夢二の絵は売れなかった オオマツヨイグサ

 ちょっと見にはごくすんなりと咲いて見えるオオマツヨイグサだが、陰では人知れず涙ぐましい努力をしている。たとえば、陽当たりがよくても痩せた土地では、開花するのに数年もかかる。だが、情況さえ整えば、必ずきちんと芽を出し花を咲かせるし、いったん根付くとちょっとやそっとでたおれない。

「富士には月見草がよく似合ふ」と書いたのは太宰治(一九〇九~四八年)。一九三八年(昭和十三年)秋、太宰は甲府からバスに揺られて御坂みさか峠に向かう。そこの茶屋の二階で井伏鱒二(一八九八~一九九三年)が夏からこももって書いていた。だから行ったのか。「井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊せんゆうしようと思つてゐた」(『富嶽百景』)と書いているが、ほんとうはどうだったのか。

 富士には月見草がよく似合うというから、茶屋の前で富士をバックにかれんな月見草が風に揺れて咲いている……、そんな風景を想像していた。だが、違った。彼は、付近を歩いてってきた月見草の種を茶屋の勝手口のあたりにいた。なぜか。富士に月見草が似合うと思ったからだ。現実ではなく未来形である。

 しかし、月見草を見て感動したことはした。

 茶屋は峠の一軒家だから郵便物は配達されない。麓の河口湖の郵便局までバスに乗って取りに行く。その帰り道、バスの中で一人の老婆に出会った。車掌の、きょうは富士がきれいですね、という声にそっぽを向いて反対側の崖の方ばかり見ている。そこに咲いていたのが月見草だった。太宰も見た。そして、こう書いた。

「富士の山と、立派に相対峙あいたいじし、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた」

 月見草は富士とは反対側に咲いていたのだ。

 この月見草だが、ハギ(萩)のことをいったり、その名の通り、ツキミソウという白い花を咲かせる種類のものもあるが、これは日本ではほとんど見られなくなった。太宰の場合もそうだが、一般に月見草といわれているのはオオマツヨイグサ(大待宵草)のことである。ただ、太宰が見たのは、もう一つの仲間、アレチマツヨイグサだという説もあるらしい。

 オオマツヨイグサは、北アメリカが原産で、ヨーロッパでは園芸品種としてつくられていたのが明治初期に日本に入ってきた。高さは一メートルから大きなものでは一・五メートルにもなる。だから、オオきなマツヨイグサといわれるわけだが、オランダの植物学者ドフリース(一八四八~一九三五年)はこのオオマツヨイグサを研究して「突然変異説」を編み出したのは有名な話だ。

 秋に種子から芽が出てロゼットまで成長して冬を越す。しかし、翌年の夏に花が咲くとは限らない。もう一年、ロゼットのまま冬を越すものもある。なぜそうなるのか。いろいろ試験されているようだが、九月以前に芽が出たものは翌年の夏に、十月以降のものは翌々年の開花となるようだ。ロゼットとは地表すれすれの短い茎から葉っぱが水平に生えている状態で、葉っぱは根からじかに生えているように見えるので根出葉こんしゅつようともいう。

 さらに、せた土地では、三年から六年かかってやっと開花するものもあるという。厳しい環境下にあっても、ロゼットという形でじっと耐え、力を蓄え、きちんと開花する。えらいやつだ。川の土手、海辺の砂地などに群生する。以前は、線路脇でもよく見かけたが、最近は枕木もセメントになったり、土手などもきれいに整備されるようになったからほとんど見かけない。ただ、それがすべてオオマツヨイグサだったかどうか、仲間に、マツヨイグサ、コマツヨイグサ、メマツヨイグサ、アレチマツヨイグサなどがあり、見分けるのもけっこう難しい。

 いずれも、夏の夕方、大きな黄色い花を枝先にいっぱい咲かせ、翌朝にはしぼんでしまう。日中には咲かない。なぜなのか。ずっと暗室に置いても夕方には開花することもあるし、逆に、夕方になって明るいところに置くと開花しないこともある。生物の体内時計と陽光の二つに制御されているようだ。

 結局は、自然と夕方になって、いくらか暗くならないと花は開かない。あたかも宵の来るのを待ちびているようで、それを、竹久夢二は「宵待草」とんだ。

「待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ、今宵は、月も出ぬさうな」

 この歌はいつどこで生まれたのか。一九一〇年(明治四十三年)、千葉県銚子市の海鹿あしか島で、夢二は一夏を過ごしている。妻といっしょだったが、そのとき、村の若い娘に恋をした。結果は失恋に終わったが、この女性との思い出から生まれたのではないかというのが通説だ。『夢二日記』の明治四十三年八月二十八日の項に、その想いがしるされている。

「私が松原へゆけば、きつと、あなたも松原へ来てくれると思つたから、あなたの家の縁側からよく見えるであろう路をばしづかに歩いた、あゝ、卿が見てゐてくれて、あとから来てくれゝば好いとどんなに願つたろう(略)、松原へいつたが絵なんか画けるものか。この間の時、卿が、もたれてうつむいて時々、ぬすむよふに私の方を見た松のところへ立つても見た、何だかいらいらして、じつとしてはゐられない、立つたりしやがんだりしていた(略)、まつてまつてまつた」

 そして、こう結んでいる。

「白き夏の日の外光に心おごりて咲乱れた赤き花よりはほの暗き夕闇の中に人知れず匂ふ月見草の心ゆかしさが好もしいではないか」

 この海鹿島に、いま、宵待草の詩碑(一九七一年建立)が建っていて、オオマツヨイグサは銚子市のシンボル花となっている。しかし、近年、銚子あたりでも、オオマツヨイグサはほとんど姿を消し、代わって、コマツヨイグサやアレチマツヨイグサが蔓延はびこっているそうだ。

 一九一八年(大正七年)、「宵待草」が多忠亮おおのただすけの作曲で世に出るやたちまちブームとなり、夢二も大正抒情を描いて売れっ子になる。しかし、念願の西欧遊学の夢は果たせないでいた。

 それがかなったのは一九三一年(昭和六年)五月のことだった。横浜を船出する彼は、身の回り品のほかに、白紙のままの掛け軸と白扇がいっぱい詰まった大箱をたずさえていた。アメリカに半年、そのあとフランスに渡り二年の滞在を予定していたが、そのフランスでの滞在費用をアメリカで絵を描いて稼ごうとしたのだった。

 ところが、さっぱり売れなかった。当然である。当時のアメリカは大恐慌以来の不況のどん底だった。窮した彼はつてを頼って、日本人移民が発行していた邦字紙『日米』から挿絵入りのアメリカ印象記の連載枠をもらう。タイトルは「I came I saw」(来た、見た)。カエサルのあの言葉だが、「I conquered」(征した)はない。

 連載は、『日米』が労働争議によって一時休刊に追い込まれたため十三回で終わったが、つえをつく失業者、ベンチにかがみ込む疲れた人々など、そのスケッチと詩人としての観察は「病めるアメリカ」を伝えてあまりある。

 そうして、三三年九月に帰国、まもなく病に伏し、一年後の三四年九月にあわただしくった。四十九歳。いま、東京・雑司ケ谷ぞうしがやに眠っている。

 彼の死後、くぎ付けされ封印された大きな茶箱がいくつかのこされた。外遊前に本人が整理していたものが、帰国後すぐの、あまりにもあわただしい死であったため開かれずにおかれていたのだった。たいしたものはないだろうと思われていたのだろう。

 開かれたのは三年ほどのちのことだった。開けて驚いた。スケッチブックや日記ノートの類がぎっしりと詰め込まれていた。『夢二スケッチ帖抄』や『夢二日記』もそうだが、いま、ぼくらが彼の彼らしい姿を確認できるのはほとんどがこれらによる。いつ、どこでも、スケッチノートを手放さなかったことはよく知られている。

 埋もれていた夢二の『日米』の連載を見つけ出したのはアメリカ西部開拓史研究の鶴谷壽つるたにひさしだった。一九七〇年代終わりから十数年、何度もアメリカ西海岸を訪ね歩き、探し続けていたのをようやく見つけた。一九八六年のことで、ぼくはその発表を掲載した季刊誌「はん」の編集に携わっていて、はじめて知った。

夢二の挿絵(「汎」第4号から)

阿仏の執念 ヒガンバナ

 きりりとした花一輪。といっても、その華麗さと命はわずかに数日だけで、あとはひたすら努力の継続。花が終わるとすぐに葉を伸ばし、太陽のエネルギーを地中の鱗茎に蓄え、翌年の開花に備える。その地道さが多くの飢饉の民を救ってきた。だが、毒もある。自らの種の保存と人を救うそのためとのぎりぎりのところでヒガンバナは生きている。

 昔、京都の大徳寺で小僧をやっていたとき、虎の子渡しの枯山水の庭の片隅に、毎年、七、八輪、ヒガンバナ(彼岸花)の咲くのを見た。別名、曼珠沙華まんじゅしゃげ。その名にふさわしい場所で、厚い緑の苔の絨毯の上に、しっかりと存在感を示していた。

 天の神様である梵天や帝釈天が仏の説法をほめたたえるとき、その前兆として、天から四つの花、つまり、四華しけが降り注ぐという。それが、曼陀羅華まんだらげ摩訶曼陀羅華まかまんだらげ、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華の四つである。曼珠沙華は紅蓮華ぐれんげ、曼荼羅華は白蓮華で、これはチョウセンアサガオのこと。また、摩訶は大きいという意味で、それぞれ、大紅蓮華、大白蓮華ということになるが、該当する花はない。蓮華は、いうまでもなくハス(蓮)の花のこと。すると、紅蓮華、つまり、曼珠沙華は赤いハスということか。

 ルーツは中国。といっても、日本に入ってきたのは有史以前らしいから、ほとんど日本固有のものといってもいい。根(鱗茎)はゆり根のように大きくて、最初は半作物としてつくられていたという。

 しかし、そのままでは食べられない。リコリン(アルカロイド系。同じヒガンバナ科のスイセンにも含まれる。下痢、腹痛を引き起こす)という毒素があるからだが、葛粉くずこをつくるように、すりつぶして水にさらせば食べられる。江戸期には飢饉のときの非常食として栽培されていた。子どもの頃、田のあぜや、溜池の土手一面に生えていたのはその名残だったのか。

 ヒガンバナと呼ばれるのは、秋の彼岸頃に咲くからだが、そのためか、シビトバナ(死人花)とかユウレイバナ(幽霊花)と呼ばれているところもあるそうだ。マンジュシャゲと呼ぶのは、葉が出る前に花が咲く、つまり、「まず咲く」(マジュシャク)という音から来たのではないかと牧野富太郎(一八六二~一九五七年)は書いている。

 その通り、ヒガンバナは不思議な成長をする。まず、九月の開花直後から葉が伸びはじめ、冬を越して翌年の四月頃までは栄養生長期といって球根に栄養を貯める。その後、葉は枯れ、夏が終わる頃まで地上部には何もない。しかし、地下部分では、この時期に花芽を形成して開花、つまり、生殖生長期の準備を着々と進めている。ヒガンバナは、がんばる雑草。厳寒の冬期、多くの植物が落葉し冬眠している間も炭酸同化作用を続け、根に養分を蓄え、次の開花にそなえているのだ。

彼岸花ひがんばな

 そんなヒガンバナに似た女性が鎌倉期にいた。『十六夜日記』の阿仏尼あぶつに冷泉れいぜい家の始祖冷泉為相ためすけの母である。

 冷泉家の系図は藤原道長の四男長家にはじまる。御子左みこひだり民部卿と呼ばれた人で、それから、忠家、俊忠、俊成と下って五代目が藤原定家で、その子どもが為家。この為家には、正妻(宇都宮頼綱の娘)との間に為氏、源承げんしょう、為教のほか数人の子どもがいた。しかし、晩年、為家は側室をとる。これが阿仏平度繁たいらののりしげの養女)で、今風にいえば、年齢が二周りも違う教養バリバリの若い秘書に老いらくの恋をしたわけだ。彼女が書写用人に応募してきたのがきっかけだったらしい。

 その間にできたのが為相。当然のように、為家は六十歳を過ぎての子ども為相を溺愛できあいした。同じ兄弟でも為相は長男為氏とは四十以上も年が離れている。どちらかというと、母親の阿仏が為氏と同世代なのだ。息子とほぼおない年の若妻に子どもができ、それを年老いた父親がかわいがるのだから、問題が起きない方がおかしい。

 やがて為氏と阿仏の間に確執が起きる。と、為家は為氏を縁切りしたうえ、すでに譲っていた播磨国の荘園(細河荘)を取り上げ、為相に与える。当然、為家は不満だったが、勘当かんどうされたのだから財産相続の権利は主張できない。

 ところが、二年後(一二七五年)、為家が死んだことから、情況が逆転する。為氏は力に訴え播磨の荘園を取り返した。為相はまだ十三歳だった。ふつうなら、ここで泣き寝入りというところだろう。しかし、母・阿仏は強かった。為氏の行為を不当として六波羅探題に訴え出た。しかし、六波羅探題は彼女の言い分を認めなかった。ふつうならここで終わる。だが、彼女はふつうではなかった。直接、鎌倉幕府に訴え出ることにした。為家の死後四年、一二七九年(弘安二年)のことだった。

 その京から鎌倉までの道中記が『十六夜日記』。十六日かかったというのではなく、京都を出発したのが神無月(十月)の十六日だったからで、鎌倉までは十四日の旅だった。四百字詰原稿にすれば三十枚そこそこの短編で、旅日記とはいうものの、途中、野洲川、長良川、天龍川、大井川、富士川、はや川、相模川など、二十前後の川を渡っていく様子の記述が、渡しを知らない現代人には目新しい。なんとなく、「東海道・渡し日記」という気がしないでもない。

 そうして、鎌倉の手前の月影ケ谷つきかげがやつに庵を開いて訴訟に備える。現在の江ノ電極楽寺駅から西へ四、五分歩いた線路際に旧居碑が建っている。いまは家屋が建て込んで海は見えないが、当時は十分見渡せただろう。その分、潮風もきつかったのか、「浦ちかき山もとにて風いとあらし。山でら(極楽寺)のかたはらなれば、のどかにすごくて、なみの音、松の風絶えず」と記している。

 現在の裁判もそうだが、当時も訴訟の裁許にはけっこう時間がかかった。領地争いが多かったからで、結局、彼女は結果を見ないまま四年後に死んでしまう。子を想う強き母も老いと病には勝てなかった。

 JR横須賀線の北鎌倉駅で降り、線路に沿って鎌倉駅方向に五、六分歩くと、切り立った崖下に小さなほこらがあり、六重の塔をかたどった墓碑がほこりまみれになってひっそりとある。北鎌倉からの行楽ルートなのだが、みんな見向きもせずに通り過ぎる。基壇に「阿仏墓」と刻まれているだけ。いつ建てられたのか、解読できる文字もない。

 その阿仏墓と遠く向かい合うように、線路を挟んでちょうど反対側の藤ケ谷ふじがやつ・浄光明寺の裏山の頂きに息子為相の墓がある。鎌倉に下った為相は、母阿仏の死後、そこに移り住んだのだった。

