■人日和■

hitohiyori: recuerdos sobre conocidos

ふるさと、そして、あの人この人……

目次

機屋

兄ちゃん

咲枝さん

その人

さよなら、まさとくん

メキシコだった理由

伊藤さん

最初のキューバ行

わら

走る牛

写真

ドクトル・スズキ

大蔵池

旅のはじまり

西陣幻影

胡瓜の水

*続く*

機屋

 一九五一年、大阪、和泉の生まれ。家は木綿の零細機屋はたやだった。岸和田紡績に勤めていた父が、戦死した兄に代わってあとを継ぐため、百姓家の実家に戻り、織元から賃機を二十台ほど入れてはじめている。朝鮮戦争の糸偏景気に乗ろうとしたのだろう。それがどこでぼたんをかけちがえたか、大手は貪欲に太っていくのに下請けの零細機屋はさっぱりで、織元からの工賃こうちん払いの手形も不渡ふわたり続き。偶々、マッカーサーのおかげで田畑はけっこうあったが、物心ついたぼくの記憶にも、その日暮らしがやっとだった。母にいわれて晩飯の買い物に行くにも、十円玉、五円玉、一円玉をかき集めて八百屋に走った。すると店の親爺が笑った。「ぜに扛秤ちんぎはかろか」

 あの頃、買い物はなんでも付け払いで、かよい、といったが、店の払いは現金でなく、代金を帳面に書いてもらって、月末か、長いときには節季といって盆暮れにまとめて清算するやり方だった。ノドを細紐でじた帳面だったが、毎日、何カ月も使っているから、表も裏もぼろぼろに手垢で黒ずんで、てかっていた。それをげて店に走る。その払いが何カ月も溜まっているから付けも効かなくて、現金払いでしか売ってくれないのだった。これで貧乏ぶりの程度がわかってもらえるだろう。風呂も焚き付けのしばが薪炭屋から買えなくて、休みの日には山に落ち枝を拾いに行ったり、納屋のこぼれた壁板を剥がしていた。そこに母が病気で寝込んでいた。いまは年々、ステロイドでいい薬も開発されているらしいが、あの頃は不治の病といわれたリューマチだった。

 母の実家は四キロほど浜に下った小さな町。毛織物の織元で、たいして金持ちでもなかったが結構な暮らしをしていた。それがどうしたわけか、百姓兼業の零細機屋の嫁に入り、百姓仕事はもちろん、工場こうば夜業やんぎょう続きの毎日だったから体がやられるのもあたりまえ。子ども心に父を恨んだ。母に代わって台所に立ったのが小学校の二年だったか三年だったか。嫌で嫌でしようがなかったが、中学を出るまでは我慢して家を逃げた。

 拾ってくれたのが大亀だいき和尚。京都、紫野大徳寺、徳禅寺の住持だった。当時、大徳寺には、二十二だったか三だったか、塔頭があって、和尚の寺もその一つだったが、もともとは大徳寺と同格で、少し南の、いまの雲林院あたりに大きな寺域を誇っていた。それが応仁の乱で焼け、あの一休さんが大徳寺伽藍の南に再建した。だからほかとはちがって、別院と呼ばれて格式も高く、大徳寺を束ねる歴代住持が暮らす寺だった。だからいまも大徳寺住持である宗務総長の就任式には和尚の寺から出かける慣わしになっている。

 そんな立派な寺に、家を逃げた小僧が務まるわけがない。沙弥になる気などはなからなくて、逃げる計画ばかり練っていた。憂鬱で、悶々として、二年待ったら機会が来た。春だった。ある朝、いつものように寝坊して慌てて本堂に走ったら、おまえはここにいてもしようがない、すぐに出ていけ、と一喝、破門された。待ってはいたが、突然来たから、正直、困った。小さな鞄二つに教科書ととりあえずの下着を詰め込み、自転車の両のハンドルにげ、さて、どこに行こうか、思案に暮れた。けれどくびきけた気がしてうれしかった。

兄ちゃん

 実の兄でもないのに、にいちゃん、兄ちゃん、と呼んで親しんだ人がいた。大阪特有のいい方かと思っていたら、お隣の韓半島でもおんなじで、兄ちゃんはオパ、ねえちゃんはオンニというらしい。古代からの地縁、血縁が消せないのだろう、心に温かい呼び方だと、最近、不思議に懐かしい。

 その人は母の父の妹の末っ子だった。つまり母の従弟にあたるのだが、ぼくからすればなんといえばいいのか、ともかくとしも一回り以上もちがう兄ちゃんで、戦争最中、疎開でぼくの家に逃げてきていたらしく、そんな縁もあって、父も自分の子どものように思っていた。その兄ちゃんが、疎開の小学校の同級生だった近所のねえちゃんと結婚して婿養子に入った。だから家も近くて、以来、弟のようによくしてくれて、寺を出たあと、修学院、太秦うずまさ上立売かみたちうりと京都の街を西に東に彷徨うろうろしたときも、そのたびに引越しの荷物運びをしてくれた。クロガネ・ベビーといって、リアエンジンの軽トラだったが小回りがいてよく走った。「おまえのおかげで京都の街に詳しゅうなった」、いまも訪ねると茶化される。

咲枝さん

 生まれた村から二つほど村を置いて、いまはなくなった国鉄の小さな駅があった。

ぼん、送っていこか?」

 改札を出ると脇の交番前に笑顔があって、誰かと思ったら咲枝さんのかれだった。どういう具合か、あの頃は何でも自由で、駐在の真ん前だというのに、白タクの溜まり場になっていた。駐在といっても気心も知れた遊び仲間で、机の前でひまそうに煙草をくわえながら、ときには車の傍までやって来て、こちらも閑そうに窓から片腕を出している運転手とぺちゃくちゃしゃべっていた。

 坊と呼ばれはしたが、もちろん坊っちゃんという意味ではさらさらなくて、小倅こせがれ、餓鬼とまではいかないまでも、ふつうに、おい、とか、ぼく、でいいのだが、かれにはそう呼ばないと都合の悪いちょっとしたわけがあった。

 坊? そんなんやないぞ、

 思ってぼくは尻目に行こうとしたが、ドアまで開けてくれたので、しかたがない、会釈一つ、返事代わりに後ろの席に乗り込んだ。

 お寺は、どないです? 黙っていればまちがいなくそう訊かれただろう。それが嫌だったから先手を打った。

「咲枝さん、元気にしてますか」

 かれは、照れもせず、奥歯につまった飯の食べかすを吐き出すかのように、

「ああ、あれとは切れましたわな」

 けろりといった。

「先生から聞いてまへん?」

 バックミラーにぼくをのぞくと、

「もう大分だいぶになりますわ、男ができよりましてな。まあ、早い話が、逃げられたいうこってすな」

 たばこでやにだらけの歯茎を見せてにやりとした。先生といったのはぼくの父のこと、学校の先生でも医者でもなければ、もちろん議員でもない。報酬も何もない、保護司を長くやっていて、その筋の人からそんなふうに呼ばれていた。

 生まれた村、といっても、もちろん市制が敷かれてずいぶんにはなっていたが、ぼくらの暮らしの内では変わらず「むら」のままで、昔から街道筋の村であったからか、いわゆる組の人や、それらしい人がけっこういて、小学校に通う路地にも、ヒロポンにやられて、昼間っから、とろん、と腐った魚のような目をして、縁側でらりっている兄さんもいて、見かけだけで怖かった。それが、別段、暴力をふるうわけでもなく、

「おい、わかってるか、こないなったらあかんぞ」

 とぼくらを諫める、不思議な人だった。

 咲枝さんは鹿児島から来ていた織り子さんだった。

「なんにも持たんと、鞄一つやったわな」

 思い出して蒲団の上の母がいったが、中学出たての集団就職でやって来て、二、三、ほかの織屋を渡り歩いたあと、ぼくの家に流れてきていた。といってもまだ十七、八だっただろう。母屋の隣に祖父が建てた藁葺き棟がまだ遺っていて、その一部屋に寝起きして、機織り仕事の合間に、家の台所仕事も手伝ってくれていた。九州人にはめずらしい、線の細い人で、小柄で目のくりっとした丸顔の、子どものぼくの目にもかわいい人だった。

 かれの出処でしょは知らない。村から南の和歌山にかけて広く仕切っていたくみの人、といっても下っ端で、小さな喧嘩で人を刺して堺の刑務所送りになっていたのが刑期半ばで出所、保護司をしていた父が引受人になっていた。いわゆる保護観察というやつで、月に一度、近況報告にやってくるのだった。それがきっかけで咲枝さんと知り合って、いつの間にか咲枝さんの部屋に転がり込んでいた。

 咲枝さんは頭の回転のいい人だったが、その分、人を食ってしまうのか、ずぼらなところがあって、毎朝、仕事の時間にもしょっちゅう寝坊していた。それを起こしにいくのが、ぼくの役目だった。

「ねえちゃん、時間だよ」

 身内でもないのに年上の女性を村ではそう呼んでいた。むかしからの慣習で、藁葺き屋根の古棟は、三和土に入れば硝子戸一枚隔てて、上がり端から二人のけしきは丸見え。

「んっ! なんや、ぼんかいな」

 一つ布団の中で、決まって驚くのはかれの方だった。

「じきに行かせるさかい、先生に、うまいこというといて」

 ぺこ、ぺこ、頭を下げるのだが、咲枝さんは動じない。雀の巣のようにパーマをかけたちりちり髪を掻き上げながら、白い腕を枕元に伸ばすと、しんせいの茶色の箱から一本取り出して口にくわえた。

「おい、そんなんしてんと、早よ行った方がええんとちがうか?」

 かれの方が気が気でないらしいが、なにせ紐の身だから、つい勢いも鈍くなる。それに返事もしないで、マッチをさがすのか、蒲団をはねた咲枝さんはシュミーズ一枚。肉付きのいい体の線が透き通って、子どものぼくの目にも眩しかった。

その人

「ママが死んだよ」

 電話の向こうで、その人だった。

「やっと、ってくれた」

 そうもいって、息を吐くのも小さく聞こえた。

「疲れたよ」

 ぼくに返す言葉もない。

「人を看取みとるって尋常じんじょうじゃないね。とくに、あの病気はね、欲も得もない……」

 そういって途切れかけたが、すぐに語調が変わった。

「いってもね、ぼくも勝手気儘きままにやってきたから、帳尻合わせといったらそれまでで、おさまりもつく」

 三年と少し、寝込んだ妻を看送った、静かな独白ひとりごとだった。

「通夜も告別も、いいからね」

 念を押すように付け足した。野辺送りは家族だけで小さくすませるつもりらしかった。すると、ぼくにも言葉がなくて、

「落ち着いたら、また散歩のときにでも寄ってください」

 といいかけたのを、届いたかどうか、すぐに切れた。しばらく一人になりたいのかもしれないな……、とも思ってみた。だから、連絡もしないで一月ひとつき経ち二月経ち、やがて一年が過ぎている。

 その人、と書いているが、不思議な関係だった。先生と呼ぶほど遠くはなくて、ふだんから偉ぶることもなく、齢は親子ほどもちがっているのに、弟か、実際、その人もどこかに書かれていたが、年下の友でもあるかのように、ぼくを見てくれていた。理由はわからない。深く考えもしなかったし、いまもそのまま、ぼくはいる。

 その人は詩人だった。農民詩人、実際にそんなカテゴリーがあるのかどうか、文壇に躍り出る旗印にしたのだろう、ほんとうは民俗学者だったとぼくは思っている。

 もちろん、なにより文章家だった。若い頃は、といってもよく知らないのだが、行き場のない精力のけ口をさがしているような、ねっとり湿った文章の多かったその人も、本卦ほんけがえりを迎えたあたりから、急に乾いたけしきを見せて、座わる生活が続いたからか、癖になった腰痛のリハビリだといって散歩を趣味に、その徒然のエッセイを、あちこち、新聞、雑誌に発表していた。コースは幾通りかあったようだが、どれもがぼくの家を中継していた。休憩場所が必要だったのだろう。

 ぴん、ぽーん……、とやって来ては、ぼくの入れる番茶の湯呑みを前に、小一時間、話すと、

「それじゃ、また」

 と、にっこり、丸テーブルを立つ。それを表に見送るのが、ぼくの日課になっていた。

 姿を見せるのは、いつも決まって十時過ぎ、カントのように正確で、長くなっても昼前には帰っていく。もちろん、ぼくのいない日もあって、そんなときは、玄関ドアのすぐ前に、一つ、庭の小石を置いていた。

