だった。
「お邪魔しますぞ」
庫裡玄関の三和土に立った爺さんは、羽織姿で腰丈ほどの杖を手にしていた。それがなんともいえない、どこか山裾の杣道ででも拾ってきたとしか思えない、曲がりくねった木の枝だった。たぶん小田原の屋敷森の立ち木でも伐って使っていたのだろう、今時の人でない渺々たる風体に似合って妙だった。
客間に茶を運ぶと、和尚がぼくを顎でさした。
「新入りですわ」
すると、一言、
「しっかり、おやんなさい」
とそれだけで、じろっと睨んだ瞳は山鳩の羽のような鼠色に光っていた。
「蒙古襲来のときに、向こうの兵隊が悪さして、島の娘を孕ませよった。それがわしの先祖やな」
と、から、から、笑ったというのが和尚の後日譚だったが、そういえば、和尚もじつはよく見ると、黄色がかった灰色のシベリアンハスキーのような目をしていた。堺に江戸の頃から続いた紙問屋の後取り息子で、五つのときに父親を失い、何を思ったか、二十歳で身代を棄てて南宗寺に得度している。もともとの家業は鉄砲鍛冶だったというから、あるいはどこかでバテレンの血でも受けていたのかも知れない。南宗寺はいまは末寺になってしまっているが、むかしは一派をなした禅門十刹で三好の菩提寺だった。
松永は壱岐の船持ちの旧家の生まれ。東京に出て慶応大を出たあと、諭吉の娘婿だった桃介に見留められて名を挙げた。
「爺さんの家は、大徳寺の大昔からの檀越やった」
和尚はいったが、そんな松永とは池田を介して知り合っている。池田は和尚と同い年で、松永が電力再編を断行したときの吉田内閣で蔵相をしていた。それが縁で、齢は二回りも下だったが、政界では松永にもっとも近かった。その池田と和尚は、池田が、貧乏人は麦飯を喰え、といって総好かんを喰ったとき、ちょっと相手をしてやってくれんか、と奥村から頼まれて茶飲み付き合いがはじまっている。肝胆相照らす、奥村と和尚はそんな仲だった。
ほかにも女性では有吉佐和子がよく来ていたか。異色なところでは、この人もいまは鬼籍に入っているが、大本教の出口聖子も常連だった。三代教主出口直日の三女で、のちに四代目となるのだが、あの頃はまだ三十を出たばかり。面長の、当時にしてはすらっと上背のある、けっして美人とはいえなかったが、それでいて仕草が小僧のぼくらの目にも艶っぽく、教祖というより、どこか料亭の女将といった方がぴったりだった。
もちろん和尚のお気に入りの一人で、ずっと独身でいた。点茶はもちろん能狂言にも心得があって、人懐こさも手伝ったのだろう、大本教を一般に広めた功労の人といっていい。そんな繋がりで月に一度、法話会といっては、亀岡や綾部の本部から黒塗りの車が迎えに来て、和尚は出かけていた。
逆に、有吉はがらがらの開けっぴろげな人だった。黒縁の丸眼鏡に、ぺら、ぺら、よくしゃべった。まだ三十代半ばだったか、女性としては大柄で男勝りだったが、瞳がきれいで、和尚と話している横顔は、けっこう愛らしかった。
和尚とは、有吉が舞踊家の吾妻徳穂の秘書をしていたときからの顔見知りで、何度も足を運んでいたのは和尚を小説のモデルにするためだった。ただ、それがどんな作品にまとまったかは詳しく聞かなかったし、あの人の小説は読まないから、いまも知らない。
そんな客人たちは、ほとんどだれもが、やって来ては帰りがけに和尚を外に連れ出した。昼過ぎの二時か三時を回ると顔を見せ、一、二時間しゃべっては、待たせておいた黒塗りで出かけていく。もちろん置き土産も忘れない。禅寺の枯淡な食卓を見越してか、それぞれに気の利いた品々を選んでいた。鮒鮨もそんな一つだったのだ。
鳰の海
「竹生島を見てみたい」
日曜の朝だった。食事のあとのまどろみに、ぽつりといった。その一言に誘われて、さっそく翌週、二人で出かけた。まだ春も見えない雪混じりの一日だった。米原で北に乗り換えた鈍行を長浜で降り、まずは大通寺にお詣りをすませた。ちょうど昼下がりで、出てきた門前通りに小料理屋があった。見た目にも粋な白木の門口に檜皮の庇を低く差して、伊吹颪に利休鼠の暖簾が揺れている。
「鮒鮨か、食べてみたいな」
すると目を丸くした。
「どうしたの?」
いうはずだった。外では呑み仲間に秘密にしているが、いわゆる酒盗の類、珍味佳肴というのがさっぱりだめなのだった。だから、ちょっと背伸びしてみた。
「琵琶湖に来て、これを逃す手はないだろ」
いいながら暖簾をくぐった。
時間も時間だったから当然のことで、客影がない。瞬間、ちょっと引き気味になったが、奥のカウンターに一人、背を向けた姿を見つけたのを救いに、窓際のテーブル席に向かい合わせに座った。
から、ころ、から、ころ、すぐに下駄の歯音がして、前掛け姿の女将だった。
「お詣りですか」
「ええ、久しぶりに早起きして」
向かいから笑顔が溢れた。たしかにそうだ。仕事のときもぎりぎりで、休みの日には十時を回っても蒲団のなかの人だった。
「けど、お天気がもう一つでねえ……」
女将は眉根を寄せたが、すぐに、愛嬌たっぷり、
「どうぞ、ごゆっくり」
と品書きをテーブルの肩に残して、から、ころ、消えた。
んっ?
「これ、ほんとかな?」
香しい杉経木の品書きだったが、数字が想定外だった。それを、えいっと清水の舞台に立ったつもりで注文した。
出てきた美濃の丸皿には、親指大の半身が二切れ、頼りなそうに、甘酒の残り滓のような糀のとろり蒲団から、かすかに顔を覗かせ眠っていた。その身の方は向かいから箸が伸び、ぼくはとろとろを箸先で掬いながら地酒をやった。
「いけるね」
銚子を半分ぐらいにした頃だった。
ほんとうに、旨い、と思った。そして、ひょっこり、記憶の底から湧いてきた。
「このことか」
和尚の醍醐味を思い出したのだった。
「どうかした?」
向かいの箸がぴたりと止まり、首を傾げて下からぼくを覗き込んだがそれだけで、すぐにまた美濃皿の切り身に戻っていった。
港に下りる坂道だった。
「遠州って、ここの人だったのね?」
背中にいった。
「えんしゅう?」
「そう」
どこに行っても、改札を出るとすぐにどこかに消えてしまい、きょろ、きょろ、見回すぼくを余所に、悠々、漁りまくった観光ちらしを両手一杯に戻ってくる。その日も同じで、駅で見つけた案内パンフを広げて、とろ、とろ、歩く。だから遠出しても二人肩を並べることは滅多になくて、いつもぼくばかりが先を行く。
「孤篷庵か、見てみたいけど、逆方向ね」
諦めきれないようだった。
こほうあん?
懐かしい響きだった。
通っていた学校のすぐ裏手だった。それが長浜にもあったとは迂闊だった。もう少し性根を入れておけばよかったのに、やっぱり、ぼくは落第小僧だった。
「なになに、遠州の菩提を弔うために、京都の大徳寺から、こううん和尚を招き……」
後ろでパンフを読み出した。だから、行ってみたい気分になったが、竹生島への船の時間が迫っていた。
「また、今度にしよう」
いつもそういって、ぼくは機会を逃している。
湖に出た。
北西の霙混じりの浜風が、休みなく冷たかった。
「比良の暮雪って、こういう感じかな」
沖を眺めて、ふといった。小難しいことを、突然、ふつうにいう。四十年近く悩まされてきたが、いまも解消法が見つからない。
近江八景か……、
と、蜀山人を浮かべたが、
乗せたから、先はあわづか、ただの駕籠……、
ときて、あとが続かなかった。
湖北の空は忙しかった。遠く若狭からの高い空が銀白に輝いて見せても、すぐあとに比良越えの鼠色の棚雲が追い重なって塞いでしまう。のだが、また、いくらもしないで吹き散らされ、うっすらと茜の空に戻っていく。
不思議なのは、稜線を連ねて走る比良の山々と、薄鼠に煙る雪雲と、そして比良颪に騒ぐ白波の、すべてが水平世界にあって、湖の水平線を境に、比良の山並みと波立つ湖面が絶え間なく、交互に明暗を入れ替えることだった。つまり、遠く若狭の空が陽に明けると、比良山系はそれを背にして陰の闇に落ち、逆に湖面は陽光を受けて銀白に光る。それが一転、棚雲が若狭の空を塞ぐと、比良は雪に白んで湖面は鼠に沈む。その明と暗の対照に記憶があった。
「ちょっと、ついて来い」
いわれてあとを追った。和尚はいつもの茶衣姿で、大きな袂をパラシュートのように向かい風に膨らませ、すたこら、先を行く。後れまいとぼくは走った。参道を三門前から一折れ、二折れ、あとは僧堂前の孟宗竹の長いアーチを抜けると緩やかな坂道に入って、上り切ると孤篷庵だった。
大徳寺といえば、一休さんの真珠庵に次いで遠州の孤篷庵、とだれもがいう。百五十六世住持江月宗玩の隠棲に遠州が造った草庵だった。もともとは山内もずっと手前の龍光院にあったのが、江戸初期の寛永期に移っている。そのあとを江月は弟子の江雲宗龍に譲った。江雲は遠州の甥にあたる、江月の法嗣で、のちに大徳寺百八十四世となり孤篷庵にも長く住んだが、孤篷庵そのものは移築から百五十年後の寛政五年に焼け落ちて数年経って再建された。それが現在に続いていて、遠州当時とは少しようすがちがっているが、よく知られた茶室、忘筌庵だけは遠州の古指図をもとに最初のままに復元されている。
さて、あのとき孤篷庵に、和尚はどんな用があったのか、玄関脇の小部屋に控えていたからわからなかったが、遮る衝立前にちょこんといたら、にやりと戻ってきた。
「忘筌庵を見せてやろう」
余所の寺にどかどかと上がり込んでの台詞でもなかったが、和尚にかぎってそんなことも不思議でなかった。大徳寺はわしのもの、繰り返すが、和尚の口癖だった。
ふつうに茶室といえば、本堂なり庫裏なりから軒を分けた造りになっている。ほかでもない、利休好みによるもので、だから名前も庵とか軒とか庭とか、簡素な一字で結んでいる。だが、もともと茶の湯、喫茶は武家にはじまったものだから、実際、茶室とあるように、建物の一室としてあったわけで、多くは寝殿造りの北側、つまり裏側の一画に隠れるように設けられた、一種、秘められた場としてあった。そのように、忘筌庵も孤篷庵の本堂である客殿の檀那間の裏側、衣鉢間にあたるところに造られている。表の檀那間が陽の間なら、裏の衣鉢間は陰の間で、ときに檀越や客人との密談もあっただろう。
少し説明を入れておくと、禅寺の本堂というのは、本来は仏殿にあたるものだった。だから畳も板床もない基壇に直に瓦敷きの三和土だった。それが室町期に寝殿造りを取り入れ、高床を張り、さらに江戸期にはその上に畳を敷くようになっている。そうして使用目的も仏像安置の場から、スポンサーである檀越、檀那をもてなす場に変わり、だから客殿と呼ばれるようにもなった。
なかは大きく六つに仕切られる。まず、南面する真ん中の区画が室中といって、仏事はここで行なわれる。そして左右の二つのうち、玄関に近い方が礼間で、奥が檀那間。礼間が客人接待の部屋なら、檀那間はスポンサー専用の座敷と思えばいいだろう。つまり、本堂は寺の財政支援者である檀越のための建物だった。同様に北側の三つは、真ん中が仏間で、手前が書院、奥が衣鉢間という造りになっている。書院は住持の居間を兼ねた寝室で、衣鉢間は住持が弟子に法を説く、つまり教室ということになる。
「おいっ、こっちや」
勝手知ったる我が家のように本堂脇を飛び石伝いに、和尚は露地を行った。するとどん突き手前の木陰の洲浜に苔生した蹲踞があって、すぐ脇が、落縁といって、低い濡れ縁になっていた。軒下の三和土とはいくらの段差もない。そこから客人は部屋、つまり茶室に上がるのだが、変わっていたのは濡れ縁の上がり端の敷居と鴨居の間にもう一つ敷居が走っていて、上側に明かり障子を仕立てていることだった。ふつう、茶室の入り口といえば躙口だが、開放的で、それがない。
「わかるか、これが遠州好みや」
中敷居を、さしていった。
下側は建具もないまま筒抜けて、洲浜に撥ねた斜光を部屋の天井に映す仕掛けになっている。と同時に部屋からは縁先の蹲踞や植え込みの低燈籠も見てとれる。上側の明かり障子は西陽を遮る目隠しの役目も兼ねているというわけだ。
「この上と下でころりと世界が変わる、遠州の真骨頂やな」
重ねて、中の敷居をさしていった。そのように日中の陽の高いときは、上の障子部分は薄暗がりなのに、下は反射光で淡く白み、逆に陽が西に傾くと、上が明るんで、下が植え込みの陰を落として暗くなる。時間を追っての明と暗の水平世界、湖北に生まれ育った遠州にはごく日常の世界だった。それを和尚はいったのだろうが、落第小僧は、理解に半世紀もかかっている。
そして週末の日の暮れだった。
玄関の、ぴん、ぽーん、にドアを開けると友人だった。ぼくより一廻り近くも若いが、家も近い呑み仲間で、
「仕事帰りに、古本屋で見つけました」
と一冊くれた。
和尚の随筆本だった。利休鼠の簡素な装幀で、題字は和尚だろうと一目でわかる、筆尻の撥ねが躍りすぎる。すっかり背も灼け、小口も点々と染みだらけだった。
開くと、ぷんと黴の臭いがする。奥付をたしかめると、逃亡半年後の初版だった。お礼をいって、逸る心を夜まで抑え、風呂上がりに、一人、食卓の丸テーブルに向かって読みはじめた。
ああ、そうでしたね、そうでした……、
頁を繰るごとにむかしが蘇って何度もうなずく。気づくとすっかり日付も変わっていた。
あとは、明日にしよう、
思って閉じたが断ち切れない。それでまた、ぱらりとめくりはじめたら、こんな条を見つけて胸が熱くなった。
──今夜、小僧のつくってくれたライスカレーは美味かった。どこの料亭の御馳走より美味かった……。
嵯峨に、祇園に、上七軒、と招待が多くて舌の肥えた和尚だったが、ぼくらに強請るのは、いつもきまって肉じゃがかカレーライスだった。
かすみ比叡
「親鸞さんはな、あれは頭を剃ってはおらなんだ」
午後の茶事の初っ端だった。和尚がいった。
「禿僧いうてな……」
そこでぼくらは背筋を伸ばし、これは長くなるぞ、と覚悟した。
和尚は続けた。
「あの禿いうんは、禿頭のことやのうて、まあ、いうたらバリカンの五分刈りいうところやろか、自分でも愚禿というておった」
ぐ、と、く? 何のことだか、喉奥で、一人、鸚鵡返しにいってみた。
「五分刈りいうても、べつにずぼらをかましとったわけやない。抗いいうたら下世話になるが、あの人なりの考えがあったのやろう」
いいながら茶碗に湯を注ぐと、しゃか、しゃか、茶筌を躍らせた。
──茶はかたちから、
作法に喧しい和尚だったが、口とは逆に、苛ちの和尚の点茶は忙しなかった。
「禿は、かぶろとも読むんやな」
これには一番上の兄弟子がうなずいた。それで和尚も勢いづいた。
「寒山拾得みたいに、というたらわかるやろ? 髪の毛を結い上げんと、こう、短こう肩先まで垂らしたままの、あれやな」
手真似しようとするのだが、あいにく二つとも茶碗と茶筅で塞がっている。代わりに肩をもぞもぞさせた。
「いうても、散切りまではいかんかったやろ」
そうして小一時間、いつものように和尚の話は続いたが、中学上がりのぼくには、話の深意はもちろん親鸞の何かもわからず、頭のなかは、はじめて胸を熱くしたクラスの女の子のことばかりだった。
大徳寺の惣門を東に抜けた門前町、そのかかりの町家からだった。夕方、薬石の支度に商店街の豆腐屋に走って出ると、子犬を連れて境内散歩にやって来るのを見つけていたし、学校の通学路になっていた朝の参道でも毎日のように見留めていた。いつも時間を計ったように惣門をやって来る。それを参道の松の木陰で待って、偶然出会ったふりして会釈を送った。
さて、禿の話だが、親鸞が自ら愚禿といったのは越後に下る前後のことだったらしい。源空、つまり法然から授かった綽空を改め、親鸞と名乗るのも同じ頃で、三十も半ばを過ぎていた。愚禿は愚僧と同じに使われることもあるが、もともとは親鸞がいったのにはじまっている。愚とはいっても、謙りではなく、親鸞の場合は苦悩の末の開き直りといっていい。愚にはもともと、おろかな物真似猿という意味があった。だから愚禿には「袈裟がけ姿でやってはいますが、ふりだけで、ほんとの出家ではありません」と素直な声も聞こえてくる。そんなことが大っぴらにいえたのも、親鸞当時、仏僧でありながら髪を伸ばしていても、けっして異形ではなかったからだ。道元は歎いている。