 

 裁判はどうなったか。経過は二転三転する。

 当時、荘園の所有権は領有権(領家職)と管理権(地頭職)の二つに分かれていた。平安期の荘園制度の名残である。前者は支配権で、後者は経営権といってもいい。そこで、まず、阿仏の死後三年の一二八六年に、領有権が為氏側に認められた。一方、管理権については、さらに三年後の一二八九年(正応二年)に、これは為相側に認められた。しかし、為氏側(為氏は死亡、子どもの為世ためよに引き継がれた)が、それに異議申し立てをしたため、さらに裁判が続き、二年後の一二九一年には管理権も為氏側に認める判決が下った。

 それに対し、為相側が再び提訴。今度は逆転して、管理権を為相側に認めるという判決が出た。一三一三年(正和二年)のことだった。最初の提訴以来三十四年、阿仏の死後からでもじつに三十年かかっている。鎌倉期には、御家人の間だけでなく、こうした公家間の訴訟も絶えず、なかには結審に半世紀以上もかかった例もある。

 その後、為氏の子どもの為世が二條家を、為教が京極きょうごく家を興したのに対し、為相は冷泉家を名乗る。そうして、二條家と冷泉家の対立は長く続くが、南北朝時代に二條家と京極家が相次いで断絶したため、冷泉家は俊成・定家直系の唯一の歌仙正統派となった。

 阿仏の執念がなければ今日の冷泉家はなかった。だが、それだけではない。もう一つ、その後の冷泉家の選択も正しかった。明治維新のとき、京都の多くの公家は東下とうげする天皇のあとを追って東京に移る。しかし、冷泉家は京都に残った。当時、奇異に受け取られた行動だったが、東京の公家がその後の近代化の中で没落していったのに対し、京都を動かなかった冷泉家は生き残った。いま、冷泉家当主は二十五代目。京都・烏丸今出川の一角に続いている。

 ちなみに、現当主為人ためひとは先代為任ためとうの娘(長女貴美子)婿。次女とぼくは高校でずっとクラスがいっしょだった。その彼女はいま二条家に嫁いでいる。

 そういえば、阿仏の義父にあたる藤原定家の名を冠したものにテイカカズラ(定家葛)というのがある。春の終わりから夏の初めに甘い香りの小さな白い花をつけるツル植物で、もともと野生植物だったのが江戸期に観賞用として栽培されはじめたという。定家の墓に植えられたからとか、ほかの木々にからみついて生きていくしたたかな姿が定家の生き方に似ていたからとか、いろいろいわれる。垣根や、町中でも道路と歩道の仕切りフェンスに植えられていたりするが、きわめて丈夫で、日陰でも付着根をびっしりつけて十メートルぐらいは大木にからみついて成長する。やはり執念の雑草だ。

『雑草』の人 ヘクソカズラ

 可憐な花をつけるのに、その匂いたるや言葉もない。あわい想いも一瞬にして冷める。だが、それで終わらない。ヘクソカズラの真骨頂はその身を枯らしたあとにこそある。若いときは糞滓くそかすにいわれても、老境に入って芸に渋さを見せる、どこか上方芸人の生き様と似ている。ヘでもクソでも、なんとでもいえ。

 とにかくひどい名前を付けられたものだ。けれど、雑草にはこうしたオーバーな表現がけっこうある。一見、めずらしい雑草のようだがそうでもない。雑草一般がそうであるように、ヘクソカズラも実際は日常的でありながら、ついつい見落とされている。ちょっと生活視点を変えれば、ごく身近にいる雑草なのだ。

 都心では難しいかもしれないが、少し郊外に出かければ、空き地や駐車場、資材置き場の金網フェンスなどにからまって茂っているのを見かける。夏の強い日差しの中、つるをあちこちに伸ばし、一節ごとに葉っぱの付け根から、一センチほどの白い筒状の花が五つ六つ束になって開いている。名前に似ず、白い可憐な花で、つい暑さを忘れてしまう。

 しかし、名前の通り、たしかに臭い。植物図鑑には「青臭い強い臭気」と穏やかな表現もあるが、上品すぎる。それを知らずに、武蔵野の千川上水べりの土手の刈り込みの中に絡まって咲いているのを見つけ、一本取ってきて、小瓶にさして洗面所の柱にるした。

 しばらくしてそばを通ったら、生ったるい妙な匂いが漂う。大でもない小でもない、両方が混ざった、それもかなり時間が経った異様な匂い。

 おかしいな、と思って隣のトイレを掃除。が、消えない……。

 ふと見れば柱にさっきの一輪。

 やっと納得。犯人はこいつだ。そう、昔、田畑の脇にあった野肥溜のごえだめの、たっぷり熟成されたあの匂いなのだ。

 

「多年生、草状のつる植物。茎は左巻で長く伸び、大きいのはまれに一・五センチの径があり、他物にからみつく。葉は対生し、葉柄があり、葉身は楕円形または細長な卵形で先はとがり、基部は心臓形または円形になり、長さ四~一〇センチ、幅一~七センチ(略)夏に葉腋から短い集散花序を出して花を開き、また枝の先に穂をなすこともある。花冠は鐘状で灰白色、内面は紅紫色」(牧野富太郎『原色牧野日本植物図鑑』)

 学名Paederia scandens var mairei。悪臭があって他に絡んでよじ登るもの、という意味らしい。別名、ヤイトバナというのは、花の芯がお灸のあとに似ているからとか。隣の婆さんがよくやっていたが、たしかに、灸をすえてしばらくすると火傷やけどした中心部が紫がかったピンク色にれあがる、あの色にそっくりだ。

 また、果実は熟すと黄褐色になり、成分に抗菌作用があるというので、昔は、あかぎれやしもやけの薬として使われた。熟した実をつぶしてその汁をそのまま患部に塗りつけたり、ハンドクリームに混ぜて使うといいらしい。さらに、葉っぱをみ出した汁は虫刺されにくし、根は下痢止め、利尿の生薬(鶏屎藤果)になる。

屁屎葛へくそかずら

 古名は露骨にクソカズラといって、万葉集(巻第十六の三八五五)の中に屎葛くそかづらという名前で出てくる。高宮王たかみやのおおきみの歌である。

葛英くずはなひおほとれる屎葛絶ゆることなく宮仕みやづかへせむ」

 役所への通勤途中に垣根かどこかにヘクソカズラの生い茂っているところがあったのだろうが、葛英爾も含めて詳しい意味はわからない。

 このように万葉の時代はクソカズラだったが、それに「ヘ」まで付けられた。きわめて不名誉な名前をもらったわけだが、生薬にもなり、万葉集にも出てくるくらい、古くから人々の身近にあった雑草なのだ。とすれば、ヘクソカズラというのは、逆に、親しみを込めた愛すべき名前であるのかもしれない。なにせ、一度で名前が覚えられる。

 しかし、ヘクソカズラの真骨頂は、晩秋、飴色の照りをもって色づくその実と茶褐色に巻き枯れた蔓の絶妙な組み合わせにある。色といい、枯れた蔓の自然な曲線といい、見事な限り。リースに添えてもいいが、それより、竹の筒にさして壁や柱にでも掛けた方が絵になる。たった一枝でわびさびの世界が演出できる、貴重な雑草といっていいだろう。青臭いのが枯れて寂に変身するその変わり具合がすばらしい。若いときは自らを自虐的におとしめて笑いを引き出し、老境に入って落ち着きと渋さを見せる、どこか上方芸人の生き様に似ている。

 

 植物学者といえば牧野富太郎だが、雑草研究の領域ではもう一人、興味深い人がいる。阪庭清一郎さかにわせいいちろう(一八六四~一九四五年)。長く小学校の教師をしていたからか、その著『雑草』(一九〇七年)の記述はひじょうにわかりやすい。ヘクソカズラについてもこうだ。

「茶園の株間などに盛んに繁茂する宿根草にして、右巻きの細き茎に甘藷かんしょの葉に似たる葉を対生に付けて、その葉の両腋より花軸を出し、七、八月ごろ、ききょうの花の形したる小さき花を開く。この花は外には多くの毛あり、内は紫色なり。その筒の内面に、長短不同なる五本の雄蕊おしべと日本の長き花柱ある一の雌蕊とをそなう。茶色の果実を結ぶ。繁殖は、種子のほかに、根も寸断するときは一個の植物となりて繁殖す。この草には一種の悪臭あり。ことに花に多し」

 埼玉県児玉郡丹生にゅう(現、児玉郡神川町)の人で、郷里の小学校をかわきりに、茨城、栃木、宮城などの師範学校で教鞭をとるかたわら、雑草の生態と除草について研究。『雑草』は、彼がそうだったように、小学校の教師のための児童指導用ハンドブックとして書かれたものだった。

 なぜ、そんな参考書が必要だったのか。当時、初等教育にはすでに一九〇四年(明治三十七年)から国定教科書があった。だが、それは、修身、歴史、地理、国語に限ったもので、理科教育には教科書がなかったのだった。理科は自然から学べとばかり、教科書を使用することさえ禁じられていた(逆に、それが生徒たちの野外観察の機会を多くし、のちに植物研究を盛んにすることになるのだが)

 そうした情況に、現場の教師たちは困惑していた。阪庭も現場にいたから、それがよくわかったのだろう。

 なるほどわかりやすい内容なわけである。全体を「畑地に生ずる雑草」「水田に生ずる雑草」「庭園に生ずる雑草」の三つに区分、百三十一種をわかりやすいスケッチ入りで紹介している。このスケッチが、モノトーンだがタッチは水彩画チックでなかなか味がある。書画のたしなみもあったのではないか。

 ほかの植物図鑑と違っているのは、除草が目的であることで、それぞれの生態と性質を述べたあと、簡潔に除草法を記している。もちろん、除草剤など普及していない「農業は雑草との闘い」の時代である。包丁、鎌、熊手くまでくわふるいなどを使っての根気と努力の除草を説く。ヘクソカズラの除草も「根の残らぬよう、鍬にて除くをよしとす」と、牧歌的というか素朴な限りだが、逆に、そこに雑草との共生というか親しみを持ってつき合っていた当時の生活が感じられる。

屁屎葛

 ほかに、たとえば、現在でも強烈な生命力のある雑草として嫌われているビンボウカズラについても、「鍬にて深く起こし、その根の残らぬようこれを採るよりほかに良法なし」と、突き放す。納得を越えて、反論の余地がない。除草剤の広く普及した現在よりも、身体を使い額に汗しての雑草との闘いの時代の方が、雑草のなんたるかをよく心得ていた。人間が農との闘いに懸命だった時代には、雑草にも市民権があったのだ。

 ちなみに、雑草という言葉が農書の中に登場するのは小西篤好こにしあつよし(一七六七~一八三七年)の『農業余話』(一八二八年)が最初とされている。

「年ごとに所を替る時は苗こえて速かに生茂せいもその根もしげきものなり。ゆえに田に移して速かに根つきて早くこえ(肥)に進み栄えやすし。数葉早く出れば覆ふ故、雑草もこくせられて生ぜぬものなり。古きことわざ茂木もぼくの下に繁草はんそう無しと云へり。稲さかゆれば草栄えず」

 苗代のつくり方を解説した一節に登場する。

 小西は大阪の茨木(摂津国嶋下郡佐保村馬場)の人で、自ら試験圃をつくり、農事改良と栽培技術を研究。『農業余話』は、稲、麦から棉、麻、そして、梅、柿、蜜柑みかん枇杷びわの果樹のほか、杉、竹などの栽培法を草木雌雄説によって解説した農書として知られる。なかでも栽培の試行錯誤の中から生まれた雑草の生態・防除法研究に関しては江戸期農書の中では右に出るものがないという。草稿は一八〇九年(文化六年)にできあがっていたが、日の目を見るまでに十九年かかっている。

真夏の夜の妖艶舞 カラスウリ

 カラスウリはかしこい。地上の種子ともう一つ、晩秋、身を枯らす前に蔓先を地下にもぐらせ、その先に養分を蓄え、次の年の発芽に備えて塊根をつくる。備えあれば憂いなし。生き残りのためにいつも二の手を打っている。雑草がこの定石を忠実に守っているのは、自分の弱点を知っているから。

 秋半ば、川縁の竹薮に、大きな赤い実がいくつもぶら下がっていた。子どもの頃の原風景で、きれいだともなんとも感じなかったが、薮の緑と赤い実のコントラストが強烈に目に焼きついている。棒で叩き落として中を割ってみると、黒褐色の種がいっぱい詰まっていた。

 雄花の咲き方が面白いと知ったのはつい最近のこと。夏の盛り、近くの旧家の高い垣根に、偶然、見つけた。

 実の赤とは対照的に、花は真っ白で、花弁の先からレースのような白い糸状のものが放射状に広がる。面白いのは、夜にしかその姿を見せないこと。夏の夕暮れ、陽が落ちて周りが薄暗くなるとつぼみふくらみはじめる。

 光量に反応して点灯する外灯のようだが、薄暗い中でじっと見ていると、夏の夜のし暑さも手伝ってか、妙に妖艶な気分になってくる。場所によっても違うだろうが、七時前後に開きはじめ、二時間ぐらいで満開になる。と、いくらもしないうちに糸状のものは縮みはじめる。明け方に見に行くとすっかり萎んでいた。

 昼間のその姿の無惨なこと。一回限りの饗宴である。

 

 長塚節ながつかたかし(一八七九~一九一五年)の歌集『はりごとく』の中に、こんなのがある。その夜も眠れなかったのだろう。カラスウリの花が開いて萎んでいくのを見ているうちに夜が明けてしまった。死の前年(大正三年)の八月、旅先の宮崎でのことだった。

「草深き垣根にけぶる烏瓜にいささか眠き夜は明けにけり」

 結核をんでいた彼は福岡医科大(現、九州大学医学部)で療養していたが、病状思わしくないまま最後の歌の旅を続けていた。そのときの歌を集めた日記風歌集が『鍼の如く』で、生への執着か、生きるものへのいとしさか、多くの花、草木を読み込んでいる。

 長塚節といえば、中学のときに読んだ『土』の印象が強烈だ。舞台は鬼怒川沿いの貧窮の農村。厳しい野良仕事の中で破傷風にかかって急死した新妻が、いっしょに棺桶に入れてくれと言い残した包みを夫の勘次が裏の田圃たんぼに取りに行く。

「そっと家の後のならの木の間を田の端へおりて境木の牛胡頽子ぐみそばを注意して見た。唐鍬とうぐわか何かで動かした土の跡が目に付いた。勘次は手にして行った草刈鎌でさらった。襤褸ぼろの包が出た。彼は其処そこに小さな一塊肉を発見したのである。勘次はそれを大事にふところに入れた。悪事の発覚でも恐れるような容子ようすで彼は周囲を見廻した。彼は更に古い油紙で包んで片付けて置いた。お品の死体が棺桶に入れられた時彼はそっとお品の懐に抱かせた」

