目次

機屋
兄ちゃん
咲枝さん
その人
さよなら、まさとくん
メキシコだった理由
伊藤さん
最初のキューバ行
*続く*

機屋

 一九五一年、大阪、和泉の生まれ。家は木綿の零細機屋はたやだった。岸和田紡績に勤めていた父が、戦死した兄に代わってあとを継ぐため、百姓家の実家に戻り、織元から賃機を二十台ほど入れてはじめている。朝鮮戦争の糸偏景気に乗ろうとしたのだろう。それがどこでぼたんをかけちがえたか、大手は貪欲に太っていくのに下請けの零細機屋はさっぱりで、織元からの工賃こうちん払いの手形も不渡ふわたり続き。偶々、マッカーサーのおかげで田畑はけっこうあったが、物心ついたぼくの記憶にも、その日暮らしがやっとだった。母にいわれて晩飯の買い物に行くにも、十円玉、五円玉、一円玉をかき集めて八百屋に走った。すると店の親爺が笑った。「ぜに扛秤ちんぎはかろか」。
 あの頃、買い物はなんでも付け払いで、かよい、といったが、店の払いは現金でなく、代金を帳面に書いてもらって、月末か、長いときには節季といって盆暮れにまとめて清算するやり方だった。ノドを細紐でじた帳面だったが、毎日、何カ月も使っているから、表も裏もぼろぼろに手垢で黒ずんで、てかっていた。それをげて店に走る。その払いが何カ月も溜まっているから付けも効かなくて、現金払いでしか売ってくれないのだった。これで貧乏ぶりの程度がわかってもらえるだろう。風呂も焚き付けのしばが薪炭屋から買えなくて、休みの日には山に落ち枝を拾いに行ったり、納屋のこぼれた壁板を剥がしていた。そこに母が病気で寝込んでいた。いまは年々、ステロイドでいい薬も開発されているらしいが、あの頃は不治の病といわれたリューマチだった。
 母の実家は四キロほど浜に下った小さな町。毛織物の織元で、たいして金持ちでもなかったが結構な暮らしをしていた。それがどうしたわけか、百姓兼業の零細機屋の嫁に入り、百姓仕事はもちろん、工場こうば夜業やんぎょう続きの毎日だったから体がやられるのもあたりまえ。子ども心に父を恨んだ。母に代わって台所に立ったのが小学校の二年だったか三年だったか。嫌で嫌でしようがなかったが、中学を出るまでは我慢して家を逃げた。
 拾ってくれたのが大亀だいき和尚。京都、紫野大徳寺、徳禅寺の住持だった。当時、大徳寺には、二十二だったか三だったか、塔頭があって、和尚の寺もその一つだったが、もともとは大徳寺と同格で、少し南の、いまの雲林院あたりに大きな寺域を誇っていた。それが応仁の乱で焼け、あの一休さんが大徳寺伽藍の南に再建した。だからほかとはちがって、別院と呼ばれて格式も高く、大徳寺を束ねる歴代住持が暮らす寺だった。だからいまも大徳寺住持である宗務総長の就任式には和尚の寺から出かける慣わしになっている。
 そんな立派な寺に、家を逃げた小僧が務まるわけがない。沙弥になる気などはなからなくて、逃げる計画ばかり練っていた。憂鬱で、悶々として、二年待ったら機会が来た。春だった。ある朝、いつものように寝坊して慌てて本堂に走ったら、おまえはここにいてもしようがない、すぐに出ていけ、と一喝、破門された。待ってはいたが、突然来たから、正直、困った。小さな鞄二つに教科書ととりあえずの下着を詰め込み、自転車の両のハンドルにげ、さて、どこに行こうか、思案に暮れた。けれどくびきけた気がしてうれしかった。

兄ちゃん

 実の兄でもないのに、にいちゃん、兄ちゃん、と呼んで親しんだ人がいた。大阪特有のいい方かと思っていたら、お隣の韓半島でもおんなじで、兄ちゃんはオパ、ねえちゃんはオンニというらしい。古代からの地縁、血縁が消せないのだろう、心に温かい呼び方だと、最近、不思議に懐かしい。
 その人は母の父の妹の末っ子だった。つまり母の従弟にあたるのだが、ぼくからすればなんといえばいいのか、ともかくとしも一回り以上もちがう兄ちゃんで、戦争最中、疎開でぼくの家に逃げてきていたらしく、そんな縁もあって、父も自分の子どものように思っていた。その兄ちゃんが、疎開の小学校の同級生だった近所のねえちゃんと結婚して婿養子に入った。だから家も近くて、以来、弟のようによくしてくれて、寺を出たあと、修学院、太秦うずまさ上立売かみたちうりと京都の街を西に東に彷徨うろうろしたときも、そのたびに引越しの荷物運びをしてくれた。クロガネ・ベビーといって、リアエンジンの軽トラだったが小回りがいてよく走った。「おまえのおかげで京都の街に詳しゅうなった」、いまも訪ねると茶化される。