 それを、戻ったぼくは見つけて、きょうも、お元気でしたか……、と庭に返す。

 いつからそんなふうになったのか。気づいたかい? と訊かれたこともなかったし、ぼくの方でもたしかめたこともない。二人の、それはゲームのようなものだった。

 出会った初めは、ぼくもまだ独りだった。

「原稿用紙は持ってるかい?」

 かれて、ぼくはまだおぼろにいた。

「いえ」

 うつろに返事をすると、ぼくをそのままに書斎を出た。そして、いつ戻ったか、

「そんなものはりませんよ。起こす時間が無駄でしょう」

 みものでも見るかのようにして、手にした原稿用紙の束を、ぼくの前、応接セットの硝子机の上に置いた。その端に、ぼくはメタルのカセットレコーダを回していた。

「じゃあ、話すからね、そのまま書いていけばいいんだよ」

 自信たっぷり、笑顔のその人に、ぼくはまだよくわからないでいた。

 二日前のことだった。

「原稿をおねがいします」

 電話でいったら、

「いつでもいいよ」

 と一つ返事で引き受けてくれ、訪ねると書斎に通され、そのみとは対照に、不思議なその目に射竦いすくめられ、一種、ぼくは催眠状態にいた。

 それからどれくらいだったか、まるで速記者にでもなったかのようにぼくは原稿用紙に向かった。顔を上げる余裕もない。そして、

「まあ、こんなところかな」

 と話をめた。

 編集部に帰るとすぐに机に向かって清書した。そして、びっくりした。語りはそのまま原稿になっていた。

 明くる日、それを手に、また訪ねた。

「よくできてるね」

 それはぼくへの慰めだったか、話した自分への確信だったか。ぱら、ぱら、ページをめくりながら、ときどき赤ペンをとって書き入れていたが、十分ばかりで机の上に束を戻した。

「漢字は、そうだね、ぼくはあまり難しいのを使わないから、適当にそろえてください」

 聞きながら、赤字を見ると、あちこち読点と二、三、書き加えがあっただけ。ほかにいっさい注文もなくて、玄関にぼくを送り出した。

「校正もまかせますよ。印刷が上がったら、送っておいてください。これから茨城の結城ゆうきまで出かけますから」

 夜に講演があるらしかった。それから一年が過ぎ、ぼくもその人のことを忘れてしまっていた。前の晩、仲間と呑んだのが度を超して、がんがんする額を抑えながら、出がけにポストを覗くと萌葱もえぎ色の封筒が入っていた。

 あれ? 裏を返すと、その人からだった。

「いま、山の家に来ています。机の窓から浅間がきれいです。よかったら見にいらっしゃい。駅から電話をくれれば、散歩がてらに迎えに出ます」

 そして、こんなことも書いていた。

「すぐ隣が水上さんの別荘で、昨夜も遊びに来られました。話題の豊富な方で、つい夜更けまで話し込んでしまいました。あなたは水上さんに会いたいといっていましたね。こっちに来れば、いつでも紹介してあげますよ」

 山の家というのは、水上さんの別荘の敷地を分けてもらったそうで、そこに小さな山小屋を建て、泉庵いずみのいほと呼んでいた。二十畳余りの板の間に台所とトイレと風呂を付けただけの、狭いが一人暮らしには快適らしかった。そこで七、八月の夏を籠もって九月の半ばに下りてくる。四十の半ばを過ぎた頃かららしいが、そんな暮らしを続けていた。

 それからも、毎年、山の家から萌葱の手紙はもらったが、一度も応えずに終わっている。勤めの時間が自由にならないということもあったが、避暑というのがぼくのポリシーに合わなかった。その人もそれをわかりながらたぶん手紙をくれていたと思う。折々によく手紙をくれた。芸術といってもいい、念の入ったものだった。まず用紙からちがって、原稿と同じ特注の少し厚めの利休ねずみの洋紙を使い、インクは心持ち沈んだトルコブルー、その一枚一枚に手彫りの朱の篆刻てんこくの押印があった。ちょっとした連絡事や礼状にもそれだった。だから棄てるに忍びず、というより、レアものと打算していまも押し入れにとってある。

「鳥が来てるね」

 秋の一日、いつもの丸テーブルを前に庭を眺めて、ぽつりといった。黄葉をすっかり落とした采振木ざいふりぼくのくねった幹は、植えたときはやしのようだったのが、いつの間にか大蛇のように宙をのた打つまでに太く高くなっている。その枝越しに、ばしゃ、ばしゃ、夫婦者だろう、水浴びに来ていた。

 とくにしつらえたわけでもない。狭い庭を隔てて隣家の物置の、腐りかけたといの中で遊んでいた。物置は、苔が干涸ひからびたブロック塀に擦り寄るように建っていて、雨樋が受け金が錆び落ちて、ちょうどひさしの真ん中あたりで緩く逆への字にたわんでいるところに、降った雨や、冬場には霜の解けたのが溜まったまま、その水嵩みずかさと樋縁の高さが、夫婦者には水浴びに格好らしかった。

「めじろかな」

「どうでしょうね」

 そんな返事しかぼくにはできない。

「もう少し大きいのも来ますよ」

「そうですか」

 言葉はいつも他人行儀だった。

「食い気がすごくて、南天や千両も、あっという間に丸坊主にしてしまいます」

 すると、

「それは、椋鳥むくどりか、ひよどりでしょ」

 笑いながら振り向いた。

「頭の毛が、ぴょんと立ってるやつですよ」

 憎らしくて、ついきたなくいうと、

「じゃあ、鵯だね」

 すぐに決めた。

「あれは飾り羽といってね、雲雀ひばりといっしょで冠のように突っ立ってるから、すぐにわかりますよ。あわて者というか、計算ができないのか、なかには食べ過ぎて飛べなくなるのもいるんですよ」

 何を訊いても物識りだった。

 そんな二人を余所よそに、夫婦者は樋の中、向かい合ったり、尻を向けあったり、ばしゃ、ばしゃ、やっていたが、やがて、すぐ前の采振木の小枝に飛び移ると、羽を広げ、また何度も、ぱた、ぱた、やっては、体のあちこちをくちばしついばみはじめた。

「羽根の水切りだね。羽根を整えているんだよ」

 はじかれた水滴は、小春日の低い陽光の中、きらきらと虹色にいくつもの輪を描いて輝いた。

「神武は熊野から大和入りをするよね」

 突然いうのもその人だった。

「作り話だっていう人もいるけど、あれはほんとだよ」

 そんなふうに、よく古代史の話をした。

「もちろん神武っていう人はいなかっただろうし、一つの部族というか、勢力のことを擬人化してるんだね」

「擬人化?」

「そう、南や西から新しい勢力が大和にやって来たことを物語にしてるんだよ。大阪湾でいろいろあったあと、和歌山の加太かだのあたりから急に熊野に行くでしょ。そして突然、奈良の大宇陀おおうだに現われる。だから、熊野川をさかのぼったとか、それは無理だから、あれは大嘘だとかいうけど、そうじゃなくって、あの熊野っていうのは紀ノ川流域のことなんだよ」

「どういうことですか」

「熊野っていうのは、隈野、つまり辺境、マージナルさ。いまの熊野は紀伊半島の南だけれど、あの頃の熊野は大和のごく周縁で、それが、大和の勢力が大きくなるにつれ、辺境、つまり隈野も移動していくんだね。だから記紀は嘘をいっていない。いまのぼくらが理解できないだけなんだ」

 いいながら、部屋の中を見回した。地図はないか、といっている。それにぼくは立ち上がり、部屋の隅、いつも壁に立てかけておいてある分厚い地図帳をとって差し出すと、ぱらぱらと頁をった。

「ほら、ここだよ」

 指でさしたまま、丸テーブルの上にそっと置いた。

「ここには書いてないけど、かぜもりっていう小高い峠があってね」

 御所ごせの少し南、和歌山との県境にほど近い、金剛山の東麓である。そこを東征神武の一行は越えて大和入りしたというのだった。その人は歴史家ではなかった。けれどそれ以上だったと思っている。

「歴史家はいわないけどね、もう一つ、大和入りのルートがあるんだよ」

 半島から大和への古代の道筋をいっていた。

「たとえば若狭の小浜おばまあたりに着いたとするよね、すると、あとは東に谷合を進んで近江に出るんだよ」

「琵琶湖へですか」

「そう、越える峠もたいしたものじゃない」

 地図の上、今津いまづの少し左をさしてそういった。

「むかしの琵琶湖はね、いまよりずっと大きくて、たぶん二倍くらいはあったんじゃないかな。それを渡ったのか、ぐっと南へ迂回したのか、いまの草津線沿いに伊賀いがに出ている」

 地図をめくり、今度は三重、そして奈良のページと開いて道筋を指でなぞっていく。

「伊賀から、ほら南に、名張を通って三輪山みわやまの麓に下りてくる。そこが泊瀬はせで、ちょっと先が、磐余いわれだよ」

 わかりましたか、とばかりにぼくの顔を覗き込む。

「大和にはね、いまのように西や北からじゃなくて、南と東から入ったんだよ。勝手な想像でいってるんじゃない、記紀にはそう書いてある。行間を読めばそれがわかるさ」

 そんな話に、いつも、ぼくは頷くだけだった。

 

葛城かつらぎを歩いてみないか」

 いつものように入ってくると、いきなりいった。御所の西、金剛葛城山系の麓の古代道をたどってみようというのだった。

「あそこはおもしろいよ。でも、一人じゃつまらないからね」

 その人の仕事は、じつは旅だったといってもいい。若い頃から、月の半分以上は、講演も入れて、ほとんどが旅の人だった。けれど、そのときもそうだったが、とうとうごいっしょしたことがないまま終わっている。残念に思うが、別れというのは急にくるからそれはそれでしかたがない。

「金剛山っていってるけどね、あれは、ほんとは葛城山なんだ」

「それじゃ、いまの葛城山は?」

「あれは、江戸の頃までは篠峯しのみねといってたらしい。『大和名所図会』にもいてある」

 古代史を語るその人は、いつも生き生きとして、その目は遠くをさして光っていた。

「はじめて歩いたのは、上のがまだよちよち歩きだった。ママの機嫌をとりながら出かけたよ」

 その人は自由人だった。上の娘、つまり長女の宇智子さんが生まれたときも、一人、旅の空の下だった。

「ママといっしょに旅したことなんて、一度もなかったよ。生き方がちがったからね」

 いつものことだが、ことげに吐き捨てる。ママとは、いうまでもない、夫婦間で子どもを軸にした呼び方だが、なぜか、その人はぼくにもそのままだった。

 二十七で九州から念願の上京を果たしたその人は、百姓育ちがそうさせたのだろう、東京の郊外、武蔵野の私鉄駅近くの麦畑に、近在農家から土地を分けてもらって、まず、家を建てている。喰えなくなっても帰るところさえあれば生きていける、といったが、そのように百姓気質が染みついている人だった。戦後すぐのことで、農家にも現金収入はありがたかったのだろう、どこでも好きなところを選べばいい、と農家は分けてくれた。それを南東の角を選んでいる。一坪一万三千円で八十坪。建築費と合わせて二百万円は、財産分与として実兄が助けてくれた。

「百姓といっても自作農だよ。小作なんて百姓にも入れてもらえない。江戸の頃から油屋だったっていってるけど、祖父さんあたりで駄目になって馬喰ばくろうをやってたらしい」

 畑といっても、あたりは点々とけやきの森が残っているだけの野っ原。駅まではあぜのような野道を歩く。

「雨が降ると泥だらけになるからね、長靴を履いて出て、駅で預けてふつうの靴に履き替えていた」

 店といっても駅前に蕎麦屋が一軒あるきり。一時間に一、二本、時間を忘れさせないように二両連結の列車が走っていた。もちろん車の姿もない。

 棟上げには大工を呼んで、棟梁といっしょに棟にも上り、いっしょに立ち働いた。そうして小さかったがあか抜けした瀟洒しょうしゃな一軒家になっている。

「百姓育ちだから、まず地に足をつけないとはじまらない」

 信条だった。

「だから、家を建てるとすぐに結婚した。安心して帰れるからね」

 兄弟は五人、男ばかりの末っ子だった。

「おまえは産まれてくるはずじゃなかった、って、母はしょっちゅういったよ。といっても悔いでも愚痴ぐちでもないんだよ。ぼくを、かわいそうに思ったんだね。ずっと二人暮らしだったから」