 口減らしのための堕胎だった。家庭菜園、ガーデニング大流行おおはやりの昨今では、すっかり忘れ去られてしまった「土」の重さがずっしりと伝わってくる。

烏瓜からすうりの花

 一方、山頭火さんとうか(一八八二~一九四〇年)はこんな具合。

「ぶらさがっている烏瓜は二つ」

 さっぱりしたものだ。ぶら下がっているのは一つでなく二つであるところが、彼の場合はポイント。一人行脚の身に、「一つ」はこの上なくさびしい。旅の途中の川辺で見かけたのだろう。たぶん、その実は目立つ赤色だったろうから秋も最中で、川もほとんどれている。履き物を脱ぐまでもなく、小さな流れを軽く、ぽんぽんっと石を飛び越え渡れたことだろう。

 そして、飯田蛇笏いいだだこつ(一八八五~一九六二年)のこんな句になれば意味深長すぎて、ぼくにはさっぱりわからない。梵妻ぼんさいとは僧の妻のことである。

「梵妻を恋ふ乞食あり烏瓜」

烏瓜からすうり

 カラスウリといっても、カラスのウリ、つまり、カラスの好物の瓜というわけではない。植物界、とりわけ雑草界では、「カラス」がつくのは大きな○○という意味。しかし、絶対的な大きさを指すものでもない。たとえば、カラスノエンドウは、少し小ぶりのスズメノエンドウに対してのものだ。実際、スズメウリというのもあるらしく、こちらは、花の形はよく似ているが細い糸状のものはなく、は少し小さな球状で、熟すと灰白色になる。

 一説に、朱の赤色に似ているから唐朱瓜からしゅうりともいうらしい。牧野富太郎は「樹上に永く果実が赤く残るのをカラスが残したのであろうと見立てたか」といっているが、あの雑食のカラスも喰わないということか。ヒヨドリやムクドリは食べに来るというが、たいていは鳥にも食べられないままぶら下がっている。

 それをちるままにすればそれまでだが、葉っぱが枯れかけた頃に蔓ごととってきて柱やはりに吊るす。すると、冬の間に自然乾燥して、赤色が少しずつ抜けて薄茶色に変身する、渋さ加減がけっこうイケる。その色を絵の具でつくれといわれてもちょっと無理。自然と時間がつくり出す造形の妙である。

 川端康成(一八九九~一九七二年)も『山の音』の中で、菊子に色鮮やかなカラスウリを床の間に生けさせる。

 舞台は鎌倉だが、書いたのは箱根・強羅ごうらの温泉宿だった。おそらく彼が、散歩の途中で見つけてきたのだろうが、作品の中では息子の嫁の菊子が裏山からとってきたことになっている。蔓には瓜が三つ、意味深な数で付いていた。

 カラスウリがかしこいのはその繁栄の方法だ。なんと、秋になって枯れる前に、れ下がった蔓を地中にもぐり込ませ、先に養分を蓄え、翌年の発芽に備えて塊根かいこんをつくる。地上の種子だけでない、生き残りのための第二の手法をつねに準備しているのだ。この塊根の澱粉でんぷんは上質で、昔は、食用にもなったし、「汗知らず」と呼ばれて、汗疹あせも止めにも使われた。また、根そのものは、利尿、催乳、解熱げねつの薬として使われている。

出稼ぎ西南戦争 ネジバナ

 雑草の中では一番の美人といっていいだろう。この上なく清楚でたわやかなネジバナのどこにそんな力があるのか、ときには庭木も枯らすという強烈な個性のシバの中にあって、誰に頼ることもなくそっと小さな生をつないでいる。だが、よく見ると、それぞれが個性豊かで、まっすぐ生きているものもいれば、ちょっとゆがんだものもいる。

 梅雨半ばの雨上がり、青芝の中にピンク色のものが、ぽつんぽつんと光るように立っている。最初に見つけたときは感動ものだった。

 ネジバナ。その名の通り、直立した花序が螺旋状にねじれて小さな淡いピンクの花を付ける。ねじれ方は、時計と反対回りが多いように思うが、よく観察してみると、時計回りもけっこうある。別名モジズリ(捩摺)というのは、ねじれて巻く様子を古式豊かに表現している。もう一つ、したい草とも呼ばれるように、どこか婦人の寄り添う姿態に似ていなくもない。

 すべてが直立しているかと思ったらそうでもない。一番下の花の付いているあたりから「く」の字形に折れ曲がって斜めに伸びているものもある。直立しているのは、花が一つ一つ回転方向に少しずつずれて付いているからだ。つまり、全方向に向かって花を付けることで軸のバランスを保っている。だから、付き方が狂ってくると真っ直ぐに伸びず、そこから軸が曲がってしまう。

 高さは十センチから大きいものでは二十五センチにもなる。昔は田の畦草の中にまぎれて生えていたこともけっこうあったらしいが、いまでは陽当たりのいい芝生の中ぐらいにしか見られない。

 葉は地面に半分埋まるようにロゼット状に伸び、春先にそこから小さな花茎を伸ばす。花は六月頭から七月半ば頃まで咲くが、八月も半ばになるとすっかり枯れて、翌年の春までは養分を貯えて小さく膨らんだ根だけで過ごす。長い一年のうちほんのわずかしか、その清楚な姿を見せてくれない。

 加えて、花の一つ一つは五ミリぐらいだし、花弁以外、葉も、花茎も芝と同じ緑色をしているから、芝生の中を歩いていてもけっこう見過ごしてしまっている。

 花茎が枯れたあとは根茎だけで過ごすから、芝刈り機で刈られてしまうこともない。だから、なんとか絶えないでいられるし、芝生の移植といっしょに移動する。ランの仲間だが、ほかの仲間は人間の助けがないと生きられないのに、独り、都会でもがんばっている。

 あまりの美しさに、根茎ごととってきて鉢に植えたり、庭に植え替えたりするのだが、さっぱり根付かない。「やはり野に置け蓮華草」なのか、雑草がそうであるように、ネジバナも、やはり野にあってこそのもの。世はガーデニングでやかましいが、このブームは商社がつくったもので、ネジバナはそんなまやかしとは無関係。清楚でいながら、どこかに高貴さを漂わせる、不思議な美を秘めている。

 夏の夕立上がり、ネジバナさがしに出た緑の芝生の広っぱで、歩きはじめたばかりの女の子が草摘みをしていた。それがかわいくて、ピンクのネジバナを二本手折って手渡すと、ぎゅっと軸を握りしめ、少し離れたお母さんのところに駈けていって振り向いた。ヘンなおじさんと思ったのだろう。

 

 ネジバナは純国産といってもいいものだが、雑草の中には幕末の開国による西欧貿易の復活によって新たに入ってきたものが多い。輸入種と呼ばれているもので種類も多く、そのため名前も重複して、ヒメジョオンやヒメムカシヨモギはゴイシングサ(御維新草)と呼ばれたり、逆に、一つのものが、たとえばヒメジョオンが、もう一つサイゴウグサ(西郷草)と呼ばれたりしたようなものが結構ある。一時に新顔がたくさん現われて名前を付けきれなかったのだろう。

 そんな中で、不思議なのは、サイゴウグサはあっても、桂草、大久保草、山県草といったものがないことだ。西南戦争に敗れた西郷隆盛(一八二七~七七年)判官贔屓ほうがんびいきが集まったともいえるが、どうもそれだけではなかったようだ。書かれた歴史にはどこか作為が見られる。だが、民衆が親しく呼んだ名前に嘘はない。

捩花ねじばな

 その西南戦争だが、一八七七年(明治十年)九月二十一日付の「新潟新聞」(現、新潟日報、一八七七年四月創刊)に「新募兵の手当五百円」と題してこんな記事が載っている。

「越後辺より新募の兵にて熊本連絡後戦地に臨み此頃帰京せし者のはなしに、今度旅費は御手当等にて政府よりたまわりし金圓は一人に付ほとんど五百圓程なれば、誰も少なくて二百圓位は懐に余し帰国するを得べし。辺土においては三四年稼ぎても二百圓の金を得るは難く、人間万事虎穴に入らざれば奇利を得易からずと物語り居たるよし」

 西南戦争はこの年の一月にはじまっている。従来、この戦争は「征韓論に破れた」西郷隆盛が下野げやして鹿児島に帰郷、そこに秩禄公債で家禄を奪われた不平士族が集まり大久保利通(一八三〇~七八年)の主導する中央政府に反乱したとされている。しかし、「征韓論に敗れた西郷」というのは、どうもそうではなかったようだ。

 まず、一八七三年の征韓論争は、西郷、副島種臣そえじまたねおみ(一八二八~一九〇五年)、江藤新平(一八三四~七四年)、板垣退助(一八三七~一九一九年)、後藤象二郎(一八三八~九七年)らの「征韓派」が、征韓、つまり、朝鮮半島をはじめとする外征を主張したのに対し、大久保利通、木戸孝允(一八三三~七七年)、大隈重信(一八三八~一九二二年)らが内政重視を主張して対立したとされている。しかし、実際はそうではなく、西郷、江藤に対する大久保の権力闘争で、大久保の二者追い落としのクーデターといっていい。内政重視どころか、西郷らが政府を去ったあと、大久保は陸海軍整備のために家禄税・官禄税を設けたり、翌年には台湾征討、翌々年には朝鮮に軍を送って江華島事件を起こしている。征韓を実行したのは大久保の方だった。

 それはさておき、この新潟新聞の記事は、ぼくら庶民に、なかなか興味深い事実を教えてくれている。男は、新潟から西南戦争の政府軍募集に応じて出征。戦地までの旅費手当として五百円を政府から支給されたが、そのうち二百円を節約して持ち帰ったというのだ。

 別の史料によれば、応募した彼らは、関東周辺の場合は、横浜で集合をかけられ、船で長崎に送られ、そこから陸路、熊本をはじめとする戦地まで歩いている。そして、運よく激戦をくぐり抜けた者は現地で御用済みになる。自由の身となった彼らは、船で帰るという手もあったが、多くは費用を節約するために陸路を歩いて郷里に戻っている。鉄道はまだ新橋・横浜、京都・神戸間しか開通していなかった。

 もし海路だったらどんなルートをとったのか。たとえば、西南戦争から三年後の一八八〇年、のちにロシア通の陸軍情報将校として満洲で活動する石光真清いしみつまきよ(一八六八~一九四二年)は、はじめて熊本から東京に出てくるときの行程をその著『城下の人』に記しているが、熊本市の外港百貫石港から船に乗り、長崎、門司を経て神戸に出て、そこで三日間船待ちしたあと大型船で横浜に入っている。この費用がどれほどだったかは明らかでないが、たとえば新潟・函館間が五円、東京・宮城各港間が七円だったというから二十円は下らなかっただろう。帰還兵士たちはこの船賃も節約したのである。当時の船といえば、いまの航空機以上のものだった。

 西南戦争の政府軍の主力になったのは、維新戦争のとき幕府方についた諸藩出身の士族たちである。会津戦争、北越戦争を戦った者が多かった。朝敵となった彼らは家禄を取り上げられたため職がない。武士としての経験を生かす仕事といえば警察官ぐらいしかなかった。そこに降ってわいた兵士募集である。彼らにとって、西南戦争は、出稼ぎ感覚だった。

 ただ、命がかかっている。その出稼ぎ賃二百円。当時、新潟からの出稼ぎ(国内)といえば、会津や仙台への年季稼ぎが多かったが、それで二百円を貯えるには三、四年かかったという。職人の場合、日当が二十~三十銭だったから、ざっと計算しても二年分である。

 西南戦争の費用については、当初、大久保政府は七百万円と見ていた。どこから捻出したかというと、敵となったために支払い不要になった鹿児島士族への秩禄だった。それが計一千五十万円。残りの三百五十万円は、戦後、俘虜とした彼らを北海道に送って開拓に従事させる資金に充てる計画だった。

 しかし、事ほど左様に進まない。予想以上に戦争は長期化(八カ月)し、終わってみれば、戦費は四千百五十六万円に膨らんでいた。一八七四年の台湾征討が七百七十万円だったから約五倍。この戦費がどれほど莫大なものであったかは、たとえば西南戦争前後の国家予算(歳入)が六千万円台だったことを考えれば明瞭である。まさに、維新以来の内乱であり、それを引き起こした大久保クーデターのおつりがいかに大きかったかがわかる。

小僧の計画 ドクダミ

 いつも日陰者でいながら、強烈な個性(匂い)を放つ。なんとなく日常から雑草が遠のいていく気がする昨今、庭の片隅であれ、縁の下であれ、きちんと定位置を占めているのは、十薬じゅうやくといわれたように人間生活には欠かせないものだったからだろう。虚栄のないその立ち居姿はりんとしていてすがすがしい。やはり、なくては寂しい雑草だ。

 ドクダミについてあれこれいうこともないだろう。最近は、山野草ブームで、街の園芸店にもいろんな雑草といっしょにミニ植え込みとしてアレンジされているのも見かける。一見、ポトスの新種かと見まがうほどの鮮やかな五色ドクダミというのもある。

 白い花弁のように見えるのは、じつは総包片で、中心ににょっきり立っている黄色の花軸が花穂で花の集合体である。よく見れば雄蕊が三本で、子房の先が三つに分かれている。名前の由来は「毒痛み」だというが、別名、ジュウヤク(十薬)ともいう。馬に与えると十種類の薬の効能があるからだと牧野富太郎は書いている。尿道炎、利尿、便通、化膿、腫物、出来物、水虫、蓄膿症、耳鼻の病気、高血圧など効用は幅広い。

 製品としてはドクダミ茶というのが薬局で売られているし、すぐできるものとしては、青いままの葉っぱを入れたドクダミ風呂が、効能もそうだが、なにより風流でいい。湯船が檜ならなおさらだが、そんな贅沢はいってられない。また、葉っぱをホワイトリカーにけて一、二カ月おいたエキスに植物油を加えて整えると、シミ、ソバカスをとる美白用のドクダミ化粧水になるという。

どくだみ

 しかし、ドクダミの真骨頂は、やはり、あの白い花と緑の葉っぱの対比の美しさにあるだろう。昔、京都の大徳寺で小僧をやっていたとき、茶会の朝、和尚が裏庭の隅から、白い花の開いたドクダミを一輪手折ってきて、茶室の小柱の竹の一輪挿しに生けた。なんとも清々しかった。

 ふつう見かけるのは、葉っぱが緑一色のものだが、薄いクリーム色のが入ったものもある。江戸期に全国に広がったもので、それがヨーロッパに移出されて向こうで人気になり、逆輸入されたらしい。あの利休が茶花にしたとかいうのは、この斑入り種だったのかもしれない。

 

 寺の朝は辛かった。毎朝五時に起きてお勤めをする。夏ならいいが、冬は地獄だ。暖房がないから足が凍えて夜明けまで寝付けないこともたびたびだった。

 だから、朝はいつも遅刻で、兄弟子が本堂に向かう足音で目がめ、飛び起きて、あとを追いかける。庫裡くりと本堂の間の渡り廊下は鉄のように冷たかった。そうして、四十分前後、先導する兄弟子の横に正座して、お経を、むにゃむにゃと小さく唱える。