──長髪は仏祖のいましむるところ、長爪は外道の所行なり。仏祖の児孫、これらの非法をこのむべからず。身心をきよからしむべし、剪爪剃髪すべきなり。
かつて遊学した宋での仏僧の、たぶん物臭から来る風紀の乱れをいったのだろう、『正法眼蔵』の戒めだが、弟子に向かってこう説かねばならなかったほど、この国の宗門も同じけしきにあったと見える。親鸞の少しあとのことだった。
道元は鎌倉初期の一二〇〇年に生まれている。一一七三年の親鸞よりは二回り年下で、『正法眼蔵』は道元の三十過ぎから五十三の遷化までの記録だから、道元が歎いたときには親鸞はもう六十は過ぎていただろう、源平の争乱のあと、京師の仏僧の暮らしはかなり荒んでいた。といっても親鸞の場合はただの怠けからではない。剃髪と髷の中間、つまり聖(僧)でもなければ俗でもない、二つの狭間を生きようという意思表示があった。なぜだったか、もう一人、日蓮を並べてみるとよくわかる。三人はほぼ時代を前後同じにして不思議な関係で生きていたからだ。
親鸞と道元には二回りの齢の差があるといったが、一二二二年生まれの日蓮は、さらに道元よりも二回り後の人で、つまり親鸞からすれば、道元は子、日蓮は孫の世代にあたる。親鸞は九歳で慈円のもとに得度して比叡山に上った。慈円は摂政から関白、太政大臣にまで昇り詰めた藤原氏嫡流九条兼実の弟で、兼実は後白河法皇と対立して源空に師事している。その源空は比叡山を嫌ってすでに東山の吉水に下りていた。一方、道元は十四歳で同様に比叡山に上り、これは三条家から出た公円について出家している。そして日蓮は十二のときに安房清澄山の道善房の門を叩いて、十六で出家、二十一のときに比叡山に移っている。
そろって比叡山をめざしたのは、そこが最高学府だったから。最澄以来、中国を通じて蒐集した仏典の、つまり学問史資料のこの国最大の図書館だった。そしてもう一つ、僧の資格の戒を授ける国家機関でもあった。平たくいえば僧という欽明期以来の国務官僚の国家試験の場でもあったからだが、日蓮の頃にはほとんど機能をなくしていたと見ていい。
修学期間は、親鸞が二十年、道元が三年あるいは四年、日蓮は十年だった。この期間や入山年齢の開きにはけっこう意味があって、三人のその後を決めたといってもいい。いまでいえば、親鸞は付属小学校からの生粋の叡山生だったのに対し、道元は大学部門からの入学で、それも何を思ったか、最後は中途退学している。そして日蓮の場合は大学院からの転入生だった。にもかかわらず修士から博士課程までを完修するという超英才コースを歩んでいる。同じ叡山修学といっても、三人の中味はまるでちがっていた。
「親鸞さんはな、堂僧いうて、声明を専門にやる人やった」
和尚はいったが、そのように比叡山の修行僧といってもいろいろで、まず出自のちがいから、貴族子弟のように、いまでいえば茶道宗家が子弟を京都や鎌倉の禅門に行儀見習いに出すように、成人までの一時を過ごすものと、僧の道そのものをめざすものがあり、また、貴族の出自にも京師と地方のちがいもあって修学コースも入山はじめから大きく二つに分かれていた。学僧と楽僧である。
学僧は、道元や日蓮がそうだったように、学問僧といえばわかりやすいか、経典の学究をめざした修行僧、つまり学生で、比叡山の場合、その在学期間は十二年だった。それに対し楽僧は、経典を唱える声明を専門にした修行僧で、堂僧ともいったが、親鸞の場合はこれにあたる。
「声明いうんはな、わしらはやかましくいわんからおまえらもわからんやろうが、相国寺あたりはやたら厳しゅうてな、独特の節回しで唸りよる」
そのようにぼくらは経を教えられたことがなかった。すべて和尚の見様見真似で、だから弟子の間でも調子がちがって、優等生だった中の兄弟子は、うおーん、うおーん、と唸るように読んだのに、上の兄弟子は平板でさらりと癖がなかった。そしてぼくは蚊の鳴くように、ふおん、ふおん、と口籠もるばかり。経が嫌いで、般若心経以外、空でいえたためしがなかった。
和尚は続けた。
「知らん者が聞いたら吹き出しよるやろ。女のように、か細い声で、それを、童行、喝食いうて、小さいときから叩き込むんやな」
聞いてぼくはさらにお経が嫌いになった。
「けど、親鸞さんら堂僧がやりよったんは、どないいうたらええやろか、浄瑠璃いうたらいい過ぎやろが、わしらみたいな舟を漕がす経やのうて、こう、人を酔わす、そんなんやったと思うがな」
そうもいって、あとはどうだったか、ともかく本来の経というのは、たらたらと眠気を誘うようなものではなくて、唱えるにもきちんと決まった、音律、旋律というものがあったというのだった。だから一堂に会しての声明には、西洋のミサ曲やオラトリオさながらの荘重さ、華麗ささえ見えたのかも知れない。それを楽僧は、不断念仏、常行三昧といって、方丈、つまり一丈四方の堂宇に籠もり、阿弥陀の周りを唱えて廻る、一種、断食に近い難行で、わずかな食事と大小便以外は昼夜休みなく九十日にわたって続けた。
「声のきれいな人やったらしい」
和尚はいったが、そうして念仏三昧、親鸞は二十年を送っている。
といって、籠もってばかりいたわけでもない。上の兄弟子がいうには、僧堂暮らしもそうだったらしく、剋期摂心といって夜昼ない坐禅三昧の堂籠もりは一年のうちでもほんの一時のことで、あとは托鉢と作務の林間学校のような毎日だった。その托鉢にも、じつはいろいろ抜け道があって、身を切るような寒風の朝、シャーベット状の雪道を素足に藁草鞋で、うおーっ、うおーっ、と白く息を残して駆けていく、そんな墨染め姿は、見ているだけでも寒気がしたが、じつは、人もさまざま、ところもいろいろ、ふと町家の門口に立てば、「寒おっしゃろ」と暖簾の内から声もかかり、一服どころか昼時の接待もあれば、ときには「一杯、どうどっしゃ」と熱燗に昼寝付きというのもあったらしい。
比叡山も同じだった。回峰行といって、平安中期にはできあがっていたらしいが、白麻の息災浄衣と白袴の小五条袈裟に身を包み、手甲脚絆に蓮華草鞋、そして頭には檜傘、手には杖、つまり不動明王そのままの姿で、険しい比叡山の杣道を丑三つ時から駆け抜ける、そんな苦行があった。峰筋だけでない、東の坂本に下ったり、反対の西には雲母坂を修学院から高野に下りたり、さらに、これは大廻りといって市中の神社仏閣を、途中、大路小路の門口に加持を授けながら駆け廻る。そうして夜はまた堂籠もり。これを百日にわたって続けるのが百日回峰行で、さらに七年に続けるのが千日回峰行といって、総程九百七十八里、約三万七千九百キロというから、地球一周にあと一歩という超人行だった。
ただそこにも托鉢と同じにいろんなけしきがあって、ときに親鸞も、逸る想いで雲母坂を駆け下ったことだろう。ほかでもない、行き先は条坊貴族の館だった。当時の京都は、洛中、つまり鴨川以西だけでなく、東に越えた、いわゆる川東にも平氏の栄華で街は広がっていた。もちろん、洛中も保元以来の内乱で荒んではいたが復旧も進んで、そんな貴族のもとに、親鸞にかぎらず楽僧たちは足繁く通っていたのだった。
何をしに? 不断念仏のためだった。追善供養、安産祈願、滅罪、往生祈願など願事成就が盛んで、念仏会が貴族の間で定期的に開かれていた。そこに招かれていくのだが、のちの親鸞の念仏道場というのも、それを京師に倣って地方に広げたものだった。午後に山を下ると夕べから念仏に入り、宵の口まで続いて月明かりの雲母坂を戻っていく、そんな一日だったかも知れない。
その念仏とは、どんなだったか? 気儘に想ってみるのだが、常行三昧で鍛えた喉奥から、流れるようにうたい出る声明は、貴族や子女の耳には陶酔の旋律で響いたにちがいない。
「念仏いうてもな、あの頃のお経いうんは抹香臭いもんやない。いうたら、いまの若い者が走りよるニューミージックみたいなもんやなかったかな」
ニューミージック? 目を丸くするぼくら小僧にも涼し顔で、和尚にはそんな新語もめずらしくなかった。
和尚のもとには、これもちょっとした理由があって、毎日のように政財界の大物連がやって来ては、あれこれ書院や茶室で話をしたあと連れ立って嵯峨や北野の料亭に流れていった。そんな客連がグリーン車やハイヤーのなかで読んでいたのだろう、気を利かして、手土産といっしょにあれこれ週刊誌や雑誌を置いていった。それを和尚は捨てずにいたから、ぼくら小僧以上に流行にも詳しかった。読むとあとは心得ていて、奥の隠寮から、とこ、とこ、東司や用事ついでに廊下を来ては、ぽいっと玄関脇の小僧部屋に投げていく。ちょうど週刊誌も諸誌乱立の最中、過激化する記事や巻頭グラビアにぼくら小僧は性の癒やしを見つけたのだった。
「おまえらにはわからんやろうが、寺が葬式にかかわるようになったんは、そんな古いことやない。遡ってもせいぜい江戸の頃やろう、はじめに手を染めたんは、わしら臨済禅やった」
檀越の室町守護や戦国大名、武将が没落。喰えなくなった臨済禅が、幕府保護の代償に葬式仏教の先頭に立った、それをいっているのだった。
「禅宗いうんはな、もともと中国では貧乏人相手の宗教やった。不立文字、教外別伝いうんも、いうてる本人も字が読めんかったからそういうたまでのことで、それがどういう理屈か、この国では気位が高うなってしもうた。武士を相手にしたからやろう」
禅宗にかぎったことでもなかったが、僧が人の生き死、つまり、弔いにかかわるようになったのは江戸期の宗教政策、檀家制度、寺請制度によるもので、臨済禅が先陣を切って牽引役になっている。
「まあっ、そういうこっちゃ。ようはわからんが、念仏の、あの謳うような節回しに貴族の女は酔いよったんやろな」
けろりといったが、楽僧だけでない、より上のエリート集団だった学僧も、同じように雲母坂を下っては貴族の館を訪ねている。ただかれらの場合はちょっとちがって、経典の講釈をして聴かせる、いわば文化講演会のようなものだった。
それを親鸞たち楽僧は、頭でなく耳を通して間脳を刺激した。一日に限らない、別時念仏といって、一週間、十日と、昼夜にわたって続くこともあったらしい。と、そこは生身の人間世界で、男と女、聖と俗、いろんな交わりもあったにちがいない。そんな親鸞の訪ね先の一つに、のちに妻となる恵信尼もいて、やがて聖俗結界の雲母坂が、戒と邪の煩悶坂に変わっていく。
その雲母坂を和尚も上っていた。
「わしらの頃でも、比叡山はこの道の原点やった」
大阪の堺に古くから続く紙問屋の、和尚は後取り息子だった。それを十八で家業を投げて大林宗套の南宗寺で得度、二十歳のときに比叡山をめざしている。
「とにかく、まっすぐ上ってやろうと思うてな」
和尚らしかった。
「鴨川も、じゃぶ、じゃぶ、法衣の裾を絡げて渡ったわな。白川の一乗寺あたりやった、春の泥田もそのまま突き切ってな。目が見えんいうんはああいうのやろう、勇むばっかりで怖いもんがなかったわな」
ところが門前に追われたか、逆に、和尚の方が見切ったのか、わずか三日で山を下りている。たぶん和尚の飽き性の結果だろう。それを親鸞は二十年続け、山をあとにしたのは二十九のときだった。妻帯という破戒との煩悶の末だったか、学僧との諍いだったか、それとも寺門園城寺や南都興福寺との政争に明け暮れる山門醜姿に倦いたのか、市中、六角堂に籠もっている。いまの烏丸御池の交差点にほど近い。むかしはかなりの寺域を誇っていただろうことを『名所図会』は教えてくれるが、すっかりビルの谷間に縮籠もっている。開基は聖徳太子、と縁起は嘯くがおそらく平安半ばの創建だろう、西国三十三箇所の札所にもなっている観音霊場で、そこに親鸞は百日参籠をめざし、九十五日目の朝、枕辺に太子が立って偈を授けたとして、煩悶の鎖を解いた。
本来、仏殿、仏堂というのは、中国伝来そのままに床は三和土か、瓦敷きの素朴なものだった。それが平安半ばに観音信仰の広がりで霊験参籠がブームになり、長く直に座るのは足腰に悪いからと板張りになり、さらに座蒲団代わりに畳が敷かれることになる。六角堂もそんなかたちでなかったか、山を下りた親鸞は吉水に源空の門を叩いている。吉水は東山の山懐、知恩院の南の将軍塚への上り口で、もちろんいまより山深かった。そこに源空は草の庵を結んでいた。
源空は親鸞には一世代上の大先輩だった。美作の人で十三のときに比叡山に上って学僧をつとめている。鋭才だった。そして親鸞が生まれた頃には、見切りをつけて吉水に下りていた。四十三歳。あとを慕って弟子の多くが山を下りている。いまでいえば、政争と保身の狂騒に飽き飽きした看板教授が大学を去り、私塾か研究所を開いたところに、将来を約束された俊英たちが中退して参集したかのようで、親鸞も、楽僧という専門学校コースの学生ではあったが、少し後れて門を叩いたのだった。
源空が注目されていいのは、女性に対しても教えを説いたことだった。それまでのこの国の仏の教え、つまり仏典というのは漢字で書かれていて、男だけを対象にしていた。それを声明、いいかえれば音の経典として源空は万人に広めようとした。漢字が読めない、さらに文字を知らない階層への社会参加のきっかけづくりだった。すると、当然のように、それは聖と俗との隔たりの解消、つまり、僧の世俗化につながっていく。だから親鸞が六角堂に籠もったのも、聖徳太子から偈を授かったというのも、いうまでもない、のちの教団の辻褄合わせの説話に過ぎない。ほんとうはまっすぐ源空のもとに走っただろうし、行き着く先はそこしかなかった。そして名前も範宴から善信と改めている。何のためか? 善信というのは俗名で、つまりは法号を棄てるという意思表示だった。いうまでもない、得度して師から戒を受けた者はそのときもらった法号で仏さんのアドレス帳にリストアップされている。それを棄てるというのだから仏さんと縁を切るということになる。その理由は? 妻帯のためだった、と考えていい。といって信仰、つまり自分の立ち位置は棄てられない。現実には矛盾だらけになってしまうが、聖と俗の狭間を生きようとしたのだった。
そこであの言葉だが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」というのは、そんな親鸞の独創と思っていたが、じつは源空が最初だった。二人がちがったのは、源空は、それでも善人たらんと努めたのに、親鸞は、さらりと棄てて、自ら悪人であると開き直っている。といって斜に構えたわけではなく、まっすぐ素直に生きようとしただけのこと。これは知っておいていいと思うが、当時、僧の妻帯はめずらしいことではなかった。僧に女犯の戒がきちんとしていたのは、せいぜいが平安遷都頃までだろう。あとは律も法も崩れっぱなしで、平安末期には妻帯もごくふつうのけしきになっていた。
もともと釈迦の集団、グループには、その教えを守って家、つまり私財や地位を棄てる出家に対し、教えは守るが家は棄てずに、逆に家を守ることで出家を支える者、つまり檀越、あるいは沙弥ともいったが、周縁の取り巻きの二つがあった。出家に妻帯は許されない。けれど檀越、沙弥はその限りでなかったから、たとえ出家の身で妻帯することになったとしても、出家をやめ、檀越として支援者に回ることで、変わらず教団に身を置くことができた。それがこの国ではようすがちがって、妻帯しても出家をやめないのがふつうになっていた。親鸞はそれに抗ったのだろう。だから比叡山を下り、自らを禿僧と呼び、出家の象徴でもあった剃髪をやめたのだろうとぼくは想像している。よく目にする、あの人相の悪い親鸞像は剃髪姿で写っているが、じつはずっと晩年の作で、禿とするにも老い過ぎて髪がなかったのではないか。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや……、同じようにいった二人だが、戒を守り出家を通した源空には、人に善悪の仕切りをつける必要はなかった。ともに救われればそれでよかった。けれど、妻帯、破戒の親鸞には、悪人の往生は欠かせない。あの悪人は、土地を持たない、川筋に生きた下層の人々、というばかりではなかった。