咲枝さん

 生まれた村から二つほど村を置いて、いまはなくなった国鉄の小さな駅があった。
ぼん、送っていこか?」
 改札を出ると脇の交番前に笑顔があって、誰かと思ったら咲枝さんのかれだった。どういう具合か、あの頃は何でも自由で、駐在の真ん前だというのに、白タクの溜まり場になっていた。駐在といっても気心も知れた遊び仲間で、机の前でひまそうに煙草をくわえながら、ときには車の傍までやって来て、こちらも閑そうに窓から片腕を出している運転手とぺちゃくちゃしゃべっていた。
 坊と呼ばれはしたが、もちろん坊っちゃんという意味ではさらさらなくて、小倅こせがれ、餓鬼とまではいかないまでも、ふつうに、おい、とか、ぼく、でいいのだが、かれにはそう呼ばないと都合の悪いちょっとしたわけがあった。
 坊? そんなんやないぞ、
 思ってぼくは尻目に行こうとしたが、ドアまで開けてくれたので、しかたがない、会釈一つ、返事代わりに後ろの席に乗り込んだ。
 お寺は、どないです? 黙っていればまちがいなくそう訊かれただろう。それが嫌だったから先手を打った。
「咲枝さん、元気にしてますか」
 かれは、照れもせず、奥歯につまった飯の食べかすを吐き出すかのように、
「ああ、あれとは切れましたわな」
 けろりといった。
「先生から聞いてまへん?」
 バックミラーにぼくをのぞくと、
「もう大分だいぶになりますわ、男ができよりましてな。まあ、早い話が、逃げられたいうこってすな」
 たばこでやにだらけの歯茎を見せてにやりとした。先生といったのはぼくの父のこと、学校の先生でも医者でもなければ、もちろん議員でもない。報酬も何もない、保護司を長くやっていて、その筋の人からそんなふうに呼ばれていた。
 生まれた村、といっても、もちろん市制が敷かれてずいぶんにはなっていたが、ぼくらの暮らしの内では変わらず「むら」のままで、昔から街道筋の村であったからか、いわゆる組の人や、それらしい人がけっこういて、小学校に通う路地にも、ヒロポンにやられて、昼間っから、とろん、と腐った魚のような目をして、縁側でらりっている兄さんもいて、見かけだけで怖かった。それが、別段、暴力をふるうわけでもなく、
「おい、わかってるか、こないなったらあかんぞ」
 とぼくらを諫める、不思議な人だった。
 咲枝さんは鹿児島から来ていた織り子さんだった。
「なんにも持たんと、鞄一つやったわな」
 思い出して蒲団の上の母がいったが、中学出たての集団就職でやって来て、二、三、ほかの織屋を渡り歩いたあと、ぼくの家に流れてきていた。といってもまだ十七、八だっただろう。母屋の隣に祖父が建てた藁葺き棟がまだ遺っていて、その一部屋に寝起きして、機織り仕事の合間に、家の台所仕事も手伝ってくれていた。九州人にはめずらしい、線の細い人で、小柄で目のくりっとした丸顔の、子どものぼくの目にもかわいい人だった。
 かれの出処でしょは知らない。村から南の和歌山にかけて広く仕切っていたくみの人、といっても下っ端で、小さな喧嘩で人を刺して堺の刑務所送りになっていたのが刑期半ばで出所、保護司をしていた父が引き取っていた。いわゆる保護観察というやつで、月に一度、近況報告にやってくるのだった。それがきっかけで咲枝さんと知り合って、いつの間にか咲枝さんの部屋に転がり込んでいた。
 咲枝さんは頭の回転のいい人だったが、その分、人を食ってしまうのか、ずぼらなところがあって、毎朝、仕事の時間にもしょっちゅう寝坊していた。それを起こしにいくのが、ぼくの役目だった。
「ねえちゃん、時間だよ」
 身内でもないのに年上の女性を村ではそう呼んでいた。むかしからの慣習で、藁葺き屋根の古棟は、三和土に入れば硝子戸一枚隔てて、上がり端から二人のけしきは丸見え。
「んっ! なんや、ぼんかいな」
 一つ布団の中で、決まって驚くのはかれの方だった。
「じきに行かせるさかい、先生に、うまいこというといて」
 ぺこ、ぺこ、頭を下げるのだが、咲枝さんは動じない。雀の巣のようにパーマをかけたちりちり髪を掻き上げながら、白い腕を枕元に伸ばすと、しんせいの茶色の箱から一本取り出して口にくわえた。
「おい、そんなんしてんと、早よ行った方がええやろが?」
 かれの方が気が気でないらしいが、なにせ紐の身だから、つい勢いも鈍くなる。それに返事もしないで、マッチをさがすのか、蒲団をはねた咲枝さんはシュミーズ一枚。肉付きのいい体の線が透き通って、子どものぼくにも眩しかった。

その人

「ママが死んだよ」
 電話の向こうで、その人だった。
「やっと、ってくれた」
 そうもいって、息を吐くのも小さく聞こえた。
「疲れたよ」
 ぼくに返す言葉もない。
「人を看取みとるって尋常じんじょうじゃないね。とくに、あの病気はね、欲も得もない……」
 そういって途切れかけたが、すぐに語調が変わった。
「いってもね、ぼくも勝手気儘きままにやってきたから、帳尻合わせといったらそれまでで、おさまりもつく」
 三年と少し、寝込んだ妻を看送った、静かな独白ひとりごとだった。
「通夜も告別も、いいからね」
 念を押すように付け足した。野辺送りは家族だけで小さくすませるつもりらしかった。すると、また言葉がなくて、
「落ち着いたら、また散歩のときにでも寄ってください」
 といいかけたのを、届いたかどうか、すぐに切れた。しばらく一人になりたいのかもしれないな……、とも思ってみた。だから、しばらく連絡もしないでいたが、一月ひとつき経ち二月経ち、やがて一年が過ぎている。
 その人、と書いているが、不思議な関係だった。先生と呼ぶほど遠くはなくて、ふだんから偉ぶることもなく、齢は親子ほどもちがっているのに、弟か、実際、その人もどこかに書かれていたが、年下の友でもあるかのように、ぼくを見てくれていた。理由はわからない。深く考えもしなかったし、いまもそのまま、ぼくはいる。
 その人は詩人だった。農民詩人、実際にそんなカテゴリーがあるのかどうか、文壇に躍り出る旗印にしたのだろう、ほんとうは民俗学者だったとぼくは思っている。
 そして、なにより文章家だった。若い頃は、といってもよく知らないのだが、行き場のない精力のけ口をさがしているような、ねっとり湿った文章の多かったその人も、本卦ほんけがえりを迎えたあたりから、急に乾いたけしきを見せて、座わる生活が続いたからか、癖になった腰痛のリハビリだといって散歩を趣味に、その徒然のエッセイを、あちこち、新聞、雑誌に発表していた。コースは幾通りかあったようだが、どれもがぼくの家を中継していた。休憩場所が必要だったのだろう。
 ぴん、ぽーん……、とやって来ては、ぼくの入れる番茶の湯呑みを前に、小一時間、話すと、
「それじゃ、また」
 と、にっこり、丸テーブルを立つ。それを表に見送るのが、ぼくの日課になっていた。
 姿を見せるのは、いつも決まって十時過ぎ、カントのように正確で、長くなっても昼前には帰っていく。もちろん、ぼくのいない日もあって、そんなときは、玄関ドアのすぐ前に、一つ、庭の小石を置いていた。
 それを、戻ったぼくは見つけて、きょうも、お元気でしたか……、と庭に返す。
 いつからそんなふうになったのか。気づいたかい? といわれたこともなかったし、ぼくの方でもたしかめたこともない。二人の、それはゲームのようなものだった。