 お経は漢字で書いてあるが、あれは外国語だ。どう考えても親しみの持てるものではなかった。いまも、なんとかいえるのは「般若心経」と「四弘誓願文しぐせいがんもん」ぐらいか。だから、毎日のお勤めは経本を見ながらやるのだが、ちょっと居眠りすると、といっても、たぶん二、三秒の空白なのだが、はっと気づいたときには、どこを唱えているのかわからなくなってしまう。そんなときほどバツの悪いことはない。普段でも小さい声がさらに小さくなり、もぐ、もぐ……、声も消えそうになる。一方で、目を皿にして経本の文字を追う。それがわからない。経本をぱらぱらやっていると、見かねた兄弟子が横目で、ちらり、そして、りん棒の先でぼくの経本の一点をさしてくれる。

 お勤めには、もちろん和尚もやってくるが、その時間がまちまちで、ほとんど終わる頃にやってくることもある。それを見越して、兄弟子はお経を所々、一、二ページ飛ばしてしまう。それでまたぼくはあわてるのだが、また、うれしくて、いつも、和尚が来ないことを祈った。

 お勤めが終わると本堂のき掃除。といっても、まだ六時前。一月、二月は、気温が零下になる日が何度もあって、水で濡らした棒雑巾で本堂の広縁を拭いて走ると、そのあとがすぐに白く光る。凍っているのだった。兄弟子は裸足で走るが、見習い小僧は、軟弱だからスリッパをひっかける。と、滑ること、滑ること。陽が高く上がってからやればいいことなのに、そこが修行というわけだ。

 冬の辛さはそれだけじゃない。まず、部屋に暖房がないから寝るのが大変だった。もちろん、見習い小僧は、和尚の目を盗んで敷き布団とシーツの間に電気毛布を隠していた。それでも寒い。戸外との境は障子戸一枚。それも建て付けが悪いから柱との間に大きく隙間が開いている。一冬で足の親指が紫色になって春先には爪ががれて落ちた。

 反対に、夏は楽しかった。夜は、障子戸の外にヤモリくんが遊びにやって来る。薬石の後片付けを終えて、小僧部屋で横になっていたら、ぱらっ、ぱらっ、障子紙に何かがあたる音がする。頭を上げると、先が丸く膨らんだ足が四つ、小さな影を付けていた。以来、彼とは友達になっている。

 夕方も爽快だった。方丈の前庭には、一面、スギゴケが広がっている。その上で地転をする。厚いスギゴケが自然のマットになる。もちろん、和尚は出かけて居ない。

 このスギゴケがなかなか面白かった。スギゴケの葉は表は緑色だが、裏は茶色をしている。暑い日中、苔庭が一面茶色に見えるのは、蒸散を防ぐために葉を閉じてしまっているからだ。

 夏の夕方、けついた前庭に水遣りをするのが小僧の日課だった。ホースで水をいてやる。すると、スギゴケの葉が開いて緑に一変する。鮮やかだった。ただ、それが裏目に出ることもある。水を撒いたところとそうでないところが一目瞭然なので手抜きができない。庭の広さが半端じゃないので大変だったが、一番好きな作務さむだった。

 春もいい。最初にあてがわれたのが二階の屋根裏部屋。八畳もある広い部屋で、天井は低かったが、東向きに格子窓が開いて、晴れた日は、春霞の中に、比叡山から東山がパノラマに見渡せた。

「ふとん着て寝たる姿や東山」

 服部嵐雪(一六五四~一七〇七年)だが、なぜか、ませた見習い小僧は「……遊女も寝たり東山」と憶えていて、つい、妙な気分になったりしたものだ。けれど、あれはたしかに女性の寝姿だ。それも、着ているのは布団じゃなくて、薄ーいシーツのようなもの。

 比叡山はところによって形が変わる。北の方から見ると頂上の四明岳しめいだけがとんがって見えるが、南の方から見ると丸く見える。それを女性の胸のあたりに見立てて、北の方が若いかなと、独り、納得したものだった。

 円通寺の借景しゃっけいとしての比叡山は有名だが、あそこは少し北寄りすぎる。やはり、大徳寺からの姿がいい。それもあの屋根裏部屋の格子窓からのが最高だ。

 最初、そこに半年ぐらいいて、一階玄関脇の四畳の小部屋に移された。二階だと物音が伝わらず、朝起きるのにも失敗するし、電話にも出られないからだった。それがさっきの障子戸の小部屋で、来客があると飛び出して「はい、はい」、電話があると「もし、もし」。本堂への渡り廊下のすぐ脇だから、朝寝坊していると、勤行ごんぎょうに行く兄弟子が、「おいっ!」と一声かけてくれた。

 そんな春秋を二つ越したか、やっぱり辛かったのは、起床とお経。二年目の秋頃から朝寝坊もだんだんひどくなって、三十分ぐらいの遅刻ならまだいいが、お勤めが終わって廊下を戻ってくる兄弟子の足音で目が覚めることもたびたびだった。そんなことが続いた五月の朝、やはり寝坊して、本堂に走ったら、たまたまそんな日に限って和尚がきちんと来ていて、一喝された。

「出ていけ!」

 と、それだけで、頭の中は真っ白なまま、部屋に戻って荷物をまとめた。

 といっても何もない。衣類は段ボール箱一つで事足りた。それを自転車の荷台に麻紐あさひもくくりつけ、手提てさげ鞄二つに教科書を詰め込んでハンドルの左右にぶら下げ、門を出た。

 十七歳。やっとつかんだ自由だった。「計画」は、見事、成功した。

 家からの逃亡、いや、逃避というのだろう。理由わけあって寺に入った。だから、最初から、いつ出ようかと、その時期と手口ばかり考えていた。「嫌になったからやめる」「辛くなったから出る」では格好がつかない。いろいろ考えて納得したのが「破門される」ことだった。ケツを割ったのではない、出て行けというから出ていく、これだった。

 一番効果があると思ったのは朝のお勤めをサボることだった。たしかに朝は辛かったが、それに魂胆を加えた。

 

 それから年に二、三回、小僧に戻っている夢を見るようになった。「なんで、戻ってきたんだ。えらいことになったな、どうしようか」と、うなされて目が覚める。そして、うつつ気分の中で、「夢か、よかった」と、胸をで下ろす。

 わずか二年の禅寺生活だったが、善かれ悪しかれその影は重くて、こうして素直に思い返すのに三十年もかかっている。

勉学心得十五箇条 ハルジオン

 ハルジオンとヒメジョオン、まったくの赤の他人なのに姉妹のよう。それもそのはず、ともにアメリカ生まれの先輩と後輩なのだ。身なりも飾らずさっぱりとしていやみがないからどこでも人気者。それでいて、除草剤にも負けないその生き様はたくましい限り。植物分類学の草分け牧野富太郎は、自らに課した勉学の心得の第一に「忍耐」をあげている。

 ハルジオンは開花まで数年かかる。だが、いったん定着すれば地下茎の先端に子苗をつくり確実に増えていく。その名は春に咲く紫苑しおんという意味。ハルジョオンと表記する場合もあるが、それには春女苑という字をあてている。どこでも見かける雑草で、空き地の隅に埃だらけに咲いていたり、犬のマーキングの対象になったりする存在だが、じっくり見ると、花の可憐さはなかなかのもの。加えて、たくましくもある。

 名付け親は牧野富太郎。型破りな人だった。高知の造り酒屋の長男に生まれたが、植物採集と分類に没頭して家をつぶす。そして、その後の貧窮生活の中でも意志を曲げずに独学を続けた努力の人だった。その勉学の心得が「赭鞭一撻しゃべんいったつ」として残っている(カッコ内は牧野植物園が現代語に書き換えたもの)。ちょっと長いがじっくり読んでほしい。学問に限らず、独学精神の真髄だ。

 一、忍耐を要す(何事においてもそうであるが、植物の詳細は、ちょっと見で分かるようなものではない。行き詰まっても、耐え忍んで研究を続けなさい)

 二、精密を要す(観察にしても、実践にしても、比較にしても、記載文作成にしても、不明な点、不明瞭な点が有るのをそのままにしてはいけない。いい加減で済ます事がないように、とことんまで精密を心がけなさい)

 三、草木の博覧を要す(草木を多量に観察しなさい。そうしないで、少しの材料で済まそうとすれば、知識も偏り、不十分な成果しか上げられない)

 四、書籍の博覧を要す(書籍は古今東西の学者の研究の結実です。出来得る限り多くの書を読み、自分自身の血とし肉とし、それを土台に研究しなさい)

 五、植学に関係ある学科は皆学ぶを要す(植物の学問をする場合、物理学や科学、動物学、地理学、農学、画学、文章学など、ほかの関係分野の学問も研究しなさい)

 六、洋書を講ずるを要す(植物の学問は日本人や中国人のそれよりも、西洋人の学問が遥かに進んでいるので、洋書を読みなさい。ただし、それは現在の時点においてそうであって、永久にそうではない。やがては我々東洋人の植物学が追い越すでしょう)

 七、当に画図を引くを学ぶべし(学問の成果を発表する際、植物の形状、生態を観察するに最も適した画図の技法を学びなさい。他人に描いて貰うのと、自分で描くとは雲泥うんでいの差です。それに加えて練られた文章の力を借りてこそ、植物について細かくはっきりと伝えられます)

 八、よろしく師を要すべし(植物について疑問がある場合、植物だけで答えを得ることはできません。誰か先生について、先生に聞く以外ありません。それも一人の先生じゃ駄目です。先生と仰ぐに年の上下は関係ありません。分からない事を聞く場合、年下の者に聞いては恥だと思うような事では、疑問を解くことは、死ぬまで不可能です)

 九、りん財者は植物学たるを得ず(以上述べたように絶対に必要な書籍を買うにも、機械を買うにも金が要ります。けちけちしていては植物学者になれません)

 十、跋渉ばっしょうの労をいとふなかれ(植物を探して山に登り、森林に分け入り、川を渡り、沼に入り、原野を歩き廻りしてこそ新種を発見でき、その土地にしかない植物を得、植物固有の生態を知ることができます。しんどい事を避けては駄目です)

 十一、植物園を有するを要す(自分の植物園を作りなさい。遠隔の地の珍しい植物も植えて観察しなさい。鑑賞植物も同様です。いつかは役に立つでしょう。必要な道具も勿論です)

 十二、ひろく交を同士に結ぶ可し(植物を学ぶ人を求めて友人にしなさい。遠い近いも、年令の上下も関係ない。お互いに知識を与えあう事によって、知識の偏りを防ぎ、広い知識を身につけられます)

 十三、迩言じげんを察するを要す(職業や男女、年齢の如何は植物知識に関係ありません。植物の呼び名、薬としての効用など、彼らの言うことを記録しなさい。子供や女中や農夫らの言う、ちょっとした言葉を馬鹿にしてはなりません)

 十四、書を家とせずして、友とすべし(本は読まなければなりません。しかし、書かれている事がすべて正しい訳ではないのです。間違いもあるでしょう。書かれている事を信じてばかりいる事は、その本の中に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことです。新説をたてる事も不可能になるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、学問の未来に利するでしょう。だから、書物は、自分と対等の立場にある友人であると思いなさい)

 十五、造物主あるを信ずるなかれ(神様は存在しないと思いなさい。学問の目標である真理の探究にとって、有神論を取ることは、自然の未だ分からない事を、神の偉大なる摂理であると見て済ます事につながります。それは、真理への道をふさぐ事です。自分の知識の無さを覆い隠す恥ずかしい事です)

 これが、植物学を志すようになった十八歳頃のものだというから驚く。

 こんな牧野だが、よく「ずぼら者」といわれた。だが、彼の場合、ふつうの怠け者ではなかった。「頼まれた事は少しもやらずに、頼まれない事ばかり夢中になってやる人」(『植物集説』編輯所感)とは石井勇義いしい ゆうぎ(一八九二~一九五三年)の微笑ましい寸評だが、その「ずぼら」を理由に東大から追い出そうとした教授連を相手に、牧野はこうやり返している。

「私のずぼらはたちの悪いずぼらではない(ハヽヽヽ)一方でずぼらと見える時は必ず一方で精励して持ち前のしょうを発揮して居る時である(略)其真相を洞見する明がなく無闇に私をずぼらな人間と速断してなしつけるのは其一斑を見て全貌を知らざる皮相の観察である」(同、原文カナ書き)

 寺子屋教育しか受けていなかったが、学歴などなんのその、植物学研究一本に自分流の生き方を生涯曲げなかった。さすが、個性の人である。

 

 近似種にヒメジョオン(姫女苑)があるが、この二つは一目で違いがわかる。ハルジオンの花は蕾のときにはうつむいているのに対し、ヒメジョオンの方は直立している。そして、花期はハルジオンの方は夏までだが、ヒメジョオンの方は肌寒くなった晩秋まで続く。

 同じ北アメリカ原産の渡来種にしても、ハルジオンは大正年間の渡来なのに対し、ヒメジョオンの方は半世紀さかのぼった明治維新前後の渡来で、それから全国に少しずつ広がった。それを証明するのがヒメジョオンの方言だ。

 まずは、アメリカからやってきたから「アメリカクサ」。こうして名前がきちんと付いているところから見ると、観賞用として意識して持ち込まれたのかもしれない。

 また、その当時は明治維新前後だったから「ゴイシングサ」(御維新草)、「テンチョウグサ」(天長草)。そして、「サイゴウグサ」(西郷草)。これは西南戦争(一八七七年)のあとに付けられたものだろう。さらに、タイショウソウ(大正草)というのがある。ほかに、たぶん昭和に入ってのものだろう、カイコンソウ(開墾草)、テツドウクサ(鉄道草)、そして、センソウグサ(戦争草)、ハイセンソウ(敗戦草)となる。開拓地や線路脇、そして、敗戦後の荒れ地にも根強く根を下ろしたからだろう。まさに、歴史の証人。名前をあれこれ変え、日本列島を移動しながら世の変遷を眺めてきた。

媛女苑ひめじょおん

 しかし、こうした名前を持つのはヒメジョオンに限ったことではない。ヒメムカシヨモギも、ゴイシングサ、メイジソウ、テツドウグサといった別名を持っている。ヒメジョオン同様、明治初期に入ってきたものが線路脇など荒れ地に広がっていったからだろう。明治初期に渡来種が多いのは、鎖国が解かれて海外との交流がはじまったから当然だ。ほとんどは、輸入された荷物にくっついて全国に広がったのだろう。

 ヒメジョオンは受粉なしに種子をつくるという雑草らしい強さを持っているが、そのくせ、日陰では育たない。種類にもよるが、雑草も日陰で生きるには辛いものがあるようだ。

 

 面白いのは、牧野の予言だ。戦後しばらく経った一九五六年にこう記している。九十五歳で亡くなる前の年だった。

ハルジョオンママは、十数年前の、北米からの来客だ。今が彼等の全盛期で、やたらに、方々で花が咲いている。しかし、この奴も今の間にその影を没するであろうと私は今予言しておく」(『植物一家言』北隆館、二〇〇〇年。ここではハルジョオン=春女苑としている)