 一人でも人手のほしい農家だが、四人もいれば十分、それ以上の扶持ぶちはない。おまけに三十も半ばを過ぎての五人目、世間体も悪かった。

「捨ててもいいと思った子どもは、逆に可愛いものなんだね。時代も時代だし、なにもない貧乏百姓なのに、母には大事に育てられたね。怒られた記憶が一つもない。けど、父親の記憶もさっぱりない」

 そんなふうにもいった。父親は、その人が産まれた年に風邪をこじらせ肺炎で、ころりと逝ってしまう。それからが悪運続き。明くる年に三つ上の四男が馬車にかれて即死、三年後には三男がチフスで死んだ。そして長男は戦争末期に召集が来て、フィリピンでマラリアにかかって死んでいる。終戦の二日前のことだった。

 家には祖母と母、そして次男とその人がのこる。十五になっていた。

「金剛山の麓の少し開けた高台に、高天たかまっていう村があってね。記紀に出てくる高天原はあそこのことだよ」

 断定していうのがその人だった。

「この間、話をしたでしょ、風の森」

 盆を手に戻ったぼくを見上げていった。

「あれを越えて大和盆地に入ったところが高天でね、そうしてやって来たのが葛城族だね」

 ぼくは頷きながらお茶をすすめる。それに軽く会釈で応えてまた続けた。

「反対に東から三輪山の麓に出てきたのが三輪族。それから、名張に下る前に東に峠を越えて石上いそのかみに出てきたのが和邇わに族。これは百済系の人たちだね。この三つでだいたい日本の歴史がはじまっている」

 その人の話に終わりはなかった。そうしていつものように、その日も話を滔々と続けて、

「じゃあね」

 と帰っていった。話せば完結するのか、頭の中で葛城行を満喫してしまったのか、そのあと、古道を歩こう、といったことがなかった。そしてまた、話は次に進むのだった。

 

「ちょっと来ないか」

 ひょいと電話があって、ぼくは走る。忘れかけた頃に声がかかる。ずっとそうだった。

「きょうは、何の話をしようか」

 開口一番、それなのだが、いつもその人の方で決めていて、かまわず話しはじめる。そして話のモジュールも決まっている。それを整理するためにぼくを呼ぶのだった。もちろんぼくは黙って相槌あいづちを打つだけ。そうして話は、早いときには一週間後には新聞の連載になって、一カ月後には雑誌になり、半年後には単行本になっている。

 三十年は相手にしてくれただろうか、その人も、持病の腰痛にパーキンソン病が重なって入院、しばらく元気にしていたが、あの冬は、とくに寒さが厳しくて、肺炎をこじらせて逝っている。あと十年くらいは話も聞きたかったが、無慈悲なもので、だからひつぎは重たかった。二十歳で母を送って以来、ずいぶんかついできたが一番こたえた。涙もあった。野辺送りに一度も流したことのない、はじめての涙だった。

「この人の脳みそ、焼いてしまうの? なんか、もったいねえなあ。そんじょそこらにない、いい脳みそだよ。どっか、大学病院にのこせないの?」

 うしろで、だれかと思ったら、俳優の田中健だった。

 ぼくもそう思った。月並みでない、かれだからいえる、特上の別れのことばだった。

さよなら、まさとくん

 記憶も薄れているのでたしかなことはいえないが、「移民」というのを知ったのは小学校のときだった。

「みなさん、まさとくんとは、きょうでお別れです」

 朝一番、教壇に立った先生が、突然、いった。

 学芸大出たてのポニーテールの美人先生だった。それなのに、まさとくんは、先生の横でにこにこしている。

「まさとくんはね、家族みんなで、大きな船に乗って、ブラジルという国に行くんです」

「……?」

「ブラジルは……、はーい、ここ、ちょうど日本の裏側、大きな国ですね」

 黒板横の世界地図の、ずうっと右端みぎはし、緑の国を指さした。

 いいところに行くんだな、とぼくらはうらやんだ。

 まさとくんの家は、村一軒の散髪屋。お母さんが村の娘で、鹿児島から男工に出てきていた親爺おやじさんといっしょになった。嫁さんが大柄ののみの夫婦だったが、仲良くて、二人いっしょに、いつも朝早くから店を開けていた。

 親爺さんはどちらかというと趣味人で、大の魚釣り好き。つい、そっちに熱がいくのか、店の中も散髪の回転椅子が一つあるきりの殺風景な、田舎の散髪屋そのものだった。

 それが、子ども好きで、遊びに行くと、ぼくらの頭はただで刈ってくれた。

「おい、そろそろやな。ちょっと、こっち来て、すわれ」

 だから、たいして繁盛していなかった。

 最後の移民船だったと思っていたが、そうでもなかった。五年前だったか、小学校の同窓会があって、

「そら、ちがうぞ、あいつが行ったんはもっと前やなかったかな」

 餓鬼仲間にただされた。子沢山でまさとくんを頭に四、五人弟妹きょうだいがいて、一家そろって出かけていった。それ以来、音信不通で、ぼくも家出をしたり、東京に出たりしたからすっかり忘れていた。それが大学二年のときだった。久しぶりに郷里いえに帰ったら、バス停を降りたところで声がした。

「どないやの、元気にしてんけ? 東大とうだい、行ってんやてなあ」

 まさとくんの祖母ばあさんだった。村では東京には東京大学しかないのだった。

「そういやあ、こないだ、あの子らから手紙が来てな。なんやしらん、サンペーロサンパウロとかいうとこで、食用蛙、うとるらしいわ」

 煙管きせる好きで、脂黒の歯茎を剥き出しに笑顔でいった。そして、

「あとで所番地ところばんちもっていくさかい、いっぺん、手紙でも書いたって」

 と畳みかけられた。

 そんなまさとくんのブラジル行きがぼくの移民史へのきっかけになっている。

メキシコだった理由

 といっても、まさとくんのブラジルはもちろん、移民史を机の上で論じようと思ったことなど一度もなかった。ことのはじめからそうだった。

 アメリカが嫌いだった。家が工賃稼ぎの貧乏機屋はたやで、ほとんど父が一人で、朝は五時起きで、夜は晩飯の後も工場こうばに入って機織りをしていたのを物心ついた頃から見ていた。それが日米繊維交渉で織屋の斜陽が続いて佐藤内閣が出てきた頃にはやっていけなくなっていた。戦後五〇年代に入ると、日本の綿製品は続々アメリカに輸出され、いまのユニクロよろしく、ワン・ダラー・ブラウスと呼ばれて飛ぶように売れた。ところがそれに暮らしを脅かされたアメリカの綿業界が政府に働きかけ、ちょうどジョンソンのあとの大統領選挙のときで出馬したニクソンが日本からの綿製品の輸入規制を公約して当選。輸入規制を働きかけてきたのに佐藤政府がこたえて自主規制。大手おおては国から補償金が出ていろんな事業に鞍替えしたが、下請けの零細れいさい機屋は不器用で身動きが取れず、廃業が続いて父の工場もそうだった。零細機屋は大手から糸を借りて、それを織り上げて大手におさめて飯が喰える。その糸が来ないのだから喰えなくなった。一日、村の鍛冶屋の親父が若い見習いを二、三人連れてやって来て、頭の上から掛矢かけやを振り下ろすと、がらん、ごろん、と乾いた音がして、機は茶碗が割れるように容易に崩れた。そりゃそうだ、機といっても根は鋳物、おさえには強いが叩かれたらおしまいだ。半日ばかり、がたごとやって、工場はからっぽになった。あとは天井の梁に残ったシャフトからぎだらけの革のベルトが、ふうら、ふうら、土壁の隙間風に揺れているだけ。ものごとのむなしさを知った最初のけしきだった。そうして父は仕事をなくしている。もうすぐ還暦という秋だった。

 明くる春、ぼくは東京に出た。学校では専門でもなかったがラテンアメリカの歴史を勉強した。ほかでもない、アメリカが嫌いだったからで、なんとなくメキシコが好きになった。アメリカに国を盗られたりしていたからだろう。敵の敵は味方になる。だからメキシコの歴史を勉強した。ただ、それだけではつまらない。何か自分との、ちょっとちがったつながりがほしかった。それをぼくは移民に求めた。ここで、まさとくんのさよならが働いている。祖母さんにいわれたのに便たよりもせずに、すっかり忘れていたのに現金というか、不思議だった。

 さて、メキシコと決めたがその先がわからない。この国全国を相手にするなど、そんな無謀なことははなから考えていなかった。では都道府県をどこにするか。生まれの大阪は移民に縁も所縁ゆかりもなかった。それからお寺時代を過ごした京都もそうだった。移民県の長野や和歌山、福岡、熊本にはすでに先行研究者がいた。沖縄は調べ歩くにはちょっと遠過ぎる。そして七年だったか八年だったか、思いついたのが新潟だった。一生の同行どうぎょうとなったひと郷里さとだった。いずれ子どもも生まれて里帰りの機会も増えれば、そのときにあちこち調べ歩きもできるし、少しきついが日帰りもできる。そしてなにより、よくわからなかった、いまだにそうだが、その人の性格を見つけるのにも役立つかも知れない、そう思った。

 とそこまではどんなふうにでも理由付けできるが、実際のとっつきがわからない。移民についてあれこれ理屈をいうことは嫌いだった。知りたかったのは人の行動のけしきだった。移民論ではなく移民個々の歴史だった。それなら具体的に人をさがすしかない。そう思ってきっかけを見つけに出かけたのが外交史料館だった。あの頃の外交史料館はずっと敷居が高くて、入館にも紹介状が必要だった。それを職場の理事長の伊藤昇にもらった。戦前から新聞記者をしていて派遣されてスペインにいたとき日米戦争がはじまって一次だったか、二次だったかの交換船で帰国、戦後、定年したあと津田塾で先生をしていた。

伊藤さん

 伊藤さんは週に一度、ぶらっとやって来ては、みんなを集めて会議を、といっても茶話会のようなもので、それぞれが仕事の進み具合をいい合ってそれでおしまい。そして夕方まで手持ち無沙汰にしていたが、引き揚げる前には決まってぼくのデスクのところにやって来て、ぽいっと鞄を投げた。いわゆる鞄持ちというやつで、ぼくは「はい」と応えて身支度をする。まだの高い五時前だった。

 ここでちょっと余談だが、あの頃、上の子はおむつがはずれるかどうかの小さなときで、共働きだから保育園に預けていた。それが水疱瘡で行けなくなって同行は「おねがいね」と先に仕事に出たあと、二人残されて、しかたなく事務所に連れて行って机の横で遊ばせたり、会議のときも足元に座らせていたが、すぐに長い会議デスクの下を正面の伊藤さんのそばに潜っていって、鞄の中からものを出していたずらしていた。それでも伊藤さんはにこにこと穏やかだった。津田塾の先生をしていたから、ぼくも倣って先生と呼んでいたが、本人のいないところでは伊藤昇と呼び捨てにしていた。侮蔑ではなく親しみを込めているつもりだった。

 そうして二人逃げるようにして事務所を飛び出すのだが、行き先はいつも同じ、中央線の阿佐ヶ谷駅、改札を左に出て右に少し行った左側の蕎麦屋だった。小さかったが、白木造りで風情があって、長暖簾をくぐると、「あらっ、先生」と声がかかって、婆さん、つまり亭主の母親が案内した。だから、奥の方にこじんまりとお決まりの席があるのかと思ったら、入ってすぐのテーブル席。いつも同じで、すぐ脇を客が出入りする。伊藤さんはそれを観察するのが趣味だった。だからぼくは入口を背に向かい合わせに座ることになる。

 注文も決まっていた。何もいわなくても婆さんが勝手に運んでくる。板山葵いたわさと熱燗で、夏でも同じ、よほど暑くもないかぎりビールにもならない。そして仕上げにりで腹をふくらませる。そして邸まで鞄持ちの続きをすることになるのだが、すんなりとはいかない。あの頃の阿佐ヶ谷は、もちろんにぎやかだったが、いまのきらきら具合とはちょっとちがって、街のあかりも低い落ち着きのなかに人が行き交っていた。伊藤さんの邸は南口だったから、また駅に戻って、今度はガード下を荻窪に向かって歩く。路地も仄暗ほのぐらく、ほろ酔い加減で二人並んでふらふらと気分もよかった。

