最後の男

別れの際にこう言った

 キューバに日本人が、いわゆる移民として入っていくのは今世紀初頭、それも一九一〇年前後のこと、と思っている。

 それ以前、メキシコには、榎本武揚えのもとたけあきが主導したチアパスへの榎本移民を別とすれば、一九〇三年から八年にかけて、大陸殖民、東洋移民、熊本移民の三移民会社によって約八千人の日本人移民が送られていた。だが、ここでもペルー同様、移民会社のうたい文句と現実は大きくちがっていた。混乱のうちに帰郷した者、アメリカに流れた者とさまざまだが、残った者も、その後のメキシコ革命の動乱の中でメキシコを見限っていく。そのうちキューバに渡ったのは、一九二〇年までに五十九人、うち新潟県出身者は八人。その彼らによってキューバへの日本人移民の歴史がはじまっている。キューバへの日本人移動の起因はメキシコ革命にあったといってもいい。

 彼らが魅せられたのは、当時のキューバが砂糖景気にき、ペソがドルと等価で流通していたからだった。だが、バカ・ゴルダ(太った雌牛)と呼ばれた好況も一九二〇年代前半を限りに長い不況に入り、それによって錦衣帰郷の夢も消え、さらに日米開戦による収容と、それに追い打ちをかけたカストロ革命による接収によってすべてが終わる。

 千百四十三(千百三十九)人。キューバへの、これまで明らかになった日本人移民の総数である。ハワイ、アメリカ、カナダはいうまでもない、ブラジル、ペルーなどラテンアメリカ諸国へのそれと比べてもごくわずかだが、少数ゆえにその詳細がかなりの割合で明らかになった珍しい例でもある。うち、新潟県出身者は百三十五(百三十七)人。沖縄の百九十六(百九十五)人、広島の百四十九(百四十九)人、熊本の百四十五(百四十四)人に次いで第四位を占める。その最初が新発田しばた出身の小川富一郎おがわとみいちろうだった。

 一九〇六年、メキシコ南部コリマ州の砂糖耕地に移民、契約を終えたあと日本人移民四十人前後を組織して農場経営をはじめた。だが、革命の動乱が激しくなったため、それを避けてキューバに移転、中部サンタ・クララ州(現、シエンフエゴス州)の製糖工場セントラル・コンスタンシアに入り、その郊外のカルメリナに二十五カバジェリアス(約百万坪、甲子園球場グランド二百二十八個分)にのぼる広大な土地を得て農場経営を再開した。そして郷里新発田とその周辺から七十五人を呼び寄せる。だが、不運にもわずか二年で結核のために中断、彼自身は療養で日本に戻って死亡している。三十歳だった。

 あとを受けたのが同じ新発田出身の榎本惺えのもとさとしだった。カルメリナ北方約五キロのオルキタスに農地を得て、同様に郷里から十七人を呼び寄せている。しかし彼の試みも砂糖価格の急落によるキューバ経済の悪化の中で失敗に終わる。

 その後の彼らはどうしたか。帰郷した者も少なくなかったが、多くは残留、キューバ各地に四散しながらも郷里から親類、縁者を呼び寄せ、その後の日本人社会の一つの核になっている。一時は、新潟県出身者がもっとも多数を占めた時期もあった。一九二〇年代後半のことだった。

 そして七十余年、今年はじめには三人が元気でいた。それが、三月に窪田ヨシミ(九十一歳=新発田市諏訪町)、五月に井上三代みよ(九十二歳=新発田市板山)と相次いで死亡、島津三一郎みいちろう五十公野いじみのただ一人になってしまった。彼は一九二八年、叔父島津岩吉の呼び寄せで、中部カマグェイ州(現、シエゴ・デ・アビラ州)モロンに入ったあと独立し、イスラ・デ・ピノス(現、イスラ・デ・ラ・フベントゥ)でずっと農業を続けてきた。

ピノス島地図

ピノス島("Atlas de Cuba"から)

 島津に会ったのはもう十六年も前のことである。多くを語らない、その寡黙さが逆に何か人を惹き付ける、いかにも越後人らしい男だった。移民以来、ずっと独身を通している。その彼が、別れぎわにこういった。

「最近の新潟はどうですか」

 それを、一度帰ってみたい、と受け取った私は、出過ぎたこととは思いながら、郷里の新発田を尋ね歩いてみた。だが、身元引受人が見つからず一時帰国はかなわなかった。以来、心残りで、どうしているのか、気になっていた。

 ところがうれしいことに、今年六月、彼の様子を伝えるレポートが某誌に掲載された。ヌエバ・ヘロナ(イスラ・デ・ピノス)の養老院にいるらしい。一番の楽しみは日本の新聞を読むことで、漢字がびっしりと書き込まれた藁半紙わらばんしの束を大事そうに見せたという。写真も掲載されていて、見ると、赤茶けて、ふちがボロボロになっている。厚さ約三センチ、漢和辞典を書き写したものらしい。ところが、その記事を読んだ読者から、漢和辞典を送ってやりたいと投書が殺到したという。なんということか。

 たしかに、フロリダを中心としたアメリカの亡命家族からの送金がなければ生活できなくなっているのがキューバ人の現実で、日本人一世たちも物不足にあえいでいる。訪問した日本の縁者がそっと置いていったドルをめぐって二世兄弟家族にいがみ合いが起きたという話も聞いた。しかし、彼は漢和辞書がほしいわけではない。おそらく移民直後の若いときから綴りはじめたのだろう。一字一句に郷里への想いを重ね合わせながら書き写したにちがいない。夜、一人、ランプの下で黙々と続けたのだろうそれは、彼にとって、昼の農作業の疲れをやす日課にもなっていたのではなかったか。長かったキューバでの奮闘、その思い出とともに、ほとんど情念とも化した限りない郷愁の念が刻み込まれている、そう思いたい。世界中どこを探してもない、移民島津三一郎の至宝であり、彼をずっと見守ってきた無二のともでもある。

 日本人移民はキューバに何をのこしたか。よく言われるのが、島津もその一人だが、農を通じてイスラの荒野を沃野に変えたことである。これに疑いはない。だが、あとがない。メキシコ、ペルー、ブラジル同様、百年近い歴史を持ちながら、二世、三世に政治的経済的基盤をまったく遺せなかった。いや、そんなものとは程遠い、自らの一時帰国さえ叶わなかった、そんな革命後を彼らは生きてきたのである。月並みだが、もし日本人移民の美徳がその勤勉さにあったとするなら、それさえも十分に発揮できることなく終わったのがキューバの日本人移民だった。何がそうさせたのか、それは繰り返すまい。

 キューバ日本人移民百周年。そう謳い、両国でさまざまなイベント、フェスティバルが続いている。その一方で、この半年間に七人もの一世が死んでいった。これまではいくら多くても年に三、四人だったことを考えれば皮肉な話である。現在、キューバの日本人移民一世は十七人(二人は二世扱いだが日本生まれ)、うち十一人が九十歳を超えている。(1998年9月記)

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