そして妻帯の問題は、じつは法の問題でもあった。よくいわれる、正法、像法、末法の三時の説も、ほんとうは僧の妻帯問題から生まれている。釈迦が死んでから五百年なのか千年なのか、いろいろ議論はあっても、ともかく数百年の間は釈迦の教えもきちんと守られ、すべてが覚者、つまり釈迦の生き方をめざしていた。それが正法の時代であって、あとの数百年は、教えはなんとか守られるが覚者をめざす者がいなくなる像法の時代、そしてあとは、覚者をめざす者はもちろん、釈迦の教え、つまり法さえ守られなくなる末法の時代に入っていく。これは、そうなることを預言したわけではなく、そうなってからの理屈付けだった。だからこの国に仏法がやって来たときには、すでにどこにも覚者をめざす者などいなかった。端から、破戒、無法の仏教だった。
これを経典からいえば、釈迦の説法、つまり経が意味を持っていたのは正法の時代だけとなる。続く像法の時代には、それを忘れないよう解釈して努めた。それが末法の時代になると、もう中身を説ける者もなく、ただ、南無阿弥陀仏、妙法蓮華経と題目を唱えるしかなかった。釈迦の教えは、時代が下るにつれて大衆化されたのではなく、説く者がなくなっただけのこと、源空、親鸞の時代には法も覚者もすでになく、念仏でさえすでに怪しかった。
源空は嘯いている。「聖であって念仏がならないなら、妻帯して念仏せよ」。妻帯のために僧をやめるというのなら、妻帯するのもかまわないから信仰を棄てるな、素直にはそう読める。けれど、もう少し奥が深かった。
古くインドではサンガ(僧伽)といって、教団のことだが、僧というのはもともと、そのなかでしか生きられなかった。家も財も棄てていたからで、だからサンガを離れると、身を寄せる家と財を求めなければならない。つまり、妻帯するしかなかった。いまとちがって女性にも相続権があったからで、それが否定されたのはこの国では江戸に入ってからのこと、室町までは女も男から自立して家を持っていた。その意味で、僧の妻帯というのは教団の拡大には自然なことで、むしろ、あるべき姿だった。ただ、親鸞がちがったのは、多くは妻帯しても聖の地位に執着したのに、それを棄て、ひたすら俗のなか、禿僧に生きようとしたことだった。
親鸞が吉水の門をくぐった頃、源空人気は最高潮にあった。宗門に限らず貴族や、遠くは熊谷直実、宇都宮頼綱といった幕府の有力御家人や関東武士団も門を叩いていた。余談だが、宇都宮頼綱の宇都宮というのは領国の地縁によるもので、姓としては藤原姓、藤氏を名乗っている。時代的に藤原定家とも親しく、娘は定家の長男為家の正妻に入っている。その子の為氏と、阿仏尼で知られる為家の後妻の子為相との間で家督相続の所領争いがあって、為相が別家を立てる。それが歌道の冷泉家としていまに続いている。
そんな勢いの源空だったから南都北嶺はおもしろくないのも当然で、その提訴で源空は讃岐に流され、親鸞も連座して京師を追われる。頼った先が越後の国、妻の父三善為教の所領があった。当時、刑罰というのは貴族を対象としたもので、だから流刑といっても裸一貫で追われるのではなく扶持も支給されていた。ただそれもせいぜいが半年で、あとは自力で生きていかねばならなかった。ために身寄、コネクションが欠かせない。親鸞にそれは恵信尼以外になかったし、だから恵心尼とは京師で知り合っていたと想像するしかない。聖と俗の狭間で苦しみ、悶えたのも恵心尼がいたからこそのことだった。
そして四年、赦免は下りたが親鸞は戻らなかった。源空は吉水に帰ったが二カ月後に逝っている。七十八歳。それも親鸞には一つの節目になったのだろう、かつて源空から授かった綽空の法号を改め、自ら愚禿と呼びはじめた。見た目、形としての僧を棄てたということだろう。三年後には妻子とともに越後を出て、途中、転々としながら信濃から碓氷を越えて常陸の稲田に落ち着いている。なぜ稲田だったか? そこに恵信尼の父の所領があったからとも、あたりに勢力のあった宇都宮頼綱の縁族に招かれてのことともいうがどうだったか、吹雪谷と呼ばれた山合に庵を結んだ。南に筑波山から加波山に連なる碧い峰筋を望む、いまも穏やかな里である。
「ああ、あれやったら、まっすぐこの先の……、ほれ、あそこに見えますやろ」
稲穂がやさしく小首を垂れ、蕎麦の花が白く爽やかな一日だった。二人、常磐線を友部で乗り換え、ごと、ごと、行った。前から訪ねたいと思っていた。それを一通り境内を廻り廻り、裏門から里に抜けたところでさがしていたら、田圃の畦から老爺が教えた。ごつごつと節榑立った指先の、野道の終てに白く小さく光っていた。見返り橋。京師に戻る親鸞を、越後に向かう恵信尼が見送った。還暦を過ぎての親鸞の、妻との最後の別れだった。
親鸞は生きるに器用な人だった。禿僧といったのもその一つだろう、戒を棄てた俗僧に、自力による開悟の道はあり得ない。すると他力によるしかなかった。そう考えての他力本願であって、妻子を持った親鸞は、俗僧であることを自認していたから、門下を子弟でなく、同朋、同行と呼んで親しんだ。ともに念仏する者、という意思だろう。だから暮らしの場も、いまでいう寺ではなく、ふつうの造りの建物で、それを道場と呼んでいた。
そして三十年、最初は越後の恵信尼からの助けもあったというが、それも絶えたか、晩年は同朋からの布施によって過ごしている。どこか、いまの年金暮らしに似て、微笑ましい。九十歳で、仏陀さながら北を枕に西面し、念仏を唱えながらの最期だったらしいが、家族思いだったのだろう、俗に過ぎるといえばそれまでだが、直前に、死後の家族への援助を常陸の同朋、同行に願い遺している。「ひたちの人々の御中へ」と結んだ書状で、受け取った弟子たちによって東山の大谷に廟が建てられ、娘の覚信尼がその留守居として暮らすようになる。つまり墓守で、それが世襲となって、いまの門主に続いている。
「どこかで見た気がする」
傍でいった。ぼくも思っていた。御坊の裏山の、杉木立のなかを二人並んで南に向かい、加波山を望んだその山並みが、比叡山から音羽山にかけての東山にそっくりだった。親鸞の稲田を選んだ想いが、少しだったが、わかる気がした。
そんな比叡山もじつはいろいろで、御所の北、今出川を越えて上がると頭もつんと尖らせて凛として見せるが、逆に、丸太町を南に下がるとずんぐりむっくり、愚鈍といえばいい過ぎだが、穏やかに丸ぼったくなる。もちろん稲田のそれはあとの方で、たぶんむかしは、六角堂からの眺めもそんなふうではなかったか、親鸞の原点ともいえるけしきだった。
そしてぼくにもぼくの比叡山があった。小僧に入ったその日、あてがわれたのは庫裡奥の屋根裏部屋だった。天井はきちんとあった。けれど低い鴨居に、古畳も黴臭いばかりか、あちこち縁も擦り切れ、藁床もぶかぶかと頼りなかった。それでも広い八畳間はぼくには贅沢過ぎた。
惚けだらけの毎日なのに、鮮やかにむかしが蘇るから不思議だが、片側に二間の押し入れがあって、反対側には一間幅に腰窓が開いていた。ちょうど東に向かう切り妻の真下にあたる。明かり障子の外に木格子の入った揚げ窓で、内から竹棒で突っ張り上げる鎧板の吊り戸がかかっていた。と、それだけで、真ん中に天井から、乳白の硝子傘を被った灯りが一つぶら下がっているだけ。しん、しん、と夜も更けて、はじめての朝だった。枕元の時計に夢から醒めた。五時前だった。腰窓に鎧板の割れ目から、ぼんやりと、白く光が射している。
そうだ、家じゃないんだ……、
いい聞かせると蒲団を出て、柱に吊った竹棒で鎧戸を上げた。
ぎいーっ、と鈍い音がした。
街はまだ、どこも薄鼠に眠りのなか、比叡山がまっすぐ見えた。きれいだった。うっすら白みはじめた茜空に峰筋をゆるりと伸ばし、少しだが左肩を落としている。その傾きがなんとも妙で、煤けた窓の額縁に墨絵のようにおさまった。
はじめての比叡山だった。だから、比叡山といえば、京都からのが表の顔と思っていたが、最近、近江を歩くようになって、ほんとうの顔は近江にあって、あの頃、見ていたのは、じつは裏比叡でなかったかと気づきはじめている。
そんなぼくにも迷いがあって、二年目の秋だった。二人、雲母坂から、錦に燃える木立のなか、てっぺんめざして登っていた。途中、ふと出た見晴らしで膝丈ほどの野面石に並んで休んだ。街が晴れてうつくしかった。と、隣で小さくいった。
「禅宗のお坊さんって、結婚できないんでしょ」
それに黙ったまま、明くる春、ぼくは寺を逃げている。
小僧の朝
「その箒、ずいぶん変わってますね」
雨上がりの門口を掃いていたら、ジャージ姿の婦人だった。朝の散歩らしい、一回りかそこいら年上だろう、ときどき見かけはしたが、話すのははじめてで、いつもは元気に大きく両手を振って、つつっと行ってしまうのに、どういうわけか、その日はちがった。
「これですか? 棕櫚箒ですよ」
すると婦人は首を傾げた。
「棕櫚って、あの棕櫚ですか? 茶色の、束子の長いような」
「ええ、けど、あれは鬼毛箒といって、同じ棕櫚でも皮の方でつくるんですが、これはただ葉っぱを束ねただけで」
いいながら改めて箒を見たが、婦人が不思議に思うのも無理はない。半年近くも使い古しているから腰もよれよれに、葉先も毛羽立ち、茶枯れたお化けのようになっている。それでも婦人はにこやかだった。
「へえー、めずらしいですね。ご自分でおつくりになったの?」
いい人だった。だからぼくもその気になって、「ええ、まあ」と照れてみた。婦人は興味津々だった。
「でも、棕櫚なんて、 今時、なかなか手に入らないでしょ」
それでぼくもその気になった。
「いえ、ほら、あそこ、森が見えるでしょ」
通りの先を指さした。ここ四、五年、近くにも空き家が目立って寂しくなったが、むかしからの家並みの終てに、少しだが、赤松のそびえる緑があった。
「何本か、棕櫚も植わってましてね。勝手にもらってるんですよ」
すると、婦人はうなずいて、
「えー、えー、あそこね」
と知ったふうだった。
「どなたがなさるのか、いつもきれいにしてらして、わたしも悦しませてもらってますの。この間なんか、宝鐸草が咲いてましたもの」
にっこりいって、胸前に、掌を小さく広げてつくって見せた。
ほうちゃくそう? ぼくは首を傾げた。けれど婦人はそこまでで、くるりと向きを変え、すた、すた、行った。
森といったが、ちょっといい過ぎ。もともと広い屋敷森だったのが相続で切り売りして、建て売りがいくつかできたその隅に猫の額ほどに残された一画だった。後ろに高い光悦垣の旧家があって、税金逃れだろう、自治体に明け渡して、憩いの森、と長閑な案内板も立ち、残った五、六本の赤松も空高く清やかだったが、子どもの遊ぶ姿はもちろん、犬猫の出入りする気配もなかった。
ところが、どういうつもりか縁なのか、ときどき背中を丸めた老婦の姿があって、道沿いの植え込みに細々と季節の花がきれいだった。その奥の木陰に隠れてあった棕櫚の木から、盆暮れに五、六枚、黙って枝葉をもらっていた。小僧暮らしの褒美といえばうつくしいが、門前の小僧は経を覚えるというのに、落第小僧はそれさえできず、いまも棕櫚箒をつくることだけ忘れずにいる。
「棕櫚の葉を取ってこい」
和尚がいった。
粥座のあとの、いつもの茶事は早めに切り上げ、その日は朝から忙しかった。いわれて走ったのは裏庭だった。比叡山を借景に東から南にくの字に広がる方丈庭の南の築地の向こう側、隣の塔頭との間には、奥行きも五間あったかどうか、細長い空き地があって、東の半分を縁戚墓地に、残りを畑にいろんな野菜をつくっていた。和尚は堺の商家の生まれだから百姓仕事には疎くて、世話をしていたのは一番上の兄弟子だった。鳥取の東郷の人で、在は百姓家ではなかったと思うが、鍬を担ぐ姿がしっくり似合っていた。その墓地と畑の境に天を突いて二本、夫婦のように寄り添って古い棕櫚の木があった。これも兄弟子がやっていたのだろう、いつもきれいに枝打ちされて、高い空にさらさらと青葉が初夏の風に涼しかった。それに梯子を差しかけて、いわれた通りに五、六枚、手鋏で伐ると庫裡の中庭に持って走った。
和尚は作務衣姿で待っていた。柄にする青竹は、前の日に僧堂の竹藪からもらってきている。その枝を払って腰丈ほどに切り、先っぽにとってきた棕櫚の葉を括り付ける。
「こうやってな、向こうとこっち、右と左、交互に重ねるんやな」
手取り足取り、和尚は教えた。そうしていわれたように葉を裏返しに二枚ずつ向かい合わせに重ねてこれも棕櫚縄で縛る。すると縄の墨と葉の緑の対比も爽やかにきれいな箒になった。それを茶会の玄関や飛び石や、躙り口の三和土の浄めに使ったのだった。青竹の緑の匂いも気持ちよくて、妙にぴりっとしたものだったが、いまはどうか、そんな箒を使う茶会もないかも知れない。
それを五十を過ぎてからだった。ふと思い出してつくってみた。といっても都会暮らしだから竹を伐る藪もない。少し前なら、竹材の卸商も大通りに見かけたが、それも代が替わって店を閉め、貸しマンションに建て替わっている。しかたなく、ようやく見つけたネットで送ってもらったが、棕櫚葉の方はそうもいかない。自転車でさがし回って、もうだめか、と諦めかけていたのを、なんのことはない、目と鼻の先に見つけたのだった。そうしてやってみれば昔取った杵柄で、けっこううまく仕上がった。だから一人、悦に入って、以来、盆暮れには新しいのをつくって気分替えの足しにしている。
箒ができあがると、和尚はいった。
「ちょっと、ついて来い」
いつものことだったが、この、ちょっと、に不安と期待が渦巻いた。それがいまは懐かしいのだから不思議だ。
和尚は庫裡裏から塀際の木陰道をすたすた行った。そして方丈庭の苔の緑を横切ると隅の椿の老木の陰に隠れた木戸をくぐった。さっき話した方丈の裏庭には、棕櫚のほかにも畑と墓地の境に大きな木槿の株立ちがあった。肌も汗ばむ日も多くなりはじめた梅雨明けに、涼しげな立ち居姿で、それはよかったが、咲き終わるとだらしなく花が萎み、ぽたり、ぽたり、とあたりに散らかって行儀悪かった。それを和尚は背伸びして、まだ花先の捻りを残したままの白い一輪を、手折ると塀際をまた戻った。ついて来いとはいったが、何をさせるわけでもない。それが、
──かたちは見て取れ、
ということだったか。台所の什器棚に並んだ器のなかから丹波の一輪挿しを選ぶと、本堂脇の中庭の井戸端に走り、汲み上げた釣瓶の水に一輪をさっとくぐらせ丹波に活けた。それを骨清庵の床柱に掛けたのだった。
骨清庵は方丈と庫裡の間に二つあった小さい方の茶室で、和尚好みに造ってあった。繰り返すが、一畳台目中板向板丸炉壁床といって、素朴な造りだった。いわゆる方丈で、畳が二枚きりの、一枚はふつうの大きさだが、もう一枚は台目畳といって、四分の三に一方が削られている。その二枚の真ん中に細長い板を挟んでいるから中板で、板幅は五寸二分というから十五センチぐらいだったか、向板は台目の残りの四分の一を板敷きにした点前の水屋で、台目構というらしいが、上に吊り棚を設えていた。
炉は入炉、つまり台目畳の内側にあって、細かくは向炉というらしいが、中板寄りに切ってあったと思う。まん丸い炉で、その内側を塗っていたのが伏見の稲荷山の土だった。明るい黄色がかった壁土で、いまも伏見稲荷に行けば土産に売られているあの伏見人形も同じ土でできている。そういえば稲荷山一帯の伏見丘陵の歴史は古く、すでに縄文期から開けていて、古代には秦氏も最初に落ち着いて、土師部も置かれていた。なんでも伏見人形は壊れて捨てられるとまた稲荷山に飛んで帰るらしい。だから稲荷山の土はいくら掘っても少しも減らない。そんなことを教えてくれたのも和尚だった。
ともかく骨清庵はこの上なく利休好みの瀟洒な造りで、茶室に付きものの床の間もなく、廊下側の茶道口を入った脇の土壁を、壁床といって、床の間に見立てて和尚の掛字がかかっていた。莫妄想、と書いてあって、それはよく覚えているのに、意味はいまもわからないまま。あとは茶道口の斜め向かいに躙口があって、脇に座蒲団ほどの連子窓が明かり採りに開いていた。だから、明るさも手元で文字が読めるかどうかの頃合いで、ちょうどよかった。