 以来、半世紀近く経った。しかし、ハルジオンは元気に都会でも生きている。牧野の予言は当たらなかった。そこが雑草の世界である。空き地や垣根はもちろんのこと、ブロック塀と地面とのわずかな隙間にもしっかりと根を下ろして花を咲かせる。ハルジオンが愛らしいのは、どこにあっても頭をコックリコと垂れ下げていることだ。しぶとく生きても威張らない。きっと性格がいいんだろう。

『むぎ』の女たち チカラシバ

 チカラシバは人間と踏ん張り合って生きている。自虐的といえばヘンだが、人間に踏まれるからこそ、その分、強く根を張りたくましく生きられる。最近、見かけることも少なくなったし、ひ弱なものばかりなのは人間が自然の中で活動しなくなったからだろう。雑草は人間の生き様を素直に映す。いまも、間違いなく、雑草と人間は共生関係にある。

 踏まれれば踏まれるほど強く深く根を張るものが多いのも雑草の特徴で、チカラシバ(力芝)はその代表といっていいだろう。土埃つちぼこりの道がなくなった都会ではめったに見かけないが、アスファルトの道路などまだまだ珍しかった子どもの頃の田舎では、わだちの残る野道の真ん中にでーんと腰をすえて踏ん張っていた。

 それを友達同士で引き抜いて力試しをしたり、ときには、隣り合った二つの株の穂先をたばに縛って丸く足枷あしかせをつくり、野良仕事上がりのオヤジが足を引っかけて転ぶのを見て手をたたいたり、ぼくら田舎の餓鬼はみんなあくたれだった。

 それが、ついこの間、近くの駐車場に生えているのを見つけた。そこで、昔懐かしく力試しというわけで思い切り引っ張ったら、なんのことはない。いとも簡単に根っこごとすっぽり抜けた。人間の農業活動といっしょに彼らもがんばってきたわけだが、機械化が進んで人間との接触がなくなったからか、なんとなく勢いもなくなってしまったのがちょっと寂しい。むかし、稲作りの百姓は、毎日、泥田を手でき回し、そこにみついている泥亀どろがめの数まで知っていた。チカラシバもそんな彼らとの踏ん張り合いの一生だったから生き甲斐もあった。それが、平成のいま、アスファルトの駐車場で、独り、踏ん張るのはやりきれないのだろう。

 穂先には二センチぐらいの黒っぽい毛がいっぱい生えていて、元気のいいのはガラスビンの中を洗うワイヤーブラシにそっくりだった。穂は小さな枝穂の集まりで、その枝穂に花が咲くらしいが、むかし悪たれも見たことがない。夏の暑い盛り、白い綿毛のようなものを付けていたのを覚えているが、あれだったのかもしれない。イネ科の多年生で種と根の両方で繁殖する。道に生えていることが多いのでミチシバ(路芝)ともいわれる。

力芝ちからしば

 一九七〇年代、荒廃の北上山地の農村で、野の女たちの叫びを記した文集『むぎ』(麦)をガリ版刷りで発行し、農村問題を真摯に問い続けた女性がいた。一条ふみ(一九二五~二〇一二年)。大地にしっかりと足を踏ん張って生きる、チカラシバのような人だった。

 東北の冬は早い。十一月、小鳥谷こずやは雪の中だった。

 盛岡駅から各駅列車で約一時間、北に走る。九駅ほどあるだろうか、改札を出て国道沿いに二百メートルほど北の一戸方向に歩いて、馬淵まべちが線路をくぐるあたりで右に折れると左手に見えてくる。道路から見れば二階家だが、道路に並んで馬淵川が小さな谷をつくって流れ、それに沿って建てられているから、馬淵川から見れば三階になる。かなり朽ちていていまにも崩れんばかりだが、造りはふつうの民家ではない。二階の窓から張り出した欄干らんかんなど、どことなく旅籠はたごか割烹屋のような雰囲気を残している。

 現在の小鳥谷駅はさびれるままだが、ローカル駅にしては引き込み線の数が多すぎる。

 それもそのはず、大正末期から昭和初期にかけて、小鳥谷を起点に一大鉄道建設計画が進んだことがあった。小鳥谷から太平洋沿岸の茂師もし港、そして、途中から分岐して、現在の宮古線の茂市もいちに至る約三百五十キロ、その名も「東北鉄道」。葛巻くずまき岩泉いわいずみ周辺の石炭開発と北上山地の森林開発をねらった工業専用鉄路だった。大正も押し詰まった一九二六年(大正十五年)十一月、起工式が小鳥谷駅前で催され、工事がはじまった。しかし、四年後の世界恐慌のあおりを受けて予定通りに資金が集まらずに中断、開業を見ないまま幻の鉄道となった。そのとき、建設工事の基地として小鳥谷はにぎわったという。

文集「むぎ」

 そんな話を小鳥谷駅ホームのキヨスクの年輩女性に聞いた。

 家は閉まったままだった。裏に回ってみたが人が住んでいる気配もない。けれど、たたずまいは最初に訪ねたときとほとんど変わっていなかった。

 

 十五年前のことである。

「よくなさったね」

 初対面の緊張を、こぼれる笑顔で解いてくれた。三和土に入ると、上がりはなの敷き板はこぼれ落ちて、えんの下から女竹めだけが頭を出している。そんな草葺きの庵のような住処すみかを自ら名付けて「菩提樹小屋」。

「かわいそうだからね。おっぽってるの」

 そういって囲炉裏端に招いてくれた。まるで女良寛さんだ。

 話好きで、止まらない。午後も早い時間に訪ねたのが、あっという間にが落ちて、その日は泊めてもらうことにした。

 煮魚に、むぎの混ざった握り飯、そして、たくあんという粗末な夕食をすますと、また、語りがはじまった。北方性ほっぽうせい教育(生活つづかた教育)のこと、昭和飢饉のこと、娘身売りのこと、北上山地の開拓部落のこと、そして、その夜逃げのこと……。みんな、今は昔の物語である。

 夜もけて、話の途中で外に小用に出た。菩提樹小屋の中にもあったが、戸外の方が開放的で、馬淵川の土手に立って闇の中に放出する。

 真夏だというのにひんやりした。

「イネはね、むっとする蒸し暑い夜に実が熟すの。こう寒くっては、きっと、今年も冷害よ」

 冷害。大阪育ちには実感のない言葉だった。数年前から、東北には冷害が続いていた。その挙げ句、北上山地に入っていた戦後開拓農民もそのほとんどが、相前後して山を離れていた。明くる朝、その一軒に連れられて、汚れたガラス窓から中をのぞいた。

 その有様たるや、まさに、逃散ちょうさんそのもの。台所の上がり端の卓袱ちゃぶの上には、転げたままの茶碗とはしが散らかり、そばの飯櫃めしびつふたが開いてへりに飯粒がこびりついている。そして、からの汁鍋にはお玉が刺さったまま、時間が止まっていた。

「ついさっきまで人がいたみたいでしょう。これが、夜逃げっていうものなの。あの家もそうよ」

 指さした数百メートル先のブナの木立の中にも、もう一軒、農家が傾いて、あった。

 それから半年、東京では梅も咲き終わった三月初旬に手紙が届いた。

「お元気ですか。土がこごえていて作物がうまく芽が出ません。昨日は太陽が暖かい光を与えてくれましたので、積もり積もっててついた氷と化した屋根の雪が、あちこちで滑り降ちていて村の人たちは汗をかきながら片づけました。何処どこか遠いところから吹いてくる風はまだまだ冷たくて、今夜もしめった雪がどんどん降っています。(略)私たちの村には春は北からやってきます。桜の花は青森県の三戸さんのへあたりから咲きはじめて、馬淵川をさかのぼっておく中山峠に。又、安比あっぴ川をさかのぼって奥羽山脈の山系の村々に咲くのです。(略)今日は小繋こつなぎに行くはずでしたが、昨夜からの大雪のために便が悪くなりやめました。この低気圧の通過中のすごさ。木々の枝は折れてその辺中吹っ飛んでいましたよ。天変地異、まだまだ、このようなものではすまされぬような気がしています」

 藁半紙わらばんしの半切に小さくかすれた文字がびっしり並んでいた。その手紙も、二十五年も昔のもので、ふちが赤茶けてひび割れして、ぼろぼろになっている。

 

 小繋とは、もう死語になってしまっただろう、小繋事件で知られたあの村だ。江戸期には村民全体の入会地いりあいち(村山)になっていた山林(小繋山)が、明治に入ると、地租改正にともなう山林原野官民所有区別処分によって官有地と特定個人の所有地となったため、村民(農民)は山林に入れなくなってしまった。山に入れない、つまり、山林資源(燃料、飼料)を利用できないことは彼らには死を意味した。馬小屋を壊して煮炊きし、庭の梅や林檎や桑の木を切って暖をとり、彼らは闘った。訴訟費用を工面するために、家財道具はもちろん、主食にする粟やひえまでも売り払い、なかにはその身を抵当に地主から借金する者もいたという。

 一九一七年(大正六年)にはじまった山林入会権をめぐる農民の「国政」に対する訴訟は、孫子三代にわたって続き、一九五三年(昭和二十八年)からは早稲田大学農村調査団と戒能通孝かいのうみちたか(一九〇八~七五年)の支援もあって彼ら農民側の活動も活発化するが、一九六六年一月、最高裁が農民側の入会権を認めず上告を棄却したことで、被告全員の有罪が確定、農民側の敗訴に終わる。

 しかし、「事件」はそれで終わらなかった。不利な闘争に巻き込んだと村仲間から不当な非難を浴びる者もいたし、複雑な人間関係の中で一途いちずに口を閉ざした者もいた。小繋の内なる闘いがはじまった。『むぎ』はそうした中で生きた女たちの赤裸々な声、地の底からの叫びを「鉄筆」で綴った生活誌だった。

機の音 ハコベ

 胃腸病、心臓病から歯槽膿漏まで 効能なんでもあれのすぐれもののハコベ。薬草としてメインの位置にありながら、頑と自己を主張するわけでもなく、きわめて穏やかに生きている。見た目のひ弱さからは、厳冬をじっと耐えて生きる生命力の旺盛さは想像できないが、人を大きく勇気づける。野の医療の原点に立つ雑草なのかもしれない。

 ハコベは春の七草の一つとしても親しい。しかし、子どもの頃はニワトリの餌だった。だからヒヨコグサと呼んでいたが、小鳥の餌にもしたらしい。牧野富太郎も「カナリヤの餌になる」と記している。そういえば、オウム事件のとき、山梨県上九一色村のオウム真理教施設の捜索で、防毒マスクをつけた捜査員が手に鳥かごを持って建物の中に入っていくシーンを何度もテレビで見た。毒ガス探知のためだが、あの鳥かごの中にいたのはカナリヤだった。そうして身をなげうってまで一生懸命に働いたカナリヤだったが、長丁場の捜索ですっかり疲れてしまった。それを見た村の人がハコベを食べさせてやったら、おいしそうに食べて元気を取り戻したという微笑ましい話もあった。

 ハコベは、立春の頃、庭の垣根のすそや空き地の隅で姿を見せはじめる。だから、春になって芽吹くのかと思っていたが、じつは、前年の秋口にはすでに発芽している。そして、厳しい冬を枯れ葉の下などでじっと耐え、ひたすら春が来るのを待つ。しかし、冬の寒さや乾燥で枯れてしまうのもずいぶんある。そう思うと、日だまりに小さく星形に白く咲く花が妙にいじらしくなる。

 ところが、このハコベ、庭や畑や畦道など、よく目にするのはほとんどが明治期に入ってきた外来種のコハコベで、牧野も昭和になってはじめて気づいた。それに対し、七草の方のハコベはミドリハコベと呼ばれているもので、こちらはコハコベにすっかり追われてしまった。ミドリハコベは秋に芽が出て春に花が咲くという繁殖方法なのに対し、コハコベは春に発芽して夏には種子を散布するという技を持っている。だから、冬の厳しい環境下で淘汰とうたされることがないのだ。発芽から種子散布まで、コハコベは二カ月あれば十分だが、ミドリハコベは半年近くかかる。ミドリハコベはコハコベに比べて葉っぱが明るい緑で、茎もコハコベの方は少し紫がかった色をしているからすぐに区別がつく。

 

 ハコベがぼくらに親しいのは薬草としてだろう。まず胃痛や胃腸虚弱に効く。葉っぱを生のままかじってもいいし、天ぷらにしたり、大きく刻んで味噌汁に入れてもいいらしい。一条さんがそういっていた。また、歯槽膿漏の予防や口臭を消す効果もあるらしく、ガムのようにんだり、葉っぱを歯茎にこすりつける。昔は、よく乾燥させたものをすり鉢ですって粉末にし、塩を混ぜて歯磨き粉として使っていたという。

 ほかに血液をきれいにすることから、心臓病にも効果があるというが、何よりも驚いたのは、ハコベでリューマチを治したという女性がいることだ。二十代から十年間わずらったリューマチをハコベをはじめとする野草療法で治した。料理にしたり、煎じたり、あるいは温浴に使ったりと、いろんなふうにして毎日の生活に取り入れた。もちろん、ハコベがリューマチの特効薬だというわけではない。同時に、玄米食や、大豆、小魚、海草、手作り野菜など自然食をバランスよく取り入れるなど、食生活を根本から改善したからだろう。

 しかし、それ以前、彼女に、リューマチという難病に真っ向から立ち向かう気力を与えたのが、ハコベの効能よりもその生命力の方だった。寒い冬の朝、雪の中から緑の頭を出しているハコベに感動したという。癒やしという言葉はあまり好きではないが、ぼくら人間に、なごみをくれたり、ふと昔を思い出させてくれたり、そして、生きる勇気を与えてくれる、雑草とはほんとうに不思議な生き物だ。

碧繁縷みどりはこべ

 母もリューマチだった。小学校に上がったときには寝たきりになっていた。ぼくが生まれて三カ月ばかり過ぎた寒い冬の夜、両足が針金が入ったかのように突っ張り、棒のようになったらしい。

 大阪も、南の冬はけっこう厳しい。和泉山脈を背に、北西に向かって平野が広がるから、大陸からの冷たく乾いた季節風をまともに受け、風は、ぴり、ぴり、膚を突き刺す。

 雪はほとんど降らないが、粘土質の硬い土まで凍てつき、それを霜柱がぐいっと持ち上げ、切株を残した田圃のあちこちに凸凹でこぼこをつくっていた。春には一面、レンゲソウに覆われ、きれいに緑が広がるのだが、兼業農家ばかりの泉州の冬場に裏作は何もない。ところどころ、刈入れ後の稲を干すウマ(馬)がそのまま残っていたり、脱穀したあとに積み上げた藁の山が、ぼくら悪たれ小僧や野良犬に荒されたまま、汚く散らばり朽ちているだけ。まさに冬枯れ。空気も、どことなく埃っぽく、道も、砂利道、泥道がほとんどだった。

 リューマチは、そんな環境の中での一種の風土病だったと思う。特効薬などもちろんなく、医者にかかっても、痛み止めのマイシンがもらえるだけ。水がたまって大きく腫れた手足の関節が痛々しかった。