 出会った初めは、ぼくもまだ独りだった。
「原稿用紙は持ってるかい?」
 かれて、ぼくはまだおぼろにいた。
「いえ」
 うつろに返事をすると、ぼくをそのままに書斎を出た。そして、いつ戻ったか、
「そんなものはりませんよ。起こす時間が無駄でしょう」
 みものでも見るかのようにして、手にした原稿用紙の束を、ぼくの前、応接セットの硝子机の上に置いた。その端に、ぼくはメタルのカセットレコーダを回していた。
「じゃあ、話すからね、そのまま書いていけばいいんだよ」
 自信たっぷり、笑顔のその人に、ぼくはまだよくわからないでいた。
 二日前のことだった。
「原稿をおねがいします」
 電話でいったら、
「いつでもいいよ」
 と一つ返事で引き受けてくれ、訪ねると書斎に通され、そのみとは対照に、不思議なその目に射竦いすくめられ、一種、ぼくは催眠状態にいた。
 それからどれくらいだったか、まるで速記者にでもなったかのようにぼくは原稿用紙に向かった。顔を上げる余裕もない。そして、
「まあ、こんなところかな」
 と話をめた。
 編集部に帰るとすぐに机に向かって清書した。そして、びっくりした。語りはそのまま原稿になっていた。
 明くる日、それを手に、また訪ねた。
「よくできてるね」
 それはぼくへの慰めだったか、話した自分への確信だったか。ぱら、ぱら、ページをめくりながら、ときどき赤ペンをとって書き入れていたが、十分ばかりで机の上に束を戻した。
「漢字は、そうだね、ぼくはあまり難しいのを使わないから、適当にそろえてください」
 聞きながら、赤字を見ると、あちこち読点と二、三、書き加えがあっただけ。ほかにいっさい注文もなくて、玄関にぼくを送り出した。
「校正もまかせますよ。印刷が上がったら、送っておいてください。これから茨城の結城ゆうきまで出かけますから」
 夜に講演があるらしかった。それから一年が過ぎ、ぼくもその人のことを忘れてしまっていた。前の晩、仲間と呑んだのが度を超して、がんがんする額を抑えながら、出がけにポストを覗くと萌葱もえぎ色の封筒が入っていた。
 あれ? 裏を返すと、その人からだった。
「いま、山の家に来ています。机の窓から浅間がきれいです。よかったら見にいらっしゃい。駅から電話をくれれば、散歩がてらに迎えに出ます」
 そして、こんなことも書いていた。
「すぐ隣が水上さんの別荘で、昨夜も遊びに来られました。話題の豊富な方で、つい夜更けまで話し込んでしまいました。あなたは水上さんに会いたいといっていましたね。こっちに来れば、いつでも紹介してあげますよ」
 山の家というのは、水上さんの別荘の敷地を分けてもらったそうで、そこに小さな山小屋を建て、泉庵いずみのいほと呼んでいた。二十畳余りの板の間に台所とトイレと風呂を付けただけの、狭いが一人暮らしには快適らしかった。そこで七、八月の夏を籠もって九月の半ばに下りてくる。四十の半ばを過ぎた頃かららしいが、そんな暮らしを続けていた。
 それからも、毎年、山の家から萌葱の手紙はもらったが、一度も応えずに終わっている。勤めの時間が自由にならないということもあったが、避暑というのがぼくのポリシーに合わなかった。その人もそれをわかりながらたぶん手紙をくれていたと思う。折々によく手紙をくれた。芸術といってもいい、念の入ったものだった。まず用紙からちがって、原稿と同じ特注の少し厚めの利休ねずみの洋紙を使い、インクは心持ち沈んだトルコブルー、その一枚一枚に手彫りの朱の篆刻てんこくの押印があった。ちょっとした連絡事や礼状にもそれだった。だから棄てるに忍びず、というより、レアものと打算していまも押し入れにとってある。