もともと茶室というのは北向きにあったものらしい。村田珠光も麁相と呼んで、茶碗が地のまま素朴に見えるのを悦んだ。それを南向きに、連子窓と下地窓を組み合わせて、明かり採りに変化をつけたのが利休だった。光が低く一方に偏るから、茶碗に陰が差して表と裏に表情が変わる。それを利休は悦しんだ。
さて和尚だが、丹波の一輪挿しを床の柱に掛けると、にっこりいった。
「きょうは風炉やからな」
だからぼくも手伝って、連子窓の跳戸を上げた。露地風が爽やかで、植え込みの緑の匂いがやわらかだった。
茶釜にはいろいろあって、入炉を使うのは秋から冬にかけての寒い時節にかぎっていた。反対に暑い夏は、風炉といって、畳の上に火鉢のように釜を据えた。入炉に比べれば少しの炭ですむ。不要な熱さを避けるためだろう、炉には部屋を暖める役目もあったのだ。だから炉板は上げないで、そのままにしておけ、という意味だった。
そして、また、とこ、とこ、と忙しそうに丸い撫で肩を左右に揺すりながら奥の隠寮にまっすぐ消えた。ぼくは一人、中庭に回り、広縁からの飛び石と、躙口の三和土周りを、つくったばかりの緑の匂いいっぱいの棕櫚箒で掃いて回る。といっても、大方は毎日やっているから改めて掃くほどの塵もなく、さらさらと浄めのような真似事だけで、棕櫚の葉先がかすかに土に触れるかどうか、そのふんわり感に遊んでいた。終わると中庭の井戸端に走り、手桶に水を汲んで飛び石周りに水打ちする。これはもう一度、陽の照り具合にもよるのだが、客が顔を見せる十分ばかり前にも同じように繰り返す。粋な計らいだったが、この井戸水というのが和尚自慢の名水だった。
いまは京都もけしきが変わって思い浮かべるのも難しい。けれど、むかし、京都は水の街だった。もともとが賀茂川の扇状地に広がったようなところだから当然だが、あちこちで伏流水が湧き出ていた。その名残がいまも堀川の東沿いに見えるが、大徳寺もその筋にあって、境内を廻る外溝には北の尺八池からの用水が大宮や紫竹の田圃をあちこち廻り廻って流れ込み、終ては一条手前で堀川に注いでいた。その外溝のすぐ南、船岡山の北麓には、いまは木陰の公園に変わっているが、滾々と水の湧き出るけっこうな淵もあった。それが、がたん、ごとん、とのんびり走った電車も消えて、空ものっぺりと筒抜けにアスファルトの乾いた街になっている。
「どや、美味いやろ」
和尚がいった。小僧に入った春、和尚の背中を追って作務が終わったあとだった。その井戸端で鶴瓶に水を汲んでくれた。
「いとくすい、いうてな、ここの真下を流れとる」
あのときは、ただ音だけで、無理矢理、納得していたが、偉徳水と書いたといまは知っている。たしかに水は旨かった。とろりと舌の上を滑るように、そしてほんのりだが鉄臭い味がしたのはどうしてだったか。井筒は四角く野面石を組み上げて、覗くと縁はびっしりと苔生して、それほど深くはなかったと思い出しているが、羊歯が生い茂って底がなかった。その井筒の上に高く鳥居のように木組みした櫓にぶら下がった滑車に木造りの鶴瓶がかかっていた。といっても傍には新しくモーターポンプもあるにはあって、ただ苔庭の風情をそぐわないよう、竹囲いに隠していたのも禅寺のけしきだった。
ほかにもあたりの名水といえば、毎日、夕方には走って出る商店街の豆腐屋の裏にも、牛若丸が産湯を使ったとか古潭のある古井戸もあって、そんな縁だろう、境内の北の外れには紫竹牛若町と歴女には震えも来るような町名もあった。頼山陽が山紫水明といったのはずっと南の方だったが、平安の昔から内裏を北に外れた大徳寺のあたりは、西は風葬の蓮台野に続く風光明媚な牧だった。ちょうど北の鷹峯から流れ下る扇状地の頂きにあたり、夏のはじめにはあたり一面、白く紫草が咲き乱れた。だから紫野。
さらに、そこを流れていたのが小川で、いまも堀川のすぐ東に名前だけがかすかに残っているが、けっこうな水量だったのだろう、室町期には水運の土倉も軒を連ねていたそうで、義尚だったか足利将軍の館もあって、たしかに水もよかったのだろう、利休のあとの表、裏、武者小路の三千家もその流れに庵を結んでいる。
そのように、いまの京都は中心が烏丸や河原町に移っているが、室町以前はずっと西に主軸があった。平安京の正中線、つまり南北の中心軸は朱雀大路といって、大凡いまの千本通りにあたる。それが少しずつ街は東に動いて、室町半ばには堀川を中心に、その流れを水運に賑わった。小川はそのすぐ東を同じように北から南に流れ、山名、細川の応仁文明の十年戦争も、東西両軍がこの川を境に睨み合った。
「おがわとちがうえ、こがわやし」
糺してくれたのは下宿の小母さんだった。寺を逃げたあと東に西に街をあちこち彷徨いた終てにたどり着いたのが西陣、小川通りの下宿屋だった。大正のはじめから続く大きな織元で、亭主が死んで廃業したのを、子どものいない後妻が、広い町家の二階を間貸しして学生下宿をやっていた。あの頃でもめずらしくなっていた賄い付きで、おまけに洗濯までしてくれて、男ばかり十三人の学生のなかに子どもはぼく一人だった。
すぐ上の横町が寺之内で、表裏の千家のほかに本阿弥光悦の本法寺や同じ法華の妙顕寺も目と鼻の先、そしてこれはいつも門を固く閉ざしていたが人形の寺の宝鏡寺もすぐだった。それが、西陣でも一番東寄りで織元が多かったからか、昼間は荷運びの車が絶えず出入りしても、夜にはぴたりと人通りも絶え、機音もなく沼底のように静まり返った。
部屋は表を入った見世庭の真上、細長い四畳間で、おかしな間取りだな? と思ったら、糸置きの納戸を改装したと教えてくれた。すぐ下の見世庭とは床板一枚だから、から、ころ、出入りの下駄の歯音もそっくり聞こえた。
明かり採りには、通り庭の内玄関からの吹き抜けに硝子障子の腰窓があって、もう一つは反対の表通りに虫籠窓が開いていた。腰窓からは下の勝手から小母さんの水仕事の音が、こと、こと、がちゃ、がちゃ、と賑やかだったが、虫籠窓はただ寂しいばかり。向かいの町家の屋根に上る月も漆喰格子にスライスされて、入ったこともない獄窓を思ってみたりした。
本来が学生相手の下宿で、そのなかに一人小さかったからか、小母さんはよくしてくれた。休みの日には寺町や三条商店街の買い物にも連れて行ってくれたし、夜には、「ほら、連ドラ、はじまるわよ」と、ほかのみんなには禁断の、カラーテレビのある奥の座敷にも誘ってくれた。有馬稲子似の、くりくり眼に、鼻筋のきりっと通った、癖のない京言葉のやわらかい人だった。
といっても京都人ではなかった。どんな事情があったのか、生まれ在所はいわなかったが、二十歳過ぎでいっしょになった夫に死に別れ、あとは形見の一人娘の手を引いて転々としたことは昔語りに話してくれた。
「飯場にも行ったんよ」
秋田の尾去沢でのことだった。鉱山事務所を訪ねると親方は快く雇ってはくれたが、こういった。
「飯炊き女もええが、どうや、おれといっしょにならんか」
四十過ぎの屈強な大男だったらしい。それがいくらもしないで坑内事故で死んでいる。そして流れ着いたのが西陣だった。織り子か、住み込みの賄い婦に、と思ったのが戦後の糸屋不景気の最中だった。
「見ての通りで、いまはさっぱりでな。織り子も要らんし、女中も要らん」
檀那はいった。
「それより、どやろか? 嫁さんに死なれて不自由しとる。あとに入る気はないか」
ほかでもない、有馬稲子似が生きるのを手伝ったといえる。檀那とは一回り以上も齢がちがった。これも大男で、難しい年頃の娘が二人いた。ところが、また、十年そこそこで逝ってしまう。
「あたし、男殺しの相があるんよ」
ふふっと笑って、明るかった。といっても織屋は女手一つではやっていけない。しかたなく暖簾を下ろし表の見世は人に貸し、その店賃で娘三人を育て上げ、嫁にも出した。すると、大きな町家に一人になった。
「人間、万事、塞翁が馬」
からりといって小母さんは、
「学校で習ったでしょ? あなたも同じ、どこでどうなるかわからんわよ。だから、いまはしっかり勉強しときなさい」
奥の座敷でぼくを諭した。そんな下宿に逃亡のあとの癒やしを見つけたが、それが過ぎたか、心地よさに溺れるばかりで、年上の学生に倣ってはいろいろ青い遊びも覚えた。
「ちょっと、ちゃんと勉強してる? そんなんで、試験、受からへんよ」
母のような諫めの言葉も右から左で、案の定、明くる春、大学入試に落ちている。
「ほんまは、茶人になりたかったんやな」
和尚はいった。茶会の終わった夜だった。
と、ここで少し、ぼくらの夜の話をしておくと、夕方六時からの薬石、つまり晩飯のあと、仕舞事が終わって一息つくと八時を過ぎていて、小僧部屋に戻ってごろりとしていると和尚が風呂に入る。和尚は薬石のあとは隠寮で本を読んだり、ときには趣味の謡を唸ることもあったが、聞こえてくるのは、
「これは、諸国一見の、僧にて候……」
といつも同じ条ばかり。そしていくらもしない、九時になると、ちりん、ちりん、兄弟子の鈴を合図に、庫裡の台所脇におさまる韋駄天さんに短い経を上げて一日の勤めが終わる。韋駄天さんは足が早く、仏さんの、いわばパシリで、台所の守り神だった。その働きに仏さんは、ご馳走さま、といったかどうか。
すかさず、
「おーいっ」
と奥の隠寮から声がかかった。これがもう一つの苦行のはじまり。就寝前の和尚への按摩のお勤めで、下っ端小僧の役割だった。按摩といってもちょっとちがう。野口整体といって、創始者の野口晴哉本人も年に三、四回は寺に顔を見せていた。見るからに神がかった風貌の人で、和尚より一回りは年下だったと思う。射貫くような眼光の、いつも羽織袴姿でやって来て、逆に和尚の方が整体のほかにも教えを受けていたのかも知れない。夫人は近衛文麿の長女だった。だから、あの日本新党の首相は甥にあたる。もとは島津家に嫁いでいて、そこに出入りしていたのが野口で、その鋭い眼光に射貫かれたか射貫いたか、あの白蓮さんも顔負けに二人駆け落ちしていっしょになった。それで「昭和のノラ」と騒がれたのだが、情熱の人というか、きっと感覚の鋭い人ではなかったか。どうしてって? そういう人にしか野口の整体は効かないからだ。それはともかく、和尚は飽き性だったが凝り性で、風呂上がりの体の弛んだのが頃合いなのか、蒲団に横になったのを、首元から背筋をぐにゅぐにゅと圧さえたり、足の筋をこりこりとやってみたり、その細かな指示通りにぼくは勤めるのだった。
毎日、一時間近く、カイロのようにぐいぐいと力任せにやるのではなく、そろり、そろり、背骨の椎を一つずつ押し広げるように軽く指をあてては弾くようなことからはじめ、最後は足の付け根から踵や足裏までを、「そこ、そこ、いや、もうちょっと右」といわれるままにつぼをさがして指の頭で圧さえていく。たいして力は要らないのだが、なんせ日課が終わったあとのぐったりどきだから、ゆるり、そろり、という緩慢さがつらくて、つい舟を漕ぐことになる。それがわかっているから、眠気覚ましに和尚はいろんな話をした。
そんな梅雨に入る少し前だった。慌て者の夏虫も稽古を終えたか、しんと二人きりの隠寮に、ほんの童行上がりの子どものぼくに何を教えようとしたのか、その夜の話はちょっと深刻だった。
「おまえはどうか知らんがな」
たぶん、ぼくの出家の理由を見抜いていたのだろう。
「わしらのこの世界も、いうてみたら、駆け込みのようなところがあってな。じつは、わしもそうやった」
もちろん、ぼくはうつらうつらに聞いている。それも知ってのことだろう、和尚はいった。
「わしも、逃げたかったんやな」
意外だった。えっ? と眠気が吹っ飛んだ。思わず母の姿が浮かんだ。春先だった。家を出るぼくの背中に母はいった。「気いつけて行くんよ」、気丈ないつもとその日はちがって、鼻にかかった声だった。いまも耳奥に残っている。それを振り切り、ぼくは走った。
和尚は続けた。
「家業を継ぐのが嫌でな」
息遣いが聞こえる、しんと静かな夜だった。
「十八のときやった、飛び出したのを拾うてもろうた。大林和尚にな」
「だ、い、り、ん……?」
「そうや、南宗寺の、ほれ、おまえの実家ともそんなに離れとらんやろ。いまは末寺になっとるが、もともとは一派をなした大寺でな」
そしてわずかに調子を落とした。
「先のことも考えんと、家を飛び出したまではよかったが、結局は行き場がのうて門を叩いたんやった」
紙問屋の、和尚は後取り息子だった。なんでも江戸の頃から続いたけっこうな家筋らしかった。それが早くに父親を失い、するとたちまち屋台が傾き、ようやく番頭の切り盛りで潰れずにいた。
「若旦那、若旦那、て絆されてな。後取りやいうのに、店の方は番頭に任せっきりで、したい放題やった」
もちろん、ぼくは黙って、こりこり、ぐにゃぐにゃ……。
「柄でもないのに骨董に走って、茶碗やらなんやら買い漁り、南宗寺で茶会があるいうと家はそっちのけで」
南宗寺は檀那寺だった。
「だいたいが、商いが肌に合わんかった。それで番頭を姉の婿にくっつけて、後をとらせて飛び出したんやった」
そして、ぽつりといった。
「母親も棄ててな」
どんな目でいったか、うつむいていたからわからない。あとにも先にも一度きり、和尚を身近に感じた瞬間だった。だからまともな言葉もなくて、
「それで、どうされたんですか?」
訊いてみた。ぼくも母を想っていた。
和尚はいった。
「三年後やった、死んでしもうた」
声明で灼けた嗄れ声がさらにかすれて低く響いた。
「生まれがよかったからやろう、体の弱い女でな、数えの五十四やった」
「………」
「わしが殺したようなもんやった」
ぼくも同じといっていい、よく似たかたちで母を送っている。けれどようすはちょっとちがって、もっときびしく母を殺している。
かなしいけれど、立ち居姿の母をぼくは知らない。実家は百姓家を兼ねた織屋だった。といっても機はもちろん糸も借り物の、いわゆる賃織りの零細機屋。夫婦二人に九州から中学上がりの織り子を呼んで、昼も夜もない夜業続き。そんな夜鍋仕事が体を苛めたのだろう、梅雨の田植え時にぼくを産んでそのまま寝ついた。
「これは、リューマチやね。古い病気やけど、どうにもならんで、あとはまあ、せいぜい養生するしかねえ……」
村の婆さん医者も匙を投げた。
あの頃、村に手足の関節を鞠のように膨らませた女はざらにいた。薬はあったが副作用の方が大きかった。だから、ただ、じっと我慢するだけ。男女平等、女性の社会進出をいう前に、男以上に生業に身を粉にした女はとっくにいて、そんな働き者の女ばかりをねらう、リューマチは風土病といってよかった。だから、母の世話と三度の家事がぼくの仕事になった。小学校に上がってすぐだった。父は工場に忙しかった。兄はいたが上の学校の勉強で家事どころではない。そんな家から、中学卒業の明くる日、ぼくは逃げた。
拾ってくれたのは和尚だった。もし出会うことがなかったら、ぼくはどうしていたことか、有り難い人だった。ただ、それにもこたえずまた逃げた。ぼくの習性といっていい。それから三年、母は死んだ。
仏書はさらりといっている。
──殺母、殺父、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧、これを五逆という、
そのように、母を殺す、父を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を傷つける、僧団を乱す、の五つは人として、やってはいけない一番悪いことだった。無間業といって、犯すと無間地獄行き。
和尚と同じにぼくも母を棄てた。寝たきりで、ぼくがいなければ小用はおろか三度の飯も口にできない人だった。だから、棄てたことは殺したに等しい。
望んだわけではけっしてなかった。ほかに術がなかったからだが、してみて、しくじって、振り返ってぼくは思っている。出家とは、ほかでもない、家を出ること、つまり、父と縁を切り、母を棄てること。そんなふうに仏書は教えるが、それは詭弁だ。
どうしてか、って?