 駅から路地を二三度曲がると知らぬ間に、外灯がぽつんぽつんと灯るだけの静かな住宅街に入っていく、その先に伊藤さんの邸はあるのだが、手前で、「ちょっと寄っていこう」と、脇の民家の門口を入ってインターホーンを押した。ドアが開いて、和服姿の中年婦人が現われた。伊藤さんの隠れ家だった。

 といっても怪しいところでは更々なくて、当時あの辺りは、一種、文士村で、そんなかれらが夕べになるとなにかと集まってくる、たしか蜂の子といったと覚えているが、めずらしいけしきのバーだった。平屋のごくふつうの民家をやり替えて、障子建具はそのままに床をフロアにして、靴を脱いで上がりはするが、長いカウンターに、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったか、簡素な造りで、カウンターを止まり木のようにして文士らしき客が、いつも二、三人、背中を向けていた。脇の硝子戸越しに坪庭も見える。と、さっきの婦人が女将に変わって、カウンター越しに箸と突き出しをそろえた。

 水を打ったようにしんとして、伊藤さんが周りに一つ一つ、流し目を送ると向こうも小さく会釈を返してそれだけ。しばらくすると、女将がグラスを二つ差し出したあと、透き通った切り子の水差しのような硝子瓶をぽんと置いた。ふつうのウイスキーの瓶と同じくらいの大きさだが、なかには半分も入っていない。

「これだけしか、呑ませてもらえんのだよ」

 と、それでも伊藤さんは舌舐したなめずり。よく見れば、まわりの文士たちも同じ切り子の瓶を前にグラスを傾けている。

「きょうは、二人だからこんなだが、いつもは三分の一もないんだよ」

 愚痴ると、カウンターの向こうで女将が笑った。あるのはニッカだけ、それもボトルキープじゃなくて、切り子の瓶に、女将がその日の客の顔を見て量も決めるのだった。

 そうして二人、水割りをやるのだが、伊藤さんは人からサービスされるのを嫌がった。ほかでもない、薄くつくられるのがいやだっただけで、ついでにぼくにもつくってくれるのだが、ほとんどオンザロック状態だった。だからあっという間に酔いも回って瓶も空になってしまう。すると、伊藤さんはカウンターの女将に向かって、背中を丸めて手を合わせた。すると、しょうがないわね、とばかり、女将は笑ってグラスに水割りをつくってさしだした。それでお終い。へべれけの伊藤さんの脇を支えて宅まで送り、あとは歩いて団地に帰った。日付も変わって電車もない。タクシーなんか使ったら同行に叱られる。もちろんそんなお金もなかったが、一時間もひたすら歩けばなんとかなった。そうっとドアを開けて居間に入る。と、「何時なの?」、隣の部屋から険しい声が飛んできた。

 そんな伊藤さんも鬼籍に入ってもう久しい。

最初のキューバ行

 はじめてキューバに行ったのは一九七七年の秋だったと思い出している。大阪の片山さんの鞄持ちだった。片山さんは高校の教師をしていたが、勤評闘争をたたかったあとは辞職して研究生活を送っていた。古くからの土地持ちで、自動車ブームの走りに合わせて大阪の北の方にいくつもガソリンスタンドを持っていた自適の人でもあり、京都の奥嵯峨に瀟洒な別荘を構えて月の半分を暮らしていた。それが、大阪万博のときに、キューバ政府がパビリオンを出したいが区画がないというのを、いろいろ走り回って都合をつけた。そんな功労に応えてキューバ政府が、ほかにお知り合いの方もごいっしょに、と招待したのだった。

 まず、友人で児童作家の庄野英二さんが誘われた。そして、ついでに、だれか手頃なパシリはいないかというのでぼくに声がかかった。あの頃、キューバに行くにはメキシコ経由で、便数が少なく、シティーでの数日の便待ちもあたりまえだった。だから、その間にシティー見物もしておこうというわけで、二年前にメキシコをほっつき歩いていたぼくは、連れていくにはちょうどよかったのだろう。

 庄野さんはヨーロッパをよく知っていたし、おまけにいつも大名旅行だったから、メキシコでは木賃宿のようなところに泊まりたい、と贅沢をいった。もちろん、そんな宿なら嫌というほど知っている。それでむかし泊まった一つに案内した。タクーバ通りの横町を南に入った古い宿だった。のはよかったが、夜中にドアを、どん、どん! と駆け込んできて、「のみだか、南京虫だかがベッドにうようよいてかゆくてれん」と大騒ぎ。それで、明くる日は少しグレードアップして二つ星をとった。廊下も絨毯敷きの、ぼくにすれば高級ホテルだった。それが、部屋に入るなり、「目が回る」といって逃げてきた。床が傾いていて頭がおかしくなる、というのだった。なるほど、というより、いわれなくてもわかっていた。部屋だけじゃない、建物全体が傾いているのだった。メキシコ・シティーはアステカの湖を干拓してできた街だから地盤が緩く、ぼくも二年前には、建国記念日のパレードで騎兵の行進に道路が揺れるのを体験していた。だから、床が傾いているホテルなんかざらだった。こうして三人の珍道中がはじまるのだが、そんなキューバ紀行を、庄野さんは『花の旅』(人文書院)にまとめていて、ぼくも「O君」で各所に登場する。

 生真面目そうに見えて、庄野さんは、けっこう砕けた不思議な人だった。ハバナでは、作家の庄野さんのためということで、キューバ作家同盟の作家たちとの会談の場を設けてくれていて、ぼくも秘書に化けて同席した。その席上で、ぼくもドーラ・アロンソ(「キューバの童話」参照)に出会うのだが、キューバの作家たちが次々と発言、議論するのを、庄野さんは休みなくノートにペンを走らせている。すごいなと頭の下がる一方、何をそんなにメモすることがあるんだろうと尻目に覗いてみたら、向かいの席の作家の似顔絵を描いていた。それが、思わずふきだしそうになるくらい、特徴をとらえてうまかった。

 片山さんに用意されたのは外務省での講演だった。片山さんの本領は中国近代史研究だった。軍事面から中国共産党の歴史や、あの頃は文化大革命の真相を追っていて、『近代主義に挑戦する中国』(恒文社)という名著を遺している。当時、キューバ政府はソ連を離れ中国に接近しようとしていた。だから文革後の中国の実態を知りたかったのだろう、外務省のアジア局長を頭に若手官僚が四、五十人いたか、それを前に二時間を超えて片山さんは持論をぶった。解放軍が中国経済を動かす、中国財界=解放軍という構図、いまも日本の評論家がわかっていないこの論理を最初に唱えたのも片山さんだった。たとえば、近年、話題のファーウェイ(華為)も実態は解放軍なのである。

 そうして行事を終えたあと、ハバナから東部のサンチアゴ・デ・クーバまで一週間、車で案内されたのだった。通訳はカラフォラという四十代半ばの静かな人だった。反対に運転手のホルヘは、がら、がら、と濁声だみごえの三十男で、三人を、とくに庄野さんを「ショウノ、パパヤー!」と声を張り上げては、にやり顔でからかった。途中のカマグェイだった。昼食に立ち寄ったレストランで、食後のデザートに庄野さんがパパイヤを注文した。やがて、縦に真っ二つに切られたおおきなのが、皿に載ってやってきた。途端に、周りの目が庄野さんに集中した。南の国だから果物は豊富だと思っていたが、ほとんどは輸出に回っていたらしく、周りのテーブルにはどこもデザートなんか見あたらない。だから羨望の目かと思っていたら、続いて、げら、げら、と大爆笑。あとで知るのだが、パパイヤの切断面、それは女性の何かに似ているらしかった。

 以来、「ショウノ、パパヤー!」が庄野さんのニックネームになっている。朝は「ショウノ、パパヤー!」ではじまり、夜は「ショウノ、パパヤー!」でおやすみになる。カストロ革命の聖地ピコ・トゥルキノやモンカダ兵営はもちろんグァンタナモ基地まで東部各所を案内されたが、ホルヘがいつも叫ぶのは「ショウノ、パパヤー!」。なかなか日本では経験できない陽気な旅だった。

 そんなキューバに出かける前夜、東京麻布のキューバ大使館で大使招待の夕食会があって、片山さんと庄野さんの末席にぼくも並んだ。その席上、大使から、キューバでの何か希望があれば、と訊かれ、ハバナでどなたか日本人一世と会えないでしょうか、とおねがいしたら一つ返事で聞き入れてくれた。けれど、キューバではそれがなくて終わっている。若い頃にほぼ十年、半お役所仕事をしていたから少しはわかる。キューバに限らない、お役人にはよくある話で、もし実現していれば、たぶん内藤さんに会えていただろうし、それも五年も早かったから、その後の展開も少しはちがっていたかもしれない。

わら

 足の親指と人差し指の間に、稲藁を六本ほど、元を挟んで三つに分けて掌に載せ、もう一方の掌を直角に合わせてっていく。藁縄のつくり方だが、わかっていただけるだろうか。昨夜、夢のなかに出て来た父の後ろ姿だった。といっても、いつもそんなことをしていたわけではない。稲刈あきが終わって新藁がとれたときのほかに、年の暮れには、同じ要領で、荒縄より少し細めの注連縄を器用につくって神棚に張った。ただの縄なのに、子ども心にきりっと身が引き締まる気がしたから不思議だった。

 小さかった頃、父が嫌いだった。母を病気にしたのは、毎夜、父が夜業やんぎょうに駆り立てたからだと恨んで疑わなかった。そんな父を身近にしたのはたった一度の父の涙だった。大阪南の道頓堀だったか堺筋だったか、いづもやという古い鰻屋があって、連れられていったことがある。母が死んで、七七日を終えた明くる日だった。細い急階段を上がった二階席で向かい合って、父は鰻重の特上を注文した。

「特上?」

 目を丸くすると、

たまには、ええやないか」

 いって父は目を細めた。特上なんかはじめてで、箸を入れると、なかにもう一段、鰻が隠れている。ついうれしくなって勢いほおばりはじめたのだが、向かいの父の箸が進まない。と、大粒の涙を、ぽろりとこぼした。

うごけんでもな、いてくれるだけでよかったんや」

 そういって箸を置いた。

 そんなむかしを、薄ら明けの布団のなかで思い出していた。あれは何をいいたかったんだろう。もちろん、死んだ母親のことだが、なんとなくわかるとしにぼくもなっている。

 大正初年生まれの父は三男だったが、長男は生まれて一年足らずで夭折し、次男は結婚してあとをとっていたが嫁さんが産後の肥立ちが悪くて嬰児といっしょに死んだのを、たぶんやけっぱちになったのだろう、二度目の応召の広東省バイアス湾の上陸作戦で敵陣に突っ込んで戦死している。だから、あとをとるため岸和田紡績をやめ、伝で織機を借り入れ、納屋を改造して織屋をはじめたのだった。サラリーマンから機屋への転職で、暮らしの気楽さはその日からなくなっている。

 いうまでもない、下請けの零細機屋で一家総出でたいへんだったが、そうでなければ男兄弟四人、一人も大学なんか行けなかっただろう。それでも足りず、細々と小作をしていた祖父じいさんがマッカーサーからもらった田畑や山をその度に切り売りしてみんな卒業している。後継ぎに入った時点で、自分のことは棄てたのだろう、教育親父で、一にも二にも、勉強、勉強、口うるさかったが、おかげでここまで来れている。

 そんな父を思い出すとき、なぜか藁綯いもいっしょについてくる。

走る牛

 文章というものをまともに見たのは小学校一年生の国語の教科書だった。その最初だったと思う。同じ年頃の男の子と女の子が、手をつないで野道を歩いている。そこに、向こうから、好々爺然とした百姓親爺が牛をいてやって来る。それを見つけて女の子が笑顔でいった。

「ゆたかさん、ゆたかさん、うしがくるよ」

 今時いまどき、嘘のような話だが、記憶のかぎりほんとうのことで、最初に覚えた漢字が「牛」だった。 

 それから三、四年生、図書館から借りた木曽義仲の伝記本の巻頭に、煌々と炎を上げて燃えさかる松明を、つのくくり付けられた牛の群れが、暗闇の山坂を敵陣めがけて突っ込んでいく、そんな挿絵があったのを覚えている。人間の記憶というのは、ぼく流にいえば簡単で、日々の出来事をレイヤー方式で脳に記録していく。ただ、それではパンクしてしまうので、よく似たものは上書きしてしまう。だから記憶に残るのはめずらしいものや鮮烈なものばかりになってしまう。