「鳥が来てるね」
 秋の一日、いつもの丸テーブルを前に庭を眺めて、ぽつりといった。黄葉をすっかり落とした采振木ざいふりぼくのくねった幹は、植えたときはやしのようだったのが、いつの間にか大蛇のように宙をのた打つまでに太く高くなっている。その枝越しに、ばしゃ、ばしゃ、夫婦者だろう、水浴びに来ていた。
 とくにしつらえたわけでもない。狭い庭を隔てて隣家の物置の、腐りかけたといの中で遊んでいた。物置は、苔が干涸ひからびたブロック塀に擦り寄るように建っていて、雨樋が受け金が錆び落ちて、ちょうどひさしの真ん中あたりで緩く逆への字にたわんでいるところに、降った雨や、冬場には霜の解けたのが溜まったまま、その水嵩みずかさと樋縁の高さが、夫婦者には水浴びに格好らしかった。
「めじろかな」
「どうでしょうね」
 そんな返事しかぼくにはできない。
「もう少し大きいのも来ますよ」
「そうですか」
 言葉はいつも他人行儀だった。
「食い気がすごくて、南天や千両も、あっという間に丸坊主にしてしまいます」
 すると、
「それは、椋鳥むくどりか、ひよどりでしょ」
 笑いながら振り向いた。
「頭の毛が、ぴょんと立ってるやつですよ」
 憎らしくて、ついきたなくいうと、
「じゃあ、鵯だね」
 すぐに決めた。
「あれは飾り羽といってね、雲雀ひばりといっしょで冠のように突っ立ってるから、すぐにわかりますよ。あわて者というか、計算ができないのか、なかには食べ過ぎて飛べなくなるのもいるんですよ」
 何を訊いても物識りだった。
 そんな二人を余所よそに、夫婦者は樋の中、向かい合ったり、尻を向けあったり、ばしゃ、ばしゃ、やっていたが、やがて、すぐ前の采振木の小枝に飛び移ると、羽を広げ、また何度も、ぱた、ぱた、やっては、体のあちこちをくちばしついばみはじめた。
「羽根の水切りだね。羽根を整えているんだよ」
 はじかれた水滴は、小春日の低い陽光の中、きらきらと虹色にいくつもの輪を描いて輝いた。

「神武は熊野から大和入りをするよね」
 突然いうのもその人だった。
「作り話だっていう人もいるけど、あれはほんとだよ」
 そんなふうに、よく古代史の話をした。
「もちろん神武っていう人はいなかっただろうし、一つの部族というか、勢力のことを擬人化してるんだね」
「擬人化?」
「そう、南や西から新しい勢力が大和にやって来たことを物語にしてるんだよ。大阪湾でいろいろあったあと、和歌山の加太かだのあたりから急に熊野に行くでしょ。そして突然、奈良の大宇陀おおうだに現われる。だから、熊野川をさかのぼったとか、それは無理だから、あれは大嘘だとかいうけど、そうじゃなくって、あの熊野っていうのは紀ノ川流域のことなんだよ」
「どういうことですか」
「熊野っていうのは、隈野、つまり辺境、マージナルさ。いまの熊野は紀伊半島の南だけれど、あの頃の熊野は大和のごく周縁で、それが、大和の勢力が大きくなるにつれ、辺境、つまり隈野も移動していくんだね。だから記紀は嘘をいっていない。いまのぼくらが理解できないだけなんだ」
 いいながら、部屋の中を見回した。地図はないか、といっている。それにぼくは立ち上がり、部屋の隅、いつも壁に立てかけておいてある分厚い地図帳をとって差し出すと、ぱらぱらと頁をった。
「ほら、ここだよ」
 指でさしたまま、丸テーブルの上にそっと置いた。
「ここには書いてないけど、かぜもりっていう小高い峠があってね」
 御所ごせの少し南、和歌山との県境にほど近い、金剛山の東麓である。そこを東征神武の一行は越えて大和入りしたというのだった。その人は歴史家ではなかった。けれどそれ以上だったと思っている。
「歴史家はいわないけどね、もう一つ、大和入りのルートがあるんだよ」
 半島から大和への古代の道筋をいっていた。
「たとえば若狭の小浜おばまあたりに着いたとするよね、すると、あとは東に谷合を進んで近江に出るんだよ」
「琵琶湖へですか」
「そう、越える峠もたいしたものじゃない」
 地図の上、今津いまづの少し左をさしてそういった。
「むかしの琵琶湖はね、いまよりずっと大きくて、たぶん二倍くらいはあったんじゃないかな。それを渡ったのか、ぐっと南へ迂回したのか、いまの草津線沿いに伊賀いがに出ている」
 地図をめくり、今度は三重、そして奈良のページと開いて道筋を指でなぞっていく。
「伊賀から、ほら南に、名張を通って三輪山みわやまの麓に下りてくる。そこが泊瀬はせで、ちょっと先が、磐余いわれだよ」
 わかりましたか、とばかりにぼくの顔を覗き込む。
「大和にはね、いまのように西や北からじゃなくて、南と東から入ったんだよ。勝手な想像でいってるんじゃない、記紀にはそう書いてある。行間を読めばそれがわかるさ」
 そんな話に、いつも、ぼくは頷くだけだった。
 