母を棄てても、殺しても、どこにも逃げ場はなくて、いまもこうしてぼくは母を追い、そして父を想っている。出家、それは言葉でいえても、少年の、生身にできることではなかった。きっと和尚もそうだったと思う。
「あれは、わしが殺したようなもんやった……」
和尚がいった、そんな年回りに、いまはぼくもなっている。
塀の話
「むかし、大徳寺に塀はなかった」
和尚がいった。
その日は、どんな風の吹き回しだったか、朝の茶事にも、きょうは濃茶にする、といつもよりテンションも高かった。
濃茶というのは、一つの茶碗に濃いめのお茶を嵩も多く、だから、混ぜるのも、薄茶のように、しゃか、しゃか、ではなく壁土でも捏ねるように、どろ、どろ、やるのだが、そのように、薄茶は点てるといったが、濃茶は練るといった。
そのどろどろに練ったのをみんなで飲み回す。はっきりいって、いかに師弟、兄弟弟子といっても他人の口をつけたのを呑み継ぐのだから、潔癖症の下の兄弟子は、汚い、と顔を顰めて嫌がった。ぼくはそれほどでもなかったが、やっぱり最初は勇気がいった。紹鴎や利休の頃は密談前の腹合わせ、意思統一の証の作法だったと和尚は教えたが、もともとお茶はそうして回し飲むものだったらしい。
そして塀の話だが、和尚はむかしといったが、創建のむかしではもちろんなくて、和尚がやって来た頃のこと、つまり昭和も十年代はじめのことだった。同じ臨済宗でも兄弟寺の花園の妙心寺などは、伽藍はもちろん外溝もきちんと整備され、外塀も五線も鮮やかに立派だった。いまも全国に末寺三千五百を超える臨済禅最大の宗門だから当然のことだが、大徳寺は末寺もわずか二百カ寺に満たない。
当然、台所事情も知れたもので、塀がなかったというのも、毀れたままにやり替えられなかっただけのことで、諸人に開けた宗門ということでは更々ない。
「高山彦九郎でのうても、泣きよったやろ。仏殿やら法堂やら、伽藍も外からすけすけで、まあ、酷いもんやった」
濃茶の茶碗を、鼻汁でも啜るかのように、ずずっ、とやると、唇を緑に染めたまま、まず上の兄弟子に回した。
高山彦九郎?
ああ、あれか、とぼくは思った。京都も近頃は、ほかと同じに街の変わり様も激しくて、どうなっているか、しばらく知らないが、京阪三条の改札を出ると、右に琵琶湖に走る石山線の線路を見ながら広場があって、その鴨川寄りの一隅に、尻を向けて正座する丁髷姿の坐像があった。見るからに素寒貧とわかる浪人で、視線の先は仙洞御所。顔を歪めて少し哀しそうにぼくには見えた。
「あれはな、御所の塀が崩れたままで、なかの灯りが見えたからなんや」、と教えてくれたのは小さい頃の父だった。翼賛壮年団の生き残りだった。御所はいまは整然ときれいになって観光名所の一つに変わっているが、幕末までは公家邸がごちゃごちゃと建て込んで、迷路のようになっていたらしい。その一画に肩を窄めるように御所はあった。それが明治になって車駕東幸、天皇の東下りを追っかける公家の邸が空き家になったのを取り壊し、更地になって御苑になった。そんな御所の憐れさに彦九郎は涙した。といっても周りには町家も建て込んでいただろうから、三条大橋から御所は拝しようもなかったと思うのだが、とにかく父は、講談でもやるかのように、小学校に入ったばかりのぼくを前に、晩酌語りの憂国話はしょっちゅうだった。
それでも茶碗は回ってくる。ずるっ、ずるっ、上の兄弟子がまず勇気を奮った。どんなに神経を誤魔化しても、子どもが青洟を啜るようで、まともに聴ける音ではなかった。けれど、けろりと次ぎに回した。そして中の兄弟子、下の兄弟子と巡っていよいよぼくの番だった。
えっ!
茶碗のなかを覗いて驚いた。兄弟子たちはどこをどんなにずずっとやったのか、どろどろがたっぷり残っている。小僧修行には知恵が要る。年季の功というやつだろう、兄弟子たちは、ずずっと音だけでそのまま次ぎに送っていたのだった。
けれど、ぼくには後がない。腹を決めた。
──茶を呑んどれば癌にはならん、
和尚の口癖だったが、量にも限度があるだろう。その日は胸灼けしてたいへんだった。それでなくても抹茶は刺激がきついから胃弱のぼくには命懸けだった。そんな兄弟子たちのやり口を、もちろん和尚は気づいていた。けれど、それも小僧暮らしのけしきの一つで、空惚けてかかわらなかった。
「ほれ、そこの豆腐屋の隣のな」
顎で肩口の向こうをさして、いった。
苛ちの和尚は休むことを知らない。濃茶がぼくらを回る間も、法衣の袖を摘まんでは口に運んで唾をつけ、茶杓をとると、しこ、しこ、軸を磨いたりして落ち着かない。いつものことだが、一時としてじっとしていられない人だった。
そこといったが、これも和尚の口癖で、南の電車通りもそこだったし、北の今宮神社辺りもそこだった。だからぼくらは想像を逞しくする。その日のそこは、東の惣門前の大徳寺道のことだった。
大徳寺道は小型車がすれ違うのもやっとの狭い通りだったが歴史のある古い通りで、平安京の大宮大路の延長にあたり、北に上賀茂神社をかすめて鞍馬に抜けていた。だから鞍馬道という人も偶にいた。味噌屋や畳屋やそれらしい古い店もいくつかあって、佃煮屋と豆腐屋も紅殻町家に軒を連ねていた。といっても、どれもこれも決まったように二間半間口の低棟の二階家で、和尚がいったのは北に少し上がった一軒だった。
「おまえらは知らんやろうが、お雪さんいうてな」
つる、つる、と、ぴか、ぴか、に磨き終えた茶杓を棗の上に大事そうにそっと置いた。それで、ぼくらは、いよいよか、と腹を括った。いつもの長講話の口開けだった。
「わしより二回り近うはいっとったと思うが、足腰のしゃんとした婆さんやった」
それに上の兄弟子がこたえた。
「モルガンお雪さん?」
和尚は目を丸くした。よう知っとるな、という驚嘆ではなくて、魚が水を得たといった方がいいだろう、話に弾みがついた。
「なんや、知っとったか」
兄弟子はしたり顔にうなずいた。
「たしか、四、五年前に……」
「ああ、元気やったが死によった」
といって、これは話も早い、と思ったか、和尚は満足そうだった。
お雪さんは祇園の芸妓だった。それが二十歳過ぎでアメリカのジョージ・モルガンと出会ったことで人生ドラマがはじまっている。あまり乗り気でなかったのを、請われるままに嫁いで行った。当時、この国でもモルガンといって知らない者はいなかった。ロックフェラー、メロン、デュポンと並ぶアメリカの大富豪で、ジョージはその創始者の甥だった。たちまちお雪さんは時の人となり、モルガンお雪と綽名され、玉の輿の権化のように騒がれた。けれど長くは続いていない。十年後には夫に先立たれ、さらに当初からモルガン家の反対もあって入籍が叶わなかったから、日本人排斥の世情も手伝ってアメリカでは暮らせず、子どももないままフランスに移った。といってもそれなりの財産分与もあったのだろう、けっこう優雅にやっていたらしい。けれど結局、それも食い潰し、晩年はほとんど身一つで日本に戻り伝手を頼って大徳寺の門前に暮らしていた。
「毎日、犬を連れて散歩しとったな」
「ええ」
「面倒臭かったんやろう、惣門には回らんと、崩れた塀を乗り越えて出入りしよった」
これには兄弟子はこたえていない。
「鐘楼のあたりは跡形ものうなって、行け行けの、通り抜けのようになっとったからな」
お雪さんのいた町家のすぐ真向かいが鐘楼だった。毀れた築地塀は、それでもこんもりと土塁のようになって残っていた。それをよくも老婆が越えられたものだが、あちこち灌木も被っていたのが隠れん坊によかったか、近隣の子どもの遊び場にもなっていて、そこを通り道に町家の年寄り連も出入りしていた。南に惣門を回ってもわずかな距離だが、当の山内小僧もそうして遣いに走っていたらしい。
「アメリカさんに嫁にいったんやが、五尺もなかったやろう、背の低い人やった。まあ、いうても、あの時分の女はみんなそうやったんやが」
「けど、背筋はしゃんとしてましたね」
「そやったな、しゅっとして、どないいうたらええのか、一本、芯が通っとるというか、性格もきりっとして、そこらの年寄とはちょっとちごうてた」
「言葉がそうでした」
「ああ、作務をしとったら、わしにでも『ちょっと、あなた』ってな、庭番でも呼ぶようにいいよった」
気位が高いとまではいわないが、むかしの暮らしぶりが抜け切れなかったのかも知れない。
さて、この国のどこの宗門とも同じに、大徳寺が荒みはじめたのは明治に入ってからのこと、廃仏毀釈の嵐のなかだった。いま、ぼくらが神道といっているのはせいぜいが江戸末期からの、いってみれば新興宗教で、もともとの神道は、この国に素直に生きる、ものの考え方というか、慣習をまとめた土俗信仰だった。だから、お伊勢参りといっても、お詣りが目的ではなくて、行き着く道中の遊びを悦しむのがねらいだっただろうし、伊勢講も、たとえば初穂を供えるというのも、収穫を上げるための、いわば品種改良で、里から稲穂を持って行き、それを全国から集まってくる優良な稲穂と交換するのが目的だったと見ていい。そのために伊勢講といって、代表として村から遣いを出すための旅費積み立ての仕組みが生まれた意味もわかってくる。
たぶんこの国の神と人との距離はそんなに遠くはなくて、だから廃仏毀釈の仏閣打ち毀しというのも、神道擁護の仏教攻撃ではさらになくて、結局は、仏閣のなかにのさばる人間の傲慢さに対する民衆の憂さ晴らしではなかったか。仏を毀すその人も、じつは昨日まではお百度踏みに通ったその人だった。
そんなふうに考えてみれば、明治に入っての仏閣の荒みようは、じつは徳川幕府の保護、つまり補助金支給の裁ち切れにあったわけで、荒れようも、それを受けて安泰を誇っていた諸大寺に多かった。大徳寺もその一つ。
和尚はいった。
「うちも、むかしはなかなかのもんやった」
うち? 大徳寺のことを、和尚はいつもそういった。
「寺領二千三百石いうてな、五山はもちろん、清水や本願寺よりも上やった」
はじめて聞いた話で、これだけははっきりと、いまも忘れないでいて、手元に一枚の古地図を広げている。「京大絵図」と表書きされたそれで、発刊は貞享三年というから江戸中期。洛中の大路小路が細かく描かれたなかに、各所大寺の堂宇もあって脇に寺領高が記されている。延暦寺五千石、上賀茂本社二千七百石、そして大徳寺二千四石、神護寺二百二十石、等持院四百二十石、龍安寺三百九十九石……、とある。
廻り盂蘭盆
「お寺にいたんだから、お葬式は詳しいでしょ?」
よく訊かれる。そして、
「お数珠って、右手、左手、どっちに持つの? お焼香は何回?」
かと思ったら、
「湯灌って、やったことある? あのお湯って、水なの、ほんとのお湯なの?」
こんな具合ならしょっちゅうだ。けれど偶には、
「小僧さんやってたんだから知ってるでしょ。お賽銭箱の掃除ってどうやるの? お金も貯まるけど、塵も溜まるもんね」
けっこう急所を突いていて、えっ? と頭を捻ることもある。だから、訊きたいのはこっちの方で、
「さあ、どうやろね、どっか裏の方に、穴でも開いてるんやないやろか」
と惚けてみせるしかない。
そう、京都、紫野大徳寺、つまり、ぼくのいたあの寺にも、方丈、法堂、三門と並ぶ伽藍の仏殿に賽銭箱はあるにはあった。けれど、考えてみれば禅寺に賽銭箱は似合わない。気になって調べてみると、賽銭というのは、幣とか幣とかいって、神にねがいごとをするときに供える、いわゆる供物のことで、あの道真が、
このたびは幣もとりあへず手向山……、
と歌ったあの幣のことらしい。それが神仏混淆でややこしくなり、貨幣が物をいう暮らしになって銭に姿を変えた。
お経もそうだったが、小僧はやっても、いわゆる仏事のことなど教えられたことは一つもない。もともと禅宗でも臨済禅ならどこでもそうだろう。臨済禅の寺というのは檀越武家の塔所、いいかえれば墓守小屋からはじまっているからで、それ以上に、寺のようで寺らしくなかったのが和尚の寺だった。
重ねていうが、この国の寺が抹香臭くなったのはようやく江戸期に入ってからのこと。そんなに古いことでもなくて、もともとこの国の寺は人の生き死にに手を染めていない。道元さんの寺は純禅苦行の場であったし、親鸞さんの寺はそのありがたい講話を楽しみにやって来る村の集会所だった。もちろんそんなことを教えてくれたのも和尚だったが、だからあとにも先にも、わずかなぼくの小僧暮らしの毎日で、いわゆる坊主、この言葉には人が人を蔑むにおいがしていまも嫌いなのだが、らしきことをしたのは、日課の朝課晩課は別として、和尚の大黒さんの葬式と、あとは一夏の那智行きだけだった。
暑い、暑い、と愚痴っても、京都の夏は送り火で峠を越える。そんな盆入り前の、やっぱり暑い朝だった。
「これを持って行け」
和尚はいって、隠寮の書院の外、廊下に控えるぼくの膝先に畳の上を滑らせた。ぱりっと糊の利いた畳紙の四角な包みで、小僧部屋に戻って紙縒りを解くと紫衣だった。えっ? と思わず目を擦った。紫衣は最高位の法衣だった。少しの理由あって小僧にはなったものの、法衣はまだ着たことがなかった。
どうしてって?
きちんといえばまだ得度していなかったから。平たくいえば仏さんのアドレス帳に載せてもらえてなかったから。小僧は得度してはじめて仏さんの弟子になれる。ぼくはその一歩手前で穴を割っている。
ぼくは勝手に思っていた。寺へ行けば白い下衣に墨染めの法衣、裾をからりと絡げて高下駄履いて闊歩する……、それがぼくにはちょっとちがって、朝課にも、はじめて門をくぐったときのまま、小倉のズボンに白の開襟シャツ、いわゆる学生服というやつで、あの頃のぼくには余所行きの一張羅だった。
それが、二月目の晩方だった。
「おーい」
と薬石のあと、呼ばれて隠寮に走ると、黒い包みを、ぼんとくれた。
「あしたから、朝課には、これを着れ」
法衣かな? よろこび勇んだ。好きでなった小僧ではなかったから、法衣なんか、ほんとうは着たくもなかった。けれど少年心理はどこかちぐはぐで、一人前に法衣が着られる、そう思うと、小僧暮らしも一つ上に進級したような気がして、正直、うれしかった。
さっそく部屋に戻って広げてみた。
何だ、これ?
黒絹の道行だった。みちゆき? そんな言葉を知っていたのも、病気で寝たきりの母に指図され、家の掃除や洗濯や、ときには着物を虫干ししたり畳んだりしていたからで、襟先を見ればすぐにわかった。婦人がちょっとのお出かけに軽く上に羽織る薄い外套で、死んだ大黒さんの、たぶん着古しだったのだろう、明くる日から、白ワイシャツの上にひっかけて朝課に走った。
「なんや、それ?」
見るなり、下の兄弟子が吹き出した。
そんなこと、いわれなくてもわかっている。朝課を戻った洗面所の、鏡の前でぼくは悄げた。なるほど、見れば見るほど奇妙なけしきで、生まれつきの撫で肩が、さらに落ちて幽霊のようにだらしなかった。朝課は朝の五時にはじまる。まだ薄暗がりの本堂では、白いシャツ地がぼんやり透けて、なんとか法衣姿に見えなくもない。けれど、やっぱりおかしい、というより漫画だった。
得度の理屈を知らなかったぼくは、まともに考えた。和尚はどういうつもりなんだろう、法衣を買うのをけちったのかな、それとも、ぼくに法衣はまだ早いというのかな? 経を読むのも口パクだけで誤魔化して、朝課の間も和尚を疑った。それが昂じて、やがて経にも身が入らなくなってしまった。
いいわけではない。寺を逃げた理由はほかにもあったが、あの道行も釦の掛け違いの一つになっている。毎朝、見るのも嫌になって、
こいつさえ、消えてしまえばいい!
ぼくは道行を呪った。それから半年。朝の本堂だった。朝課を終えて、ひょいと立った拍子に後ろの裾を踏んだ。しゅっ、と短い音がした。あれっ? 不思議な気分で振り返ると、腰のあたりで横に大きく裂けていた。透けるように薄いうえ、年季ものだから当然だった。
やったあ! これで、屎道行ともさよならだ!
