ペルーの場合

*1820... サン・マルティン、ペルー南部を解放。
*1824.12.9. ボリバルの部下アントニオ・ホセ・デ・スクレ、ペルーのアヤクチョで副王軍を破り、独立戦争はほぼ終了する。
*1836.6.15. ボリビアのアンドレス・サンタ・クルス、ペルーを併合、ペルー=ボリビア連合成立。のち、39年1月20日、サンタ・クルス、ペルーの反連合派と組んだチリとの戦いに破れ連合崩壊。
*1890.3.26. 高橋是清が買収したペルーのカラワクラ銀鉱山が廃坑であることが明らかになる。
*1897.5.17. リマに日本公使館開設(公使室田義文、メキシコ兼任)。
*1899.2.28. 森岡商会の第1回ペルー移民790(787)人が佐倉丸(日本郵船)で横浜を出発。4月3日カヤオ着。渡航費は雇主負担。以後、同社は1918年11月27日カヤオ着の263人まで、51回にわたり1万1820人を送る。
*1903.7.29. 森岡商会第2回ペルー移民983人(全1175人のうち自由移民194人)がデューク・オブ・ファイフ号でカヤオ到着。
*1905.11.. 明治植民合資会社、田中貞吉名義の移民供給契約を譲受、ペルー移民送出に加わる。
*1906.11.20. 森岡商会第3回ペルー移民774人が厳島丸でカヤオ到着。
*1907.2.8. 森岡商会第4回ペルー移民202人がカヤオ到着。明治植民合資第1回移民250人も同船。明治植民合資は翌年12月10日カヤオ着の152人まで3回にわたり1004人を送出。
*1908.11.14. 明治植民合資第2回ペルー移民602人がフランス船カラベラス号でカヤオ到着。ゴム林労働者約429人。
*1908.12.10. 明治植民合資第3回ペルー移民152人が厳島丸でカヤオ到着。ゴム林労働者約30人。
*1909... ペルーに日本人同志会発足。
*1909.5.22. チキトイ耕地からの61人(明治植民合資)がカヤオを出発、ゴム林移民としてタンボパタに向かう。6月14日到着。
*1909.10.2. チキトイ耕地からの50人がタンボパタに向けカヤオ出発。10月27日到着。
*1910.6.28. 東洋移民合資第1回ペルー移民14人がカヤオ到着。以後、1917年9月16日カヤオ到着の13人まで14回にわたり516人を送る。
*1913.7.. リマで領事館員、森岡商会、東洋移民合資などの代表が中心となって日本人協会が設立される。のちに改組して飯田勘之助が会長となり、11月、機関紙『アンデス時報』(月刊、アンデス時報社)を発行。
*1914.5.. ペルー日本人会(創立委員長、椎原定市)発足。
*1917.10.31. ペルー中央日本人会(会長、飯田勘之助)発足。
*1920.7.1. リマで『日秘新報』(週刊)発刊。
*1920.11.18. ペルー中央日本人会内にリマ日本人小学校開校。児童数24人。25年ヘスス・マリアに校舎を新築、移転。
*1921.12.22. リマに日本公使館開設(特命全権公使清水精三郎)
*1923.11.. ペルーへの契約移民が廃止される。1925年当時の在留日本人移民は約1万1000人だったというが、その後も20年代を通じて渡航者は減少していない。
*1924.5.7. ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ、亡命先のメキシコでアメリカ人民革命同盟(APRA)創設。
*1926.6.15. 海外興業の投資でペルー棉花株式会社(社長井上雅二)が設立され、チャンカイのパルパに棉花農場を開く。
*1928.9.16. マリアテギ、ペルー社会党(PSP)結成。30年のマリアテギの死後、ペルー共産党と改称、コミンテルンの勢力下に入る。
*1928.10.. リマで『秘露日日新聞』創刊。
*1929.7.1. 『アンデス時報』、『日秘新報』、『秘露日日新聞』の3紙が合同し『リマ日報』となる。
*1929.10.. リマで『秘露時報』発刊。
*1930.4.. ホセ・カルロス・マリアテギ、死亡。
*1932.7.7. アプラ、トルヒーヨで武装蜂起、政府軍の弾圧で多数が虐殺される。
*1934... ペルー政府、日本に対し通商航海条約の破棄を通告。排日運動が激しくなる。
*1936.6.. ペルー政府、各国移住者在住数を1万6000人に制限、「80パーセント法」を実施。
*1936.6.. ペルー政府、大統領令によって在住外国人移民を16000人に限定。32年制定の「ペルー人雇用80パーセント法」を実施。前者は20000人を超えていた日系人が対象だったという(『ラテンアメリカ現代史2』106頁)。
*1936.6.. ペルー政府、移民並びに営業制限に関する大統領令公布。37年5月、同施行細則公布。
*1937.6.22. ペルー政府、「外国人の入国、営業、職業に関する大統領令」を発令。在留数の0.2パーセントを超える移民の入国、規定数を超える再入国、外国人への営業譲渡などが禁止され、ペルー人8割雇用が義務づけられた。日本人移民の在留数は約2万人。