 挿絵は倶利伽羅くりから峠の戦いだっただろう、肝腎の物語の運びは忘れてしまったが、牛の目もぐらぐらと真っ赤で、何か怨念でもあるかのようにぎらついていたのが、ちょっと怖かった。けれど、ぼくの知っている牛の目は、いとおしいほどにれる瞳で、やさしかった。

 生まれたのは、四、五十軒あったか、機屋の村で、といっても農業との兼業機屋で、牛を飼う百姓家も、五、六軒あった。牛は高価で、ふつうに飼えるものではなくて、だから、春秋には、牛を飼う農家から牛を借りて田畑を耕す、そんな農家がほとんどだった。出だしたヤンマーの耕運機を持っていたのは二軒あったか三軒あったか。牛といえば大した財産で、いまのトラックのように、ちょっとした金銭がなければ持てなかった。

 そんな百姓家が、道を挟んですぐ隣にあって、立派な長屋門の脇の小屋の薄暗いなかに黒牛が繋がれていた。どこか飼い犬のようで、朝は鶏のように「もうー」と鳴くし、学校の行き帰りには門の前を通ると、足音に気づくのだろう、「もうー」と鳴いた。

 あの「もうー」は何だったのか、挨拶でもしているつもりだったのか、単に餌がほしかったからか。だから、ぼくの家の台所の野菜くずも、全部、かれの餌になった。ぼくとちがって素直で、嫌いなものがなくて何でも食べた。とくに、西瓜の皮が大の好物だった。

 夏の一日の楽しみは、午後の夕立前に、近所仲間と縁に並んで西瓜を食べることだった。種の飛ばし合いは毎度のことで、そんな西瓜はそこらの畑にいっぱい植わっていた。瀬戸内気候特有のからから夏で、地割れのする畑ばかりだったのに、どこも西瓜は鈴なりだった。だから、夜には盗っ人もいて、どこの畑にも見張り小屋があって、昼間も親爺が中で見張っていた。

「ほれ、牛にやっといで」

 食べ終わると、母にいわれて、皮を集めてバケツに入れて牛くんの小屋に走る。これも足音でわかるのだろう、柵の上に頭を出して舌舐めずりしながら待っていた。一つ、一つ、手づかみで口の前に出してやると、にるっと太丸い舌を出してうまそうに食べた。その、ぬめぬめの舌の感触をぼくの脳が覚えていて、いまだに牛のタンが食べられないでいる。

 茹だる夏も、凍てつく冬も、薄暗い小屋の中で、もう、もう、鳴いて、人のいい牛くんだった。といっても、ときには嫌なこともあったのか、我慢ならないこともあるのか、小屋を逃げ出した。たいていは春先で、冬場の鬱積がたまっていたのか、春の田起こしの仕事疲れなのか、裏の道を、ど、どっ、と走り過ぎた。と思ったら、親爺が地下足袋姿であとを追っかける。

 びっくりしているぼくらを前に、きもせず、父がいった。

「どうせ、あそこやろ」

 そのように、牛くんは、勝手知ったる田圃の畦で、何事もなかったかのように、うまそうに青草をんでいた。

 そんな日々から十余年、東京の大学に入った夏に、アルバイトで北海道の北見から少し富良野の方に入った牧場に行ったことがあった。日本にもこんなところがあったのか、と目を見張るほど遠く知床まで一望の果てしない原野で、兼業にビートづくりもやっていて、その草取りもアルバイトの仕事だった。朝早く端からみんな一列に並んで作業をはじめ、畑の向こうの端まで行くと今度は隣の畝に移り、折り返してくると昼飯で、午後もまた同じように向こうまで行って除草して戻ると陽が傾く、そんなそんな果てしない畑だった。

 乳牛の世話は朝も暗いうちからはじまる。寝泊まりしていたのは厩舎の裏の物置の中。電灯なんかもちろんなくてランプ暮らし。何もすることがないから九時前には布団にもぐるが、うとうとする間もなく、真夏だというのに寒くて身を丸くした。そうして目をこすりながら薄暗がりの中を厩舎に入り、まず、牛さんの体を、固く絞ったあたたかいタオルできれいに拭いてやる。そして乳を搾ってやる。最初の日に仕事頭が教えてくれたが、乳房を軽く握って人差し指から中指、薬指、小指と順に折り込むように握って搾る。そんなにむつかしいものじゃなくて、十分もやれば慣れてしまう。ぱんぱんに張った乳房が、絞るたびに緩みだして、牛さんも気持ちがいいのだろう、搾る度に乳房をピクピク震わせて応えた。

 三日目だったか、子牛が生まれて、その世話がぼくの担当になった。昼は大空の下、牧場に連れ出して遊ばせる。一日中、母牛以外に接しているのはぼくだけなので、兄貴ぐらいに思っているのか、広い牧場をどこに行ってもついてきたし、遠く離れて遊んでいても口笛を吹くとすぐに飛んで走ってきた。まるで子鹿のバンビだったが、一週間もすると、その蹄で踏まれた足指の爪が割れるほどに大きくなった。けれど、ぼくの方は半月もしないで、たいへんな牧場仕事にケツを割っている。

写真

 ぼくが家を逃げて寺に入ったのが十五の春で、それから十年、かな子ちゃんは「村」に戻っている。嫁ぐためだった。

 ただ、そのことをぼくは知らないでいた……。

 ぼくらの町は大小六つの村が集まってできていた。そのなかでも一番遠く離れた村でかな子ちゃんのお父さんは生まれている。古い話だからたしかなことはわからないが、平安のむかしにもさかのぼるのだろう古い村で、それがどうした理由か、もともと田畑を持たなかったからか、ほかと比べて苦しい暮らしが続いて、互いに支えるために、村なかでの結束力が強く、それが自然とほかとの馴染みを薄くして、行き来も少なくなっていた。

 だから勇気が要ったと思う。父が教えてくれたが、若い頃夫婦連れでぼくらの村にやってきて鍛冶屋をはじめた。ぼくらの村は百姓家が多かったが、戦前も昭和に入ってからだろう、庭先の納屋を改造して織機おりばたを入れ、兼業で織屋をはじめる農家が出だして、子どもの頃には、村はどこに行っても、がっしゃん、がっしゃん、機音はたおとでうるさかった。その機が鋳物でできていたから力にもろくて、しょっちゅうあちこちが、ぽき、ぽき、折れた。だから、鍛冶屋が繁盛した。

 ぼくの家もそんな兼業機屋で、朝も日の出前から夜も暗くなるまで父は一日中、工場こうばに立って機に向かっていた。だから、ぼくらも、管巻きといって緯糸の飛び杼に入れる糸管に糸を巻きつける仕事から、機の掃除や油差しから、できることなら何でも手伝ったのだが、機の折れた部材を、かな子ちゃんのお父さんの鍛冶屋に持って走るのもぼくの仕事だった。

「これ、持って行け!」

 工場の前の庭先に、壊れた部品を父が投げる。やさしい父だったが、機械が壊れたり、うまくいかないときの父は険しかった。

 いまは村も仕事のけしきがすっかり変わって、どこにいっても鍛冶屋など影もないが、あの頃、たいていの村には鍛冶屋は一軒、必ずあった。鍬や鋤、農機具が壊れるからで、さすがに手押しふいごもアセチレンガスに代わっていたが、作業場は雪のちらつく冬でも汗だくになる、きつい仕事だった。それでもかな子ちゃんのお父さんはいつも笑顔の人だった。

「おやっさん、機嫌悪かったやろ」

 そういって、

「じきになおしたるからな、そこで待っとれ」

 少し離れた丸椅子にぼくを座らせると、色眼鏡をかけ直し、バーナーのスイッチを捻った。あれは何といったか、溶接の繋ぎになる針金棒の先っぽをバーナーの火で焼いては、たらりと融けた真っ赤な玉を転がすように部材の割れ目に流し込んで溶接していく。その赤く灼けた火の玉が、ころころと転がるのがおもしろくて時間を忘れた。そうして、

「ほれ、できたぞ」

 仕上がった部材を土間に投げ出すと、今度は、金鋏でつかんで、脇の水バケツに投げ入れる。瞬間、じゅんっ、と短い音がしてバケツは白い煙に包まれた。ほかの仕事もあったのだろうが、なぜか、ぼくが行くと、それを置いてすぐにやってくれた。 

 そんな男の仕事場に女の姿はどこにもなくて、かな子ちゃんのお母さんも昼間は近所の織屋に働きに出ていた。だから、滅多に見かけなかったが、学期に一度の授業参観には必ず来ていて、すぐにわかる、けっして美人ではなかったが、どういえばいいか、子どもの目にも不思議なきれいさに包まれた人だった。そんなDNAをまちがいなくかな子ちゃんは受け継いでいて、保育園でも小学校でも人気者で、みんなは口にしなかったが、あこがれの的だったにちがいない。というと、しゃか、しゃか、と勝ち気な女の子と映ってしまうが、そんなところは微塵もなくて、ちょっと内気で控え目で、いつも笑顔だったが、どこか翳りもあったのが、なぜか、ぼくにはよく見えた。

 だからときどき思い出すのだが、手元に赤茶けた一葉の写真が残っていて、ぼくの記憶といっしょでピントもどこか頼りないのだが、かな子ちゃんと並んでぼくらは手をつないでいる。春の遠足の集合写真だ。

ドクトル・スズキ

 三度目のメキシコ行きでマサトランに鈴木秀雄医師を訪ねたことがあった。マサトランはメキシコ中部太平洋岸の比較的新しい街で、一八〇〇年代半ばにドイツ移民が入って港町として栄えている。それがあの頃はエチェベリア政権下にあって、南のアカプルコに代わるアメリカ人相手のリゾート・タウンになろうとしているのか、湾岸沿いにホテルやレストランなどのビル建設の最中で、ごたごたと落ち着きがなかった。一度目のときはロサンゼルスからバスで一日半かけてシティに入っている。地上を行くと地理がよくわかって、バスの中でも隣や後ろの家族と仲良くなったり、それはそれでたのしかったが、冷房も十分利かないがたがたバスで揺られ揺られて辛かった。だから三度目は空を行った。空港はいまとちがってずっと北の街中にあって、ホテルも歩いて近かった。日本でいえば高度成長期のかかりで、それからメキシコはどこもにぎやかに変わっている。

 そんな街で鈴木医師は歯科医をしているはずだった。山梨からの移民で、たぶん、メキシコに入ってだれか日本人医師について、手伝いをしながら技術を覚えたのだろう。日本とメキシコの間には早くも一九〇七年に日墨医薬開業条約が結ばれていて、一〇年代には日本からは多くの医師や薬剤師が渡って全国あちこちで開業していた。歯科医も同じで、日本からやって来た医者の見様見真似で歯科医をはじめた俄医者多く、ドゥルセという甘い食べ物にもよるのだろうか、歯科医はずいぶん繁盛した。

 そんな経緯いきさつや、もう一つ、新潟からコリマ移民としてメキシコに渡り、その後、マサトランで雑貨店を開いていた玉浦作次のその後を知りたかった。

 空港近くの安宿で暑い眠れぬ一夜を過ごし、明くる朝、セントロまで歩いてメモしていた住所をさがしあてた。だが、そこは歯科医院でもなく番地も変わっていた。ただ、軒先に記された地番数字のすぐ上に古い地番が薄く消えかけて残っていた。ベルを押したが返事がない。「やっぱり、だめか」と表に戻って通りを少し先に進んだところで、十字路の角に歯科医の看板がかかっていたので、「何かわかるかもしれない」と中に入ってみた。待合室に年輩婦人がいたので、患者かと思ったらドクトル夫人で、すぐにドクトル・スズキの場所を教えてくれた。歩いてもそんなに遠くない、サラゴサ街の東のはずれに、いまは息子さんが同じ歯科医院を開いているという。

 マサトランは海辺の街なのに坂がいっぱい。その坂道のサラゴサ街を東にしばらくさがして歩くと南北に走るカルバハル街と交差して、二つ先の建物だった。二階家で「Dentista Suzuki」の看板がかかっていた。ドアを入ると受付があって、訊くと、建物には弁護士事務所のように数人の同業が同居しているのか、ドクトル鈴木は二階の左側だという。