うれしかった。と思ったのも束の間、和尚に報告すると、手文庫ほどのビスケットの空き缶を、これもやっぱり畳の上を、廊下のぼくを目がけて滑らせた。
「これで縫え」
和尚流儀の裁縫箱だった。
縫いものなんて簡単だった。小学校に上がった頃から、母の口先指図で習っていた。だから裂け口を寄り合わせて、かがり縫いでやってみた。それはうまくいったのだが、少し寄せすぎたか、今度は裂け口の上下の糸目が伸びて周りが蜘蛛の巣のように裏が透けた。だからぶよぶよに弛んでいる。それでも和尚は素知らぬ顔で、それからも破れや解れが何度も続いて、その都度、和尚に空き缶の裁縫箱を借りている。
何なんだ、この格好は!
毎朝、思ってかなしかったが事態は何も変わらず、やがて寺を逃げる朝まで襤褸道行がぼくの法衣になっていた。
だから畳紙を開けたときには、正直、目を疑った。そして胸を熱くした。妙な少年心理だった。もちろんくれたわけではない。檀家、檀徒に侮られてはいけない、と持たせたのだろう。それでも、小僧として少しは認めてくれた気がしてうれしかった。ただそれも、思い過ごしだった、とやがて知るのだが……。
行け、といわれたのは盂蘭盆の棚経回りだった。
「健さんから頼まれた」
と和尚はいった。
健さんは熊野の人だった。和尚の弟子、といっても知り合いからの預かりだったが、ともかく最初の弟子だった。和尚も晋山したばかりの三十代、雲水上がりだったからか、弟子というより同夏といってもいい、僧堂仲間のような気がしていたのかも知れない。ぼくも入れて六人の弟子をとった和尚だが、健さんに限ってさん付けで呼んでいた。ただ、そんなに長くはいなかったようで、郷里の新宮に戻って末寺に入っていた。
大徳寺は臨済禅でも妙心寺などに比べれば極めて少数派で、末寺もそんなになかった。それがどういうわけか、半島には十津川から熊野にかけてけっこうあって、健さんの寺もそうだったが、新宮を奥に入った那智裏の山合いにもいくつかあった。もともとは天台寺か真言寺だったのが、江戸期に入って宗旨替えしたらしい。それが戦後の過疎化で無住になって、健さんもいくつか掛け持ちしていた。
ふだんなら健さん一人で十分だった。それが盂蘭盆となると手が足りず、棚経回りの助っ人に、毎夏、和尚は頼まれ、弟子を差し向けていたのだった。それが順繰りで、ぼくにも番が回ってきたというわけで、一種、新参小僧の最初の関門、中間試験のようなものだった。
そして盆前の一日、健さんが車で迎えにやって来た。あの頃流行りのツードアの玩具のようなミニカーで、
「スバルやな」
下世話に強い下の兄弟子が教えてくれた。どこからネタを仕入れるのか、芸能ニュースにもけっこう詳しい人だった。
薬石が終わると和尚は健さんと二人いっしょに風呂に入り、積もる話もあったのだろう、夜は、奥の書院に蒲団を並べ、遅くまでひそひそ話が止まなかった。そして明くる朝、茶事を終えたその足で、ぼくらは出かけた。
堀川通りをまっすぐ下るとそのまま二十四号線を奈良に入る。あとは橿原から御所を抜け、五條から十津川を下った。谷瀬の吊り橋も、あの頃はできたばかり、切り立った深い谷を向こうに跨いで、青葉のなかに赤いアーチがきれいだった。それをさらに南に、流れを右に左に見ながら新宮に出たのはもう日の暮れで、せっかく海に出たというのに、隣の大川沿いをまた一時間ばかり山に入っている。頭から墨を被ったような薄闇の山合に蛍のように灯りが点々と揺れていた。
ぎ、ぎっ! と健さんはサイドブレーキを入れた。ずいぶん高みのようだった。きら、きら、瞬く満天の星を背に小さな堂宇が浮かんで見えて、脇に、庫裡だろう、小棟が影のように現われた。
「遠いとこ、ご苦労はんだしたな」
ドアを出ると闇のなかに声がした。小柄な老爺だった。
「お疲れですやろ」
笑顔で会釈したのにお辞儀でこたえると、
「和尚さんは?」
と車のなかを覗くようにした。
「この方です」
健さんが、ぼくをさして脇からいった。
んっ?
呆れとも吃驚ともとれない妙な目線でぼくを見上げて、あとがなかった。
うつら、うつら……、と寝苦しい夜だった。喉が渇いて枕元に何度も水を飲んだ。そうして障子の向こうが白むのを、まだか、まだか、と待ちに待った。ところが明け方に眠り込んでしまったか、気がつくと陽が射していて、蒲団を跳ねて縁に出ると庭先にいた。
「おはようさん」
竹箒片手に、昨夜と同じ、満面の笑顔だった。
「眠れなさったかね」
はい、とこたえたものの、
「まあ、午後は昼寝でもしてくだされ」
と、とっくに見抜かれていた。そして、箒の柄先で遠くをさした。
「どうです? けっこういけまっしゃろ」
それではじめて気づいたが、庭先が宙に迫り出すように、遥か先、朝靄の峰々に向かっている。その碧く重なり合って広がるなかに、白く一本、糸のように筋が見える。
「大滝ですわ」
いいながら、ひょこ、ひょこ、やって来て濡れ縁に腰を下ろした。
「雨の多いとこでっしゃろ。ほかにもようさんあるんですわ。けど、その分、田圃や畑はさっぱりでな」
けろりといった。
「毎年、梅雨が明けたと思うたら、今度は台風で。それも風だけならよろしけど、ここらの雨は、それこそバケツをひっくり返したみたいでな、田圃も畑も水を被ってしもうて、わやですわ」
そのように、一月前には八号台風が潮岬からまっすぐ北に走り抜けていた。
「田圃いうてもなんぼものうて、あとは山で食いつないどるいうのに、それもやられて、若い者はさっぱり居つきませんわな」
と、裏の方から女の嗄れ声がした。
「総代さん、御飯、でけましたでー」
村にはいくつか、地区といったが、部落があって、もちろん無住だったが一つ一つにきちんと檀家寺があった。ただ土地が土地だから、寺は山のてっぺんか谷底の無用の地にしか開かれない。だから棚経回りも深い谷を上へ下への難行になり、うまくいっても午前に二つ、午後は日の暮れの法要は禁忌だから一つだけに終わってしまう。昔は住持の方から部落を一軒一軒、巡り歩いたらしいが、いまは反対に、家人が出向いての盂蘭盆だった。
朝飯を終えると総代は軽トラを表に出した。はじめの一つはすぐ向かいのこれも山の頂きで、朝も八時を回ったばかりというのに狭い堂宇は老若男女でびっしりだった。前の方は年寄り連で、後ろに若輩、そして広縁には悪たれ小僧が走り回っている。年寄り連は、ぱたぱたと団扇片手に、それでもきちんと黒装束で、これは里帰りだろう、若い男たちも慣れないネクタイ姿で、正座の娘たちは眩しいばかりのミニスカートからぷちぷちの膝頭を覗かせている。それをさして、そろ、そろ、ぼくは入っていった。はじめての紫衣がボール紙のようで馴染まなかった。
ほおーっ、遠慮のないざわめきが背中に沸いた。と、たちまち足元から震えのようなものが走ってきて、すぐにも走って帰りたくなった。それを、ここは我慢、と作法通り、経机に鈴を正して、鉦を叩いた。
しん、と後ろが静まった。ところが、それが逆効果で、さらに胸の動悸が激しくなった。経本を持つ手が震え、声もそれに続いた。そこまでならまだよかった。じつは経を読むスタイルにもいろいろあって、喉の奥でころころと声を震わせる、そんな声明もあるにはあった。ただ事態はちょっとちがって、気づいたら背中の後ろで、婆さん連だろう、経の唱和がはじまっている。か細く頭のてっぺんから裏返る声もあれば、渋い燻し銀のような濁声に、まるで謡でも唸るような節回しもあって、あわてて声を詰まらせるぼくを一人置いて先を行く。
結果は明らかだった。あとはもう、しどろもどろに、鈴を打つタイミングも狂いまくって滅茶苦茶。続く大悲圓満無礙神呪でも消災咒でも、とうとう婆さんたちには追いつけず、終わると廊下を庫裡の支度部屋に逃げ込んだ。
総代は、すぐにあとを追ってやって来た。
「ご苦労さんでしたな。お疲れでっしゃろ、しばらく横になられては」
にこりといって、いい人だった。
そうして小一時間、今度は一転、谷底の無住寺だった。山裾をぐるりと巻いて林道が走る。その突き当たりで軽トラを捨て、総代のあとについて杣道を下りると、やがて盆底のように開けた窪地に、杉の木立に隠れるように頼りない堂宇が現われた。それが、やっぱり、老若男女でなかがいっぱい。ほおーっ、とか、へえーっ、とか、嫌な囁きに迎えられ、同じようにしどろもどろに終わっている。
そうして、夜は新盆の読経にも回ったか、そんなことを盆明けまで繰り返し、帰りは総代が、また軽トラで駅まで送ってくれた。
「ご苦労さんでしたな」
にっこりいって、四角い大きな唐草の風呂敷包みをぼくに持たせた。
「懲りんと、また来てくだされ、待っとります」
改札横の木柵に手をかけ、ぺこりと一つお辞儀した。それが胸に熱くて、しばらく行って振り返ると、まだそのまま、小さく胸前に手を振っていた。
何が入っているのか、唐草の包みを抱いてぼくは乗った。いまはどこにもないだろう、乗車口は車両の前と後ろだけ、扉もないステップを駆け上がる鈍行列車だった。
帰るとその足で奥の書院にぼくは走った。
「只今、戻りました」
廊下に額ずくと、紫衣の畳紙と布施の束といっしょに唐草の包みを差し出した。夜も遅かったからかも知れない、和尚は邪魔臭そうに包みを解いた。四角い大きな紙箱だった。蓋を開けた。ぼくも廊下から首を伸ばした。
えっ!
声が洩れそうだったのを我慢した。なかには細々と盂蘭盆の供物だろう、落雁やら煎餅やら羊羹やら、細々と我楽多のように詰まっていた。それを、思った通り、投げるようにそのまま和尚は畳の上を滑らせた。和尚の悪い癖だった。死人に口なし、いまは鬼籍の和尚だが、これだけはいっても許してくれるだろう。
そして明くる年、なぜか二年続きでぼくの番になり、また出かけた。けれど総代はいなかった。
聞いて、その夜、ぼくは訪ねた。街灯もない暗がり道を新しい総代が案内してくれた。さわさわと足元から、流れの音がかすかに響く竹藪沿いに、欄干もない土橋があって、渡ると山陰に灯りが見えた。
「こんな遠いとこまで、ようお参りくださいました」
上がり端に背中を丸めた。似たもの夫婦、小柄な夫人だった。
奥座敷の仏壇は棚飾りの明かりも賑やかに、漆黒の位牌に箔押しの金文字が光っていた。時間を考え短く端折りはしたが、経は一年前とちがって、なんとかそれらしく読めた、気がした。すると不思議に紫衣もちょっと自慢に思えた。
「あのあと、秋口でしたわ、また大けな台風が来よりましてな」
お茶をすすめて夫人がいった。
「やめといたら、て、いうたんですけど、きかん人でね。出ていったんですよ、土砂降りのなか、山の畑に。胡瓜や茄子の手が倒れたらいかん、いうてから。風に飛ばされたらしいてね、腰を打って寝込んでしもうたんですわ」
そして最期のようすも話してくれた。腰は治ったものの、それがもとで急に足腰が弱くなり、寝ついたところに風邪を引いたのが悪化して、肺炎らしかった。
「あっという間でしたわ、年明けに。若いときから病気もせんと、達者な人やったのにねえ……。あなたのことは、よういうとりましたよ。来年も来てくれるやろかな、いうて、楽しみにしとりましたがなあ……」
と、目を潤ませた。
「孫が名古屋の方にいてましてね、あなたに重ねたんかも知れません。なんで小僧はんになったんやろか、いうて、気にしとりましたわ」
一人娘夫婦の長男が中学に入ったばかりらしかった。いくらも齢がちがわない。けれど夫人は先を詮索せず、またぼくは夜道を戻った。
と、ぼくの盂蘭盆はこんなけしきでいまも胸に残っている。だから寺のそれはどんなだったか、明くる年には逃げているから、何も知らない。和尚の寺の場合、檀家が一つもなかったのだから何事もなく、いつも通りではなかったかと思い出している。
けれど、塀を越えた町家では、精霊送りに忙しかったことだろう。はじめて見たのは寺を逃げたその夏だった。
夕餉の仕舞事を終えた小母さんが、とこ、とこ、階段を駆けて来て、とん、とん、と襖を叩いた。
「ちょっと来よし」
裏庭に張り出した二階の物干しだった。逃亡のあと、京都の街を西に東に彷徨いて、やがて西陣の千家近くの小川通りの下宿に落ち着いた。妙なもので、どこまで寺に取り憑かれているのか、四、五軒上がった先が、むかし、秀吉が御土居をつくるのにじゃまになった東の諸寺を集中移転させたという寺之内筋だった。
「ほら、ちょうど火が回るとこやわ」
隣の町家の屋根越しに東の空の一点がぽうっと橙に点ったかと思ったら、薄闇に点々と大の字が浮かんで上に下に広がっていく。ぼんやりと靄のように煙が尾を引いて揺れるようすまでまっすぐ見えた。
「どお? よう見えるでしょ。ちょうどここらへんが真っ正面なんよ」
出町や今出川まで出なくても、物干しから見えるのがちょっと自慢らしく、鼻の穴を膨らませた。そんな性格をそのままに、すっと鼻筋の通ったきれいな小顔の女だった。大文字は将軍義政が夭折した長子の弔いのためにはじめたらしい。霊魂をその館から見送ったのだろう、いまの新町今出川あたりが正面になっている。だから本来はそのあたりから眺めるものだったのだろう、下宿はそんな室町御所の斜交いだった。
京都人は出歩かない。祭やなんのと、あれこれ着飾って表を行き来しているのはたいていは余所者で、送り火も同じ、ふつうに京都人は家に居て台所仕事のその足で、濡れ手を前垂れで拭きながら、箱階段を上がっては二階の物干しからふつうに眺める、それが物干し大文字。
「ちょっと裾が隠れてるけどね」
遠慮気味に肩を窄める隣家の長棟に、大の字の足の撥ねが欠けて見えるのも愛嬌だった。だから、盂蘭盆といっても京都人は送り火に意外と素っ気ない。代わって京都人がそれらしさを見せるのが地蔵盆だった。
東よりも西の方、ずばり西陣がいいだろう。それも横町より南北の竪町がいい。好きだからそうするのだが、たとえば烏丸通りを少し西の油小路を一条あたりから北に歩いてみるといい。きっと不思議なけしきに出会うだろう。
ぴっ、ぴいっ……、振り向くと軽トラなんかがやって来て、傍を過ぎると急にスピードを落として、すうっと停まる。何か用かと思ったら、そうではなくて、窓から男が道端に向かってそっと手を合わせる。嘘ではない。見かけなければあなたのうっかりにちがいない。
男の祈りの先は、脇の町家の軒下の、小さな祠。隣家との境を分ける妻壁にへばりつくように隠れているか、もっと倹しければその壁にめり込むように鎮座している。なかにいるのは石のお地蔵さま。
そして車は、また、ばたばたとエンジン音も喧しく走り過ぎていく。ふうっと心の和む、京都の素顔の一つだった。もちろん、てくてくと道行く人にもそれはあって、古老ならぬ、中年男や、ときにはバイクの若者連にもそうなのが京都らしい。
たぶんいまも変わらないであるだろう。嫌だった寺の暮らしにやりきれず、ぷいっと飛び出し、あてもなく彷徨いたのが西陣の路地裏だった。機の音をさがしたのかも知れない。生まれ在所と同じに西陣は機屋の街だった。
小川の下宿の表にも隣との卯建の裾に祠があった。見世の遣り戸を出たすぐ脇に何気にあって、毎日、前を学校に通った。朝は向かいの婆さんが、濡れ雑巾を手に祠を拭いていて、帰りは隣の、これは歯科医だったが、看護婦を兼ねた夫人が前を掃いていた。
「おかえりいー」
団扇顔のロイド眼鏡のその人は不器量だったがいつも笑顔がよかった。
だから、誰彼と隣組で決めたわけでもないのに祠周りはいつもきれいにあって、お地蔵さまは赤い水子の前垂れを首に、穏やかで、気持ちよさそうだった。
地蔵盆はそんなお地蔵さまへの感謝の日。合わせて水子を供養する。送り火から一週ばかり、茹だるような京都の夏も、日の暮れには、気持ちばかり秋先も見えて、路地や辻子奥にも子どもたちの黄色い声が響いて走る。そんななか、その日ばかりはお地蔵さんも、いつもの祠から町家の見世棚に招待され、有難い唱名をもらってこそばゆそうにしていた。後ろでは、数珠回しといったか、子どもたちが車座に、ぐるりと二、三メートルはあっただろう、大きな数珠を膝送りに手繰っている。
といっても、そんなけしきは西陣も東の織屋筋に限られたことで、零細機屋の蘆山の裏路地では祠の前に蓙や筵を敷いてのことだった。主役は子どもの生き仏。鮨や菓子やと好みの供物を前に満足そうで、やがて余興もはじまり、あれは畚降ろしといったと覚えているが、籤引きがあって、引き当てた景品が二階の窓から竹籠に入れて釣り下ろされる。その一瞬が堪らないのだろう、見上げて子どもたちは固唾を呑んだ。だから地蔵盆は子どもたちには年にいくらもないエンターテインメントだった。それが、いまはどういうわけか、西陣も終ての方ならいざ知らず、毎日が、ざあーざあーと雨降りのようだった機音も絶え絶えに、子どもたちの影もない。
ほかでもない、在所の村にもそれはあった。もちろん同じ八月の二十三、四日だったと思う。祠の前の、地べたに筵を四、五枚並べて、婆さんたちの御詠歌ではじまった。ぺたりとへたって背中を丸め、額の前で鈴を振り、膝元の丸い摺鉦を丁字の撞木で、きん、こん、叩く。謡は七五七五に流れるようで、鉦は耳に触ったが、鈴音はきよらにすずしく、子ども心にお大師さんの丸い顔も見え隠れした。
たかのーのー
やーまーのー
じーぞーお、おーそーんー
響きはいまも耳奥にきれいで、婆さんの、か細く震える声に、悪たれ小僧も素直な気持ちで頭を垂れた。
あのけしきは何だったのか?