 動かさなければ軟骨が硬化し、やがて関節が固まって曲がらなくなる。そうなることはわかっている。硬化を少しでも先延ばしにするには、痛くても動かすしかない。口元を真一文字に結んで足を踏ん張り、ぼくが脇から支えるのをつたい歩きしてトイレに立っていた。

 リューマチは治らない。けれど、リューマチでは死ねない。母も、二十年近くの闘病暮らしの末、ふとした事故で、突然、逝った。ずっと寝たきりだったというのに明るくて、性格のきりっとした強い人だった。事故ではあったが、がまんの人も、最期はリュウマチには根負けしたのかもしれない。

 家は機屋はたやだった。紡績工場から卸した糸を白木綿に織り上げて納める下請けの零細機屋である。当時、泉州はどこに行っても機屋だらけで、村中、ザァーザァーと機の音でにぎやかだった。機の音も、何十台、何百台と重なると、ガチャガチャでなくザァーザァーと鳴る。大阪も南は、水に不便な土地で、江戸期以来、綿作が続いて農家にも手織機の兼業農家が多かった。それが、戦後の朝鮮戦争景気に乗って雨後の筍のように、豊田織機を借り入れて機屋をはじめたのだった。六〇年代が一番よかっただろう。日本の外貨稼ぎの主力としてがんばっていた。

 けれど、ニクソンの輸入課徴金で急坂を転げ落ちる。相場が下がって工賃も下落。織れば織るほど値段は下がるばかり。それでも機を止められない。どこの機屋でも家族総出の夜業が続いて、夜も一時、二時まで、機の音は哀しく響いていた。

 母のリューマチも、たぶんそんな無理がたたったのだろう。冷えが悪い、と村医者はよくいった。

 泉州の冬、乾燥が激しいから織機しょっきの縦糸がしょっちゅう切れる。すると、父は癇癪を起こしてシャトル(杼)を投げる。工場こうば、といっても、むかしの納屋を改造しただけだったが、その粗壁には突き刺さったのだろう、穴がいくつも開いていた。

言葉が人を殺す イシミカワ

 ゴミだめのような汚い荒れ地の中でも、コバルトブルーに輝く実をつけるイシミカワ。その色は神がつくったとしか思えない。つい手にしたくなるが、ちょっと待て。茎はどこもかしこも棘だらけ。すごい魅力で人を誘い、どんなものでも足がかりにしてその身を陽の光に伸ばそうとする。逆境にあってもしぶとく生き残る手法を強烈に主張している。

 蔓は棘だらけ、花もそれほど目立たない。ところが、その実の色は他に類を見ない澄み切ったコバルトブルー。どんな海も空も、この色は出せないだろう。

 茎の棘で周りの雑草にからみついて伸びているから、草丈はわからないが、二メートル近くまで伸びると思う。主茎からあちこち枝分かれした先端に丸い托葉たくようを台にしてブドウの房のような形で実をつける。

 葉っぱはこれも不思議で、ほぼ三角形。よく似たものにママコノシリヌグイ(継子の尻拭い)というのがあるが、棘のある茎といい、三角の葉っぱといい、見た目はそっくり。ただ、実の付き方と色が違う。ママコノシリヌグイの実は黒く、イシミカワとは月とスッポンだ。それにしても、「継子の尻拭い」とは強烈な名前だ。茎が棘でいっぱいのもので尻を拭うほど継子は憎いということか。

石見川いしみかわ

 よく似たもの同士といえば、セイヨウタンポポとカントウタンポポ、カラスノエンドウとスズメノエンドウ、ヤブタデとイヌタデ、ヒメジョオンとハルジオンとさまざまあるが、ママコノシリヌグイとイシミカワの相似にはかなわないだろう。

 近くの道路脇の空き地に、投げ捨てられたゴミと、シロタオシ(城倒し)や名前も知らない雑草の山に絡んでブルーに輝く実を見つけたのは引っ越してすぐのことだった。以来、ゴミだめのようになっている空き地も捨てたものじゃないと、ときどきのぞき込むようになった。

 それが次の年、夏の終わりになっても姿が見えない。七月に雨がなかったから枯れてしまったのか、雑草も夏には弱いのかもしれない、と思っていたら、十月半ばになると、また、ゴミだめの中からコバルトブルーに輝きはじめた。

 

 漢字では石見皮とも石見川とも書くらしいが、後者について、牧野富太郎は「一説にイシニカワ(石膠)の意味といい、また大阪府の石見川の地名に基ママいたといわれるが、納得できない」としている。

 石見川は河内長野市にある小さな川で、天見あまみ川を経て大和川に流れ込む。ほとんど和泉山脈の中である。近くには役小角えんのおずぬの創建といわれ、楠木正成くすのきまさしげが四書五経を習って修行したという観心寺(真言宗)があって、西には和泉山脈の中にひときわ高く岩湧山いわわきさんがそびえる。いまは小学生でも軽く登れるが、その昔は修験の山だった。

 岩湧山から嶺が分かれて北に下ったところが槙尾山まきおさん、その山懐やまふところにあるのが施福寺せふくじ(天台宗)辺鄙へんぴなところなのに、那智山、紀三井寺、粉川寺に次いで西国四番をもらっている。六世紀に開かれ、行基(六六八~七四九年)が修行し、空海(七七四~八三五年)もここで剃髪したらしく、弘法大師御髪堂というほこらも遺っている。

継子尻拭ままこのしりぬぐい

 空海は、唐から帰ったあと、中国から学んできた本草知識をもとに、いまでいう製薬業もはじめている。その薬の一つにイシニカワというのがあった。黒くて膠のように固いものだったらしいが、原料となったのがアキノウナギツカミ。ママコノシリヌグイとかなり似ているが茎の棘が少ない。このアキノウナギツカミは河内あたりでは石見川草といっている。

 すると、イシミカワもイシニカワだから何が何だかわからなくなるが、イシミカワも薬草として、解熱、利尿剤に使われたらしいから、ひょっとすれば、空海もイシミカワで生薬をつくっていたのかもしれない。最澄は学者だが、空海は商いに長けた人だった。

 ウシノハナヅラ、トンボノカシラ、カエルノツラカキ、カワズグサ、カッパノシリヌグイといろんな別名があるが、アキノウナギツカミやママコノシリヌグイと同じ、タデ科で、あの可憐なミゾソバの仲間でもある。

溝蕎みぞそば

 イシミカワのコバルトブルーで思い出すのは三十年前に見た筑豊の炭坑跡。地面が陥没して池になったその水は目がめるほど青かった。地中からみ出したシアン化物によるもので、澄みきった吸い込まれるような美しいコバルトブルーだったが、魚も棲まない死の色だった。そして、もう一つは、はじめて見たカリブの海の色。流れ込む大河がないから海はにごらない。明治の半ば、そんなカリブに海を渡った日本人がいた。

 

 一八九六年(明治二十九年)四月十二日の夜明け前、東シナ海を航行中の客船から一人の男が身を投げた。大久保米太郎、二十六歳。前々年、カリブの小島グァドループに出稼ぎした広島からの移民の一人だった。

 日本からグァドループへの集団移民はこのときが最初で最後である。移民会社の日本吉佐きっさとパリのコロニアル銀行との契約で、広島百八十七人、和歌山百五十三人、山口百三十人、新潟十五人、岐阜五人の計四百九十人が砂糖耕地に入った。しかし、厳しい労働とマラリア、赤痢などによって一年半の間に日本吉佐の報告だけでも四十三人が死亡している。日中四十五度を超えるという暑さの中で、日本の竹ほどもある砂糖黍を伐採するのである。

 また、コロニアル銀行との契約以外の耕地にも送られたことから、賃金や生活用品などが契約通りに支給されなかった。そのため、彼らはまず日本吉佐が派遣していた監督に改善を要求。ところが、監督は耕地主との交渉には動かず、逆に、耕地側の支配人が「牛馬に対するが如く鞭撻べんたつ」で応えたという。カリブでの奴隷制廃止後わずか十年という時代だった。たまりかねた彼らは代表を立て監督に帰還を要求する。そうして約半数が耕地を離れた。

 それがストライキと受け取られ、県知事(グァドループはフランスの海外県だった)が派遣した軍との衝突で二人が死亡、十数人が負傷、百五十余人が逮捕、収監された。その後、十数人を除いて釈放され、なかには一時、耕地に戻る者もいたが、大半は、「日々門戸に袖乞そでごいをなし」、露命をつないだという。

 そんな彼らを救ったのは島の住民だった。窮状は現地新聞で報道されるまでになっていた。

「日本人、虐待セラレ七十名死去ス。銀行ハ解約ヲ諾セリ。直ニ汽船ヲ送レ」

 パリ駐在の日本公使を通じ島の住民からの電報を受けた日本外務省はその重い腰を上げた。

 外務省官房に移民課が設置されたのは榎本武揚(一八三六~一九〇八年)が外務大臣になった一八九一年のことで、それも二年後に廃止され、その後、担当名称もたびたび変わっている。そして、一八九四年六月のハワイ移民を最後に、日本政府が直接契約して送り出す、いわゆる官約移民の時代は終わり、以後、移民会社による私約移民の時代に入る。政府にそれを働きかけたのは星亨だった。配下に移民会社を抱えていたからで、外務大臣は陸奥宗光。二人は陸奥が兵庫県知事をしていた明治初年以来の親密な仲だった。

 官約と私約との決定的な違いはなにか。移民たちにしてみれば、送金用の預金通帳が、官約の場合は領事館だったのが、私約の場合は移民会社に預けることが義務づけられただけのこと。結果として、移民の預金は移民会社の意のままになるわけで、官約のときには貴重な外貨稼ぎになっていたそれが、今度は移民会社周縁の人物への、いわゆる政治資金に流れることにもなった。移民会社を取り巻く政治家には自由民権運動くずれの者が多かった。どこかぼくらの時代の左翼運動と似ているが、ときには山県有朋といった大物も影を見せている。

 そうした移民会社の不当行為を取り締まるものとして一八九四年四月に移民保護規則が公布されたが、移民保護というよりも、移民会社乱立によるトラブルが外交問題に発展するのを防ぐためという意味合いの方が強かった。移民会社に対する規制はさまざまあったが、大きなところでは、たとえば移民の募集数に応じた保証金を外務省に納めなければならないことぐらい。トラブルが起こったときの移民帰還費用にあてるためで、移民会社はそれを移民から仲介手数料の一部として徴収、移民はそれを伝来の田畑を担保に地主から借り入れるというシステムだった。

 渡航費は現地雇主が負担する場合が多かった。このときのグァドループ移民も、渡航費はコロニアル銀行持ちで、帰還費は、契約には五年未満に耕地を離れた場合はコロニアル銀行に負担義務はなかったが、パリの日本公使館の交渉で、実際にはコロニアル銀行が出費している。

 ともあれ、運をつないだ者は帰還できた。最初の百八十二人は一八九五年十二月十八日に現地を出発、翌九六年二月二十四日に神戸港に着いている。続く第二回の三十九人は、九六年一月二十日にグァドループを出発。米太郎はその一人だった。

 グァドループへは移民保護規則によって日本吉佐から三人の監督が派遣されていた。移民たちは、いざとなれば数に頼んで行動もできる。しかし、監督という特権を行使できる立場にありながらも圧倒的少数者という閉塞状態にあった彼らは、逆に「恐怖」の日々を送っていたのかもしれない。そうした憤懣ふんまんもあったのだろう。帰還を前にした移民たちに、監督の一人はこういい放った。

汝等なんじらは該船(この船)に乗じ帰国すと思ふべからず、又、更に遠島へ船送し一層の苦役をらしむるものなり」

 その後、米太郎たちは、マルチニーク、マルセイユ、コロンボ、シンガポールを経て神戸に向かう。しかし、シンガポールを前に彼はピストル自殺を図っている。そのため、彼だけがシンガポールに上陸、治療後、別便であとを追った。身を投げたのはそれから数日後のことだった。日本移民史上、移民先から移民が大量帰還あるいは転航したのはこれに限らず、ハワイ移民をはじめとしてペルー、グァテマラなど数例あるが、途中、自殺者を出したという例は記録にない。

 なぜ、米太郎は自殺しなければならなかったのか。神戸まであとわずか。年齢からいって郷里には妻子はいなかったかもしれない。しかし、ようやくかなった帰還である。その前に誰が死を選ぼうか。

「同人が右の挙動に出たる原因は、出稼地に於て種々不親切なる取扱を受け諸事契約の如くならざりしより、今回帰朝と称する航海もまた真実のものならずして、かえって再び他の離島に移さるるものならん等の憶測を下し、むしろ船中に於て死するのまされるにかずと決心したるにある」

 当時、シンガポールで領事をしていた藤田敏郎ふじたとしろうは報告している。

「更に遠島」

 疲れと不安に張りつめた米太郎の神経には、一監督のごとをそれと聞き流す余裕などなかった。

 言葉が人を殺す。さ晴らしに吐き捨てた冗語であれなんであれ、情況次第でまさに息の根を止める凶器にもなる。同じ日本人が、苦境にある同じ日本人を愚弄ぐろうし、さらに苦境におとしいれるというのは、なにもシベリア抑留に限ったことではない。

 監督の一人は士族の出自。大学南校から東京帝大に学んだあと、印刷局、文部省に出仕、会計担当の職員として第四高等中学、第三高等中学などに奉職、数学教員免許も持っていたという。移民監督に教育者が多かったのも一つの興味深い事実である。

 グァドループ移民四百九十人、うち帰還者四百十四人、死亡者六十七人。そして、行方不明者九人をそのままに、一九〇八年、日本吉佐は解散している。

暗殺未遂 コオニタビラコ

 ホトケノザは開放花と閉鎖花の二つの手法で子孫を残す。その巧みさで、慣れない都会にもすっかり根付いて、コオニタビラコから春の七草の座を奪うまでになっている。いまや、春の雑草の中ではもっともポピュラーな一草といっていいだろう。その陰でコオニタビラコはその存在さえ否定されてしまったかのような観がある。

 一人の人物の生き死にをたしかめるために栃木に出かけた。陽射しの温かい春の午後、駅近くで自転車を借り、車の多い国道を避け旧道を走る。十分ちょっとで野道に出た。広がる田圃の畦には、カラスノエンドウ、イヌフグリ、ハハコグサ、カタバミ、ハコベ、タンポポ、と雑草の花盛り。都会では滅多に見られなくなったツクシも長い頭を、あたり一面に出している。姿は見えないが、雲雀ひばりも鳴いて、すっかり忘れていた春の風景があった。

 そんな中に黄色いタンポポのような花を見つけた。ちょっと見はタンポポだが、かなりすらっとして花弁が少ない。葉っぱはクレソンというか、ルッコラというか、タンポポよりもギザギサに丸みがある。花の軸をちぎってみると、タンポポと同じ、白い乳汁が溢れ出た。