あのときの鈴木歯科
新しくはなかったが、改装仕立ての小綺麗なビルに看板も初々しかった。

 ノックすると、ジュニアらしき人が現われ中に入れてくれた。十畳ぐらいの一室に診察椅子が二つ並んで、片面の壁に薬棚、そして事務机があって、その上の小型テレビにスイッチが入っていた。しばらく患者がいなかったようで、少し挨拶して「あなたのお父さんはスズキ・ヒデオ……」と片言に尋ねると、すぐに「ムリオ(死んだよ)」と返ってきた。日本語ができないらしく、ぼくも十分でなかったからほとんど細かいことは訊けずに終わっている。

あれから四十年
歯科医も続いているのかどうか、看板もsuzukiではなく名前が変わっている(Google mapから)

 そして玉浦作次の店舗跡をさがして歩いた。最初はセントロのメルカードの中にあったのが、しばらくしてメルチョル・オカンポとセルダン街の交差点に移ったことは知っていた。だから、すぐに場所はわかったが、もちろんけしきは変わって衣料雑貨店になっていた。看板にはAlmacenes(百貨店)とあったが、それはちょっと大袈裟で、五階建てのビルだが店舗は一階だけのごくふつうの雑貨店。作次の店があったのは半世紀もむかしのことだから面影もなく、無駄だとわかっていたが、十字路からセルダン街を歩いて、古そうな店舗をいくつか覗いてみた。四軒目だったか、五軒目だったか、日用品の荒物屋があって奥のレジ向こうに老爺がいた。訊いてみると、子どもの頃にはそれらしい店があったような気がするという。ただ、それも、よくよく訊いてみると、一九二〇年代はじめにはあたりにいくつもあった中国人の店のことだった。

長尾商会跡
マサトランも北の海岸通りはリゾート開発で殺伐としていたが、セントロはまだそれらしく人の姿ものんびりしていた。

 作次は新発田の人で一九〇六年に、マサトランよりは少し南の同じ港町マンサニジョから内陸のグァダラハラに向かう、通称、コリマ鉄道の建設工事に入っている。だが、工事はすでに完成していて、すぐに解雇されている。移民会社による過剰輸送の結果で、それを誤魔化すために書類上は「逃亡」として処理されている。その後の作次は、一時、機関車の火夫をしていたようだが、アメリカに密入しようとしたのだろう、北に向かう途中、マサトランに入って落ち着いて、メキシコ婦人と結婚して家庭を持っている。そして、きっかけはわからないが、兵庫の人でアメリカに渡ったあとメキシコに転航していた長尾彦作に出会って、共同で食料雑貨店を開いている。一九一四年のことだった。マサトランでの最初の日本商店ではなかったか。長尾はアメリカとメキシコを行き来して商品買い付けを担当し、作次は店舗の切り盛りをしていた。店は繁盛し、郷里から甥の玉浦仁太郎や近在の阿部庄司を店員として呼び寄せている。だが、三一年前後に長尾が帰郷、三九年には作次も死亡し、その後は店員のメキシコ人があとを受けて続けていたが、日米開戦でメキシコ政府に接収されてすべてが終わっている。

あれから四十年
セントロもにぎやかになって、あの頃の面影は少しだけ(Google mapから)

 そして夕方、飛行機でメキシコに向かった。阿部庄司を尋ねるためだった。機内は、夏の盛りだというのにがらがらで、すぐに夕食でワインが出て、飲み足りないので「もう一杯」と頼んだら、大柄で、ついさっきブタを喰ったといわんばかりのオオカミのような、真っ赤な口紅に、ぎとぎと化粧のスチュワーデスが、それでもにこにこ笑顔で来てくれて、ワイン・ボトルをでんと一本そのまま置いて、また仲間とのおしゃべりに戻っていった。運賃はいくらか高かったが、空の旅も退屈しない、いい時代だった。

大蔵池

 関空ができて、大阪も南の泉州はけしきがすっかり変わってしまった。あたりは和歌山との境の和泉山脈から掌の指を広げたように峰筋がいくつも大阪湾に向かって流れ落ちていたのを、海に空港をつくるために、あたりかまわず削り取ってしまったからで、むかしを思い起こそうにも寄辺よるべがない。国破れて山河あり、とはいうけれど、山と川があっての郷愁で、山が消えて平らになり、川が涸れてしまっては何に何を思い描けばいいのか。村に入るのも、むかしは浜からさかのぼったのが、いまは、こっちでいえば秩父のように背中から入る。村奥の野道の果てには、支那事変で死んだ伯父もいる忠霊塔が、小高い桜の丘にあって、ゆったりとぼくらを見守っていたのが、後ろの山がなくなって、その脇を、太く変わった大きな道路が村の入口に変わっている。ひっきりなしに走る車に英霊も落ち着かないだろう。

 そんな忠霊塔を尻目に、むかし、野道はさらに続いて小さな峠を越えて隣村に下っていた。祖母ばあさんの里で、三、四十戸の小さな村だった。祖母さんはぼくが生まれる半年前に死んでいる。七十六の老衰だった。だから、ぼくは祖母さんの生まれ代わりといわれて育った。故人を次の世代に繋げて慕う、いい慣わしだったと思う。祖母さんには、いくつちがいだったか、妹がいて、毎週、日曜日には、その峠道を逆に越えてぼくらの家にやってきた。ほかでもない、母が病気で寝込んでいたのを家事手伝いに来てくれていたのだった。だから、ごだいもの婆さんとぼくらは呼んで親しんだ。ごだいもは、きちんといえば五左衞門ではなかったかと思うのだが、同じように、弥左衛門はやだいもで、嘉左ヱ門はかだいもで、どこの家も屋号で通っていた。

 祖母さんは七十六で死んで、ぼくが五つ六つの頃だから、ごだいもの婆さんも八十近かっただろう。足腰もしっかりしていて、煙管をやっていたのか、脂黒の歯茎を剥き出しに笑顔のやさしい婆さんだった。そうして昼前にやってきては昼飯をつくり晩飯の仕度をして日の暮れには戻っていく。それをぼくは、いつも三輪車で送った。

 家を出ると忠霊塔を尻目に、あとは、にごり池、三角池、おうど池と潅漑池が並ぶ谷筋の野道を、婆さんの尻を追ってペダルを漕ぎ漕ぎついていく。と、きまったように婆さんは峠の手前で振り向いて、

「もうここらでええ、気いつけてぬんやぞ」

 いい聞かすようにいうと、また峠に向かってとことこ行った。雨の日は泥んこ道で、婆さんは来なかったのか、見送る峠はいつもきれいな夕焼けだった。

 そんな峠道もいまは見つからない。

 大阪も南は、いまは三十号線と呼ばれているが、熊野参詣の小栗判官で知られる小栗街道の走る浜側と、ぼくらの育った山側では言葉も文化もかなり違って、ぼくらは浜との行き来よりも峠を越えて山の部落との行き来の方が密だった。だから嫁の行き来も山と山との方が多くて、母のように、浜から嫁に来るのはめずらしかった。はっきりいって浜の方が豊かで、家柄が釣り合わなかったからだろう、ぼくら山の部落は貧乏だった。その不足のかてに、江戸期も半ばからだろう、潅漑のない畑に植えた棉を紡いで手機ではじめたのが泉州織物の礎になっている。もちろん田圃はあったが、夏は日照り続きで地割れして、だから、行基伝説で有名な久米田池を頭に、どこもかしこも溜池だらけで、谷筋をいくつも土堤で堰き止めた大小池が数珠繋ぎに浜に向かって続いていた。

 むかしむかし、大阪平野は、瀬戸内海から伊勢湾まで続く大きな内陸湖の一部で、いくつも河川が泥を運んで流れ込んでいた。それが干上がったからあたりはどこも粘土質で、溜池も水は薄茶色に濁っていた。だから、にごり池は「濁池」で、おうど池は「黄土池」だと子どもの知恵で思っていた。谷を堰き止めているから傾斜がきつくて、おまけに水際まで粘土質だから、いったん入ると、つるつる粘土に足を滑らせ這い上がれない。夏休みが終わって二学期最初の朝礼では、決まって校長先生から哀しい知らせがあった。

「○○くんに、黙祷!」

 プールのない時代だから、暑い夏の午後を、溜池で泳いだ結果の水の事故だった。

 ぼくらは「音」でしか、むかしを知らない。だから、おうど池も黄土池だと勝手に決めていたのが、最近、地理院地図を見ていて「大蔵おおぞう池」とただされた。稲作の宝だった水を満々と湛えていたからか、いや、そうではなくて、大蔵という名主なのか地侍なのかが差配してつくらせたのか、この齢で、また一つかしこくなっている。

旅のはじまり

 もうずいぶんむかしのことになる。その人は語りはじめた──。

「旅券申請のために、村の駐在所に身元調査の書類を持っていくと、旅券は横浜で受け取れ、といわれたんです。父は死んでいなかったから、旅費は母が親類縁者を走り回ってつくってくれました。忘れもしません。算えると全部で千五十円。百円札なんてありませんよ。十円札や一円札ばっかりで……」

 一九二八年(昭和三年)十二月二十四日のことだった。早めの夕飯を食べ家をあとにした。それが母との最後の晩餐になっている。

「横川駅までは、親戚の伯父が知り合いから借りたバタコで送ってくれました。バタコって、ご存知ですか? 三輪自動車ですよ。子どもの三輪車みたいに、前のタイヤが一つしかなくて、ハンドルを切り損ねたら斜めに倒れてしまう。よく四つ辻で突っ込んでましたよ。ハンドルも輪っこでなくて自転車みたいなやつでしたね」

 列車に乗り込んだのは八時過ぎ、鮨詰めの夜行だった。それから二十七時間、揺られ揺られて翌二十五日夜の十一時過ぎに横浜駅に着いている。

 この、いまに続く横浜駅は三代目で、いわゆる新橋からの日本最初の鉄道の横浜駅は現在の根岸線の桜木町駅にあたる。その後、東海道線が手前で西に逸れて延伸されたため、現在の東横線の高島町駅あたりに新駅ができ、それがさらに関東大震災で壊れて少し北の現在地につくられている。そこから旧駅の桜木町まで歩いた。荷物は古いトランク一つ、それをかたげてもそんなに遠くない。疲れた足を引き摺り三十分ぐらいだろう、松阪屋という移民宿に入っている。

「移民相手だから、しょぼくれた木賃宿だと思ってたんですが、まっさらでした。震災でやられたのを建て替えたばっかりだったんですね」

 案内されたのは二階だった。時間も零時直前か、日付も変わっていたかもしれない。暮れも迫った真夜中で、あまりの寒さに、すぐに風呂に走っている。

「びっくりしましたよ」

 扉を開けて入ろうとすると、もうもうとした湯煙のなかに白い肌が浮かんで見えた。あわてて脱衣場に戻ろうとする。それを呼び止められた。

「わたしならかまいませんから、どうぞ、お入りください、って。二度びっくりですよ」

 もちろん、女性との二人きりの風呂ははじめてだった。恐る恐る湯に浸かったのはよかったが、身動き一つできない。

「広いタイル張りの湯舟でしたが、三、四人がせいぜいで、目と鼻の先にいるんですから、洗い場に出ることもできませんよ」

 とうとう、女性が出ていくまで湯舟の隅で小さく固まっていた。それが縁になって親しくなっている。

「長野の伊藤栄という人でした。よく覚えていますよ。アメリカのサクラメントに再渡航するという人で、住所を教えてくれたんで、あとで手紙を書いたら、写真もいっしょに返事をくれました。女学校出の賢そうな人でした」

 そして翌朝、宿の番頭の案内で、女性もいっしょに、神奈川県庁に旅券を取りに出かけている。旅券はすぐにもらえた。だが、キューバ入国にはビザがいることを窓口で教えられた。しかもキューバ領事館は神戸にしかないという。しかたなく、その夜のうちに神戸まで引き返すことにした。そうして戻ったときには年も新しくなっていた。

「正月で、出かけるところがなくてね。部屋でごろごろしてたら、宿主の幼い娘姉妹が、五つ六つだったかな、覗きに来るんですよ。それを相手に、かるた取りや羽根つきの相手をしてたら三箇日も明けて、あとは東京に出て、浅草やら銀座やらを見物してました」

 そうして船待ちの十日はまたたくまに過ぎている。宿賃はまとめて二十五円だった。ところが、隣の二間続きに十三人で泊まっていた和歌山の串本からのメキシコ漁業移民一行は、一人一泊三円を支払っていた。相部屋で鮨詰め状態だったのに、比べて青年の場合は一泊五十銭も安かった。