葛城かつらぎを歩いてみないか」
 いつものように入ってくると、いきなりいった。御所の西、金剛葛城山系の麓の古代道をたどってみようというのだった。
「あそこはおもしろいよ。でも、一人じゃつまらないからね」
 その人の仕事は、じつは旅だったといってもいい。若い頃から、月の半分以上は、講演も入れて、ほとんどが旅の人だった。けれど、そのときもそうだったが、とうとうごいっしょしたことがないまま終わっている。残念に思うが、別れというのは急にくるからそれはそれでしかたがない。
「金剛山っていってるけどね、あれは、ほんとは葛城山なんだ」
「それじゃ、いまの葛城山は?」
「あれは、江戸の頃までは篠峯しのみねといってたらしい。『大和名所図会』にもいてある」
 古代史を語るその人は、いつも生き生きとして、その目は遠くをさして光っていた。
「はじめて歩いたのは、上のがまだよちよち歩きだった。ママの機嫌をとりながら出かけたよ」
 その人は自由人だった。上の娘、つまり長女の宇智子さんが生まれたときも、一人、旅の空の下だった。
「ママといっしょに旅したことなんて、一度もなかったよ。生き方がちがったからね」
 いつものことだが、ことげに吐き捨てる。ママとは、いうまでもない、夫婦間で子どもを軸にした呼び方だが、なぜか、その人はぼくにもそのままだった。
 二十七で九州から念願の上京を果たしたその人は、百姓育ちがそうさせたのだろう、東京の郊外、武蔵野の私鉄駅近くの麦畑に、近在農家から土地を分けてもらって、まず、家を建てている。喰えなくなっても帰るところさえあれば生きていける、といったが、そのように百姓気質が染みついている人だった。戦後すぐのことで、農家にも現金収入はありがたかったのだろう、どこでも好きなところを選べばいい、と農家は分けてくれた。それを南東の角を選んでいる。一坪一万三千円で八十坪。建築費と合わせて二百万円は、財産分与として実兄が助けてくれた。
「百姓といっても自作農だよ。小作なんて百姓にも入れてもらえない。江戸の頃から油屋だったっていってるけど、祖父さんあたりで駄目になって馬喰ばくろうをやってたらしい」
 畑といっても、あたりは点々とけやきの森が残っているだけの野っ原。駅まではあぜのような野道を歩く。
「雨が降ると泥だらけになるからね、長靴を履いて出て、駅で預けてふつうの靴に履き替えていた」
 店といっても駅前に蕎麦屋が一軒あるきり。一時間に一、二本、時間を忘れさせないように二両連結の列車が走っていた。車の姿もない。
 棟上げには大工を呼んで、棟梁といっしょに棟にも上り、いっしょに立ち働いた。そうして小さかったがあか抜けした瀟洒しょうしゃな一軒家になっている。
「百姓育ちだから、まず地に足をつけないとはじまらない」
 信条だった。
「だから、家を建てるとすぐに結婚した。安心して帰れるからね」
 兄弟は五人、男ばかりの末っ子だった。
「おまえは産まれてくるはずじゃなかった、って、母はしょっちゅういったよ。といっても悔いでも愚痴ぐちでもないんだよ。ぼくを、かわいそうに思ったんだね。ずっと二人暮らしだったから」
 一人でも人手のほしい農家だが、四人もいれば十分、それ以上の扶持ぶちはない。おまけに三十も半ばを過ぎての五人目、世間体も悪かった。
「捨ててもいいと思った子どもは、逆に可愛いものなんだね。時代も時代だし、なにもない貧乏百姓なのに、母には大事に育てられたね。怒られた記憶が一つもない。けど、父親の記憶もさっぱりない」
 そんなふうにもいった。父親は、その人が産まれた年に風邪をこじらせ肺炎で、ころりと逝ってしまう。それからが悪運続き。明くる年に三つ上の四男が馬車にかれて即死、三年後には三男がチフスで死んだ。そして長男は戦争末期に召集が来て、フィリピンでマラリアにかかって死んでいる。終戦の二日前のことだった。
 家には祖母と母、そして次男とその人がのこる。十五になっていた。
「金剛山の麓の少し開けた高台に、高天たかまっていう村があってね。記紀に出てくる高天原はあそこのことだよ」
 断定していうのがその人だった。
「この間、話をしたでしょ、風の森」
 盆を手に戻ったぼくを見上げていった。
「あれを越えて大和盆地に入ったところが高天でね、そうしてやって来たのが葛城族だね」
 ぼくは頷きながらお茶をすすめる。それに軽く会釈で応えてまた続けた。
「反対に東から三輪山の麓に出てきたのが三輪族。それから、名張に下る前に東に峠を越えて石上いそのかみに出てきたのが和邇わに族。これは百済系の人たちだね。この三つでだいたい日本の歴史がはじまっている」
 その人の話に終わりはなかった。そうしていつものように、その日も話を滔々と続けて、
「じゃあね」
 と帰っていった。話せば完結するのか、頭の中で葛城行を満喫してしまったのか、そのあと、古道を歩こう、といったことがなかった。そしてまた、話は次に進むのだった。
 
「ちょっと来ないか」
 ひょいと電話があって、ぼくは走る。忘れかけた頃に声がかかる。ずっとそうだった。
「きょうは、何の話をしようか」
 開口一番、それなのだが、いつもその人の方で決めていて、かまわず話しはじめる。そして話のモジュールも決まっている。それを整理するためにぼくを呼ぶのだった。もちろんぼくは黙って相槌あいづちを打つだけ。そうして話は、早いときには一週間後には新聞の連載になって、一カ月後には雑誌になり、半年後には単行本になっている。
 三十年は相手にしてくれただろうか、その人も、持病の腰痛にパーキンソン病が重なって入院、しばらく元気にしていたが、あの冬は、とくに寒さが厳しくて、肺炎をこじらせて逝っている。あと十年くらいは話も聞きたかったが、無慈悲なもので、だからひつぎは重たかった。二十歳で母を送って以来、ずいぶんかついできたが一番こたえた。涙もあった。野辺送りに一度も流したことのない、はじめての涙だった。
「この人の脳みそ、焼いてしまうの? なんか、もったいねえなあ。そんじょそこらにない、いい脳みそだよ。どっか、大学病院にのこせないの?」
 うしろで、だれかと思ったら、俳優の田中健だった。
 ぼくもそう思った。月並みでない、かれだからいえる、特上の別れのことばだった。