いろいろ説明はできるけれど、先は冥土にしろ高野にしろ、子どもを送らねばならなかった母の嘆きではなかったか。終わると一転、場も賑やかに、
「ほれ、そこの子、割り込んだらあかん、ちゃんと並びんか」
どこにいたのか、母親たちも現われて、長い餅箱や丸盆片手に供物を居並ぶぼくらに分けて回った。
供物といっても長閑なもので、握り飯が一人に二つ、一つは胡麻塩を塗したものに、もう一つは小豆の赤飯だった。赤飯は寺でも月に一度、二十日と決めて炊いていたが、村ではこの上ない御馳走だった。それに沢庵が二切れ、冬を越した古漬けで、ぷーんと臭う皺くちゃのが申し訳についていただけ。それでもぼくらは先を争って両手に受けた。といっても皿はもちろん箱折りや竹皮なんてあるわけがない。古新聞の四つ折りを、さらに四角に折って広げ、逆さまの尖り帽子のようにした。
「おばちゃん、おおきに」
順番にお辞儀して、帰りの道々、かぶりつく。落とすまいとしっかり握り過ぎたか、飯粒に新聞のインクの臭いが浸みついていた。それをぼくらは昼飯代わりに、また日が暮れるまで、めだか掬いや蝉採りに走るのだった。
そんな地蔵祠は村外れ。先は深い竹藪に抱かれた埋め墓で、昼間でも傍を通ると風がしっとりと湿っぽく、悪さをすると婆さんが怖い顔をつくって話して聞かせた冥界への入り口だった。だから人家もない、はずなのに、陽が落ちると、薮の奥の山合に、蛍火のように小さな灯りが点って揺れた。
「ほれ、鬼火や」
婆さんはいって、
「悪さしなや、追いかけてくるでえ」
ぼくらを嚇したが、そこまでぼくらも無邪気じゃなくて、ちゃんと事の次第を知っていた。
月に二、三度だった。村中を漁るように彷徨いて、ぼくの家の勝手口にもやって来た。たしか、ゆきさんと大人たちはいっていたと思う、金屑集めの女が一人で住んでいた。それを、いけない好奇心からだった。悪たれ仲間に誘われて、
「ぜったい、いうんやないぞ!」
凄まれたのを、
「うん」
と一つ返事に、学校帰りの探検だった。埋め墓山の脇、隈笹に埋もれた杣道をそろりと入ったその奥に、少しの風にも飛ばされそうな小屋を見つけて、思わずごくんと唾を飲み込んだ。そして、窓に垂れたアンペラの隙間から、そっと覗いてみたのを、薄闇から、ぎろりと睨み返され、ぼくらは逃げている。
一休の松
「薪能いうんはな、あれは、一休さんの村から出たんやな」
九月も半ばというのに、じっとりと汗ばむ朝だった。
「篝火に薪を焚くから薪能やと思うとったが、どうもそうやないらしい」
そんなふうにも和尚はいった。
いつもの茶礼。けれどぼくにはそれこそ犬に論語、馬の耳に念仏で、右から左へと素通りしている。あの頃ぼくは十五歳。半世紀も過ぎてすっかり忘れているはずなのに、気の抜けたサイダーの泡ぶくのように、ぷくっと記憶の底から浮かんでくるから人間の脳味噌の仕組みっておもしろい。
思い出すのは決まって朝の風呂掃除のとき、小僧暮らしの後遺症か、掃除も炊事といっしょにいまも日課のようになっていて、正直、面倒臭いと投げ出したくなることもときにあるけれど、嫌だと思ったことがない。皮脂やら黴やら、あちこち、ごしごしやっていると無心になれるからけっこう心地よくて、思わぬ蘇りも癒やしになって、ああそうでしたね、そんなこともありましたね、とむかしに帰っている。
和尚は能が好きだった。といっても謡の方で、だから聴かせたいという気にもなるのだろう、薬石のあと奥の書院に引っ込んだと思ったら、突然、唸り声が廊下を走ってきたりした。試しなら方丈でやった方が、声も通るし邪魔も入らないから気持ちもいいと思うのだが、隠寮の書院は玄関脇の小僧部屋からはまっすぐ廊下のどん突きだから筒抜けだった。
「これはあー、しょ、こく、いっけんのー、そうにてそろうー」
善知鳥と教えてくれたが、聞こえてくるのはいつも同じ条だけ。素直に唸れば、長年の声明で鍛えた錆び声が渋いのに、妙に力んで喉を絞るから耳障りで、はじまると台所に走って逃げた。
その途中、上の兄弟子は? と見たら、台所脇の八畳の自室に、坪庭に経机を向けて本を広げている。本といってもぼくにはまったく興味もない『古文真宝』や『文章軌範』『詩経』といった漢籍が多かった。雲水の詩文修行の教科書のようにもなっていたからだが、それが和尚の唸りがはじまっても馬耳東風と背を向けている。だからてっきり鍛練のできた人だと思っていたら、一日、出かけた留守に、消しゴムを借りようと経机の文箱を開けたら、スポンジの耳栓が入っていた。
さて、一休さんの村と和尚がいったのは、宇治の南、いまは京田辺と名前もきれいに変わっているが、田辺の薪村のことだった。平安のむかしは薪庄といって、少し北の男山の石清水八幡の荘園で、神楽の燎の薪を納めるのを生業にしていたらしい。すぐ南の甘南備山から続く見晴らしのいい小高い丘の上にあって、周りには弥生期の高地性集落跡がいくつも見つかっている。古代人は見晴らしのいい高台が好きだった。そんな村に一休さんは晩年を過ごしていた。
「酬恩庵へは、どう行くんでしょう?」
とたずねて首を傾げるようなら、一休寺、といってみるがいい。近鉄京都線の新田辺駅からなら歩いて十五分ばかり、緩やかな上りの外れに見つかるだろう。あの頃は鈍行電車がのんびり走って、窓の陽避けの鎧戸越しに、一面、緑の里山だった。それがいま、後ろを高速道路が横切って、斑に禿げた山肌を赤やら青やらカラフル屋根の住宅が後ろの男山までびっしり続いている。京都も郊外はどこもそうなのだが、伏見から南に奈良街道周辺の変わり様も凄まじい。
開基は南浦紹明。この国の臨済禅の祖師といってもいい人で、十五で鎌倉の建長寺に宋人、蘭渓道隆の門を叩いている。当時、道隆の建長寺は最新の舶来文化のサロンだった。そうして十年、宋に留学、のちに大徳寺の茶道師範としてやって来る虚堂智愚から法を嗣ぎ、建長寺に戻って子弟を育てた。その一人に宗峰妙超がいた。大徳寺開山、大燈国師である。
一休さんは、この妙超の孫弟子のさらに孫弟子にあたる人で、妙超遷化から百三十年、大徳寺四十七世住持に就いている。ただ、経緯は複雑だった。頃は応仁文明の十年戦争の真っ最中、京師の大半は焼け野原になっていた。大徳寺は、紫野といって、朱雀大路の北の終てに条坊から大きく外れていたが、すぐ南の船岡山に東軍の細川に対峙する山名の西陣があったから、洛中の諸寺同様、戦火に巻き込まれ、七堂伽藍はすっかり焼け落ちていた。その復興に一休さんは白羽の矢を立てられたのだった。
といっても、一休さんはふつうの人ではない。きわめて自由、闊歩の人で、同門なのに大徳寺の指導者層を批判して止まなかった。だから大徳寺がそんな厄介者をわざわざ招くというのもおかしな話だったが、組織はいつも現実的で、期待したのは一休さんに連なる堺商人の財力だった。
一休さんの生まれは謎に満ちている。いろいろ謂われはたくさんあるが、その略歴を弟子の没倫紹等、つまり真珠庵の開基が記した『東海一休和尚年譜』を辿れば、後小松天皇の落胤ということになっている。お母さんは一休さんを妊ると、多くの女御、更衣がそうだったように、すぐに実家に返されている。宮中で生まれた子は皇子になるからで、後年の政争の種を未然に始末するためだった。
そして二十二のとき、近江、堅田の祥瑞寺に華叟宗曇の門を叩いている。華叟は妙超のあとを嗣いで大徳寺の基礎をつくった徹翁義亨、つまり和尚の寺の開基の孫弟子にあたる人で、のちに大徳寺二十二世となるのだが、宗門維持のために権力に媚びる大徳寺を嫌って一歩も足を踏み入れていない。一休さんの大徳寺嫌いもそんな華叟譲りなのかも知れないし、だから一休さんに華叟もどこか自分のむかしを重ねたのかも知れない。三年後に「一休」の道号を与えている。法嗣と認めたのだった。
ただ、もう一人、華叟にはできる弟子がいた。一休さんには兄弟子にあたる養叟宗頤という人で、五山の東福寺で得度したあと、建仁寺を経て華叟に師事。つまり大徳寺からすれば傍系上がりだったが、後継として四代あとの二十六世大徳寺住持に就いている。のちに享徳二年の失火で丸焼けになった大徳寺の伽藍再建に努めたのはこの人だった。
それがどういうわけか、一休さんはこの兄弟子を毛嫌いして、養叟ならぬ、権力に靡く妖僧として、『狂雲集』や『自戒集』のなかでも、これが大人のやり方かと耳目を塞ぎたくなるほど、口汚く言葉のかぎりに罵っている。
ぼくらのむかしもそうだったが、兄弟弟子の仲の悪さはめずらしくない。宗門の師弟関係といえばピラミッド状に上下順序が厳然としているように見えるが、じつは弟子というのはそれぞれ師からの一本釣りで、個々が直接に繋がっている。だから表向きには、兄弟子さん、と敬いを見せても心の内では年季を越えて横並び状態で、そこに下克上が起きるのも不思議でなく、互いに相手をよく知るだけに根も深かった。実際、ぼくらがそうだったし、養叟と一休の諍いも史書に伝わるほど異様なことではなかった。
大徳寺は創建当時に後醍醐天皇方の保護を受けたため、足利幕府下では一転して苦難の時代を生きることになる。けれど、宗門維持のためには政治の時流に棹させない。その矢面に養叟は立たされることになった。
禅の教えは一器の水をそのまま次の器に移すように師から子弟に嗣がれていく。師資相承、一流相承といって、大徳寺は頑なにそれを守っていた。一種、正統血統主義である。それに対し幕府は宗門統制の必要から、相国寺がそうだったように、十方住持制といって、五山をはじめとした官寺には宗門を越えて他寺からも住持を相互に迎え入れるのを慣例としていた。これは表向きには、宗門の偏向、孤立を防ぐ開かれたやり方のように見えるが、実際に住持を指名するのは幕府だったから、官寺はすべて幕府の統制下に組み込まれることになる。やむなく大徳寺もそれを受け容れるのだが、二人の師の華叟は、そんな大徳寺を嫌って近江堅田の庵を一歩も出なかった。
養叟はそんな師に背いたわけではなかった。かれは住持に就くとすぐさま、大徳寺の官寺辞退を幕府に申し出ている。幕府の統制を避け、祖師からの一流相承の大徳寺を続けようとしたのだった。だが、官寺でなくなれば幕府の経済保護は断たれてしまう。結果として、官寺となった五山が、その後、幕府の盛衰に歩みを合わせてしまうことになるのに対し、大徳寺は窮乏を堪えて生きのびる。養叟のおかげといってよかった。
それに対し一休さんは、純禅に生きようとした。といえばきれいに聞こえるが、唐宋の禅者がそうだったように、かれも自由人だった。ただ、それでも宗門を見捨てるまではできずにいて、養叟のあと、応仁文明の十年戦争で再び焼けた伽藍復興に重い腰を上げた。養叟との対立はどうあれ、この二人がいて、いまの大徳寺もあるわけで、ともに中興の祖といっていいだろう。
そんな一休さんの薪村暮らしは晩年のこと。自由人も六十を三つも過ぎていた。いまでいえば九十近い齢だろう。妙勝寺といって、廃寺同然になっていた紹明のかつての禅道場を建て直して住み込んだ。酬恩庵である。
といっても、じっと腰を据えたわけではなかった。根っからの風流の人は、かまわずあちこちを転々としていたし、十一年後にはじまった応仁文明の争乱は、翌年には、戦場も京師を越えて南都方面にも広がる勢いで、途中の薪村も例外ではなく、それを避け、明くる文明二年には檀越に招かれ堺に庵住まいしている。
檀越とは、檀家ともいって帰依者のことだが、平たくいえばパトロンで、たぶん尾和宗臨がそれだろう。堺の対明貿易の豪商で、この人を通じて一休さんは堺商人の間に人脈を広げていた。反対に宗臨は一休さんの幕府、貴族へのパイプを期待した。そこに天皇の落胤という歴が働いている。
戦乱の難を避けたのは一休さんだけではなかった。洛中のほとんどが焼け野原になっていたから、条坊の寺社はもちろんのこと、西陣織などの生産機能も、堺のほかに北は丹波にも一時凌ぎに移っていた。のちに堺に各宗旨の大寺が開かれたり、泉州や丹波に機業が起こって江戸期を通じて発展していくのも根は応仁文明の戦火を避けたこの移転にある。なべて、この国の処々方々に小京都が生まれ、平安のむかしや文化を伝えるのも、また、列島一律、平安文化が日本文化と名を変えて育まれていくのも、いってみれば十年戦争のおかげなのかも知れない。
こうして堺商人の財力を背景に、一休さんは大徳寺再建に立ち上がる。八十一になっていた。ところが、再建のプロデューサーでありながら、大徳寺にいたのはわずかに一週間に過ぎない。養叟傘下の住持たちと反りが合わなかったのか、自由人は、逃げるようにして薪村に戻っている。いい齢をしても、どこか子どもさながら意のままに行動する、そんなところが一休さんにはあって、あとは酬恩庵から輿を仕立てて通うことになる。
自然、毎日とはいかなかっただろう。直線距離にしても三十キロはある。早朝に薪村を出ても着くのは日の暮れで、おそらく数日置きの泊まりがけの通勤となったことだろう。そして五年、ようやく仏殿、方丈、庫裏の修復がなり、翌々年には三門の東の土手っ腹に新たな出入り口として惣門も完成して再建は終わった。
そのときの輿が、和尚の寺、つまりぼくらがいた寺の方丈の、広縁の高い梁からぶら下がっていた。
「一休さんはな、これに乗って通いよった」
和尚の自慢の一つだった。
いわれてみればそれらしい。ところどころ漆の塗りも剥げ、隅金具や縁金具や引手には緑青が吹いて、屋形もあちこち穴が開いて毀れたまま、木乃伊のように煤けたのが吊るしてあって、暮れの大掃除にも、壊れてはいけないからと叩をかけることもなかったから、轅の先まで遠慮なく埃が白く山のように積もっていた。
そんな和尚の自慢はほかにもいっぱいあって、
「大徳寺には塔頭はなんぼでもあるが、ここは別格や」
というのにもきちんと理由があった。
大徳寺開山の宗峰妙超は、弟子をとるのを嫌ったが、それでも慕う二人がいた。一人はぼくらの寺の開山だった徹翁義亨。妙超が紫野に禅堂を開く前から暮らしをともにしてきた愛弟子だった。そんな妙超に、晩年、関山慧玄が門を叩く。徹翁より十八も年上どころか、妙超より五つも年輩だった。つまり、徹翁からは、年上の弟弟子という捻れ関係になるわけで、おまけに関山は、妙超以前に、妙超の師にあたる南浦紹明に師事していたから、徹翁からすれば、弟弟子でありながら、師の兄弟子ということになる。
また、風貌からも二人にはちがいがあり過ぎた。頂相と和尚は教えてくれたが、方丈裏の内蔵には徹翁の肖像画が遺っていた。和尚はそれを年に一度、虫干しに、方丈の衣鉢の間に広げた。だからぼくもしっかり覚えている。十五の少年の目にも、頑固さと鈍重さばかりが目立つ醜男だった。一方、関山の方は、頂相は知らないが、その後の動きからして切れのいい姿が浮かんでくる。
そこに一本釣りの師弟関係だから、ふつうなら関山への嗣法となるのだろうが、あえて妙超は徹翁を選び、関山の方は、花園上皇の依願にこたえ、嵯峨の離宮に開かれた新寺の開創に差し向けた。花園の妙心寺である。
徹翁は、そんな師の思いにどうこたえたか。妙超遷化のあとを託されはしたが、そこに居を構えることを潔しとせず、伽藍南の外れに自分の塔所をつくって隠棲、弟子を育てることに明け暮れた。いまは北大路南の雲林院となっているあたり、平安初期には淳和天皇の離宮があった。
塔所は、塔頭ともいって、もともとは弟子が師の墓所に建てた塔のことだが、それを見守るために傍に小屋掛けのような四阿をつくったのが立派になって、やがて法嗣、つまり後継ぎの居処のようになっていく。