「娘たちを遊んでやったからかな。家庭的な宿で居心地がよかったんで、帰るときは、またここに泊まろうって思いましたよ」

 だが、それは叶わずに終わっている。

 乗ったのは東洋汽船南米航路の楽洋丸だった。総トン数九千四百十九トン、全長百四十メートル、幅十八メートル。当時は日本郵船の船籍になっていたが、もともとは東洋汽船の所属船で、一九二一年(大正十年)二月に三菱長崎造船所で進水している。南米航路では、安洋丸、紀洋丸と並ぶ最大級の客船だった。ほかにも同航路には、静洋丸、銀洋丸、墨洋丸の三船が就航していたが、いずれも一九二六年に東洋汽船が日本郵船に吸収合併されたときに郵船が買い入れ、その後、日米戦争によって軍の配属船になるまで、神戸あるいは横浜から南米チリのバルパライソまで往復四カ月近くかけて就航していた。

 その楽洋丸が横浜を出たのが一九二八年(昭和三年)一月六日の正午で、正月明けだからか、乗船者はそんなに多くなかった。それでも後部ハッチには中国人が大勢詰め込まれていた。

「たぶんペルー行きだったんでしょう。契約移民だったと思います。ずっと詰め込まれたままで、航海中、ほとんど甲板に出てこなかったですね」

 日本人は、一等船室に岡山からの日系アメリカ人が一人と、二等船室にメキシコに再渡航だという植木職人父子と新妻を連れた理髪師、そして、メキシコ二世の兄弟少年二人と、松阪屋で同宿だったメキシコ漁業移民十三人のほかに、ペルー行きが四人と、同じペルーに写真婚で呼び寄せられる花嫁一行十五人がいただけだった。

 出航のドラが鳴る。女たちは涙ながら紙テープを放そうともせず、声を限りに別れを惜しんでいた。もちろん、青年を見送る人はない。

「そのままいてもしょうがないんで、あれは山梨の人でした、乗るときに知り合った同年輩と下の食堂に行きました」

 やがて船は岸壁を離れる。

「もちろん、だれも下りてきませんよ。がらがらの食堂で、二人、何やかや飲み食いして甲板に出たら、港は遠くに小さく霞んで見えて……」

 それでも、女たちは舷から離れようともしない。手すりにもたれかかるようにして、青年は思った。

「これで、日本ともしばらくお別れかって、ね」

 外洋に出ると、船は大きく揺れはじめた。いまは近海のクルーズ船でも七、八万トンがふつうで、十万トンを超えるものもざらにある。それが楽洋丸は一万トン足らずだった。

「ベッドに横になっても気分が悪くて、何回も吐きました」

 そして明くる朝には起き上がれなくなっている。

「和歌山からの十三人も同じでね。海の男がなんで船酔いするのか不思議でしたが、小さい漁船と大きな客船では、揺れのピッチがちがうらしいんです」

 長旅である。暇つぶしに、途中、いろんな催しがあって、日付変更線を越えるときにも行事があった。

「何日ごとだったかな、一時間ずつ時計の針を戻していくんです。それが、消滅日といって、日付変更線を越えるときはゼロになるかわりに、一日分、得するんですよ。仮装行列があってね、にぎやかでした」

 もちろん青年も参加している。題目は「宮城野みやぎの信夫しのぶ一代記」。鎖鎌の姉宮城野と薙刀の妹信夫が、父の仇敵志賀団七しがのだんしちを討ち取るという、妹役が青年だった。

「団七が山梨のかれで、広島の蒲刈島かまがりじまからの年輩の人が姉役でした」

 童顔の残る青年に、ペルー行きの花嫁たちは、興味津々。自分たちの着物を着せ、頭には手拭で頬被りを、顔にはべにや白粉をつけて奇声を上げた。

 やがてハワイに寄港。当時はオアフ島のホノルルではなく、ハワイ島のヒロの方が盛んだった。あのカメハメハ大王の故地で、その砂糖耕地には明治以来、日本人移民がたくさん入っていた。ヒロを太平洋航路の港町にしたのもそんなかれらだった。

「ハワイはよく知ってました」

 といっても絵葉書でのことだった。広島からも仁保島にほじまをはじめハワイ移民は多く、村にも何人かハワイ帰りがいて、物心ついた頃から話は聞いていた。

「だから、大して感動はなかった」

 船が碇を下ろすと、知人、縁者のいる者は市内見物に繰り出した。だが、つてのない者は下船できない。そんな暇客相手に、ハワイの人が小船に果物を満載して舷下にやってくる。釣り籠を上げ下げしての売り買いだった。

「子どもらも船の周りを泳いで回ってね。小銭を投げてやると、潜って拾ってくるんですよ」

 そうして時間を潰し、サンフランシスコ、ロサンゼルスと寄港したあと、メキシコ中部のマンサニージョに入っている。太平洋岸にあっては、少し南のサリナクルスと並んでメキシコの表玄関ともいえる港町で、首都メキシコへは、そこから陸路を行くのが最短ルートになっていて、かつての日本海軍の派遣隊もメキシコ革命の最中、ここに上陸して首都に向かっている。

「メキシコ一、二の港町っていうから、きれいなところだろうなと思ってたんですよ。それが、神戸や横浜に比べたら、まるで漁師町で、桟橋もなくて沖がかりでした」

 四十年近く前だがぼくも歩いたことがある。メキシコ海軍基地の一つになっていて、市街も開発が進んでにぎやかだったが、港湾設備は貧相だった。ここで、はじめて船から下りて、街を見物して回っている。

 日本人移民が経営する雑貨店や商店がいくつもあったはずである。メキシコには日本人移民は一九〇四年(明治三十四年)以来、東洋移民合資や大陸殖民、熊本移民合資の契約移民として六千人を超えて入っているが、一九〇六年から翌年にかけて、千人を超える日本人移民が上陸したのもマンサニージョだった。ここから古都グァダラハラに至るコリマ鉄道の建設工夫としての移民だった。手がけたのは全長約三百二十キロのうち、コリマとツスパン間の六十八キロだが、コアウアヤナ川沿いの海抜千二百メートルを超える険峻での難工事で、さらにマラリヤなどの伝染病もあってたおれる者があとを絶たなかった。

 そうしてサリナ・クルスを経てパナマのバルボアに入っている。横浜出港後四十四日目のことだった。青年は船を下りた。ただ、楽洋丸はその後も太平洋岸を南にチリのバルパライソまで行く。

「宿は移民専用だったから、収容所みたいなところかと思っていたら、広い芝生の中庭にバンガローがいくつもあって、広島の田舎者には別荘のように見えました。部屋には冷たいレモン・ティーのポットも置いてあって、食堂は少し離れた別棟の二階にありました。『ハポネー、ア、ラ、メサ!(日本人、ご飯だ!)』って、ウェイターが呼びに来るんですよ。従業員はみんな黒人との混血でしたね」

 青年たちは、いつでも外出できた。いわゆる自由移民だったからだが、移民館には、ほかにも中国人やインド人がいて、かれらは契約移民だったから外出の自由がなかった。また、近くにはアメリカ駐留軍専用の海兵クラブもあって、パナマ人も、白人以外は入れなかったが、日本人の出入りは自由だった。

「ちょうどカーニバルの最中で、毎晩、街に出かけました。人も山車だしもいっぱいでね。誰彼かまわず水を浴びせたり、花吹雪を撒いたり、それはにぎやかでしたよ」

 宿泊代は三食付きで一泊三ドル。横浜の移民宿の二倍だったが、設備を比較すれば割安だった。そうして船待ちした。ホンデュラスからアメリカにバナナを運ぶユナイテッド・フルーツ社の貨物船ならすぐにでもあったが、甲板にしか乗せてくれない。

「雨に降られたら困るでしょ。それで客船を待つことにしたんです。十日ほど待ったかな、イギリスの船でした」

 そうしてパナマ運河を越え、カリブ海をハバナに入っている。

「二月の末の暑い一日でした」

 ──一九八二年、ハバナでの回想である。

 移民とは何だったのか、いま、ぼくも同じ齢になって、あれこれ思ってみるのだが、青年の場合、それは一つの旅ではなかったか、そんな気がしている。

西陣幻影

「ほんなら、ゆっくりしていきや」

 卓袱台ちゃ ぶ だいの、茶碗の上に箸をそろえると、三和土た た きの下駄を突っかけ、親父さんは表に出た。それを横目に、りょういちくんは左の小指をすっと立てて目配せした。

「上七軒や」

「か、み、ひ、ち、け、ん?」

 耳慣れない響きだった。

「ほれ、天神さんの」

「てんじんさん?」

「なんや、それも知らんのか」

 ぼそっといった。

 この街はどこもぼくには新鮮で、りょういちくんの栢野もそうだった。舟岡山の西のはずれ、もともとが野っ原だったのが大正末に拓かれた一画で、同じ織物の西陣といっても自営の織屋なんぞどこにもない、出機で ばたといったが、織元から織機しょっ きを借り、さらに糸も借りての零細機屋はた やが軒を連ねる長屋筋だった。

 織屋と出来物で け もんは大きゅうなるとつぶれる、

 西陣では自虐にいったが、そんな織屋にも届かない、さらに下請けの機屋だった。

 がっしゃん、がっしゃん、

 栢野はどこまで行っても機の音。朝から晩まで途切れることなく、不思議だったのは、その音にもそれぞれにリズムや音色があって、向こう三軒両隣、互いにちがいを誇るかのように競り合っていた。

 機は電動の力織機も出回ってはいたが、それは着尺き じゃく用で、栢野の場合は木機き ばたといって、どこも木製の手機て ばただった。千年の伝統をつなぐ錦のすいといっていい、金襴きん らん唐織から おりを専門にしていたからだった。

 木機はまた、ばたともいって、機そのものが五十センチばかり土間を掘って据えられていた。綿めんもそうだが絹糸はさらに繊細で、空気が乾くと哀しいほどにぷつぷつ切れる。それを土中の湿気が防いでくれるのだった。

 けれどその分、人間の方が我慢を強いられる。じめじめと夏場は土間に熱気が淀み、それでなくてもだるこの街の夏なのに、機周りは蒸し風呂状態になる。逆に、冬場は乾燥を避けるため、練炭火鉢をいくつも並べて、しゅん、しゅん、薬罐や かんをかける。その湿気が通り庭を抜ける冷気に乗って足腰を冷やした。りょういちくんの母さんもたぶんそういう理由わ けだろう、栢野の機屋女に神経痛やリューマチみが多かったのも偶然ではなかった。

 木機にこだわったのは気質かたぎからではもちろんない。せいぜいが夫婦二人の家内仕事、新鋭の力織機に金をぎ込む余裕などなかったし、加えて、どうにもならない家屋事情があった。

 木機の場合は土間に据えるだけで事足りた。それが力織機になると、機をボルトで固定するため、土間をセメントに張り替えないといけなくなる。さらに困ったのが力織機の振動だった。埋め機とは比較にならない大きなそれが柱からはりに伝わり、屋根瓦を崩してしまう。それを承知で入れる家もあるにはあったが、一年も経たないうちに雨漏りが来て、やがては屋根の葺き替えに思わぬ出費を強いられる。そうして元も子もなくしてしまうのだった。

 そんな低棟長屋の中程に、りょういちくんの家はあった。向こう三軒両隣、表の造りはどこも同じ。頭のつかえそうな軒下に、それでも、それぞれ精一杯の工夫を凝らし、少ない緑を求めて、大小さまざま、植木鉢を並べていた。その好みのちがいでようやく隣家との区別がついただけ。

 中はこれもみんな同じ。一枚引き戸の玄関をがらりと入るとそのまま奥に、狭く薄暗い通り庭がトンネルのように伸びていて、進むと勝手を越えたその先に小さな木機が姿を見せた。やんわりとくすんだ光の中に、痩せこけて、それでも精一杯、見てくれを気にするのだろう、掘り込んだ土間の穴に行儀よくちょこんと座る。頭の上には明かり取りの天窓が筒抜けて、厚く綿埃を被った梁からは、だらりと大束の紋紙もん がみが模様を待って手持ちぶさたにぶら下がっていた。