さよなら、まさとくん

 記憶も薄れているのでたしかなことはいえないが、「移民」というのを知ったのは小学校のときだった。
「みなさん、まさとくんとは、きょうでお別れです」
 朝一番、教壇に立った先生が、突然、いった。
 学芸大出たてのポニーテールの美人先生だった。それなのに、まさとくんは、先生の横でにこにこしている。
「まさとくんはね、家族みんなで、大きな船に乗って、ブラジルという国に行くんです」
「……?」
「ブラジルは……、はーい、ここ、ちょうど日本の裏側、大きな国ですね」
 黒板横の世界地図の、ずうっと右端みぎはし、緑の国を指さした。
 いいところに行くんだな、とぼくらはうらやんだ。
 まさとくんの家は、村一軒の散髪屋。お母さんが村の娘で、鹿児島から男工に出てきていた親爺おやじさんといっしょになった。嫁さんが大柄ののみの夫婦だったが、仲良くて、二人いっしょに、いつも朝早くから店を開けていた。
 親爺さんはどちらかというと趣味人で、大の魚釣り好き。つい、そっちに熱がいくのか、店の中も散髪の回転椅子が一つあるきりの殺風景な、田舎の散髪屋そのものだった。
 それが、子ども好きで、遊びに行くと、ぼくらの頭はただで刈ってくれた。
「おい、そろそろやな。ちょっと、こっち来て、すわれ」
 だから、たいして繁盛していなかった。
 最後の移民船だったと思っていたが、そうでもなかった。五年前だったか、小学校の同窓会があって、
「そら、ちがうぞ、あいつが行ったんはもっと前やなかったかな」
 餓鬼仲間にただされた。子沢山でまさとくんを頭に四、五人弟妹きょうだいがいて、一家そろって出かけていった。それ以来、音信不通で、ぼくも家出をしたり、東京に出たりしたからすっかり忘れていた。それが大学二年のときだった。久しぶりに郷里いえに帰ったら、バス停を降りたところで声がした。
「どないやの、元気にしてんけ? 東大とうだい、行ってんやてなあ」
 まさとくんの祖母ばあさんだった。村では東京には東京大学しかないのだった。
「そういやあ、こないだ、あの子らから手紙が来てな。なんやしらん、サンペーロサンパウロとかいうとこで、食用蛙、うとるらしいわ」
 煙管きせる好きで、脂黒の歯茎を剥き出しに笑顔でいった。そして、
「あとで所番地ところばんちもっていくさかい、いっぺん、手紙でも書いたって」
 と畳みかけられた。
 そんなまさとくんのブラジル行きがぼくの移民史へのきっかけになっている。

メキシコだった理由

 といっても、まさとくんのブラジルはもちろん、移民史を机の上で論じようと思ったことなど一度もなかった。ことのはじめからそうだった。
 アメリカが嫌いだった。家が工賃稼ぎの貧乏機屋はたやで、ほとんど父が一人で、朝は五時起きで、夜は晩飯の後も工場こうばに入って機織りをしていたのを物心ついた頃から見ていた。それが日米繊維交渉で織屋の斜陽が続いて佐藤内閣が出てきた頃にはやっていけなくなっていた。戦後五〇年代に入ると、日本の綿製品は続々アメリカに輸出され、いまのユニクロよろしく、ワン・ダラー・ブラウスと呼ばれて飛ぶように売れた。ところがそれに暮らしを脅かされたアメリカの綿業界が政府に働きかけ、ちょうどジョンソンのあとの大統領選挙のときで出馬したニクソンが日本からの綿製品の輸入規制を公約して当選。輸入規制を働きかけてきたのに佐藤政府がこたえて自主規制。大手おおては国から補償金が出ていろんな事業に鞍替えしたが、下請けの零細れいさい機屋は不器用で身動きが取れず、廃業が続いて父の工場もそうだった。零細機屋は大手から糸を借りて、それを織り上げて大手におさめて飯が喰える。その糸が来ないのだから喰えなくなった。一日、村の鍛冶屋の親父が若い見習いを二、三人連れてやって来て、頭の上から掛矢かけやを振り下ろすと、がらん、ごろん、と乾いた音がして、機は茶碗が割れるように容易に崩れた。そりゃそうだ、機といっても根は鋳物、おさえには強いが叩かれたらおしまいだ。半日ばかり、がたごとやって、工場はからっぽになった。あとは天井の梁に残ったシャフトからぎだらけの革のベルトが、ふうら、ふうら、土壁の隙間風に揺れているだけ。ものごとのむなしさを知った最初のけしきだった。そうして父は仕事をなくしている。もうすぐ還暦という秋だった。
 明くる春、ぼくは東京に出た。学校では専門でもなかったがラテンアメリカの歴史を勉強した。ほかでもない、アメリカが嫌いだったからで、なんとなくメキシコが好きになった。アメリカに国を盗られたりしていたからだろう。敵の敵は味方になる。だからメキシコの歴史を勉強した。ただ、それだけではつまらない。何か自分との、ちょっとちがったつながりがほしかった。それをぼくは移民に求めた。ここで、まさとくんのさよならが働いている。祖母さんにいわれたのに便たよりもせずに、すっかり忘れていたのに現金というか、不思議だった。
 さて、メキシコと決めたがその先がわからない。この国全国を相手にするなど、そんな無謀なことははなから考えていなかった。では都道府県をどこにするか。生まれの大阪は移民に縁も所縁ゆかりもなかった。それからお寺時代を過ごした京都もそうだった。移民県の長野や和歌山、福岡、熊本にはすでに先行研究者がいた。沖縄は調べ歩くにはちょっと遠過ぎる。そして七年だったか八年だったか、思いついたのが新潟だった。一生の同行どうぎょうとなったひと郷里さとだった。いずれ子どもも生まれて里帰りの機会も増えれば、そのときにあちこち調べ歩きもできるし、少しきついが日帰りもできる。そしてなにより、よくわからなかった、いまだにそうだが、その人の性格を見つけるのにも役立つかも知れない、そう思った。
 とそこまではどんなふうにでも理由付けできるが、実際のとっつきがわからない。移民についてあれこれ理屈をいうことは嫌いだった。知りたかったのは人の行動のけしきだった。移民論ではなく移民個々の歴史だった。それなら具体的に人をさがすしかない。そう思ってきっかけを見つけに出かけたのが外交史料館だった。あの頃の外交史料館はずっと敷居が高くて、入館にも紹介状が必要だった。それを職場の理事長の伊藤昇にもらった。戦前から新聞記者をしていて派遣されてスペインにいたとき日米戦争がはじまって一次だったか、二次だったかの交換船で帰国、戦後、定年したあと津田塾で先生をしていた。