 わからないまま、一株、家に持って帰って調べたらコオニタビラコ(小鬼田平子)というらしい。そして、これが春の七草のほんとうのホトケノザなのだと知った。

小鬼田平子こおにたびらこ

 春の七草は、 セリ(芹)、ナズナ(薺)、オギョウ(御形)、ハコベラ(繁縷)、ホトケノザ(仏座)、スズナ(菘)、スズシロ(蘿蔔)の七つ。ナズナはペンペン草、オギョウはゴギョウともいってハハコグサのこと。ハコベラは昔の言い方でいまならハコベ。スズナはカブ(蕪)、スズシロはダイコン(大根)のこと。旧正月七日にその根や葉っぱを粥に入れて無病息災を祈った。旧正月は新暦では二月の中旬で春はもうそこまで来ている。冬場の野菜不足から解放されて口にする春の最初の野菜だった。

 それに対し、秋の七草──ハギ(萩)、オバナ(尾花)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗)の方は花をでる。冬枯れに向かう最後の野の花をしむ心があったのかもしれない。

 

 コオニタビラコの葉は、春先には、まだ冬場を過ごしたロゼット状のままで地面にべったりくっついて、放射状に円形に葉っぱを広げている。「田平子」はその様子からきたのだろうが、もう一つ、仏さんの座っている蓮華座の蓮弁れんべんのように見えるから「仏の座」というらしい。なっとく、なっとく。しかし、花が咲く頃には葉っぱも大きく伸びてその姿はない。

「早春から田の表面に多い越年草である。根葉は束生し、茎葉は互生する。いずれも羽状に分裂し、頂片は大きく、ほとんど無毛で軟かい。茎は細くて多数出て、少数の枝を分け高さ一〇センチ内外、軟かくて常に傾斜して立っている。早春に枝の先端におのおの一個ずつ頭花を着け、日を受けて開くことはタンポポなどと似ている」

 と牧野富太郎は記すが、花の構造もタンポポそっくりで、舌状花という小さな花の集合体になっている。だから、タンポポと同じキク科の仲間。

 一方、ずっとホトケノザだと思っていたのはシソ科の仲間で、丸い小さな葉っぱの上にすぐ花が立ち上がって咲く様子が蓮弁の上に座っている小さな仏さんの姿を思わせる。こちらは葉っぱも小さくカサカサで、どんなにがんばっても食べられるようなものではない。別名サンガイグサ(三蓋草)というらしい。ガイとはふただから、鍋のふたが三つ重なっているということだろうか。オドリコソウと同属である。

仏座ほとけのざ

 これがいつからホトケノザと呼ばれるようになったかといえば、牧野富太郎(『植物一家言』)によれば、宝永期(一七〇四~一一年)かららしい。そして、もともとホトケノザというのがあるのに、同じ名前が付いているのはおかしいから、シソ科の方はサイガイグサとすべきだとして、こう記している。

「これからはホトケノザの名称を断固として見合わせ、宜しくサンガイグサなる適正な佳名を、それに代えて使用すべきものであると、私は大声を張り上げて強調するに躊躇ちゅうちょしない。もしも人が、これに賛成しなければ、それでよろしく、決して未練な不足がましい、不満な言葉は言わない。もしも人が、これに賛成もしなければ、それで宜しく、そうすれば、私は自分で自分を賛成するばかりだ。邪を去り、正にくのは、私の良心であり、また私の本心であるのだ」(前掲書)

 別に、ホトケノザがけしからんというわけではない。せっかくサンガイグサといういい名前があるのだからそれにすべきだといっている。ただ、えらく憤慨しているし、どうも、ホトケノザそのものも、やっぱり好きではないらしい。

「ホトケノザほど美味うまくない草は、チョットなく、実際にそれをヒタシ物などに成して食ってみると、たちまち吐き出したいほどな、嫌な味のするもので、決して食料にするに足らぬ草であるから、もとより春の七くさに入れる道理がない。かの貝原益軒の『大和本草』に「賎民飯に加へ食」と書いてあるのは、怪しいもので、思うに、そんな事実はまったくないと、常識にもとずいて、私は断言する」(前掲書)

 ずいぶん嫌われたもので、春の七草からの追放寸前である。しかし、三百年近くも七草であり続けたのだから何かわけがあるのだろう。まず、その生き方が面白いと思う。昆虫を誘って受粉する開放花と、花は開かずに自家受粉する閉鎖花の二種類の花を持っているのだ。

 一目で花だとわかる赤紫色に咲いているのが開放花。これはごくふつうに花が開いて受粉する。それに対し、閉鎖花はよく見ないとわからない。葉っぱの付け根、開放花の根元にあって、遠目にはシソの実というか、黒みがかった小さな糞というかゴミのように見える。花は開かず、そのまま受精する。そのため、花弁も蜜もつくる必要がないから、少しのエネルギーで種の保存ができるし、ミツバチや風のお世話になることもなく、いざとなれば一人で生きていける。そして、たとえ陽当たりが悪くても、そのときは閉鎖花を増やして生き残るという巧妙な技も備えている。日陰にも屈しない、えらいやつだ。

 だからか、生命力旺盛で、開花期間も長く、都会でも原っぱはもちろん、道路際のちょっとした空き地にもほとんど常連のようによく見かける。おかげで、埃だらけで、犬には小便も引っかけられるし、春の七草というのにかわいそうなくらい。だから、ときどき摘んで帰って小瓶にさし、明るい窓際に置いてやる。

 

 メキシコ革命最中の一九一六年(大正五年)九月半ば、三人の日本人がチワワ(メキシコ北部州)日本人会の石川荘一のもとに逃げ込んできた。パンチョ・ビジャが「日本人皆殺し」を部下に命じたという。三人は、チワワ北方の寒村クシビリアッチで雑貨商をしていた。

 いわゆるメキシコ革命は、一九一〇年十月のマデロによるディアス政権打倒のサン・ルイス・ポトシ宣言にはじまる。だが、それは二十年を超える動乱の宣言でもあった。翌十一年一月、マデロは一時亡命していたアメリカから戻り十一月に大統領となるが、翌年三月、チワワでオロスコが反乱。八月、マデロ配下のウエルタがそれを鎮圧するが、十三年二月、今度はウエルタが反乱。マデロは暗殺されウエルタが中央政府の実権を握る。日本の代理公使堀口九萬一ほりぐちくまいちがマデロの家族を公使館にかくまったのはこのときだった。

 それに対し、北東部コアウィラ州にはカランサ、北西部ソノラ州にはオブレゴン、北部中央チワワ州にはビジャが立ち、南部モレロス州のサパタと合わせて、メキシコは四大勢力の乱立状態となった。日本から巡洋艦「出雲」が在留民保護のためとして派遣されたのは十三年十二月のことで、日本政府はウエルタに武器供与していたといわれる。

 その後、一九一四年六月、ビジャはサカテカスの戦いでウエルタ軍を敗走させ、七月、スペイン亡命に追い込むが、八月、首都メキシコ・シティーに入ったオブレゴンとカランサの二者協定でカランサが臨時大統領となり、ビジャとサパタは排除される。十月、オブレゴンはビジャに宣戦布告、翌十五年四月のセラヤの戦いでビジャ軍は惨敗し、北部チワワに敗走。十月、アメリカのウイルソン大統領はカランサ政府を正統政府と承認、反カランサ勢力への武器輸出を禁止した。

 以後、窮地に立たされたビジャ軍はチワワ州北部と国境地帯でゲリラ化する。アメリカとの緊張関係を高めることでカランサ勢力に揺さぶりをかけようとしたのだった。そんな一九一六年一月、国境の町シウダー・ファレス駅に無人列車が入ってきた。乗っていたのは、ビジャ軍に惨殺されたUSスチールの技師の十六体の遺体だった。また、二月にはアメリカ西海岸の新聞王ハーストの農場がビジャ軍に襲撃されている。当時、北部を中心にメキシコのほぼ七分の一の土地をアメリカ人が所有していた。そして、三月には国境のエル・パソ郊外のコロンバスが襲撃、放火されるという事件も起きている。

 これに対し、ウイルソン政府はジョン・パーシングを指揮官とした一万人の軍隊を越境、南下させ、一カ月後にチワワ州を制圧、南のドゥランゴ州境のパラルまで軍を進める。一方、ビジャは、アメリカ軍との一進一退の中で、九月十六日、チワワ市を奪回する。「皆殺し」を命じたクシビリアッチ攻略は、その数日前のことだった。

 

 事件はさらに十数日さかのぼる。アメリカ軍からヒメネスを奪回したビジャは、さらに南西のパラルに向かっていた。石川荘一はメキシコ日本公使館への「陳情書」の中で記している。

ヴィヤビジャ、ヒメネスを攻略しパラールに赴く途中、或る農園に休憩せし際、ヴィヤの求めに応じ、條は此の好機をいっせずコーヒーに毒薬を混合してヴィヤに与え逃亡したり」

 かかわったのは藤田小太郎、鈴木徳太郎、條勉じょうつとむ、佐藤温信あつのぶの四人で、いずれも宮城県出身。藤田、條、佐藤の三人は、一九〇六年、大陸殖民合資会社第八回メキシコ移民としてオハケニャ耕地に、鈴木は第九回移民としてコリマ鉄道に入っている。

 オハケニャはメキシコ南部のベラクルス州にあったアメリカ資本の砂糖耕地、コリマ鉄道は太平洋岸中部のマンサニージョとメキシコ第二の都市グァダラハラを結ぶ支線だった。アメリカのハンプソン・エンド・スミス・カンパニーが建設を請け負い、日本人も工夫として入っていた。オアハケニャでは、二年の契約期間を終えたあとは、共同で農地を手に入れ農園をひらく者もいたが、いずれも動乱の中でゲリラ襲撃に遭って閉鎖。コリマ鉄道の方は悪条件下での重労働に耐えきれず数カ月で現地を離れる者が続出、半年後には工事が完了して契約満了前に全員解雇されている。

 條は数カ月でオハケニャを離れている。そして、チワワに流れ、一時、ラス・プロモサス鉱山に入ったが一年あまりで切り上げ、チワワ市内に食料品店を開く一方、一九一一年には北西鉄道のマタチ駅郊外のサン・ヘロニモに農場を拓いている。メキシコ人大農園主のアルベルト・チャベスから年間借地料六千ペソで借り受けた四十三平方キロ(甲子園球場の千七百倍)という広大な土地に棉花を栽培、サン・ヘロニモの住民のほとんどはかれの農場の労働者だった。ところが、翌十二年、マデロに反旗をひるがえしたオロスコ軍に農場を襲撃され経営を中断せざるを得なくなる。

 オロスコ配下のカスタニェダ率いる五百人の一隊がサン・ヘロニモに現われたのは七月十三日のことだった。のちに同地を視察した外務書記生荒井金太あらいきんたは報告している。

「叛軍は七月十三日同地に到着し、滞在すること三日にわたりしが、最初の一日は左程さほど乱暴を敢てすることなく、ただ家宅を捜索し金銭を挑発し、又糧食を要求したるに過ぎざりしが、二日目に至りては家畜を乱殺し、食糧店を荒し店員(日本人)を強迫してことごとく其商品を強奪せり。尚ほ其夜に至りては村内の小作人及耕地労働者を家外に縛り付け、其妻女の老若を問はず悉く之を強姦せりと云ふ」

 チャベスはディアス政権の共有地分離政策の中で所有地を拡大してきた新興地主勢力の一人で、共有地とは日本の入会地にあたるもの。明治政府同様、共同体から共有地を取り上げ、財閥に無償あるいは破格で払い下げたのだった。当時、流れ者に過ぎなかった日本人移民が、条件はどうあれ、広大な土地を借りることができた背景には、巧みに動乱のリスクを回避しようとする土地所有者の思惑があった。革命勢力の攻撃の標的となり土地を荒らされることを恐れた彼らは、革命勢力の攻撃からは比較的安全と見られていた日本人に土地を貸すことで難を避けようとしたのだった。荒井はいっている。

「数年間はの地方に暴徒の出没するを見越し、早くも其土地を七年契約にて日本人に貸し付け、日本人をして土地の管理人同様たらしむると同時に外国人たるの権利を利用して、己が土地の安全と又損害を受けたる場合に日本人の名を以て賠償の要求をさんと計りたるものの如し」

 このとき條は、略奪された物品の代償としてカスタニェダから一万七千七百十三ペソの領収書を取っている。のちにカランサ政府は賠償委員会を設け各国の被害請求に応じるが、その証明にしようとしたのだった。

 藤田は、移民十年で、北西鉄道のマデラにあったアメリカ、カナダ、イギリスの合同資本製材会社マデラ・ランバー・カンパニーのもと、木材運搬用の鉄道工事敷設などの下請け業者として一、二を争うまでになっていた。條より一周り年長で、オハケニャ耕地に入ったあとすぐに移民監督に抜擢され、工事完了によって解雇されたコリマ移民をソノラ州のブラックマウンテン鉱山に斡旋するが、同鉱山もすぐに閉鎖されたため、移民といっしょにマデラに移ったのだった。佐藤の詳細はわからない。

 事件のあと、藤田と條はエル・パソに、佐藤はシカゴに逃亡。一人残った鈴木は、のちにチワワに現われ、日本人会幹部の問いにこう答えている。

「藤田は、米軍、墨国メキシコに入りてより食料品等を売却し居りしが、佐藤、條の両人がヴィヤに接近し得るを利用して米軍の間諜かんちょうとなし、共に事をたばかりし(略)條、佐藤の両人はヴィヤとの旧交と信用を以て常に彼れの身辺を去らず。ひそかにヴィヤの挙動を詳細に藤田等に報知し、更に米軍に通知せり」

 鈴木はチワワ市南西のボルハで雑貨商をしていたこともあって付近の地理に詳しく、逃亡の案内人になっただけだった。

 條を共謀者に選んだのは藤田だが、條はなぜ応じたのか。條は農場を荒らされたオロスコ軍にこそ恨みはあれ、ビジャにはない。藤田は間接的にアメリカ軍機関から指示を受けていたと見ていいだろう。動乱にあっては、それもまた生きるための手段だった。

 

 ともあれ、事件は未遂に終わる。「毒入り」コーヒーは條が出したというが、ビジャは飲まず、代わりに農場主が死んだ。そして、噂された「日本人皆殺し」もなかった。

 だが、それで終わらなかった。翌一九一七年四月六日のことだった。條のサン・ヘロニモの農場にビジャ軍の一隊が現われ、三人の日本人、関根竹三郎(栃木県出身)、三神篠三郎(宮城県出身)、渋谷伝太郎(福島県出身)が射殺されるという事件が起きている。三人は捕縛されたあと、ビジャの本営に引き立てられ、即時射殺された。また、農場にいた條の家族も危害を受けたという。

 渋谷は、一九〇七年、熊本移民合資会社の移民として北部炭坑のラス・エスペランサスに、関根も同年の東洋移民合資会社の移民としてラス・エスペランサスに、一方、三神は、一九〇六年、鈴木と同じ大陸殖民の第九回移民としてコリマ鉄道に入っている。その後、渋谷はシウダー・ファレスに移って医師となり、市立病院の院長を務めていた。また、憲政軍大佐という肩書きを持って、ビジャとも親しかったという。当時、日本人移民の中には、革命軍、政府軍を問わず、雇われ兵士になった者が少なくなかった。なかには日露戦争で戦った者もいたが、ただロシアを負かした日本人というだけで、いきなり尉官クラスに就く者もいた。関根は條の農場でコシネロ(コック)をしていたが、ときどきやってくるビジャは関根のつくった料理しか口にしなかったという。