そんな塔所は、ふつうは伽藍を囲む寺域内につくられ、院となる。それをあえて徹翁は外に避け、さらに別の一寺とした。妙超の後継、法嗣となることへの謙退、憚りがあったからだろう。それが十年戦争で焼けたままになっていたのを、伽藍のすぐ南脇に再興したのが一休さんだった。和尚の寺である。
「いまの南門も、あれは、もともとはうちの表門やった」
そんなふうにもいっていた。
大徳寺には大きく門が三つあって、東の惣門、これは一休さんがつくったのだが、そして同じ東側の南の角に、いまは開かずの門になっている梶井門と、もう一つ、伽藍真南の電車通りにも棟門が開いていて、それをぼくらは南門と呼んで親しんだ。東の惣門が正門であるのに対し裏の勝手口のようなものだが、電車の駅に近かったから、惣門よりもこっちの方が表門のようになっていて、簡素な造りだったが、通りからは石段を駆け上がった先に大きく仰ぐ目線にあったからか、小振りながらも威厳を見せて、くぐったあとにまっすぐ伸びる松並木の参道がうつくしかった。
「わしの寺も……」
和尚はときどきそういった。
「いまは境内に入ってしもうとるが、むかしの境内いうんはもっと狭うてな、一休さんの再興で近うはなったいうても、やっぱり大徳寺の外やった。そうやないと、一休さんは徹翁さんを冒涜したことになる」
徹翁が門外に蹲踞してつくったのを山内に入れてしまったのでは、自分の塔所を寺域から外してまで己を殺そうとした徹翁の遺志を踏み躙ることになるというのだった。
さて、一休さんの寺といえば真珠庵が有名で、だから長く住んでいたようにいわれるが、真珠庵は一休さんが死んだあと、堺の尾和宗臨が一休さんの墓所としてつくっている。そんなことから、大徳寺といえば一休さんとなるのだが、一休さんは大徳寺とは深く縁があっても、大徳寺に住んだことがない。伽藍再建のときもそうだったが、ほかに一休さんが大徳寺にいたというのは四十七歳のときだけで、それもわずかに九日間に過ぎない。師の華叟の十三回忌法要のために重い腰を上げてやって来たのだった。その席でも兄弟子の養叟をあたりかまわず罵倒して、犬が後足で砂を蹴るようにして大徳寺をあとにしている。そのとき寄宿していたのが如意庵。大徳寺七世言外宗忠の塔所で、大徳寺最初の塔頭だったが、いくらも経たずに焼失、それを養叟が再建していた。ところが、やがてまた消失、そのままになっていたのを五百年を経て和尚が再々建した。一休さんを慕って止まなかった和尚なのに不思議な奇縁だが、和尚も、やることなすこと、根は養叟宗頤に通じているのかも知れない。
それはともかく、一休さんは、伽藍復興のときには、まず徹翁の塔所、つまりぼくらの寺を再建して宿にした。それも和尚自慢の一つになっている。
「薪村から来た一休さんは、ここに住んどった。わしの寺は一休さんの寺やった」
和尚の口癖で、方丈庭もそのとき一休さんが指南してつくったらしかった。
「ほれ、あれは一休さん御手植えの松やな」
方丈の広縁に立つと顎でさし、ぼくらに教えたが、東から南にくの字に広がる方丈庭の正面には、鶴亀の築山がこんもりあって五葉松の古木が植わっていた。それが、よく見ると、葉の緑はかすかにくすんで、幹は燻し銀のように鈍く光る不思議な松で、客が来ると欠かさず和尚は披露して、鼻の穴を広げた。
たしかにそれだけのことはあったと思う。とりたてて大きくもないのに、どこか訳ありそうな風情があって、株元から人の胸丈ほどのところで、左と右、そして斜め前と三叉に幹が分かれて、いずれもほぼ水平に築山に傘を差しかけるように大枝を広げていた。松のうちでも五葉松は一段と成長が遅い。だから一休さんの頃から四百年、五百年を生きているといわれても嘘でない気がした。
そんな一日のことだった。
「これ、だれかわかるか?」
下の兄弟子が、古いアルバム片手に玄関脇の小僧部屋にやって来て、なかの一枚をさしていった。和尚はいつもの東京行きで留守だった。
写真は、下手に触ると縁が毀れそうで、すっかりくすんでセピアに色抜けしている。けれど一目でわかった。方丈庭の真ん中、松の木らしい大きな木があって、分かれた幹の三又の凹みに墨染め姿で座っている。脳天の尖ったつるつる頭に、反っくり返るように背筋を伸ばし、結跏趺坐に印を結ぶ。ほかでもない、和尚だった。
勉強家の和尚は、奥の書院横の六畳間を書斎にしていた。東の白壁塀に面した坪庭に臨んだ小部屋で、奥に一間幅の押し入れがあった。それが奇妙な造りで、襖を開けるとなかにもう一つ、半間の襖障子が仕組んであって、それを開けると二段ばかり下った先に、狭い板敷きのこれも六畳くらいの一間があった。庫裡裏の軒下に付け足したのだろう、立ってようやくの梁の低い寒部屋で、窓も明かり採りもないまま、裸電球が一つ、無造作にぶら下がって、薄暗いなかに書架が三つ川の字に並び、周りの壁には造り付けの棚と箪笥が二棹立って、上に柳行李が三つばかり乗っていた。外から見ても書院の続きにしか見えなかったし、入り口がそんな仕込みになっていたから、秘密の隠し部屋のような気がして、興味津々、東京行きや講演会で和尚が出かけるのを見計らって忍んで入った。
書架には哲学本や漢籍のほか、これは意外だったが、文学書に混ざって少しの科学書も並んでいて、趣味の謡曲の和綴じ本は木箱に入って平積みになっていた。
箪笥は桐のが一棹と、欅だったか栗だったか、頑丈に角を飾り金具で縁取った重そうなのが一棹あって、桐の方には帖紙に包んだ女物の着物がびっしり詰まっていた。奥さんのだろう、ぷーんっと樟脳と黴の臭いが混ざって鼻を衝いた。けれど欅の方はいつも鉤がかかっていた。柳行李は、これも何が入っているのか気にはなったが、太い麻紐で襷掛けに縛ってあったから戻すのが面倒で、だから開けたことはなかった。
そして、これが探検の一番の成果だったが、書架の上には茶箱だろう、横腹に○に茶の字の貼り紙のある大きな木箱が並んでいた。ちょっと秘密が隠れていそうで、蓋の上も埃だらけだったのを、脚立を頼りにそうっと下ろした。開けると、これも、ぷーんと黴臭かった。だから、何かあると期待したが、手紙や葉書の束ばかり。それを除けると底に少し厚めの茶封筒の束があった。
「ほおーっ、株券やないか」
封を解いた下の兄弟子が口元を細めていった。有効なのかどうか、右から左に旧字で書かれている。
もう一つの木箱は、これは墨や筆や文具の類が、使い古しのもいっしょにごちゃ混ぜに入っていて、あとは和紙の束が入った一箱のほかに、がらくた同然の小物がいっぱい詰まった一箱もあって、底を掻き回すと、大きな水晶玉や、不思議に花札も出てきた。そして半ば隠れるかのように書架の最下段にそっとあったのがアルバムだった。背表紙も黒や鼠色にくすんだものばかり十数冊あって、それを玄関部屋に運んで盗み見するのが、留守を守るぼくらの日課になってしまった。
「あとは頼んだぞ。薬石はいらん。帰りは遅うなるから耳門の掛金だけは外しといてくれ」
そして、こつ、こつ、こつ……、靴音が表門の向こうに消えるのをたしかめ、ぼくらは隠し部屋にすっ飛んだ。
そんな一日だった。
「べっぴんや、へちゃや、いうても、面の皮一枚の仕業やな」
アルバムの一葉をさして、下の兄弟子がにやりとした。レースの帽子に白いワンピース姿の女性が、方丈の広縁だろう、背もたれの大きな籐椅子に片肘ついて涼し顔に写っている。そして半開きの白い扇子片手に、軽く足組みしていた。
「奥さんだよ」
口を斜めに、にいっといった。信じられんだろうといわんばかり。
ぱっと見に三十くらいに見えた。薄く微笑んでいる。それをいうと、
「阿呆いえ、どうみても四十過ぎとるやろ」
吐き捨てた。
きれいだった。けれど微笑の目元に、人を見放すような乾いたけしきも見えて、すぐにぼくの心から離れている。
「これが、あの酒買い観音になるんやからな」
下の兄弟子は口達者だった。
小僧に入ったとき、奥さんはもう寝たきりだった。四、五年前に脳梗塞で倒れたらしく、和尚が介抱していた。といってもやりきれず、ぼくらも手伝っていた。庫裡玄関のすぐ脇に、むかしは台所の土間だったのを改装して十畳ほどの和室をつくり、ベッドを入れて介護部屋に変えていた。だから、夏はそうでもなかったが冬はストーブを焚いて閉め切るから、前を通るだけでも籠もった臭いが障子戸を洩れてくる。それを嫌ったわけではない。母も同じだったから鼻は馴れてはいた。けれど心はちがって、さらに他人となるとようすも違ってくる。
それが本人にもわかるのだろう、ぼくらが世話をするのを嫌がって、
「和尚さまは? ねえ、どこ?」
と和尚をさがした。子どもがいなかったせいもあっただろう、和尚しか信じない人だった。といっても和尚がいないときはあきらめて、そっぽを向きながらもぼくらの介護を受け容れて、東司にも立つ。その姿が、法隆寺の、あの百済観音そっくりで、下の兄弟子が綽名したのをぼくらは隠れて呼んでいた。
「結婚前やろか、嗚呼無常いうんはこのことやな」
下の兄弟子は例えもうまかった。
そんな奥さんのだったと思う、書架の文学書には紅葉や漱石に並んで荷風もあって、大部の『断腸亭日乗』には、なぜか、あちこち付箋もついて、開くと少しの書き込みもあった。けれどそんなものには目もくれず、すぐにもとに戻している。気になったのは平積みされた薄茶の和綴じの謡本で、それを暇つぶしに引っ張り出しては、書院脇の、骨清庵といったが、 一畳台目の茶室にごろ寝して眺めていた。表紙はいろいろで、絵巻物の俯瞰図のようなものもあったが、なかはどこを開いても頁六行に大きなくねくね文字が延々と続くだけ。とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう、ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう……、と端からさっばりわからない。たちまち、午後の微睡みに、たらり、たらりら……、
うとうとして、気づくと頭の上に和尚が立っていた。
「何をしとる」
いつ戻ったのか、跳び起きようとしたら、胸から本が滑り落ちた。
んっ? 今度は、和尚が目を丸くした。
「翁やないか」
拾い上げ、
「わかるんか」
と傍に腰を下ろした。
「呪文みたいやろうが」
にやりとした。怒られると思ったから気が抜けて、そのままこくりとうなずいた。
「そらそうや、わしにもようわからん」
そして教えてくれた。大凡、こんなふうだったか。
「……翁いうんは、能のうちでも特別なもんでな。いまは神事くらいでしかやりよらん。知っとるか? 興福寺の薪能でも初っ端に、春日さんの庭でやりよるやろう」
いつもの茶事の講話みたいだった。
「そもそも、薪能いうんは正月を迎える神事やったんやな。修二会いうて、二月堂のはお水取りというとるが、あれも春迎えの神事やった。咒師いうてな、二月堂の下にある若狭井から水を汲んで走って上るんがおるやろ」
和尚の話は脈絡が無茶苦茶で、ひょいといろんなところに飛んでいく。
「あれが、最後の晩に篝火を焚いて舞をやりよる。薪猿楽いうて、薪能のはじまりやと興福寺ではいうておるが、まあ、いうたら、修二会の打ち上げのようなもんやな。酒も入っとったやろう、慰労がてらに、おもしろおかしゅう、戯け芸をやりよったらしい。猿楽の猿いうんは、猿真似の猿、つまり物真似のことでな、楽は、おもしろおかしくしゃべるということやろう。修二会の行を満願したんで、すっきりしたんやろな、戯け寸劇をやりよった。芝の庭でやりよったから芝居でな、いまの狂言のようなもんやったんやろう」
いわれて少しはわかる気がした。だから、うれしくて、返事をしようと思うのだが、妙に胸のあたりが息苦しい。
「翁も、たぶん咒師がやりよったんやろう。いうても翁は戯けやのうて神迎えの儀式やな。新たな年を前に、祖霊を迎える儀式やったんやな。篝火を焚くのも、神さま、ここに降ってくださいよ、と目印にするためやった。そうやってお迎えすると、今度は、できるだけ長いこといてくれるようもてなした。お神酒を供えるいうのも、酔わして長居させるためやった。それでうまいもんをいっぱい並べるんやが、喰うだけでは飽きてしまうから、あれこれおもしろおかしゅう戯けを見せた。翁いうんもはじまりはそういうもんやなかったかな。せやから、修二会より、根はもっとむかしになるやろう」
そうして、一息つくとまたはじめた。
「春田打ちいうてな、わしらの村でも、正月明けには村の者が神社の前の枯れ田圃でやりよったわな。二人、鬼のような格好しよって、どた、どた、地面を踏んで踊りよった。それに、代掻いうてな、田圃を掘り起こすような戯けもしよった」
しろかき? これにはぼくも覚えがあった。
春だった。蓮華が一面に広がる田圃に牛を入れて田を起こしていた。きれいな蓮華が畝立ての土のなかに埋もれていく。ちょっと残酷な気もしたが、それから一月、からからに干涸らびた田圃に上の池から水を引き、また牛を入れて掻きならし田植えの準備をする。そんな忙しい梅雨の最中にぼくは生まれている。
「あの頃はさっぱり理由もわからんでな、なにを阿呆なことしよるんかと思うたが、あれは豊穣の祈りやったんやな。戯けて踊りよったんも、鬼と思うとったが、じつは神さんやった。一人は余所から来た神さんで、もう一人はそれを迎える村の神さんやな。どす、どす、地踏みしたんは田圃の精霊を起こすためで、おい、春が来たぞ、早よ、田植えの支度をせんか、そないいうてな」
「………」
「そうや、おまえは、春日さんの御祭を知っとるか」
おんまつり? 訊こうとしたが、喉が詰まって声にならない。
「いまは大名行列やなんのと派手にやっとるが、もともとは簡素なもんで、秋の豊穣を祈る神迎えの神事やった。神さんいうんは、どうも姿形を見せとうないらしいてな、来るのも夜なら、帰るのも夜で、やって来たんはええが、一刻も早よう去のうとしよる。それを退屈させんと長居させるために、夜も薪を焚いて、おもしろおかしゅう芝居をやる」
「それが薪能に……」
いってるつもりが、やっぱり声になっていない。けれど思いは通じたようだった。
「まあ、そういうこっちゃ。せやから人が寄って村ができたら、どこでも神事は生まれるわけで、薪村も、薪能も、田辺にかぎらん、同じようにあちこちにあったということやろな」
そして、どこへ行くのか、すうっと和尚は背を向ける。その背にぼくは呼びかけた。
「おっ、お、」
呼んでるつもりが、やたら息苦しい。
と、隣で声がした。
「ちょっと? どうしたの」
二つ並べた蒲団からだった。
「さっきから、唸ってばっかりで、悪い夢でも見てたの?」
どういう理屈か、いまだに年に二、三度、小僧のむかしに戻った夢を見る。そしてたいていは魘される。寒い冬は滅多にないが、寝苦しい夏場に多い。いまだに落第小僧を引きずっているのか。
そうしてぼくらの探検は続いたし、書棚の陰に、これも客から贈られたのだが、禅寺には似合わない、あの頃売り出されたばかりの赤い小さなポータブルテレビがあるのを見つけ、小僧部屋に運んでは、流行だした妖しい深夜番組に生唾を飲んだりもした。そして、あの一休さんの御手植えの松は、二年目の秋口だった、見事だった三叉の一つが台風にやられ、分かれ目からばっさり折れた。
「寿命かも知れんな」
和尚はいったが、いまはどうなっているか、逃げた小僧はあとを知らない。
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