伊藤さん

 伊藤さんは週に一度、ぶらっとやって来ては、みんなを集めて会議を、といっても茶話会のようなもので、それぞれが仕事の進み具合をいい合ってそれでおしまい。そして夕方まで手持ち無沙汰にしていたが、引き揚げる前には決まってぼくのデスクのところにやって来て、ぽいっと鞄を投げた。いわゆる鞄持ちというやつで、ぼくは「はい」と応えて身支度をする。まだの高い五時前だった。
 ここでちょっと余談だが、あの頃、上の子はおむつがはずれるかどうかの小さなときで、共働きだから保育園に預けていた。それが水疱瘡で行けなくなって同行は「おねがいね」と先に仕事に出たあと、二人残されて、しかたなく事務所に連れて行って机の横で遊ばせたり、会議のときも足元に座らせていたが、すぐに長い会議デスクの下を正面の伊藤さんのそばに潜っていって、鞄の中からものを出していたずらしていた。それでも伊藤さんはにこにこと穏やかだった。津田塾の先生をしていたから、ぼくも倣って先生と呼んでいたが、本人のいないところでは伊藤昇と呼び捨てにしていた。侮蔑ではなく親しみを込めているつもりだった。
 そうして二人逃げるようにして事務所を飛び出すのだが、行き先はいつも同じ、中央線の阿佐ヶ谷駅、改札を左に出て右に少し行った左側の蕎麦屋だった。小さかったが、白木造りで風情があって、長暖簾をくぐると、「あらっ、先生」と声がかかって、婆さん、つまり亭主の母親が案内した。だから、奥の方にこじんまりとお決まりの席があるのかと思ったら、入ってすぐのテーブル席。いつも同じで、すぐ脇を客が出入りする。伊藤さんはそれを観察するのが趣味だった。だからぼくは入口を背に向かい合わせに座ることになる。
 注文も決まっていた。何もいわなくても婆さんが勝手に運んでくる。板山葵いたわさと熱燗で、夏でも同じ、よほど暑くもないかぎりビールにもならない。そして仕上げにりで腹をふくらませる。そして邸まで鞄持ちの続きをすることになるのだが、すんなりとはいかない。あの頃の阿佐ヶ谷は、もちろんにぎやかだったが、いまのきらきら具合とはちょっとちがって、街のあかりも低い落ち着きのなかに人が行き交っていた。伊藤さんの邸は南口だったから、また駅に戻って、今度はガード下を荻窪に向かって歩く。路地も仄暗ほのぐらく、ほろ酔い加減で二人並んでふらふらと気分もよかった。
 駅から路地を二三度曲がると知らぬ間に、外灯がぽつんぽつんと灯るだけの静かな住宅街に入っていく、その先に伊藤さんの邸はあるのだが、手前で、「ちょっと寄っていこう」と、脇の民家の門口を入ってインターホーンを押した。ドアが開いて、和服姿の中年婦人が現われた。伊藤さんの隠れ家だった。
 といっても怪しいところでは更々なくて、当時あの辺りは、一種、文士村で、そんなかれらが夕べになるとなにかと集まってくる、たしか蜂の子といったと覚えているが、めずらしいけしきのバーだった。平屋のごくふつうの民家をやり替えて、障子建具はそのままに床をフロアにして、靴を脱いで上がりはするが、長いカウンターに、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったか、簡素な造りで、カウンターを止まり木のようにして文士らしき客が、いつも二、三人、背中を向けていた。脇の硝子戸越しに坪庭も見える。と、さっきの婦人が女将に変わって、カウンター越しに箸と突き出しをそろえた。
 水を打ったようにしんとして、伊藤さんが周りに一つ一つ、流し目を送ると向こうも小さく会釈を返してそれだけ。しばらくすると、女将がグラスを二つ差し出したあと、透き通った切り子の水差しのような硝子瓶をぽんと置いた。ふつうのウイスキーの瓶と同じくらいの大きさだが、なかには半分も入っていない。
「これだけしか、呑ませてもらえんのだよ」
 と、それでも伊藤さんは舌舐したなめずり。よく見れば、まわりの文士たちも同じ切り子の瓶を前にグラスを傾けている。
「きょうは、二人だからこんなだが、いつもは三分の一もないんだよ」
 愚痴ると、カウンターの向こうで女将が笑った。あるのはニッカだけ、それもボトルキープじゃなくて、切り子の瓶に、女将がその日の客の顔を見て量も決めるのだった。
 そうして二人、水割りをやるのだが、伊藤さんは人からサービスされるのを嫌がった。ほかでもない、薄くつくられるのがいやだっただけで、ついでにぼくにもつくってくれるのだが、ほとんどオンザロック状態だった。だからあっという間に酔いも回って瓶も空になってしまう。すると、伊藤さんはカウンターの女将に向かって、背中を丸めて手を合わせた。すると、しょうがないわね、とばかり、女将は笑ってグラスに水割りをつくってさしだした。それでお終い。へべれけの伊藤さんの脇を支えて宅まで送り、あとは歩いて団地に帰った。日付も変わって電車もない。タクシーなんか使ったら同行に叱られる。もちろんそんなお金もなかったが、一時間もひたすら歩けばなんとかなった。そうっとドアを開けて居間に入る。と、「何時なの?」、隣の部屋から険しい声が飛んできた。
 そんな伊藤さんも鬼籍に入ってもう久しい。