 木機に向かう親父さんはいつもだんまり、無骨な背中が怖かった。それが振り向くと笑顔満面、

「どや、だいぶ慣れたか」

 下宿暮らしのぼくを気遣った。

「むさ苦しいとこやけど、いつでも遊びに来たらええ」

 そうして朝も起き抜けから、夜は日付が変わるまで、一人、木機に向かうのだった。

 機場はた ばの手前は六畳間。食堂も兼ねた居間には染みあとだらけの卓袱台がぽつんとあって、奥の壁際の蒲団には、小母さんが寝たり起きたりを続けていた。

「りょういちくんは、お母さんそっくりやね」

 いうと、溜息一つで返ってきた。

「それがなあ、鏡、見ても気色悪いことに、目鼻や口元が親父そっくりでな。まえはそないでもなかったんやが、この頃、だんだん似てきよる」

 実家いえを離れたぼくには少しのねたみもあって、贅沢な気もしたけれど、りょういちくんがいうのだからほんとうだろう。ぼくは思い出していた。

 春だというのに底冷えの一日だった。入学試験会場を、おそるおそる教室に入ると一番奥の窓際の中程に、一人、教壇上の白壁にゴムのテニスボールを投げる変わり者がいた。

 席はどこもいっぱい。なかには参考書を広げたりノートを手に、天井と手元を交互に、口をもごもご、最後の詰め込みに忙しい、そんな姿もちらほらあったが、ほとんどは隣り同士でだべっていた。どこに入試の緊張感があるのか、それだけでもおかしなけしきなのに、さらに一人離れて、ぽっこん、ぽっこん、やっているのだからあきれを越えて異形いぎょうだった。それにあっけにとられ、手汗に湿った受験票を手に机の肩の番号を辿たどっていくと、よりにもよって、ぽっこん生徒の真後ろだった。

 まさかと思ったが、休み時間も同じ具合だった。試験官が答案用紙を抱えて出ていくと、すぐに引き出しからテニスボールを取り出して、前の生徒の頭越しに壁に投げる。ぽっこん、ぽっこん、間抜けた音が教室に響いた。

 それが入学式のあと、新しいクラスに入ると、そこにいた。席は名簿順で、今度はぼくの方が前だった。そして席に着くと、あのぽっこんはない代わり、椅子の背もたれが妙に揺れる。たまらず肩越しに後ろを窺うと、やっぱりやっていた。机の下で貧乏揺すりをしながら机の上に両肘ついて、組んだ手の中指の関節を、かち、かち、前歯で噛んでいる。常習く せなのか、第二関節の頭が大きくふくれ、皮膚がけるのだろう、薄くピンク色にてかっているのが痛々しかった。

 小母さんは細面に色白で、その透き通った白い肌と顔の輪郭をりょういちくんは受けていた。けれど、頬骨の飛び出たのと、魔法使いのお婆さんのように大きく曲がった鉤鼻かぎ ばなは、掛け値なしに父親譲り。涼しそうな切れ長の目とは対照に、細面のど真ん中に、わがもの顔に胡座をかいていた。

 小母さんの病気は季節や天気の具合で大きく波があるらしかった。だから調子のいいときは足を引きずり引きずり勝手にも立つのだが、それも月に十日がせいぜいで、あとはぴしゃりと寝込んでしまう。すると、妹のゆかちゃんはまだ小学校だったから、朝夕の支度はりょういちくんの仕事になる。それをぼくも手伝った。

「いっしょに喰っていかんかあ」

 帰り際、さよならをいいに行くと親父さんは機を止め、手拭いで鼠の作業服の綿埃みじんを払いながらにっこりいった。そして卓袱台の前に腰を下ろすと、烏賊い かの刺身やたこぶつをさかなに、銚子を一本傾ける。コップ酒が嫌いらしくて、かんもしないのに律儀に、一人、手酌でやっていた。そうして御菜お かずにはほとんど手をつけないまま、やがて小梅一つと沢庵でお茶漬けを掻き込むと、そそくさと卓袱台を離れるのだった。

 上七軒ができたのは室町もはじめの頃。そんなことにもりょういちくんは詳しくて、教えてくれたが、落雷だったか、焼けた天神社を建て直した余材を使って東の門前に七軒ほどの粗末な茶屋を建てたのがはじまりらしい。この街の数ある花街の中でも一番古く、江戸期には西陣の旦那衆の奥座敷として繁盛、明治に入っても五十を超える茶屋が軒を連ねていたのが、戦後、織物不況のあおりを喰って半減、残ったほとんども織屋の親方相手の簡易バーや一杯飲み屋に暖簾をかけ替えていた。そんな一つに月に二、三度、ふら、ふら、通うのが親父さんの道楽といえばそれだった。といっても、酒が強いわけでも、小唄の一つも唸ってみる、粋な酒では更々なくて、呑んだ尻から呑まれてしまう、ただの呑んだくれ。りょういちくんは小指を立てたが、そんな浮かれた酒ではけっしてなかった。

「泊まっていく? 下宿にはいうてきたんやろ」

 気がつけば、その日も十時を回っていた。

 りょういちくんはクラシックが好きだった。

「そんなら、最初はこんなとこやろか」

 何か聴きたいと強請ね だったぼくに、にんやりすると、押し入れにずらりと並んだジャケットの中から利休鼠のアルヒーフを取り出した。

「バッハやけど、こいつは世俗もんやからいけると思う」

 管弦楽の二枚組だった。りょういちくんの部屋は二階の六畳間、片側に大きなスピーカーがでんと座り、脇の押し入れには蜜柑箱を積んだだけのシェルフにレコードがぎっしり詰まっていた。小遣いで貯めたといったが、子どもの小遣いのどこからそんなに買えるのか、不思議なコレクションだった。

「二番と四番もええけど、三番が金管が効いてて、ぼくも好きなんや」

 二枚組の一枚を、指紋がつくのが嫌なのか、両手の中指でそっとへりを掴むと、息を吹きかけターンテーブルにそろりと置いた。

「一箇所だけ傷があってな、ぶち、ぶち、いうかも知れんけど」

 忌々しそうに前置きしたが、ぼくには猫に石仏いし ぼとけ、レコードといっても土蔵に埃を被っていた父の軍歌のSPを、ゼンマイ仕掛けの蓄音機で、おまけにラッパも壊れていたから、針元に耳をくっつけ聴いていた。

 すー、ぷすっ、すー、ぷすっ、針が溝を滑る音がして、少しの沈黙のあと、割れんばかりにトランペットがはじけた。と、隣の襖がすっといた。ゆかちゃんだった。目を吊り上げ、腕組みして仁王立ちしている。

「何時や思てんの!」

 いうが早いか、ぴしゃりと閉めた。

「あれやからな、たまのお客やいうのに礼儀の一つも知らん。どう考えても、あの母親の子とは思えんわ」

 短く吐いた。そうして小一時間、やがて疲れも来て、二人、一つ蒲団に背中を向けた。

 静かだった。電車通りから二筋ばかり、そんなに離れていないのに車の走る音もなく、時折、かた、こと、思い出したかのように下駄の歯音が響いては細く消えていく。それがまた静けさを深めた。

「りょういちくん?」

 返事はなかった。

 それからどれほどだったか、突然、狂声といってよかった。

 あなたぁーの、りぃーどぉーでぇー、

 窓の外に甲高い声がして、

 どん、どん、どんっ、

 表戸を叩くのに目が醒めた。

「親父のやつ、またかっ」

 蒲団を撥ねると立ち上がっていた。

「おーいっ、けんかい! 旦那はんのお帰りや」

 電車通りまで筒抜けそうに、声も裏返っている。

「ど、どないおもてんねん、か、か、鍵までかけよって」

 そして、うぇーと静かになった。が、またはじまった。

 みだれるぅー、すーそぉーも、はずかしうれしぃー、かぁ、

 小母さんは階下のはず。だが、すぐに立って出られる体ではない。

「呑むと、いっつもああなんや」

 吐き捨てるなり、りょういちくんは部屋を出た。

 ぼくもあとを追った。けれど階段は踏板の角が磨り減っているのと蹴込け こみが浅くて足裏の半分もかからない。壁を頼りに怖々降りると、りょういちくんが表戸を開けるところだった。

「すんまへん、えらい遅うなってしもうて」

 着物姿の女がぺこりとお辞儀した。その肩に腕を回し、抱きかかえられるように親父さんが玄関柱にもたれかかっている。

「早よう帰らはんといけまへんえー、て、なんべんもいうたんどすがなあ」

 言い訳する女の化粧と酒のえた臭いが鼻を衝いて、りょういちくんも顔を顰めた。その胸を親父さんが、ぽんっと突いた。

「ぼやぼやしてんと、どかんかい」

 押し退けるように敷居をまたごうとするのだが、腰が砕けてへたり込む。それをぼくも手伝って上がり端に担ぎ上げた。

「なんや、チッキみたいにしよって、もっとていねいに扱わんかい」

 畳の上に転がり込んだのが、すぐまた起き上がり、胡座をかいた。何がおさまらないのか、へえへえと大きく肩で息をしている。そして、りょういちくんに命令した。

「ぼおっとしとらんで、銚子、けて来んか!」

 そんな間も小母さんは、隣の居間の蒲団の上で、丹前たん ぜんを肩に膝を抱え、そっぽを向いたまま。りょういちくんは、黙って流しに立つと、コンロに火を点け薬罐をかけた。

「ぼん、もう、よろしえ」

 ばつ悪そうに女がいって、親父さんに目配め くばせした。

だんさん、もうここらで勘弁かん べんしとうくれやすな」

 と暇を請うものの目は正直で、うっとうしい、こんなむさいところに長居する気など毛頭ない、とばかり、後ろ髪を直しながら、そそくさと引き揚げた。

「なんやいな、つっきゃいの悪い。薄情なやっちゃなあ」

 親父さんは振り返り、女の肩に手を伸ばそうとしたのだろうが、くうを掴んで後ろに翻筋斗もんどり打った。そして、二言、三言、囈言うわ ごとのように口をもぐもぐやっていたが、やがて棒のように固まった。

りん男やな」

 台所の明かりを消してりょういちくんは、親父さんに毛布をかけた。その背中に小母さんが小さくいった。

「りょういち、ごめんね」

 部屋に戻ってもりょういちくんは黙ったまま。蒲団に入ると背を向けた。

「きょうなんか、まだましや。あれを、けんとっといてみい。道に寝っ転がって怒鳴り倒しよる」

 やるのは決まって芸者ワルツらしかった。

「まあ、近所も心得とるから、文句をいうてくるもんもおらんからええが、なんせ、嫁さんがあの体やからな、わからんこともないけどね」

 りょういちくんは大人だった。

 それでも変わらず、がっしゃん、がっしゃん、西陣に朝が来る。

「おはようさん、ようれたか?」

 響く機の音にかされて、階段を降りると親父さんは機の前。昨夜ゆうべ事件こ とが嘘のように、いつもの笑顔で振り返った。ちがっているのは、濡れ手拭いを鉢巻代わりにしていることだけ。その変容ぶりがぼくには謎だった。

胡瓜の水

 母屋の裏戸を抜けると、村の奥に上る小径があって、斜め向かいに婆さんが一人暮らしていた。小さな平屋で上がり端の四畳間と奥に六畳ぐらいの座敷があるだけの粗末なつくりだったが、東向きに開けていたから陽当たりがよかった。その濡れ縁にぺたりとへたり込んで、うまそうに煙管きせるをやっているのがぼくの記憶の婆さんだった。

 八十を過ぎていたかどうか、もちろん孫子まごこもいたが、離れていて、亭主はどうしたか、早くに死に別れたか、どうして婆さんは一人でいたのか、細かなことは少しもけしきにない。ただ、父から知らされていたのは、婆さんの平屋が建っていたのは父の父、つまりぼくの祖父の畑だったことだけ。祖父じいさんはまちがいなく小作だったが、屋敷周りに点々と猫の額ほどの狭い畑を四、五枚と、村外れの大きな溜池の土堤下に三反あまりの田圃をつくっていた、いわゆる自小作というやつで、その畑の一枚を婆さんに貸していた。

 五十坪もなかっただろう、ばべの木とぼくらはいっていたが、姥目樫うばめがしの垣根で周りを囲み、南の隅を耕して細々こまごまと野菜をつくり、鶏を四、五匹飼って穏やかに暮らし、腰は気の毒なほどに「く」の字に曲がっていたが、ぼくら悪餓鬼にも、いつも笑顔で、「悪さするんはええが、怪我けがするんやないぞ」とたしなめた。だから、なんとなくぼくらも自分の祖母ばあさんのような気がしていた。村はどこもそうだった。「おっさん」「おばはん」とぼくらは呼んだ近所のおじさんやおばさんも、ぼくらには自分の子のように、叱り、なだめた。だから、どこにもいじめなんかのけしきはなかった。〓

*続く*

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