*1938.12.24. アメリカの主唱のパン・アメリカン会議がリマで開催。南北アメリカへの域外国の干渉反対を表明した「リマ宣言」を採択。
*1940.5.13. リマで日本人商店襲撃事件が起こり、カヤオから北のチンボテ方面に拡大。約600軒が被害を受ける。これによって帰還、転航した者も少なくなかった。
*1942.1.24. ペルー政府、日本との国交断絶を宣言。4月14日日本公使館引き揚げ。
*1947.1.. ペルーで国際石油会社(IPC)との間に結ばれたセチュラ契約に対しアプラ党を攻撃していた『ラ・プレンサ』社主フランシスコ・グラニャ、アプラ党員に暗殺される。
*1948.10.3. ペルーのカヤオでアプラ党員、一部海軍とともに反乱。軍によって鎮圧され、非合法化される。
*1948.10.27. ペルーのアレキパでマヌエル・オドリア、クーデター。以後8年間独裁をつづける。
*1952.4.28. ペルー政府が日本との外交関係再開。
*1956.7.28. ペルーの大統領選挙でマヌエル・プラド当選し、大統領となる。アプラ、プラドと同盟を結ぶ。
*1958... ペルーでクスコを中心にウーゴ・ブランコの指揮する農民運動が高まる。
*1963.7.28. ペルーの大統領選挙で人民行動党のフェルナンド・ベラウンデ・テリーがデ・ラ・トーレとオドリアをおさえて当選。
*1968.10.3. ペルーでファン・ベラスコ・アルバラードによるクーデターが起こり軍事政権樹立。ベラウンデを国外追放し国際石油会社(IPC)の資産を接収。
*1969.6.24. ペルーのベラウンデ政権、農地改革法を布告。8大砂糖プランテーションを接収。
*1971.10.28. 第2回77カ国グループ閣僚会議、リマで開催される。
*1972.7.8. ペルーのベラウンデ政権、キューバと国交回復。
*1974.5.2. ペルーのベラウンデ政権、社会的所有法を公布。所得の公平分配と自主管理企業を創設しようとした。
*1975.6.30. ベラウンデ政権下のペルーで大規模なゼネスト起こる。
*1975.8.29. ペルーで、フランシスコ・モラレス・ベルムデスによる無血クーデター。ベラスコ追放される。
*1977.2.6. ペルーのモラレス政権、トゥパク・アマルー計画を発表し、1978年の憲法制定会議開催と80年の総選挙実施を公約。
*1977.7.19. ペルーで、労働総同盟(CGTP)による24時間ゼネストが行なわれ、以後、継続、拡大する。
*1978.6.18. ペルーで制憲議会選挙が行なわれ、アプラ、第一党となる。7月28日、制憲議会が召集される。
*1979.7.12. ペルーで新憲法制定される。
*1979.8.2. アプラの指導者アヤ・デ・ラ・トーレ、死亡(84歳)。
*1979.8.19. リマのラ・ウニオン総合運動場で移民80周年記念式典開催。
*1980.5.18. ペルーの大統領選挙で人民行動党のベラウンデ当選。
*1982.12.29. ペルー政府、センデロ・ルミノソの殱滅作戦を立てアヤクチョ、ワンカベリカ、アプリマクなどの山岳部に非常事態令を宣言。
*1983.11.13. ペルーの地方選挙で野党アプラが第一党となり、リマではマリアテギ師事のアルフォンソ・バランテスが当選。史上初の共産党市長の誕生となった。
*1984.4.9. バルガス・リョサ、シュワルブ首相の後任辞任。
*1984.7.8. アヤクチョ南西120キロのインカ遺跡カリャンカ宮殿の一部、ゲリラに破壊される。
*1984.7.28. ペルー軍警当局、反体制派6000人を逮捕と発表。
*1985.4.15. ペルーで大統領選、総選挙が実施されアメリカ革命人民同盟(APRA、中道左派)が第一党となり、同書記長アラン・ガルシアの大統領就任、確実となる。25日、2位のバランテスが決選投票を辞退、ガルシアの当選が決定。独立記念日の7月28日、正式就任。
*1989.10.11. ペルーのイカで第3回中南米8カ国グループ首脳会議はじまる。~13日。ガルシア(ペルー)、サルネイ(ブラジル)、サンギネティ(ウルグァイ)、バルコ(コロンビア)、メネム(アルゼンチン)、ペレス(ベネズエラ)、サリナス(メキシコ)
*1990.4.8. ペルーで大統領選挙開始。最有力とされていたマリオ・バルガスリョサ(中道右派)に対抗して日系二世のアルベルト・フジモリ(CAMBIO90、51歳)が急浮上。父は熊本出身。国立農科大学卒業、1984~89年同大学長。
*1990.7.28. リマの国会議事堂でアルベルト・フジモリの大統領就任式行なわれる。ペルー独立記念日であり、同氏の誕生日でもある。

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