 なぜ、ビジャは、それほどまで親しく信頼をおいていた三人を射殺したのか。死の直前、それをただした渋谷に向かってこういったという。

「汝等に罪はなけれど、汝等の同胞が悪事をなすが故なり」

 見せしめだった。

 といっても、暗殺未遂から半年以上を経てのことである。すでに二月、アメリカ軍はメキシコから撤退していた。ヨーロッパ戦線に兵力を投入しなければならなかったからで、そして、カランサは約一カ月後に迫った大統領選に備えて着々と地盤を固めつつあった。大勢はカランサとオブレゴンに移り、ビジャの活動の場はすでになくなっていた。三人の射殺は、追い込まれた彼の自暴自棄の殺戮といっていい。革命であれなんであれ、一個の人間としてはあらがいようもない体制という流れの中で死に追いやられた者こそ哀れだった。

 藤田、鈴木、佐藤のその後は明らかでない。ただ一人、條は仲間数人と北墨鉱業株式会社を、さらにサント・ドミンゴ鉱業会社も設立、一九二〇年代後半にはメキシコ日本人社会随一の「成功者」と呼ばれるまでになっていた。

 北部に限らない。南部でのマデロ派とサパタ派の対立抗争も含め、動乱の中で命を落とした日本人は、少ない記録をたどるだけでも百人は超える。だが、同じ日本人の身代わりとなって殺されたという話はほかに知らない。

 

 関根竹三郎が日本を発ったのは一九〇七年五月、三十四歳のときだった。年齢からいって妻子がいたと考えていい。しかし、同伴していないから郷里に残しての移民だったろう。とすれば、あるいはいまも関係者が……と勝手に考えて出かけた栃木行だったが、戸籍として記録された地所にはすでに家屋はなく広い田圃に戻っていた。

 隣家も同じ関根姓。突然、訪ねた無礼者を快く迎え入れてくれた。だが、七十歳を過ぎたという当主の記憶には、竹三郎もメキシコ移民もなかった。竹三郎が生まれたのは一八七二年(明治五年)、生きていれば百三十歳を超えている。祖父の代の縁者知人にどんな人物がいたか伝え聞いていなくてもなんら不思議なことはない。

鮑採りの唄 カラスノエンドウ

 雑草が子孫を増やすための方法は、しっかりと根を張ることのほかに、もう一つ、その種子をいかに広範囲に拡散させるかにある。それをカラスノエンドウは巧みにやってのける。夏の終わり、種が散ったあと、「ハ」の字型にねじれて開いたままの空っぽのさやをよく見かける。種子を少しでも遠くに飛ばそうとした知恵と努力の結晶だ。

 雑草の名前には、よく「カラス」と「スズメ」が冠されるが、絶対的な大きさではなく、よく似た種類のうちの大小比較に使われている。カラスノエンドウはスズメノエンドウより大きいということ。その中間のものには頭に「カスマ」と付けられる。カラス(カ)とスズメ(ス)の間(マ)という意味だ。

 春先、雑草の茂みの中にすっくと立っているカラスノエンドウはよく見るとなかなか風情がある。茎はけっこうしっかりしているから一輪挿しにもできるし、葉っぱの明るい緑と、ピンクと赤紫の蝶のような花の対比が鮮やかで美しい。細長いハート形の葉っぱの付いた葉軸の先端がひげのように三つに分かれてカールしているのもアクセントになっている。そして、水持ちもいいので、花のあと、小さなさやを付けるのも愉しめる。

 このさやを小さな頃、遊び仲間は草笛にしてうまく鳴らした。カラスノエンドウに限らない、野遊びで目にするものといえば雑草だけの時代だったから、周りにあるものは何でも遊び道具になった。ペンペン草(ナズナ)の三角の実の付いた茎を逆さに振っては、からからと鈴にしたり、ヒガンバナを手折っては花首のちぎり合いをしたり、ヤエムグラの輪状の葉っぱを胸に勲章にしたり、口にほおばったアケビの種の飛ばし合いをしたり、けっこう退屈せずに過ごせたのだから、いい時代だった。

 

 カラスノエンドウが面白いのはその構造の巧みさにある。まず、茎の断面がニシキギのように四角くなっている。軸をしっかりと支え、雑草群の中から少しでも高く頭を出して、陽の光を受けようとしているのだ。もう一つはさやの構造だ。二枚のさや蓋の繊維が斜めに走っている。だから、乾燥するとさや蓋が左右対称にねじれて開く。中の種子を少しでも遠くに弾き飛ばそうと工夫しているのだ。

烏豌豆からすのえんどう

 人間も、とりわけ移民は、異境でしぶとく生き残るためにいろんなふうに工夫する。最初は妻子を残して海を渡って粒々辛苦。そうして、ある程度、地盤が固まったところでいったん帰郷し、今度は代わって成長した子どもを送り出す。カナダやハワイ、アメリカ南部西海岸など成功した移民地にそれが多い。

 

 海の汚染で漁民の暮らしが脅かされるようになったのは最近に限ったことではない。関東周辺でも、すでに一九〇〇年代前半からあちこちで被害が出はじめていた。茨城県日立市の場合もそうである。現在の日立製作所の前身の芝内製作所が日立鉱山の電気機械製造部門の工場として操業を開始したのが一九一〇年(明治四十三年)のことで、それ以前の日立鉱山の影響もあったのだろうが、一五年頃から、日立沿岸の海水汚染が目立つようになる。

 とりわけ痛手が大きかったのが採鮑さいほうあわび漁)漁民だった。結果として、彼らは日立周辺での採鮑を放棄、代わって漁場を海の向こうのカリフォルニアに求めた。

 JR常磐線の日立駅から歩いて数分、海を望んで白い大きなホテルが建っている。採鮑のメキシコ移民、冨田一とみたはじめが創業した。もう二十年も前のことで、訪ねたぼくに、いろんな思い出を話してくれた。

 

 カリフォルニア州南部での日本人による漁業の先駆けは千葉県出身の佐野初次さのはつじで、二十世紀初頭、ロサンゼルスでのことだった。その後、西海岸の人口増加によって市場が確立し、佐野の活動に刺激された後続も加わり、日本人の漁業活動は南のメキシコ国境に近いサン・ディエゴまで拡大していく。そうして一九一〇年前後にはロサンゼルスを中心とした採鮑、採蝦さいかまぐろ漁で、ロサンゼルス南郊のサン・ペドロやその対岸のターミナル島(現、サンタ・カタリナ島)に缶詰加工工場を持つまでになっていた。その後、鮑の漁獲制限が盛り込まれた漁業法案が成立するなど排日が激しくなるが、対抗して一六年には漁業組合を設立。鮪缶詰の需要増大の波に乗ってメキシコのバハ・カリフォルニア州の沖合いにまで漁場を拡大していく。

 その中心にいたのが近藤政治こんどうまさはるだった。農商務省(あるいは内務省)の漁業視察だったのか、一九一〇年前後、カリフォルニアからメキシコ北部にかけての沿岸を調査し、バハ・カリフォルニアの豊富な水産資源に注目した彼は、ロサンゼルスに移って、サン・ディエゴにアメリカ人との合弁で水産会社MKフィッシャーズを設立する。一九一二年前後のことで、日本から漁業移民を呼び寄せた。といっても、すでに日本人の入国は厳しく制限されていたため、メキシコ移民として呼び寄せている。

 まず、彼と親しかった東京水産講習所(現、東京水産大学)所長の伊谷以知二郎いたにいちじろうの仲介で、一九一三年から一六年の間に、岩手、宮城、茨城、静岡、三重の五県から二十数人が渡っている。それにロサンゼルス近郊の日本人も加わった。

 移民会社(海外興業株式会社)の仲介による移民は一九一八年からで、MKではなく「メキシコ興業組合」として導入している。「サウザン・コンマシャル会社は、其本拠を低加州に置き、元大阪府人十二名が株式組織を以て帆船『十二丸とにまる』を作って漁業を墨国沿岸に試みた」(『在米日本人史』)、「同組合は本邦第一流の実業家十二名より成り、内外人間に多大の信用を有する堅実なる実業団体なり」(海外興業「情況書」)というのがそれである。メキシコに漁場を拡大するため日本人経営者たちは同業組合を結成していた。近藤はその代表だった。

 海外興業は、第一回移民として、宮城、茨城、千葉、三重、和歌山、長崎からの四十九人を送っている。当時、メキシコへの渡航は東洋汽船の南米航路を使っていたが、直接、自社船十二丸とにまる(帆船、二百トン)で渡ることもあった。渡航費は全額、組合負担である。

 就労地はカリフォルニア半島中部太平洋岸のバイア・トルトゥガス(亀湾)で、缶詰工場での労働と採鮑、鮪漁だった。契約は三年、一日の労働時間は十時間。賃金は漁夫の場合は月二十五ドル、採鮑ダイバーの場合は五十ドルだったが、ほかに漁獲量に応じた歩合制がとられ、その三割は組合側が契約保証金と帰国旅費にあてるために留保し、契約満了時に払い戻されることになっていた。

 この一八年の第一回以降、呼び寄せで、岩手、宮城、和歌山などから三十人前後が渡っているが、さらに二三年、海外興業は百人を予定して、岩手、宮城、茨城、千葉、静岡、三重に募集をかけた。しかし、実際に渡航したのは宮城、茨城からの八人だけだった。

 その後、近藤は二六年前後にMKの経営を放棄して日本に引き揚げたが、呼び寄せは続いて、宮城、三重、和歌山、長崎など、三六、七年までに四百六十人前後が渡っている。結果として、日本からメキシコへの漁業移民は記録の上では六百八十人にのぼっている。ただ、一時帰郷したあとの再渡航など二、三回重複しての渡航もあったから、実数としては、この半数から四百人前後というところだろう。

 バイア・トルトゥガスや北のエンセナダには多いときには四百五十人以上の日本人が在留していて、うち二百人前後が茨城県の出身だったとする記録があるが、日本からの直接移民は多くみても七十人前後で、あとは排日で追われたカリフォルニア州南部からの、いわゆる南下組だろう。日本からの直接移民のトップは和歌山県で、ついで茨城、宮城、三重、岩手、高知、長崎の順になっている。

 近藤のあとのMKは、サン・ディエゴの大洋産業が引き継いで、社名も国際水産と改められたが、その後も日本人移民の間ではMKで通っていた。二九年、富田一が再渡航したときもそうだったという。

 彼の父、伊勢松いせまつがメキシコでの鮑漁を知ったのは同郷の先行移民、小川と関からだった。まず長男の一を二三年に渡航させた。伊勢松は多賀郡高鈴村(現、日立市)の網元で、小規模だったが最盛期には五、六トンの漁船二隻を所有、近在の漁師十五、六人を使っていた。しかし、一五年前後からは周辺の海水の汚染がひどく、海藻が激減したため鮑が採れなくなり、漁民の出稼ぎがはじまった。その後、一は二年で帰郷、代わって伊勢松が渡航、二年前後バイア・トルトゥガスで採鮑を続けたあと、その帰りを待って一が再び渡航。こうして一は前後三回、メキシコに渡っている。

 日本人移民による漁業活動は鮪漁と採鮑に大きく分かれていた。鮪漁の基地になっていたのはサン・ディエゴだった。

 カリフォルニア半島沖での漁は五月から九月にかけてで、その後はパナマ沖合いから赤道付近にまで鮪の群れを追っていく。すでに冷凍船が登場し、遠洋漁は二、三カ月の長期にわたっていた。一方、カリフォルニア半島の沖合いでは、百トン前後の小型船で漁期は十日から十五日前後。三回も漁場を往復すれば豊漁の極みだったという。移民たちは、初期の頃はMKをはじめとする漁業会社の所有船に乗り組んでいたが、二五、六年を境に自船を持つ者が現われる。一も二度目の渡航でエンタープライズ(八十トン)を六百ドルで購入している。

 彼ら鮪漁者は、メキシコ移民とはいうものの、メキシコにいたことはほとんどなかった。一自身も、メキシコ領のエンセナダには二、三カ月に一度、漁業ライセンスの更新に行っただけだった。

 現在のエンセナダはバハ・カリフォルニア州の一大漁業基地になっているが、一九三〇年当時は人口も三千人に満たない小さな町だった。農業方面ではかなりの日本人がいたが、漁業では、漁の合間に立ち寄る程度で、定住者はほとんどいなくて、三〇年には百十九人が在留していたというが、それは旅券の都合上、エンセナダ在住として漁業ライセンスをとっていたからだった。

 一方、採鮑の中心は南のバイア・トルトゥガスで、MKをはじめとする日本人漁業者の缶詰工場と採鮑者のキャンプがあった。一九三〇年には百三十九人の日本人がいたというが、缶詰工場で働いていたのは少数で、ほとんどが採鮑だった。

 湾内は海藻が多かったため、採鮑には平底船を使った。脈曳みゃくびきと呼ばれた曳船ひきぶねに二、三隻一組みになって曳かれていく。一隻ごとに、ダイバー一人、空気ポンプ担当三人(ポンプ二、ホース固定一)かじ取り一人、ぎ手一、二人、炊事担当一人と、七、八人で乗り込む。ダイバー一人に漁夫四人という組み合せもあった。その場合は船上での煮炊きはできないから食事はキャンプに戻らなければならない。

 鮑は干鮑や缶詰にして、週に二度、サン・ディエゴからやってくる運搬船で、いったんサン・ディエゴに運ばれたあと、中国、マレー、ハワイなどに輸出された。

 ところが、一九三二年にいたって手痛い打撃を受ける。八月、メキシコ政府はバハ・カリフォルニアでの缶詰用以外の鮑漁と輸出を向こう五年間にわたって禁止、また、缶詰用鮑の漁獲量にも制限枠を設けた。バハ・カリフォルニアでの採鮑は日本人の寡占状態にあったため、メキシコ資本が圧力をかけたのだった。これによって、日本人のほとんどは天草てんぐさ採りやランゴスタ漁、鮪漁に転じる。ただ、影響をまともに受けたのはダイバーなどの直接の漁業者だけで、日本人経営の漁業会社にはほとんど影響はなかった。請負制がとられていたからである。

 初期の頃は月給制がほとんどだったが、一九二五、六年になると、自ら漁船を所有し請け負いをはじめる者が出てきた。採鮑と小規模の近海漁と缶詰加工がほとんどで、日本人のほかにメキシコ人も働いていた。賃金は一カ月三十ドルから五十ドル。ただ、採鮑のダイバーは経験を要する高度な専門職だったから、又請けという形で一種独立して漁を行ない、採った鮑は一トン七十ドル前後で請負者に納めていた。

 一方、多数を占めていた鮪漁の日本人のほとんどは、サン・ディエゴの国際水産や大洋産業などの漁業会社に所属していたが、自船を持っていた者は請負制をとっていたから、一九三〇年前後には、一漁期で数百ドル、景気のいいときには数千ドルを手にすることができたという。日本では日当四十五銭という時代である。一万ドルという大金を手に錦を飾ることも夢ではなかった。