最初のキューバ行

 はじめてキューバに行ったのは一九七七年の秋だったと思い出している。大阪の片山さんの鞄持ちだった。片山さんは高校の教師をしていたが、勤評闘争をたたかったあとは辞職して研究生活を送っていた。古くからの土地持ちで、大阪の北の方にいくつもガソリンスタンドを持っていた自適の人でもあり、京都の奥嵯峨に瀟洒な別荘を構えて月の半分を暮らしていた。それが、大阪万博のときに、キューバ政府がパビリオンを出したいが土地がないというのを、いろいろ走り回って都合をつけた。そんな功労に応えてキューバ政府が、ほかにお知り合いの方もごいっしょに、と招待したのだった。
 まず、友人で児童作家の庄野英二さんが誘われた。そして、ついでに、だれか手頃なパシリはいないかというのでぼくに声がかかった。あの頃、キューバに行くにはメキシコ経由で、便数が少なく、シティーでの数日の便待ちもあたりまえだった。だから、その間にシティー見物もしておこうというわけで、二年前にメキシコをほっつき歩いていたぼくは、連れていくにはちょうどよかったのだろう。
 庄野さんはヨーロッパをよく知っていたし、おまけにいつも大名旅行だったから、メキシコでは木賃宿のようなところに泊まりたい、と贅沢をいった。もちろん、そんな宿なら嫌というほど知っている。それでむかし泊まった一つに案内した。タグバ通りの路地を南に入った古い宿だった。のはよかったが、夜中にドアを、どん、どん! と駆け込んできて、「のみだか、南京虫だかがベッドにうようよいてかゆくてれん」と大騒ぎ。それで、明くる日は少しグレードアップして二つ星をとった。廊下も絨毯敷きの、ぼくにすれば高級ホテルだった。それが、部屋に入るなり、「目が回る」といって逃げてきた。床が傾いていて頭がおかしくなる、というのだった。なるほど、というより、いわれなくてもわかっていた。部屋だけじゃない、建物全体が傾いているのだった。メキシコ・シティーはアステカの湖を干拓してできた街だから地盤が緩く、ぼくも二年前には、建国記念日のパレードで騎兵の行進に道路が揺れるのを体験していた。だから、床が傾いているホテルなんかざらだった。こうして三人の珍道中がはじまるのだが、そんなキューバ紀行を、庄野さんは『花の旅』(人文書院)にまとめていて、ぼくも「O君」で各所に登場する。
 生真面目そうに見えて、庄野さんは、けっこう砕けた不思議な人だった。ハバナでは、作家の庄野さんのためということで、キューバ作家同盟の作家たちとの会談の場を設けてくれていて、ぼくも秘書に化けて同席した。その席上で、ぼくもドーラ・アロンソ(「キューバの童話」参照)に出会うのだが、キューバの作家たちが次々と発言、議論するのを、庄野さんは休みなくノートにペンを走らせている。すごいなと頭の下がる一方、何をそんなにメモすることがあるんだろうと尻目に覗いてみたら、向かいの席の作家の似顔絵を描いていた。それが、思わずふきだしそうになるくらい、特徴をとらえてうまかった。
 片山さんに用意されたのは外務省での講演だった。片山さんの本領は中国近代史研究だった。軍事面から中国共産党の歴史や、あの頃は文化大革命の真相を追っていて、『近代主義に挑戦する中国』(恒文社)という名著を遺している。当時、キューバ政府はソ連を離れ中国に接近しようとしていた。だから文革後の中国の実態を知りたかったのだろう、外務省のアジア局長を頭に若手官僚が四、五十人いたか、それを前に二時間を超えて片山さんは持論をぶった。解放軍が中国経済を動かす、中国財界=解放軍という構図、いまも日本の評論家がわかっていないこの論理を最初に唱えたのも片山さんだった。たとえば、近年、話題のファーウェイ(華為)も実態は解放軍なのである。
 そうして行事を終えたあと、ハバナから東部のサンチアゴ・デ・クーバまで一週間、車で案内されたのだった。通訳はカラフォラという四十代半ばの静かな人だった。反対に運転手のホルヘは、がら、がら、と濁声だみごえの三十男で、三人を、とくに庄野さんを「ショウノ、パパヤー!」と声を張り上げては、にやり顔でからかった。途中のカマグェイだった。昼食に立ち寄ったレストランで、食後のデザートに庄野さんがパパイヤを注文した。やがて、縦に真っ二つに切られたおおきなのが、皿に載ってやってきた。途端に、周りの目が庄野さんに集中した。南の国だから果物は豊富だと思っていたが、ほとんどは輸出に回っていたらしく、周りのテーブルにはどこもデザートなんか見あたらない。だから羨望の目かと思っていたら、続いて、げら、げら、と大爆笑。あとで知るのだが、パパイヤの切断面、それは女性の何かに似ているらしかった。
 以来、「ショウノ、パパヤー!」が庄野さんのニックネームになっている。朝は「ショウノ、パパヤー!」ではじまり、夜は「ショウノ、パパヤー!」でおやすみになる。カストロ革命の聖地ピコ・トゥルキノやモンカダ兵営はもちろんグァンタナモ基地まで東部各所を案内されたが、ホルヘがいつも叫ぶのは「ショウノ、パパヤー!」。なかなか日本では経験できない陽気な旅だった。
 そんなキューバに出かける前夜、東京麻布のキューバ大使館で大使招待の夕食会があって、片山さんと庄野さんの末席にぼくも並んだ。その席上、大使から、キューバでの何か希望があれば、と訊かれ、ハバナでどなたか日本人一世と会えないでしょうか、とおねがいしたら一つ返事で聞き入れてくれた。けれど、キューバではそれがなくて終わっている。若い頃にほぼ十年、半お役所仕事をしていたから少しはわかる。キューバに限らない、お役人にはよくある話で、もし実現していれば、たぶん内藤さんに会えていただろうし、それも五年も早かったから、その後の展開も少しはちがっていたかもしれない。

*続く*